黄玉ピトフーイ.3
重い瞼を上げたそこに、見えたのは白。
ゆっくりと瞬きをして、エレンは自分の腕が見えることも確認した。
「……」
カサリ、と紙の擦れる音が聴こえる。
視界が横を向いていることをようやく自覚して、余りにも気怠さを残す身体を仰向けに半転。
「起きたか」
今まで背を向けていた側を億劫さを隠さず見遣れば、書類を見ている男が居る。
机と椅子は元々この部屋にあった物のようで、違和感ない佇まいだ。
ギシ、と椅子の軋む音がして、男…リヴァイがこちらへやって来た。
「今は昼の2時だ。てめえは今日1日休暇になってる」
当たり前だ。
そこにどんな遣り取りがあったか、エレンには知ったこっちゃない。
(これ、兵法会議で勝てる気がする…)
今回ばかりは、何処にも"同意"なんて無かった。
100%の殺意で殺そうとしたことは認めるが、それに対する手段が強姦ってどうなんだ正直。
(どんだけヤられたんだか…)
まさしく"蹂躙"されたのであろう身体は、自分のものだとは思えない程に重たい。
意識が飛んだことは覚えているが、その後も散々に犯されたのだろう。
「水は飲めるか?」
問われて喉の乾きを思い出すも、先の寝返りで僅かな体力を使い果たしたらしい。
指先にすら、力が入らない。
黙ってリヴァイを見上げていると、小さな舌打ちが聞こえた。
「チッ、まだ動けねえか…」
少し待ってろ、と言い置いて、エレンの視界からリヴァイの姿が消える。
(眠い)
休暇と聞いてから、勢い良く眠気が巻き戻ってきていた。
エレンは逆らわず目を閉じる。
意識が沈む矢先、ふと顎先を掴まれた感覚があった。
「ん…ぅ、」
唇が重なり、喉に冷たいものが流れ込んできた。
冷たい水が喉に染み込む。
「まだ飲むか?」
吐息の掛かる距離で問われ、うっすらと瞼を開いた。
ぼんやりと不明瞭な視界に見覚えのある色が映り、この男の眼の色はこんなだったな、とエレンは取り留めもなく思う。
先程と同じようにまた口移しで水を流し込まれ、嚥下し切れなかった水が唇の端から溢れ落ちた。
拭われたような感触は、はたして夢現(ゆめうつつ)の幻だったろうか。
「おやすみ、エレン」
額へ落とされた口づけの感触に、すでに眠りだした思考でくすりと噴き出す。
(そんな、恋人みたいなこと)
あり得ねえ、と。
あまりに可笑しくて、きっと夢の中でもしばらく笑っていた。
旧調査兵団本部へ足を踏み入れたジャンとアルミンは、ちょうど2階へ上がってきたところだった。
「リヴァイ兵長?」
階段を上がり切って左、1つ目の扉に寄り掛かり何故か額を抑えているリヴァイが立っていた。
アルミンの声に気付きこちらへやって来た彼は常の無表情で、今の光景が何だったのかよく分からない。
彼はちらりと己の居た場所を振り返る。
「エレンならそこの部屋だ。だが、夕方か夜にならねえと起きねえだろう」
ということは、無駄足だろうか。
2人の考えを見透かした様子で、リヴァイは彼らを連れて1階へ降りた。
「その内エルドたちも来る。それまでに、お前らで部屋割りを決めておけ」
食堂へ入れば、ここの見取り図であろう大判の紙が2枚置いてある。
「部屋割り…ですか?」
降って沸いた単語に首を傾げると、逆にリヴァイが片眉を上げた。
「エルヴィンから何も聞いてねえのか?」
「はあ…。"君たちは拠点を移る可能性があるから、その心積もりで"とは言われましたが」
ジャンが言われたままを告げれば、これ見よがしに舌打ちされた。
「あの狸が…」
(狸?)
(たぬき…?)
ジャンとアルミンは疑問符を上げ顔を見合わせたが、リヴァイは気にする節もない。
コツコツと指先でテーブルを叩き、足りな過ぎるエルヴィンの言葉の意味を教えてやる。
「てめえらの分隊の頭はエレンだが、てめえらを分隊として放り出すのはまだ先だ。
アイツは俺の処の班員だから、てめえら第3分隊は俺の班の下に着くことになる」
リヴァイ班に所属するエレンの配下、ということか。
もっとも、エレンに"配下"という意識はないだろう。
「それから、第3分隊は任務内容が特殊だ。
本部以外の拠点で訓練した方がやり易いだろう、ってのがエルヴィンの考えだ」
ちゃんと最後まで伝えやがれ、面倒くせぇ。
また舌打ちして、リヴァイは目の前の2人を見返した。
「疑問点はあるか?」
じゃあ、とアルミンが口を開く。
「エルドさんたちが来ると仰いましたが、こちらへの引っ越しという意味ですか?」
「アイツらはな。てめえらは明日で良い」
あれ? 何か意味が通じないんだけど。
「あの、リヴァイ兵長。なぜリヴァイ班の皆さんだけ先に…?」
率直に尋ねれば、なぜ解らないのかと逆にリヴァイが不愉快げに返してきた。
「ああ? 掃除に決まってんだろうが」
ここがどんだけ汚ねえと思ってやがる。
「……」
空気が読めるジャンとアルミンは、貝のように口を閉ざす選択を取った。
(潔癖症でどうやって地下街で暮らしてたんだ、この人…)
(そういえば、エレンの掃除スキルが最近やたら上がってた気が…)
うん、とりあえず部屋割りだ。
2人は阿吽の呼吸で、目前の課題を駆逐することにした。
* * *
結局ジャンとアルミンも掃除に駆り出され、あれ掃除って訓練だったっけ? 状態の疲労が蓄積された。
言い付けられた部屋割りは決まったので、まあ及第点だろう。
今エレンが寝ている部屋は、そのままエレンの部屋に。
階段からもう1つ奥になる隣は、リヴァイの部屋に。
…エレンの部屋がほとんど使われない気がする、とはジャンとアルミン両名の脳内談である。
閑話休題。
2階の空き部屋は階段を挟んだ逆の廊下沿いに4つあったので、そちらはリヴァイ班の先輩方に。
1階の厨房や食堂といった機能部屋以外の空き部屋を、104期の面々がそれぞれに複数名で使うようにした。
それでも3階にまだ居室が余るので、元本部という建物は伊達ではない。
4階もあったが、ここは資料やガラクタでいっぱいだった。
「もしかして、」
階段を登りながら、アルミンは思いつく。
「エルドさんたちだけ来させたの、エレンを起こさない為じゃないかな?」
ジャンは虚を突かれた。
「…んな馬鹿な」
強引にしか事を進めない、あの人類最強が?
