その獣、猛毒につき
(アテられたら、手に入れたくなる)
地下街へ勧誘に行く、というエルヴィンに、リヴァイは怪訝な表情を隠しもしなかった。
「どういう風の吹き回しだ?」
ここ数年そんな素振りなどなかったくせに、唐突に過ぎる。
エルヴィンは腹を読ませぬ笑みを湛え、僅かな顔の動きで外を示す。
「お前も来い、リヴァイ。面白いものが見れるかもしれないぞ」
ウォール・シーナの地下には、王城や城下町をも囲う程に広い都市がある。
それはまことしやかに囁かれる噂話であり、僅かでも権力を持つ者には周知の事実であった。
ウォール・シーナへ入り、中央区にある裏通りをジグザグと進む。
その先、現れた一軒家の扉を指定された回数だけ叩けば、随分と草臥れた様子の男がエルヴィンとリヴァイを招き入れた。
「あんたら、服装はそれで良いのかい?」
調査兵団のジャケットのことを言っているのだろう。
立体起動装置こそ無いが、地下街の住人には憲兵団と調査兵団の違いなど解らない。
ゆえに敵意を持たれることは確実だ。
エルヴィンは構わない、とランタンを手にした。
「今更どうこうするものでもない。それに、私はともかくリヴァイのことは皆知っているだろう?」
エルヴィンの斜め後ろで遣り取りを聞き流していたリヴァイを見、初めて男の顔色が変わった。
「…"あの"リヴァイか」
月日は流れるもんだなあ。
年寄りのような呟きの後、男は部屋の奥の扉を開けた。
雑然とした部屋の中央、薄汚れたカーペットを大きく捲る。
木を打ち付けただけの床に走る長方形の切れ目は、端に設けられた取っ手を持ち上げることで地下への入口へと変貌した。
持ち上げた床と現れた階段の最上段の間にかすがいを嵌め、男は2人を振り返る。
「ここの扉は24時間後に閉める。他から出てくれても構わねえ」
軽く礼を告げ、地下への階段を降り始めた。
湿っぽい空気にうんざりしながら、リヴァイは前を降りるエルヴィンへ問い掛ける。
「相当なアテがあんのか」
リヴァイを地下街でスカウトしたのもエルヴィンであるが、あの時とは様相が違う。
「なに、時間を指定されてね」
「は?」
ここは地上ではない、無法の地下だ。
時間を指定するような物好きは、そうそう居ない。
「接触を試みたい相手に確実に会うには、"餌"が必要でね。
あまりに時間がずれると、"餌"が逃げてしまう」
胡散臭い話だが、リヴァイは何が釣れるのか見物することにした。
階段を降り切れば、天井の高い空間が広がる。
…かつて慣れ親しんだ、溝(どぶ)と嘘に塗れた世界。
人の気配がそこここに散らばる灰色の道を歩けば、忽然と人影が現れた。
「お待ちしてましたよ、お客さん」
若い男だ。
顔の下半分を黒のバンダナで覆っており、素顔は判別出来ない。
青年はエルヴィンへ会釈し、次いでリヴァイを認めると目元だけで笑った。
「かつての地下街トップは、今や人類のトップか。面白え世の中だな」
こっちだ、と彼はエルヴィンとリヴァイに背を向け歩き出す。
「君は情報屋の『ジャン』だろう? 君でも"彼"の居場所は掴めないのかい?」
どうやら目当ての人物は男らしい。
ジャンと呼ばれた青年は眼差しだけでエルヴィンを見返り、ひょいと肩を竦めた。
「無理無理。お客さんが言ってんのは、『あの野良猫が今どこに居るか知ってる?』ってのと同じだ」
これにはエルヴィンも苦笑した。
「…なるほど。分かり易い例をありがとう」
道案内のままにやって来て、地上と繋がっているらしい建物へたどり着く。
「俺らが通るのは裏なんで、ご心配なく。
けどま、見てて反吐が出そうなもんがあることは先に言っとくぜ」
ジャンと云う名らしい青年が表情を歪め、建物へ入る。
続いたエルヴィンとリヴァイは、彼の言葉がまったく間違っていないことに苦い息を吐いた。
