ウォール・ローゼ東端突出地区、カラネス。
東門の開門を待つ調査兵団本隊をひと目見ようと、多くの人々が沿道に集まっていた。
彼らは巨人を殲滅した、文字通りの英雄なのだ。
「…チッ、鬱陶しい」
何も知らねえ人間どもが。
リヴァイの胸の内で吐き捨てられた悪感情が、隣のハンジには手に取るように聞こえる。
「駄目だよーリヴァイ。それ以上口に出しちゃ」
「…人のこと言える面(つら)か、てめぇ」
眼鏡の奥の目は、笑っているどころか煮えくり返っている癖に。
「あっははは。君たち以外には分かんないって」
ハンジは激情を表情から消す代わりに、馬の轡を強く握った。
第87回壁外調査の目的は、巨人の発生源であった南方を再調査し、人類の壁外進出を裏付けることにある。
ウォール・マリアにもう巨人は居ないとはいえ、突出地区も含めて人は戻っていない。
ゆえに調査兵団はカラネス地区を出た後、自らの手でウォール・マリア東端の門を開き外へ出る。
次いで壁に沿って南方へ下り、南の地平を覆う巨大樹の森を抜けてさらに南へ。
それが、調査兵団が王政府へ申請した調査ルートである。
開門したカラネス地区東門を潜れば、イアン以下、駐屯兵団の者たちが敬礼で本隊を出迎えた。
イアンや彼の部下たちはウォール・シーナ東門の担当のはずだが、一時的に役を交代したらしい。
班員は元調査兵団の面々で、彼らはどこか悲痛さを込めた表情で調査兵団へ一斉敬礼を送る。
ーーー彼らは、知っていた。
調査兵団の主力部隊が、二度と壁内に戻って来ないことを。
エルヴィンとイアンの視線が交わり、イアンが力強く頷く。
それを皮切りに、リヴァイやハンジを筆頭とした調査兵団団員が馬上から駐屯兵団へ敬礼を返した。
(これは別れであり、そして希望でもある)
薄く笑みを浮かべ、彼らは前を向いた。
「本隊、進め!」
聞き慣れたエルヴィンの号令を合図に、調査兵団本隊が駆け足に変わる。
鍛えられた軍馬ゆえあっという間に姿が見えなくなった彼らを、イアンたちはひたすらに見送った。
(…どうかご武運を)
そして次こそ、未来を。
調査兵団が去った方角へ向けていた視線を外し、イアンは己の部下の1人を振り返る。
「ハンネス。君にウォール・マリア東門の安全確認を任せる」
告げられたハンネスは目を見開いた後深々と頭を下げ、調査兵団の後を追った。
1時間程走り続け、ウォール・マリアの壁が迫る。
エルヴィンが片手を上げた。
「陣形解け! 開門班は先行せよ!」
「はっ!」
部隊100名弱の内、後方の30名程が先行して走り出す。
その中には、アルミンの姿もあった。
他の軍馬の駆け足が徐々に並足へと変化し、彼らは2ヶ月ぶりとなるウォール・マリア東端の壁を見上げる。
この先は東端突出地区。
そして、壁外へ。
「あの2人の説得は、効くのだろうか…?」
ミケの呟きに、ハンジはたった今辿ってきた方向を軽く見遣った。
「確率は五分にしかならないね。でも、どちらにせよ結果は決まってるんだ」
それでも駄目なら、そのときは。
("また"『繰り返す』だけさ)
「突出地区西門、開きます!」
開門班の声に意識を戻した。
重たい扉がゆっくりと持ち上がり、寂れた突出地区が姿を表す。
本隊が突出地区西門を通過し、彼らの後ろには開門班が整列した。
班長を務める兵士が進み出る。
「…エルヴィン団長、ご武運を」
エルヴィンは馬を止め、笑みを返した。
「エレンの奪還までが任務だ。気を抜くなよ」
「はっ!」
声と敬礼だけは立派に返しながらも、開門班の面々は涙を流すか、耐え切れず本隊から視線を逸らす。
…彼らの所属はすでに駐屯兵団であり、数のカモフラージュと助成に赴いたのみ。
道行きは、ここまでとなる。
本隊の中央に位置する馬車の中から、エレンの母カルラの顔が覗いた。
「アルミン!」
呼ばれ、アルミンは馬車へ駆け寄る。
カルラは傍へ寄ったアルミンを抱き締め、そして彼の肩へ両手を乗せた。
「エレンを、お願いね」
馬車の内を見れば、グリシャもまたアルミンへ向け強く頷く。
