Sphere Distorted
(牙も爪も翼も何もかも、お前の為に)
ーーーやっと、見つけた。
「これより、エレン・イェーガーの審議を執り行う」
この世は、『魔物』とそれ以外のもので出来ている。
人類にとって、人類と動植物以外の"いきもの"はすべて『魔物』であり、人類は『魔物』の餌であった。
存亡の危機に立たされた人類は正円を描く『壁』を三重に作り上げ、『壁』を支柱に強力で巨大な結界を創り上げる。
『壁』を中央に地下と空を巨大な球体の結界が包む世界、それが人類に残された砦であった。
さらに人類は、喚(よ)び出した者の命令を遂行する『魔物』を使役する方法を編み出した。
個人が稀に持って生まれる"魔力"を媒介に、自ら『魔物』を喚び出す方法である。
それは『召喚』と呼ばれ、召喚を行える者は"兵士"と呼ばれた。
"兵士"には、人民を守る他に役目がある。
それは強大な『召喚』を行使できる者の管理、そして『魔物』の血を引く者の監視だ。
正方形に敷かれた石の上、跪かされ両腕を後ろ手に鎖で繋がれ、エレンは考えた。
(審議、俺の審議? …たぶん、議題は)
エレンの正面、壇上高くに座する男の声が響く。
「エレン・イェーガーはこの度のトロスト区防衛戦線において、『TITAN』を召喚した。
しかし訓練兵の彼の計測項目にそのような魔力はなく、また当人からの申告も無かった」
もっとも強力かつ凶悪な力を持つ『魔物』、それが『TITAN』。
『TITAN』を召喚できる者はそれだけ強大な魔力を持っており、そのため"兵士"を纏める"兵団"により管理されている。
…と言っても、現時点で『TITAN』を召喚する者は"兵士"には1人も居ない。
凶悪な魔物の群れが襲ってきたトロスト区。
エレン自身に、『TITAN』を召喚したという意識はなかった。
けれどエレンにとって問題なのは、そこではない。
(記憶が、無い。何で俺はシガンシナなんかに居て、訓練兵なんかになって、"兵士"に?)
分からない。
考えたいのに、周りの声が煩くて集中できない。
(煩い。煩いうるさいウルサイ!)
俯き髪に隠れて表情の見えぬエレンを、じっと見つめる"目"があった。
先程から一時も離さずエレンを見続けるリヴァイに、エルヴィンの胸中には一抹の不安が過(よぎ)る。
(リヴァイ、何を考えている?)
前日の夜、エルヴィンとリヴァイは地下牢を訪れた。
…"巨人"を召喚出来る兵士。
それは結界の外を主戦場とする調査兵団にとって、喉から手が出るほどに欲しい圧倒的な"力"。
牢の中の少年は目覚めたばかりのようで、ぼんやりと自分の手を見つめていた。
「おい、餓鬼」
鉄格子越し。
リヴァイがぞんざいに声を投げれば、ゆるりと顔が上がる。
(美しい色の眼をしているな)
顕になった金の双眸に思ったエルヴィンは、リヴァイが息を呑んだ気配に気づけなかった。
(まさか、)
こんな処で。
リヴァイは鉄格子を掴む手に力が籠ることを、まるで他人事のように感じた。
「お前、名前は?」
訊かずとも、知っている。
地下牢を訪れるにあたり、聞かされていたからではない。
リヴァイは元から、この少年の名前を知っていた。
なぜなら、この子供は…。
「エレン・イェーガー、です」
わざと逸らされている視線に、苛立つ。
「おい、クソガキ。人と話すときは相手を見ろと教わらなかったか?」
苛立ちを隠さぬ声にこちらも腹を立て、エレンは目線を上げた。
明るい鉄格子の向こう、格子に手を掛けこちらを見据える男の姿。
「…!」
知っていた、その男を。
誰よりも自分に近しい場所に居た、その存在を。
目を見開き言葉を発しようとしたエレンを、相手はさり気なく人差し指を唇へ触れることで阻止した。
(…そうか)
この関係性は、まだ知られてはいけないのだろう。
そして何より。
(ムカつく)
不穏な色を宿しこちらを睨み付けるエレンに、リヴァイは目を細めた。
(…気づいたか)
エレンの眼差しはリヴァイの視線よりも下、正確には彼の心臓の部分を見据えている。
リヴァイは調査兵団、ひいては壁内のどんな"兵士"よりも強い。
物理的にも、『魔物』を使役する側としても。
なぜならリヴァイはただの人間ではなく、『魔物』の血を引く"dimidium(ディーミディウム)"だった。
リヴァイが身に内包する魔力は、人間のそれを圧倒的に凌駕する。
持って生まれた身体能力の高さに加え、彼の右腕は必要とあらば血を引いた『魔物』と同じ形で同じ力を発揮出来た。
ゆえに、危険。
エレンの眼には、リヴァイの心臓に刻まれた"Ars magna(アルス・マグナ)"が『視えた』。
彼が人類へ牙を剥かぬ保険、術者の呪言ひとつで心臓を握り潰される"術"が。
審議の場、中央。
跪かされ後ろ手に拘束されている現状は、まったくもって不本意だ。
だがこれは、逆に好都合だった。
なぜならエレンの『目』には、この場に揃う人間すべてが見渡せる。
そしてここには、"Ars magna"を仕掛けられたリヴァイ自身が居る。
(誰だ?)