「チッ、相変わらずだな…」
上階から下階を見下ろす形となっている、薄汚れたホール。
ホールの壁に沿って並ぶ、大小様々な"箱"。
その"箱"を品定めする、幾人もの人間たち。
"箱"に入っているのは、『人間』だ。
小規模な人身売買会場は、下世話な空気に満ち満ちている。
リヴァイたちがいる箇所は平凡なブラインドが下がっており、ホールからは見えぬようになっていた。
しかしヒビの入った硝子窓がそのままになっているような建物だ、聞きたくもない声が耳に入る。
売買はオークション形式らしく、メガホンを持った人物が簡素な壇上に上がった。
「そろそろだ」
ジャンの呟きは、オークションの開始合図のことではないだろう。
リヴァイは階下を注視する。
ガクン、と客の1人が不自然に上体を揺らした。
刹那、リヴァイの視界を右から左へキラリと何かが光り、まもなく上体を揺らした男がどさりと倒れた。
ホールに悲鳴が満ちる。
「それじゃ、お二人さん」
ジャンが意味ありげに2人を見、笑った。
「アイツは必ずここを通る。俺が言えんのはそこまで」
俺いつものとこに居るんで、何かあったら寄ってって下さい。
ニヤリと笑って、彼は来た道を引き返していく。
気に食わないが追う気はなく、エルヴィンとリヴァイはその場を動くことはなかった。
眼下では"掃除屋"らしいビニールコートに身を包んだ人物が2人、死体となった人間を運び出している。
「…鮮やかな手並みだ」
エルヴィンの評価を返す気は、リヴァイにも無かった。
死んだ人間の頚髄に、寸分の狂いなく刺さる1本のナイフ。
目撃した光は、このナイフが反射したものか。
ーーーひそり。
リヴァイはハッと窓から目を離した。
(今、確かに)
薄暗い空間に、"何か"が動いた。
エルヴィンもリヴァイの様子に何者かの存在を感じ、神経を研ぎ澄ませる。
(どこだ?)
『居る』ことは確実であるのに、『存在』が解らない。
目はそれなりに暗闇に慣れたはずだが、相手の方が上手らしい。
ひっそりと、どこからか…そう遠くない位置で…こちらの様子を窺っている。
「…調査兵団」
ぽつん、と声が落ちた。
瞬間、"影"が動く。
「チッ!」
エルヴィンの脇を擦り抜けた影に、リヴァイはほぼ反射で対した。
…元より、逃がす気など皆無だ。
しかし振り抜いた拳は相手に触れた感触を与えず、その腕に何かが引っ掛かる。
するりとリヴァイの腕に触れたのは、相手の両手だ。
ふわ、とその身体が上に消え、同時に腕にあった僅かな重みが消える。
(コイツ…!)
リヴァイは振り向きざまに腰を落とし、左足で空間を振り抜いた。
左足はガツ! と確かな手応えを身に与え、着地直後の相手の身体が傾いだ。
(ハッ、逃がすか!)
身が軽いということは、力技には対抗し切れないということだ。
相手の身体の一部でも掴んでしまえば、リヴァイに利がある。
キラ、とリヴァイの視界で"何か"が光った。
実際には光っていなかったのかもしれない。
だが"それ"はリヴァイの行動を中断させるに十分な威力を以って、彼をその場から飛び退かせた。
片膝を付くことで揺れた体勢を立て直した相手が、小さく舌打ちを零した。
「何で分かるかなあ…」
"何か"のために構えた両手を下げ、相手は立ち上がり呟く。
初めて合わせた目は、暗闇に爛と輝いていた。
リヴァイがその色に魅入られた一瞬、身を翻しその姿が建物の外へと消える。
「…どうやら、我々は1本取られたようだ」
どこか愉快げなエルヴィンが苛立たしい。
「チッ、うるせぇよ」
獲物に逃げられたこの現状を、どうする気なのか。
エルヴィンはやはり愉快げに笑う。
「では、もう一度ジャン君を訪問しようか」
* * *
『Jäger(イェーガー)』
それは現在の地下街の、食物連鎖の頂点に立つ者の通称だ。