アルミンは馬車から一歩下がり、敬礼を返した。
「…必ず!」
西門はまだ、開いている。
廃れた街の中、傷み歪んだ大通りを進む。
巨人の侵入を許したわけでもないのに朽ちた家々に、人の営みというものを垣間見ながら。
大した距離もなく、ウォール・マリア突出地区最東端の門が見えてきた。
「開門班、先行!」
「はっ!」
残った50名強の本隊の後方から、さらに30名程が本隊両脇を摺り抜け駆け出していく。
そこにはミカサの姿も在った。
「…我々が街を見るのも、これが最後だな」
感慨が篭っているのかいないのか、エルヴィンの呟きにリヴァイが呆れた。
「何ジジィみてえなこと言ってやがる」
エルヴィンは何が可笑しかったのか笑う。
「記憶の時間だけを足せば、相当な長生きだと思うが?」
「ハッ、言ってろ」
東門を担当する班長が、本隊を見返った。
「突出地区東門、開きます!」
西門同様に重さを十分に感じる音を響かせ、門が上がる。
…先に見えるは、青々とした大地。
東門を潜り抜ければ、吹き抜いた風がそれぞれの髪を遊ばせた。
「ミカサ!」
アルミンと同じようにミカサはカルラに名を呼ばれ、馬車へ駆け寄る。
やはり彼女も抱き締めて、カルラは彼女の頬をそっと撫ぜた。
「エレンを、よろしくね」
ミカサは身に付けたマフラーに触れ、カルラへ、そしてグリシャへと敬礼を返す。
「はい。必ず」
門の外側で、東門の開門班が整列する。
進み出た班長の敬礼を合図に、全員が本隊へ敬礼を送った。
「自由の翼は、調査兵団と共に!」
流す涙は、惜別。
そして最後の任務への、覚悟だ。
彼らの言葉に、エルヴィンもまた敬礼で応えた。
「最後の任務だ。心して掛かれ!」
「はい!」
調査兵団主力部隊は一路、南へと進路を取った。
「第87回、壁外調査を開始する!」
東門もまだ、開いている。
* * *
第87回壁外調査が開始された頃。
遡ること7日前に出発していた先遣隊は、壁から真東へおよそ300kmの地点に野営を組んでいた。
ただ行軍するだけであれば400kmは行けようが、測量や周辺調査も込みとなると速度は落ちる。
野営を組んだこの地点は、1年前の壁外調査で拠点認定された場所だ。
標高600m級の山の裾野に広がる森。
東側には清水の湧き出る泉があり、食料となる植物も豊富。
動物も多く、川では魚も釣れた。
馬の蹄の音が森の出口から聴こえ、ジャンはそちらへ目を凝らす。
「たっだいまー! 今回も大量ですよ!」
樹の枝にぶら下げた中型の鳥を掲げ、サシャが満面の笑みで馬上から手を振った。
後ろからフランツ、そしてマルコが追いつく。
馬車を担当しているのはハンナのようだ。
「おー、お帰り。どこまで行ったんだ?」
ジャンも手を上げ、彼らを出迎えた。
マルコが馬車から測量器具と書きかけの地図を取り出す。
「前に何か光ってるって言ってた箇所があっただろ? そこを目指して10kmくらい」
そこへサシャの指先が割り込み、1点をズビシと指差した。
「途中に果物の群生地があったんですよ!」
テンション高いサシャを、ハンナの疲れたような声が遮る。
「一緒に沼で沈みかけたの忘れたの…」
「おい、沼って…。大丈夫なのか?」
マルコは苦笑し、サシャの馬を見遣った。
「サシャ。君の馬、泥が残って気持ち悪そうだよ」
早く洗ってあげなよ、と即され、サシャは慌てて愛馬を川へ連れて行く。
サシャが川へ向かうと、ちょうど釣り上げた魚をスケッチしているユミルが居た。
「お、サシャお帰り。…って、どうしたんだよお前の馬」
不可解だと眉を寄せた彼女に、サシャは乾いた笑みで答えた。
サシャの愛馬は腹まで泥まみれで、どうしたらこうなるのか疑問に思うのも無理はない。
「いやあ、果樹の林を見つけたときにですね…」
彼女の声を聞きつけたのか、カサリと近くの茂みが揺れクリスタが顔を出した。
「あっ、やっぱりサシャだ! お帰りなさい」
「ただ今帰りました!」
返事をしながら、クリスタの笑顔は癒しだなあとサシャは思う。
優しくて朗らかで、ふわりと可憐に揺れる花のように。