思った通りに疑問を出せば、アルミンは反論する。
「エレンは凄く気配に敏感だから、班所属が決まってからしばらくは安眠って感じじゃなかったと思うんだ」
だろうな、とジャンが返すと、彼は確信を持って続けた。
「訓練兵のときに同室だった僕とか、元から一緒だったジャンやコニーは良いけど。
他の…例えばクリスタとかサシャだと、やっぱり起きちゃう気がするんだよ」
何となく、ジャンは彼の言いたいことが判った。
「…で、とっくに慣れてるリヴァイ班の人たちだけ呼んだんじゃねーかって?」
「そう」
掃除したかったのも本心だろうけどね。
若干声が疲れたように聴こえるのは、気のせいではない。
「まあ、兵長が少なからずエレンのこと考えてたのは本当だろうな」
そうでなければ、夕方のこの時間に"風呂を沸かせ"とは言わないだろう。
エレンの部屋に到着し、ジャンは扉を叩く。
…返事はない。
「エレン、入るぞ」
鍵の掛かっていない扉を押し開けば、部屋はカーテンが引かれ薄暗い。
入った正面には執務机と椅子、左には木製の衝立がある。
「エレン?」
衝立をそっと避けてアルミンがベッドへ呼び掛けると、向こう側を向いていたエレンがもぞりとこちらへ身体を向けた。
「ん…アルミン…?」
たった今起きたといった様相のエレンは、寝ぼけ眼(まなこ)のままアルミンを見上げる。
彼の様子にアルミンは苦笑した。
「おはよう、エレン。もうすぐ夜だけどね」
起き上がれそう?
エレンはもぞもぞとまた毛布の中で動いて、眉を寄せると息を吐いた。
「…起きれるけど、まともに歩ける気がしねえ」
それは困った事態だ、アルミンは後ろのジャンをちらと振り返る。
「じゃあ僕…よりもジャンの方が良いか。肩貸して貰って、お風呂入っておいでよ」
「ああ…うん…」
生返事からして、まだ目が覚めていないようだ。
「なあ、アルミン。エルドさんたちに、先に風呂使うって伝えたっけ?」
ジャンに問われ、アルミンはあっと声を上げた。
「言ってないかも…。じゃあ僕伝えてくるから、ジャンはエレンを連れていってあげてよ」
「おう」
アルミンが部屋を出ていき、パタンと扉が閉まる。
それからしばらく他の音はなく、ただしんとしていた。
「…わりぃ、助かった」
ぽつりとエレンが溢し、ジャンは肩を竦める。
「起きれるか?」
「…ああ」
エレンは両腕に力を入れ、上半身を持ち上げる。
丸一日動いていなかったせいで、筋肉が凝り固まって変な音がした。
身を起こしたことで身体を覆っていた毛布がずり落ち、エレンの上半身が露になる。
幾箇所もリヴァイに刻まれた跡はともかく。
「さすがに、これは見られたら困る…」
腕から背、腰へと巻き付く黒い蛇。
エルヴィンとリヴァイはまだしも、幼馴染みや同期の者たちには明かしたいとは思えない。
エレンはホッと息を吐いた。
"Schatten Schlange"は、構造を熟知した者にしか外せない。
他者が外そうとするなら、スチールブレード並の切れ味を持つ刃物で、帯自体を切断するしかない。
ゆえにこの武器はエレンとエレンの師、そしてエレンが後継と定めた少年たちのみの不文律。
一体どうやって装備しているのか、長い付き合いのジャンでも皆目不明だ。
パチッ、と音がしたかと思うと、黒い帯が一瞬でエレンの腕から消えた。
彼の手元にあるのは手首に固定される銀色の円盤と、そこから伸びる短めの黒い帯だけ。
「なあ、着替えっぽいものある?」
「ん? …あぁ、これか」
ジャンは衝立の向こう側から服を放り投げてやった。
サンキュ、と一言返して、エレンは着替え始める。
(逃げ道は塞がれた。けど、)
思い返すのは、会議室での遣り取り。
ーーー諦めて、堪るか。
両手を握り、開く。
(この両手は、巨人を駆逐するためにあるんじゃない)
下衆の豚共を、駆逐するために。
(この武器は、巨人に使うためにあるんじゃない)
枕元に置いた"Schatten Schlange"を、そっと撫でた。
「…諦めて、堪るか」
小さく呟かれた言葉を拾ったのはやはり馴染みのジャンだけで、彼は予想通りの展開に肩を落とした。
(だよなあ…)
ギラギラと燃える金の眼は、もはや見えずとも判った。
地下街で獲物を狙う、『Jäger』の眼が。
--- 黄玉ピトフーイ end.
2014.2.1
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