瞳に力を入れ、場の人間たちを順に睨むように見ていく。
エレンから見て右手の人間たちのほとんどは魔力を持たぬ唯の兵士ですらないようで、意味もなく怯えた。
彼らの手前には"兵士"が並んでいたが、こちらは違う。
(1人、)
正面、エレンの審議開始を合図した男。
(2人、)
リヴァイの隣、背の高い金髪の男。
("Ars magna"の『鍵』は2人だけか。もう少し居ると思ったけど)
仕掛けたのはこの2人だ、そして術の発動が出来るのも。
「エレン・イェーガー」
正面の男に名を呼ばれ、エレンはそちらを見上げた。
男は続ける。
「君は公に心臓を捧げた"兵士"である。それに間違いはないか?」
あるよ、大有りだ。
答える様子を見せないエレンに、周囲がざわめく。
ざわめきを机を叩くことで諌めて、男がもう一度問うた。
「答えなさい、エレン・イェーガー。君は公に心臓を捧げた"兵士"か?」
エレンは俯いた。
表情は誰にも窺えない。
「俺はなぜ自分が"兵士"になったのか、その記憶が無い」
再びのざわめき、その中には罵り声が混ざる。
頓着せず、エレンはさらに告げた。
「俺が『TITAN』を召喚したのは、俺自身の命が脅かされたから。
なぜ訓練兵のときに魔力の計測値が出なかったのか? それは俺自身が完全に忘れていたから」
少なくとも、思い出したのは昨日。
地下牢でリヴァイの目を見た、そのときだ。
ざわめきは留まるどころか膨れ上がる。
「そもそも、」
エレンがさらに声を発すれば、続きに耳を立て場が静まった。
(ははっ、自分で自分が笑えるなあ…)
髪に隠れた面(おもて)に自嘲を乗せて、エレンは言葉を吐く。
「そもそも俺には、『壁内』に居る理由が無い」
壁内、三重の『壁』に守られた結界の内側に居る理由が、無い?
外は隙あらば喰らいついて来る『魔物』が跋扈する世界だというのに?
エルヴィンには、少年の言っている意味が解らない。
周囲から少年に向けて雑言が飛ぶ。
隣に立つリヴァイは、相変わらず少年だけを見つめている。
(ああもう、煩いなあ。もう良いや)
"Ars magna"の大本は判った、必要な情報はすべてエレンの元に有る。
エレンは俯けていた顔を上げた。
眼差しは誰に向くこと無く、真正面の壁を見据えて。
「リヴァイ。俺をここから出せ」
一人の男に、命じた。
聴いた声に誰もが己の耳を疑う。
唯一人平然と口の端を釣り上げてみせたのは、名を呼ばれた当人。
「Yes, my Lord.(イエス、マイ・ロード)」
笑みと共に零された言葉、同時に魔物化したその右腕。
エルヴィンは己の失態を悟り、それが遅きに失すると悟った。
審議所に轟音が響き、エレンが拘束されていた位置が舞い上がった白い土煙に覆われる。
後ろ手に通されていた柱が砕かれ、手錠の鎖と共に崩れ落ちた。
衝撃に備え閉じていた目を開ければ、眼前には見慣れた銀灰色。
ふっと笑みを浮かべ、エレンは自由になった右手をリヴァイの心臓の位置へ触れた。
薄靄の中から勢いよく四方へ広がったのは、太い茨の蔓。
封印を司る"Ars magna"特有の、視認できる"術"そのもの。
数秒蠢いた茨はしゅるりと巻き戻り、靄の晴れてきた審議所の中央へと集まる。
煙の中に見えた掌の上、緑の花弁を持つ薔薇の花として"Ars magna"は姿を顕にした。
「…人のもんに傷入れてんじゃねーよ」
苛立たしげに、エレンは手の内の薔薇を握り潰す。
ぐしゃりと散らされた花弁は、床へ付く前に粉々に砂と消えた。
リヴァイから差し出された手を取り、エレンは立ち上がる。
…誰もが事態に着いていけていないようで、いい気味だ。
リヴァイは周囲を睥睨し、エレンへ視線を戻す。
「さっさと出るか。エレン、"許可"を」
主語無き問いに、エレンは口を開いた。
「"Licet recipiô(リシェット・レピーシオ)"」(力の解放を許可する)
カッ、と閃光が上がり、ぶわりと風に煽られる。
引き連れた風の中でバサリと広げられた"それ"に、エレンは手を伸ばした。
滑らかに艶やかに、どんな風にも負けない、翼。
「リ、ヴァイ…?」
なんてことだ、とエルヴィンは天井を仰いだ。
金の嘴、色濃いブロンズの羽毛に覆われた頭部、獲物を射竦める銀灰の両眼。
鋭い鉤爪の付いた前足と違って、四足獣の下半身は金の体毛に覆われている。