「……」
笑顔という言葉に、条件反射のようにエレンの顔が思い浮かんだ。
「今日、ですよね。エルヴィン団長たち本隊の出発って…」
馬を川へ引き入れるサシャの表情に、先程までの明るさは残っていない。
察したユミルとクリスタは、自分の作業へと意識を戻す。
「そうだな。明日にはアタシらも、中継地点まで戻ることになるんじゃないか?」
ここから壁のある西へ80km戻ると、肥沃な森がある。
加工できる植物も多く、東への壁外調査では必ず中継地としている場所だ。
調査兵団では"SITE:aurum(サイト・アウルム)"と呼んでいる。
サシャたちがキャンプへ戻ると、ちょうどジャンとマルコが話し合いを終えたところだった。
「よお。全員集まったな」
広げた地図を綴じ、ジャンは先遣隊のメンバーへ告げる。
「明朝0600、本部隊は調査兵団本隊との合流地点"SITE:aurum"へ出立する」
始めに決定されていた事項のため、驚く者は居ない。
ただ、沈黙があった。
「エレン、助けられるよね…?」
どうしようもない不安は誰しもが抱えている。
それを代弁してみせたクリスタに、ジャンはぽつりと零した。
「…でなけりゃ、俺はあいつらを二度と許せねーよ」
もう何度繰り返した?
もう何度失った?
ミカサの血を吐くような叫びも、呪詛に等しいアルミンの嘆きも。
エレンを呼び続けるリヴァイの声も。
全部が耳にこびり付いて落ちやしない。
「もし"次"になっちまったら、俺は真っ先にあいつらを殺してやる」
ライナー、ベルトルト、そしてアニ。
彼らも彼らなりに、エレンを救おうとしていることは知っている。
だがジャンは、どこかで根本的に彼らと相容れなかった。
ーーーエレンが大切だ。
いつのことかは忘れたが、ジャンは百歩譲って自らそれを認めた。
エレンが居なければ調査兵団なんてちらとも考えなかったろうし、こうなることもなかっただろう。
(けど、俺が一瞬でも壁外に未来を夢見たのは)
馬鹿やって、くだらないことで喧嘩して、どうでも良いようなことを駄弁って。
(エレンが居るなら、行ってやっても良いかって)
どうせエレンには、ミカサとアルミンが一緒なのだ。
退屈なんてしないに決まってる。
(それなのに、)
誰よりも外を愛するエレンが、生きられないこの世界は。
(そんな未来、俺は認めねえ)
絶対に。
踵を返し輪を離れてしまったジャンを見送って、コニーが吹き出した。
「何だかんだ言ってさあ、エレンってジャンとしか喧嘩しねーんだよなあ」
オレとじゃ一緒にふざけるか、大抵はオレが怒られるし。
マルコとフランツは、エレンとジャンの喧嘩の仲裁ばっかりだし。
「ミカサとアルミンとエレンだと、喧嘩って感じしねーしさ」
「…そうだよねえ。2人とも喧嘩してるとき、マジで相手に苛ついてるけど」
ミーナは視線を遠ざけ、森の木立から見える青空を見つめた。
「エレンもジャンも、いっつも楽しそうだったよね」
そこに否定を思う者は、無い。
* * *
調査兵団本隊は、南の地平を覆う巨大樹の森へ分け入った。
「各班、隊列を組み前進せよ! "LINE:ornit(ライン・オルニット)"通過の後(のち)、進路を東へ取れ!」
エルヴィンの号令で陣形が展開され、リヴァイと彼の班員たちは左翼に付く。
"LINE:ornit"は調査兵団が勝手に名付けたもので、ウォール・マリア壁上からこちらの姿が完全に見えなくなる地点のことだ。
そこを超えれば、もはや壁内の者は調査兵団の動向など知る由もない。
…王政府へ申請した探索ルートは、デタラメだ。
エルヴィンたちは、壁内へ戻る気など微塵も無かった。
最左翼のリヴァイの馬が、早々に"LINE:ornit"を超える。
「"LINE:ornit"を超えた! 進路を東へ取る!」
リヴァイを先頭に、本隊が東へと回頭した。
巨大樹の森の東側を抜け、なだらかに続く丘を下る。
「リヴァイ兵長!」
「何だ」
左後方を走るペトラが声を張り上げた。
