<本家にて> 了(しま)いの邂逅

奴良家南の湖は、結界により閉ざされている。
妖怪は愚か人間も、未踏の地と化した。
だが、その閉ざされたはずの小道を、2人の男が歩いている。
「今回、命じたのは僕ですから。この先は僕1人で往(い)きますよ」
切れ長の目をした青年が足を止め、同じく隣で足を止めた男へ告げる。
髷を結った男は、先の小道を眺めると頷いた。
「気を付けてください。我々がここまで来れたのは、明らかに『湖の存在』が所以でしょう」
青年の耳元で、ちりんと鈴が鳴る。
「ええ。師匠(せんせい)の語り、使わせて頂きます」
彼の名は柳田。
関東妖怪・江戸百物語組大幹部、怪談拾いの『耳』である。



恐ろしい程の静閑が、満ちていた。
波紋も微かなさざ波さえ立たぬ、湖には。
…近づく妖など、命知らずには違いない。
乾いた小道から、ぬかるんだ湖の淵へと。
びりびりと肌を刺す冷気を圧して、柳田は足を踏み入れた。

   シャ…ーン

決して、大きくはない音だった。
だがその『音』は、どんな音よりも明瞭に、殺意さえ交えて脳天を突き刺した。

「君は誰?」

目を逸らしてなどいない。
だが、水の深奥より現れたのであろう、美しい少年が。
いつとはなしに、水面の枢(すう)に立っていた。
(これは…)
絵には描けぬ、美しさであると。
同じ大幹部たる絵師・鏡斎を得てして言わしめるであろうと、感じ入った。
(然し、長くは居られないな…)
いかに『畏』を強固に巻こうとも、ぼろぼろと崩しゆく威圧の刃。
それはかつて、天津神が人に分け与えた霊力の原泉。

国創リの神々のみが身に宿す、神気。

知らず上がった口角は、おそらく。
(どうにもならないことを、悟っているから)
けれど、ここまで招き入れたのだ。
名を問うということは、滅する気はないのだろう。
(今のところは)
澄み切った蒼の眸(ひとみ)を真っ直ぐに見返し、名を名乗る。
「関東妖怪・江戸百物語組大幹部、柳田と申します。龍神様」
百物語組、と小さな呟きが聴こえた。
「…そう。それで?」
相手は名乗る気も無いらしい。
まあ、天津神に妖怪と同じものを求めても無意味だろう。
柳田は続ける。

「貴方の不興を買ってしまったようなので、命じた当人直々、お詫びに上がった次第です」

ぱちり、と少年の目が瞬かれた。
と共に空いた沈黙に、柳田は内心で首を傾げる。
(妙なことを言った覚えはないけど…)
何度か目を瞬(しばた)いた少年は、ようやく思い至ったと口を開いた。
「あ、あれか」
(は?)
声に出さなかった自分を褒めたい。
柳田がぽかんと龍の少年を凝視すれば、相手は初めて表情を返した。

「それで、奴良組との抗争の最中(さなか)にわざわざ来てくれたのか?」

ありがとう、律儀な人だね。
その唇が描く笑みに、邪気など微塵も在らず。
まさか空いた口が塞がらないなど、己が経験するとは思わなかった。
「ねえ」
声を投げられ我に返れば、蒼の双眼が柳田を射抜く。
「貴方は、いつの時代からの妖怪?」
「…江戸の初期からですが」
「百物語って、怪談を語っていくんだろ? 全部で百の噺があるってこと?」
「百など、疾うに超えていますよ」
答えながら、何なんだと眉を寄せた。
(何を聞き出そうとしている?)
やはり奴良リクオの側に付いていると、そういうことだろうか。
疑惑を覚えた柳田の心内など、関係なく。
「じゃあ、」
龍の少年は、悪意無き笑みを浮かべた。

「もしも貴方が、次にここへ来ることがあったら。
そのときはオレに、貴方の話を聴かせてよ」

オレの知らない、時代の話を。
ふつと沸いたのは、意趣だ。
「"もしも"ではなく、次は噺家の師匠と共に、話に来て差し上げますよ…」
静寂(しじま)にりぃんと鳴ったのは、柳田の鈴。
そう、最後に笑うのは、百物語(われわれ)だ。

「奴良リクオの首を、手土産にね」

笑みを刻む唇も、すらりと組まれた指先も。
見返す蒼の眼差しさえ、一切ぶれることなく。
"彼"は、微笑った。

「そう。楽しみにしてるよ」





小道を戻ってくる者を見遣り、髷の男…圓潮は扇子で仰ぐ手を止めた。
「…大丈夫ですか?」
左手で額を抑えふらりと足取り重く戻ったのは、柳田である。
彼は圓潮を目に留め、ようやく足元を確りと固めた。
「……ええ。生きてますよ、ちゃんと」
2人連れ立ち、来た小道を林道へと降りる。
「どうでした? 龍神は」
噺の種として、聞ける物は聞いておきたい。
何より『龍』など…天津神など、身近にする機会など無い。
だが常にすらすらと開かれる柳田の口は、足取りよりも尚、重かった。
「…金輪際、関わるなど御免ですね」
あれは、あれはーーー

「無、だ」

"楽しみにしている"と言われた刹那、奈落の底が見えた。
…地の底ではない。
呆気なく存在を消される、虚無の先が。
「奴良リクオの首など、手土産にもならないでしょうね」
『畏』に呑まれるよりも、地獄へ堕ちるよりも。
(この身が絶命する時よりも、遥かに)
あの無邪気さの方が、恐ろしい。





招いた妖が結界を出たことを感じ、新たに結界を張り直す。
今度こそ、如何なる者も入れない。

水面に顔を出した蛟(みずち)が、透き通る水の眼(まなこ)でを見つめる。
彼(か)の主は、妖が来、去った方角を見据えたまま。
「…様」
虫の音と変わらぬ静けさで名を呼ばれても、は微動だにしない。
「オレさあ、」
ぽつり、と言の葉だけが返る。
蛟は神経が凍り付き、再び水に潜ることも出来ない。

「リクオの首持って来られて、正気で居られるのかな」

そう言って笑う、あの無邪気な顔で。
畏怖に微動した蛟の身体は、湖にほんの僅かなさざ波を齎(もたら)した。
笑みの静謐さが、恐怖を煽るなど。
(そのようなことが起きれば)

東京は、水に沈む。



End.



11.9.19

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