その背に生えた翼をそろりと撫ぜて、エレンは『魔物』の背に飛び乗った。
…上半身は猛禽、下半身は獅子、有翼の四足獣。
『魔物』の中でも上位に名を連ねる、その名は『Gryps(グリュプス)』。
猛禽の頭部が、胸に轟く声で咆哮する。
その声は凄まじく、誰もが両手で己の耳を塞いだ。
ピシッ、という違和の音に気づいたのは、誰だったか。
『Gryps』の咆哮による衝撃に耐え切れなかった壁に次々とヒビが入り、パラパラと欠片が落ちてくる。
「天井が崩れるぞ!」
「逃げろ!!」
直後、不意に渦巻いた突風と共に審議所の天井が一気に崩れ落ちた。
【お前らの頭は飾りか? 役立たずの餓鬼共が】
ミカサとアルミンの脳内に、直接そんな声が響いた。
* * *
ウォール・マリア。
それは数年前に『魔物』の軍勢により結界を破られ、人類が放棄した地域。
ウォール・マリアの一角、人が住まず寂れた街、その中心。
時計塔を持った建物へと『Gryps』は舞い降りた。
降り立ったそこで鋭い咆哮を上げると、周囲に潜んでいた『魔物』たちが蜘蛛の子を散らすように飛び立ち走り去る。
(もう大丈夫だろう)
僅かでもエレンに危害を加える可能性のあるものは、排除しなければならない。
周囲の『魔物』の気配が消えてから、リヴァイは背に乗るエレンへ降りるよう即した。
廃墟のような街を過ぎる風は、どこか空虚で寒々しい。
エレンは時計塔の端、塀のようになっている煉瓦の壁へストンと腰を下ろした。
ホッと息を吐き空を見上げたそこで、突風が吹く。
視線を下げれば、リヴァイが『Gryps』の姿から人の姿に戻っていた。
「…エレン」
己を見上げてくる彼に手を伸ばしかけて、リヴァイはハッとその手を止めた。
「リヴァイ?」
不思議そうにこちらを見上げるエレンの足元へ片膝を付き、彼を見上げる。
エレンに触れようとした手を引き、固く握り締めた。
「リヴァイ…?」
もう一度エレンが名を呼べば、リヴァイの表情が苦渋に歪んだ。
「…すまない、エレン」
見つけることが出来なかった。
探し当てることが出来なかった。
こんなにも、許されない程に長い間、ずっと。
(何でだろう…。俺も、この人も、あいつらも、どうして)
エレンは眼差しを伏せる。
10年、もしかしたらそれ以上に及ぶ時間の記憶が無い。
シガンシナで暮らしていた記憶はあるが、それは求める記憶ではない。
(リヴァイはいつも、俺がどんな場所にいても俺を捜し当てた。でも、今回は駄目だった)
どうしてだろう。
仄暗い思考に囚われそうになり、エレンはゆるゆると首を振った。
「リヴァイ」
未だ苦しげにこちらを見上げるリヴァイへ、右手を差し出す。
意味が掴めないのか僅かに眉を寄せる彼に、今度は声を差し出した。
「リヴァイ、触れて」
命令というよりも、嘆願に近かった。
目の前に差し伸べられたエレンの右手を、リヴァイはほんの少しの躊躇の後に恭しく手にした。
生きている、血の通った暖かな手だ。
子供らしい柔らかさと、触れた途端に胸から溢れ出す愛おしさと。
衝動に逆らわず、リヴァイはその掌へ唇を寄せた。
唐突に触れた生温い感触に、ピクリとエレンの指先が震える。
…自分のものではない体温に包まれた手は、酷く暖かい。
手の甲からエレンの手を包む大きな手は、幾度もエレンを守ってきた。
途方もない安心感と同時に言い知れぬ不安が押し寄せ、エレンはリヴァイの手を握る。
「…もっと、触って」
普段の彼からは想像もつかないか細い声が零れ、リヴァイは頭(こうべ)を上げた。
リヴァイを捉えた金の目は、ゆらゆらと不安定に揺れている。
「不安、なんだ。分かんないことばっかりで、自分のことなのに覚えてなくて、気持ち悪い…」
どうしてだろう、何でだろう。
思い浮かぶ言葉はそればっかりだ。
「エレン」
リヴァイはエレンの名を呼び、その手を握り返した。
「もう大丈夫だ、エレン。俺が居る」
コクリと小さく肯いたエレンは、ぎこちない笑みでリヴァイへ囁く。
「もっと、触って。リヴァイが俺を確かめて」
ああ、何て顔をするのかこの子供は。
リヴァイはエレンの項へ手を伸ばし、強く引き寄せ口づけた。
「お前が望むなら、幾らでも」
エレンの腕が、己の背に縋った感触を合図に食らいつく。
ようやく見つけた"生"を、もう一度守る為に。
--- end.
2013.9.7(歪んだ球体)
ー 閉じる ー