どこに現れるのか解らない。
根城は幾つもあり、絞り込めるのはほんの一部の情報屋だけ。
容貌もまた、知っている者は数少ない。
はっきりしていることは2点だけ。
"暗殺"を生業にしていること。
標的(ターゲット)は"頚髄に刃物を突き立てられ絶命する"こと。
ジャンと云った情報屋の根城への道すがら、先ほど遅れを取った目標についての話を聞く。
エルヴィンの話を総括すれば以上の通りだが、それにしたって手掛かりが少ない。
「んな目立つ殺り方してんなら、模倣犯の可能性は?」
「私も気になって聞いてみたよ。どうやら模倣犯は、尽く『Jäger』の制裁を受けているそうだ」
『Jäger』は、それなりに頭の回る人間らしい。
「…金さえ積めば、暗殺対象は選ばねえのか?」
それがね、とエルヴィンはリヴァイの問いに可笑しそうに笑う。
「面白いぞ。彼は、お前が"豚野郎"と罵る人種しか標的にしない」
さてその頃、エルヴィンとリヴァイを手挽きしたジャンは己のアジトの1つで諸手を上げていた。
「おいおい、マジでキレるとこかよ?!」
恐怖7割怒り3割の目で睨み返した相手は、金色を湛えた眼光を眇めるのみだ。
「うるっさいなあ…。俺の機嫌悪くなるの知っててやったんなら、1発殴らせろよ」
確認問答と見せ掛けた、強制執行である。
容赦なく顔面をぶん殴られ、ジャンの身体は家の入り口付近から隣の居間代わりの空間まで吹っ飛んだ。
幸いにも、彼の身体は据え置かれていたテーブルと椅子の間を抜け、被害は本人と家の壁だけで済んだ。
即座に滲んだ鉄錆の味を吐き出し、ジャンは痛みに呻く。
同情の欠片もなく感情の無い金色が、やや離れた場所から彼を見下ろしていた。
不意に扉からノック音がし、返事も待たず扉が開く。
「おいジャン、喧嘩なら外でやれよ! うちの壁までヒビ入るとこだったぞ!」
丸刈りの少年が、家の中へ顔を出すなり叫んだ。
彼は叫んだ相手が正面に居ないことに気づき、あれ? と頭(こうべ)を巡らせる。
そうして入り口から見て左、佇んでいる人物とその先で咳き込んでいる青年を視界に入れ、ありゃ、と間抜けな声を出した。
「ありゃー、相手エレンか…。じゃあ仕方ねえか…」
納得せざるを得ない、と1人言葉を吐いた彼に、佇んでいた人物が振り返る。
「ごめん、コニー。修繕が必要だったらジャンに請求してくれ」
コニーと呼ばれた少年は、苦笑しながら頭を掻いた。
「おー、そうするわ。けどちょうど良かった! お前と顔合わせしたいって連中が来てたぜ」
「ふぅん、どこの?」
「西の連中だ。何人か、エレンが昔連れ出したやつが居たぞ」
「へえ。顔は誰だ?」
「えぇっと、確かA商会の補佐役」
「OK、考えとく」
「いや、そこは会ってやれよ?!」
必要な連絡事項を済ませ、コニーは"エレン"と呼んだ人物に手を振り部屋を出る。
ジャンは生きていることは確認したため、大丈夫だろう。
コニーが狭い階段を降りたところで、この辺りでは見慣れぬ人間と鉢合わせた。
(うえっ、このジャケットって確か…!)
しかも服装が異様だ。
行く手を阻む2人の内の片方はやたらと眼光が鋭く、うっかり悲鳴を上げそうになる。
もう1人が目付きの悪い方を宥め、コニーへ問うた。
「情報屋の"ジャン"は在宅かい?」
ジャンの居場所をピンポイントで識別出来る人間は少ない。
居ることを前提としている問いは、『ジャンが招いた客』という考察をコニーへ齎す。
「…居るよ。ちょっと取り込み中だけど」
「そうか。ありがとう」
たった今降りてきた階段を振り仰げば、2人はさっさと階段を登っていく。
その背を見て、コニーは驚きを新たにした。
(やっぱり調査兵団じゃねーか!)
巨人を相手にしている兵士が、地下街に一体何の用なのだろう?
