しとどに雨が降る。
風はない。
ただ、雨とぬかるんだ足元だけが明確な障害だった。

見知った道を、ただ走り続ける。
目元へ流れる雨滴を拭ったそこへ入った、誰かの姿。
慌てて道を逸れ、並木の影へ身を隠す。
(…違う人だ)
雨靄(あまもや)ではっきりとは見えないが、目的の人物ではない。
人影は傘を差し、向こうへと歩いて行く。
(まだ、居るかもしれない)
樹々の雨避けのおかげで、少しだけ思考がクリアになった。
足音が派手に立たぬように、今度は道の真ん中ではなく脇の草地を行く。
先刻の人影は、雨の向こうにも姿が見えなかった。

閉じた門扉へ飛び付き、加減も忘れて押し開ける。
内へ駆け込み雨から解放され、ようやく息をついた。

もう夜も近い。
休日である今日はほとんどの教職員も不在で、明かりは最低限の部屋にしか灯らない。
思い切りよく頭を振り、重たい水滴を振り落とす。
(…捜さなきゃ)
未だ息切れる唇をぎゅっと引き締め、石畳へ落とした視線を上げる。
すると廊下の途中から出てきたのは。





空が広い。
日本の空はイギリスよりも狭かった。
けれど人気の失せた夜の公園で見上げれば、遜色ない星空がある。
「カイト」
現れた気配に名を呼ばれ、カイトは地上へ視線を戻した。
口元には自然と笑みが浮かぶ。
「意外と早かったな」
言われた相手は軽く肩を竦め、被っていたキャスケットを取る。
「ふふっ、まあね」
黒のキャスケットに隠されていた白に近い金髪は、月明かりがなくともよく映えた。
カイトは己の欲求に逆らわず、ふわふわとした髪に手を伸ばす。
「…カイトってほんと、僕の髪触るの好きだよね」
髪とともに頭を撫でられ、フリーセルは弓なりに目を細めた。
言われ、カイトは曖昧に言葉を濁す。
「なんつーか、ほとんど癖になってるというか…」
ペルシャ猫みたいに綺麗だし、ふわふわしてるし。
そこまで言って、気がついた。
「…毎回この会話交わしてねーか?」
フリーセルは悪戯に口角を上げる。
「否定はしないよ?」
2人顔を見合わせ、同時に吹き出した。

海を望む手摺に背を預け、カイトは今日のパズルを思い返す。
「…にしても、驚いたな。ほんとに誰も知らねーのか」
フリーセルは組んだ両腕を手摺に、真っ暗な海を見下ろした。
「驚く箇所間違ってるよ、カイト。プライベート丸ごと侵害されてるのに」
指摘された事項を思い出し、呆れを苦笑に混ぜ込む。
「あれかー…まあ、今更感あるからなあ…」
「どういうこと?」
訝しげにこちらを見たフリーセルに、カイトは先の彼のように肩を竦める。
「キュービック、いるだろ? 1人だけ白衣着てる…」
「エジソンだっけ?」
「そう。あいつ、前々からオレを研究対象にしてんだ。で、今回みてーなのは半年前からあった」
ほんと迷惑だよなあ、と深刻でもないように言われ、フリーセルは返す言葉に迷う。
「…何で怒らないの?」
いろんな意味で怒りが込み上げて、あの後ピノクルを引っ叩いてしまったというのに。
「お前、あいつ殴ったのかよ?」
「僕は手が出ちゃったけど、ミゼルカとメランコリィには相当嫌味言われただろうね」
それが例え、勝つための手段であっても。
「お前が怒らなくても良いのに…」
困ったように笑うカイトに対し、ついに眉を寄せた。
「だから、何でカイトは怒らないの?」
脳波や神経状況の生体データを取るだけならばいざ知らず。
それでもカイトの苦笑は変わらなかった。
「あいつがオレのデータ録り続けてたおかげで助かったのは、1度や2度じゃねーんだ」
だから、あまり怒る気にはなれない。
腕に頭を乗せて、フリーセルはなんとか溜め息を呑み込んだ。
「…お人好し」
"助かった"のはただの結果であって、"過程"を無視しているではないか。
フリーセルが腹を立てているのは、"助かった"という結果ではなく"データを録る"という過程の方だ。
沈黙してしまった彼の頭を、カイトはくしゃりと撫ぜた。
「ありがとな、セル」
オレの為に怒ってくれて。

カイトがフリーセルの髪に触れることが好きなように、フリーセルもカイトに触れられるのが好きだ。
そこへ感謝の言葉まで並べられては、胸の内で燻る感情がどうでも良くなってしまう。
要するに、好きだった。
(その笑顔が、昔から)
そろりと頬を撫でられ、顔を上げる。
互いに相手を見つめて、誘われるように口付けた。

どのような時代の、どのような場所であっても、子供は大人の事情に逆らえない。
子供の事情が加味されたとしても、より強制力と執行力があるのは大人の事情だった。
カイトが日本へ帰ってしまったことも、そう。
その前、フリーセルが別の姉妹校の交換留学生に選ばれたこともそう。
守られるべき年齢というのは、自分では何も出来ないということに等しい。
(それでも、ここまで来た)
名残惜しく唇を離し、そっと囁いた。

「次の『ゲーム』がいつかは言わない。でも、そう遠くはないよ」

確かに、遠くはないだろう。
"結果"を出すためには、続けなければ意味が無い。
「お前も、あんま無理すんなよ」
告げたカイトに、フリーセルは可笑しそうに小首を傾げた。
「ふふっ、そっくり返すよ。危ないのは僕より君。"僕たち"より、"君たち"だ」
元の通りにキャスケットを被り、目立つ髪を隠す。
…日付が変わる前に、戻らなければ。
一処に居ることを見られる訳にはいかないので、先に歩き出した。
「じゃあまたね、カイト」
肩越しに振り向いた彼に、カイトは頷いた。
「ああ。またな、セル」


また、『舞台』の上で。





廊下の向こう、校舎の入り口を見たフリーセルは驚いた。
「カイトくん?!」
もう来ないだろうと諦めた矢先だった。
カイトに駆け寄ったフリーセルは、ようやく異常であることを察する。
彼が息を切らせている様子からは、建物まで駆けて来たのだろうことが窺えた。
髪も服もベッタリと水に張り付いているのは、外の大雨を思えば不思議ではない。
不思議ではないのだが。
「どうしたの? びしょ濡れじゃないか!」
カイトはまさしく濡れ鼠だった。
これではまるで、ずっと外に居たような。
「…、」
「え?」
俯いた彼の唇が、微かな声を零す。
咄嗟に聞き取れず問い返せば、顔を上げたカイトと目が合った。
(泣いて、る?)
雨に打たれた跡だろうか、それとも。
「…約束、破ってごめん」
フリーセルは目を丸くする。
彼にとっては自分との約束を破られたことより、今のカイトの状況を何とかする方が先決だった。
「それはもう良いよ。そんなことより…」
このまま放っておいたら、風邪を引いてしまう。
するとカイトは勢い良く首を横へ振った。

「そんなこと、なんかじゃないよ…!」

悲鳴のような声は、フリーセルの考えを肯定する。
(やっぱり、泣いてたんだ…)
開こうとした口を、一度閉じた。
「…分かった。じゃあ、カイトくんがどうして今日来なかったのか、聴かせて」
でもまずは身体を拭いて、風邪を引かないようにしてからね。
困ったように笑ってみせれば、カイトはようやく張り詰めていた糸を緩めた。
Afterimage de demain (明日の残像)


12.5.26

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