時刻はそろそろ、子(ね)の刻を告げるだろう。
霞雲がゆったりと流れる夜空には、満ちるまであと数日となった月。
誰も居ない家、小さな庭に面した縁側で。
猩影はぼんやりと月を眺めていた。
…狒々組の者たちは、みな見回りに出ている。
たまには総長が留守番をすれば良い、と置いていかれてしまった。
それが気遣いのひとつであることなど、よく分かっている。
「…?」
ふと、闇が揺れたような気がした。
「よう」
声にハッとする。
「若…?!」
いつの間に立っていたのだろう。
縁側の端、いつもの闇に映える夜の姿で。
「一献どうだい?」
リクオは片手に下げた徳利を持ち上げ、笑った。
「1人でここまで来られたんですか?」
「いや、撒いてきた」
けろりと落とされた言葉に、付いてきた者が騒いでそうだと猩影は苦笑う。
「途中でおめぇの組のもんに会ったんだ。そしたら、今日はおめぇが留守番してるって」
「ああ…」
彼の祖父であるぬらりひょんと、亡き父。
確か彼らも、このような遣り取りをしていた。
『ぬらりひょん』という妖怪は、人を驚かせるのが好きらしい。
銚子を空けて、リクオは月から猩影へと視線を転じる。
「おめぇに、聞いておこうと思ってよ」
こちらを真っ直ぐに見つめる視線は、夜の彼ならば『射抜く』と評するのが正しいだろう。
"あのとき"のように。
「妖怪の道に戻ったこと、後悔してねぇかどうか」
意表を突かれる問いだった。
目を見開いた猩影に、リクオは軽く肩を竦める。
「昼のオレは、ずっと三代目襲名を拒んできた。人間として生きて、死ぬと。
おめぇもそうだったよな」
猩影もまた、人間として生きる決意を固めていた。
…けれど。
四国八十八鬼夜行の急襲を受け狒々が殺され、事態は一変した。
「おめぇは狒々の仇を討つために、組に戻った。
オレもおめぇに、『親父の仇を取れ』と言った。けど…」
四国との戦いは終わった。
ならば、猩影が今も妖怪として生きている理由は?
(そうか…)
猩影はこの話を、誰かに対して発した記憶がなかった。
であれば、リクオは確かめに来たのだ。
(人と妖怪の狭間で、若自身が悩み抜いていたからこそ)
妖怪と人の間に生まれた者は、総じて決心の元でなければ生き抜いていけない。
決意なくば、どちらでもない者たちは、どちらにも属せず墜ちてしまう。
猩影は銚子を盆へ戻し、居住まいを正す。
(自分で機会を作れなかったのは、恥ずかしい話だ)
自ら出向いてくれたリクオに誠意を返すことこそ、決意の証。
「若。オレと、七分三分の盃を交わしてくれませんか?」
今度はリクオが目を見開く番だった。
「猩影…?」
彼の驚いた顔など、滅多に見れるものではない。
それに笑って、猩影は言葉を続けた。
「確かにオレは、人間として生きると決めていました。でも…」
"あのとき"
父の仇を取れと、そう猩影を名指ししたリクオに。
名刀の切っ先に匹敵する、殺気さえも混在した瞳に射抜かれたとき。
「オレはあのとき、あんたに惚れたんだ」
その眼光に、美しい姿に、纏う『畏れ』に。
百鬼を率い刀を振るう、その背に。
(たぶん親父も、こんな風に思ったんだろう)
惚れ込む相手は違えども、惚れ込む理由に大差はなかったろう。
揺れぬ意思に澄んだ目を向けられて、リクオは一瞬言葉を見失う。
(こうまで素直に言われると)
さすがに、照れる。
「男前なこと、言ってくれるじゃねぇか…」
詰めた息を吐き、照れ隠しに片手で額を抑えた。
(オレもまだまだだ…)
率直な告白を笑って軽く去なせるほど、大人ではない証拠だ。
自分が可笑しくて、リクオはつい笑ってしまった。
「ありがとよ。猩影」
そう告げた彼は、やはり美しかった。
11.1.25
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