「本当に、"SITE:argentum(サイト・アルゼンタム)"に1人で残られるんですか?」
"SITE:argentum"は、壁から東に20km地点に広がる巨大樹の森だ。
先ほど通過した森と違い川が流れており、樹々の茂り具合もそれなりに余地がある。
ペトラの左の義手が光を反射する様を見つめて、リヴァイは肯定を返した。
「そうだ。作戦に変更はない」
わざわざ尋ねた彼女の心中は、多くの不安で渦巻いているのだろう。
しかしリヴァイは、それを払拭する術を持っているわけではない。
「お前たちを残さない理由なら言っただろう。人数は足の速さに反比例する」
後から合流する者たちが、まだ居るのだ。
「…そう、ですよね」
納得しておらずとも、ペトラはそれ以上口を開くことはなかった。
"SITE:argentum"で、リヴァイは馬車と替え馬と共に留まる。
調査兵団本隊はひたすらに東へと向かい、"SITE:aurum"で先遣隊と合流する。
そして調査兵団は、"SITE:aurum"でリヴァイを待つ。
正確にはリヴァイとミカサ、アルミンを。
そしてーーー。
深く、鳥のさえずりが遥か頭上にある森の中。
幾度か野営していた箇所を見つけ、リヴァイは馬と馬車を止めた。
壁の方角を見据え、彼は嘲笑う。
「精々ふんぞり返ってろ、糞豚共」
その形相はまるで悪鬼のようだと、エルヴィンやハンジは笑ったに違いない。
* * *
調査兵団本隊が壁外へ出立したと告げれば、エレンはそっか、とだけ答えた。
「人類進出の、最後の調査」
おれも、いきたかった。
ぽたぽたとシーツを濡らす涙を、ベルトルトはそっと拭う。
「エレン…」
…痛ましい。
柔らかな彼の心が、容赦なく裂かれ血を流している。
ベルトルトは手にした鍵で、エレンの手枷を躊躇なく外した。
「エレン、結晶化するんだ」
はたり、と瞬かれた目から、また一筋涙が流れ落ちた。
金色が戸惑いを映す。
ベルトルトは彼の目元を撫でて、静かに微笑んだ。
「君の価値を決めるのは、君の周りなんだ。僕もそう。僕の価値を決めるのは、僕ではない誰か」
もしもここで結晶化しないというのなら、最終手段を。
「エレン。ミカサやアルミンは、君に何て言った? リヴァイ兵長は、君に何を言った?」
ぱきん、と音がする。
「君が死んだら、彼らの誰も幸せにはなれない」
ふっ、とエレンが笑い、ベルトルトは目を見開いた。
「おっかし…。ベルトルト、アニと同じこと言ってる」
泣き笑いに歪んだ顔はやはり痛ましく、そして美しい。
「…なあ。アニは外の声、聴こえてるのか?」
天井を見上げ問われた言葉に、頷いた。
「聴こえているだろうね。彼女は戦士だから」
ぱきん、とどこかで音が鳴る。
「俺…も、聞こえるのかな…」
とろん、と微睡みに向かう瞳へ、もう一度頷いた。
「大丈夫。聞こえるよ、必ず」
そっと自らの片手で、彼の両目を覆う。
「約束するよ。君は必ず、僕たちが皆の元へ連れて行く」
ぱきん、と響く音に、誓った。
「おやすみ、エレン」
パキパキパキパキ、パキンッ!
ベルトルトがエレンから手を離した刹那、エレンの身体を瞬く間に水晶が包み込んだ。
「…ありがとう、エレン」
君が自分で、結晶化してくれて。
「後は任せて」
エレンの水晶をひと無でし、ベルトルトは地下牢を出た。
その足は出口側ではなく、さらに奥へ。
入り口のランタンが1つ灯されただけの部屋、その中央で僅かな明かりを反射するもの。
「アニ。エレンが結晶化してくれたよ」
つるりと光る表面は、つい今し方エレンを包み込んだ水晶。
中で目を閉じているのは、随分と以前に捕らえられた同胞。
ベルトルトは手にした別の鍵で格子の錠を開け、パっと見では閉じているように見せ掛ける。
次にジャケットの内側へ手を差し入れ、取り出したものを格子の影に隠すように牢の中へ置いた。
「じゃあ、僕は行くよ。次は…」
次は、決行日に。
光よ、
2013.8.10
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