後でまた聞きに来ねば! と勝手に決意し、コニーは今度こそ自宅へと戻った。
地下街で見掛ける人間にしては捻くれていない少年を階段の上から見送り、エルヴィンは目の前の扉をノックした。
どうぞ、とやる気のない返事が薄い扉向こうから返り、遠慮なく扉を押し開ける。
正面には誰も居らず、エルヴィンは部屋を見回した。
目に入ったのは黒いフード付きジャケットを来た人物と、その先、壁に背を預け座り込んでいるジャンだ。
黒いフードの人物がエルヴィンとリヴァイの姿を目に留め、不快そうに眉を寄せる。
「うーわ、やっぱり来た」
何だコイツは、と同じく不快に眉間を寄せたリヴァイは、その目を見て瞬時に悟った。
「てめぇ、さっきの」
暗闇で爛と輝いていた眼は、夜に浮かぶ満月の色だった。
明かりの下で再び眼にした彩は、金色をしている。
リヴァイを目にして何事か言いたげな様相を見せた相手は、しかし座り込むジャンへ向かった。
「おいジャン、お前の客だろ? さっさと起きろよ」
げし、とその身体を横から蹴り出せば、てめえ覚えてろ…、と安い悪役の台詞が出てくる。
ジャンは殴られた頬を擦りながら、ちょうど目前にある椅子を勧めた。
「とりあえず座って下さい。アンタがたの会いたがってた人間、そこに居る奴なんで」
「知ってる」
どかりと椅子に腰を下ろし、リヴァイはその場を動こうとしない人物を睨み据える。
「…てめぇが『Jäger』か」
声の高さ、フードに隠れない部分の顔立ち、つい先刻の手合わせ。
(ほとんどガキじゃねーか)
金の眼差しはリヴァイとエルヴィンへ等分に据えられ、相手はようやく足を動かした。
2人の斜向かいにある椅子に座り、フードを取る。
現れたのはリヴァイの予想と寸分違わず、未だ幼さの残る造作だった。
「ここではそう言われてますね」
名前は『エレン』と云うらしいが、その名で呼ぶのはジャンを含めたほんの数名だそうだ。
奥に引っ込んでいたジャンが、茶らしき物を盆に載せて戻ってくる。
「まだ言ってなかったっけな。エレン、その2人は調査兵団のエルヴィン団長とリヴァイ兵士長だ」
エレンの目が軽く見開かれ、そして得心したとばかりに細められた。
「…どおりで、調査兵団のジャケットのままなんだ」
憲兵団はともかく、調査兵団の者は強くなくては生き残れない。
地位が高いということは、それだけ長く生き残ってきたということだ。
「それで?」
調査兵団のトップが、なぜ俺に会いに来たんですか?
感情を巧く覆い隠した眼(まなこ)には、正も負も見当たらない。
これは"駆け引き"だ。
「君の腕を見込んで、調査兵団に入って貰いたい」
エルヴィンは直球であった。
わざわざ変化球を投げる必要性もない。
ジャンにはすでに伝えてあった目的であるので、彼はまったく動揺しない。
一方、エレンは片眉を跳ね上げた。
「お断りします」
にべもない返答である。
エルヴィンが困ったように微笑んだ。
「おやおや。いちおう理由を尋ねても?」
何が"いちおう"だ。
内心で毒づきながら、リヴァイもまたエレンの反応を窺う。
金の瞳から、感情ではなく温度が消えた。
「俺が憎いのは『人間』だ。巨人じゃない」
用件はそれだけですか、と断定し、エレンは立ち上がった。
「無駄足ですみませんが、余所を当たって下さい」
そのまま扉に向かったエレンを、ジャンが引き止めた。
「どこ行くんだ?」
「西の連中に会ってくる」
「あ、そ」
行き先を確認したいだけであったので、出て行くエレンを止めはしない。
階段を降りる音が消えてから、ジャンは眉を八の字に下げてみせた。
「…で、俺の言ったとおりになってるわけですけど」
どうします? と若干愉しげに聞いてくるのは、おそらく嫌味だろう。
エルヴィンは隣のリヴァイをちらりと一瞥し、にこやかと返す。
「なに、うちのリヴァイが珍しくやる気を出してくれているみたいだからね」
楽しみだ、なんて言ってのけた調査兵団団長に、こうでないと務まらない役職なんだろうとジャンは諦めた。
代わりに一言だけ、物申しておく。
「いちおう言っとくけど、度が過ぎた真似すんなよ」
会えば喧嘩の方が多いが、それでもジャンにとってのエレンは"仲間"で、"友人"だ。
情報屋如きがこの2人を何とか出来るとは思わないが、いざとなれば自らの持つツテすべてを使うだけの覚悟は有る。
はっ、とリヴァイが嘲笑した。
「誰に物言ってやがる?」
あれは『獣』だ、容赦は要らない。
だが、使い物にならなくなっては困る。
「躾し直せば済む話だ」
それこそ獰猛な獣の目で断言したリヴァイに、慄きながらもジャンは嘆息した。
(ブルータス、お前もか)
昔々に読んだ記憶のある書物、その中でも記憶に残っている言葉の断片。
似合わないと判っているが、内心で呟かずには居られなかった。
なぜなら、それこそがエレンが地下街の最上位に君臨する理由なのだから。
--- その獣、猛毒につき end.
>>簡易設定
2013.7.7
ー 閉じる ー