Sweet happiness.
(甘い、甘い。)
朝、窓の外を見ると雪が降っていた。
どおりで、いつもより部屋が寒いわけだ。
「夜は積もりそうねえ」
朝食をテーブルに並べる母カルラの呟きに、エレンはちょっとしたことを思い立った。
出てきたばかりの自室へ逆戻りして、スマートフォンを手に取る。
そしてメールを1通。
『今日、リヴァイさんの家に行っても良いですか?』
「エレン、はっぴーばれんたいん」
朝の通学路。
まったく乗り気でなさそうな声音で、けれど寒さだけではなく顔を赤らめたミカサから、小さな箱を手渡された。
これはいつだか、パッケージが可愛いとエレンが言ったチョコレートだ。
エレンは破願し、ミカサの頭を撫でた。
「ありがとな、ミカサ!」
ホワイトデーは楽しみにしてろよ! と続ければ、マフラーに顔を埋めるようにして彼女は頷く。
アルミンに渡されたチョコレートはまた違うパッケージで、彼は少し驚いた。
「エレンのとは違うんだね」
「あれは、アルミンには甘過ぎると思った」
「あ、そうなのか。ありがとう、ミカサ!」
幼馴染み3人で、真っ先にバレンタインデー。
今日は学校でも、似たような光景が繰り広げられるのだろう。
昼休み、エレンのスマホがメール着信を知らせる。
本文に1行。
『今日の帰りは遅い』
この文面の裏には、もうひとつ意味がある。
("俺の迎えに行けないから止めろ"…って意味)
俺男なのに、と思いながらも、エレンは慣れた手つきで文面を返信する。
『夕方に行きます』
たった1行の文面は、少し素っ気ないかもしれない。
けれど一番明確なことを伝えるには、これが良い。
またしばらくして、スマホがメールを受け取った。
『分かった。気をつけて来い』
その文面にふわりと綻んだ顔を、アルミンは微笑ましげに、ミカサは複雑そうに見ていた。
「…あのチビ」
「ミカサ」
「……わかってる」
アルミンが窘めると、ミカサは渋々と引き下がる。
「どうしたんだ? お前ら」
顔を上げたエレンが2人を見て首を傾げるが、何でもないよ、とアルミンは誤魔化した。
(幸せそうだね、なんて)
ここで口に出さなくても良いかな、って。
夕方になり、家に帰ったエレンは別の鞄で出掛ける用意をした。
「母さん。リヴァイさんに許可貰ったから、泊まりに行ってくるね」
あらまあ、とカルラは目を瞬く。
「チョコレートを直接渡しに行くの?」
「んー、まあ…そんなところ?」
素直に首を捻った様子からして、上手い言い方が思いつかないといったところだろうか。
カルラはクスリと笑うと息子の背を押した。
「良いわ、いってらっしゃい。戸締まりには気をつけるのよ?」
「うん。行ってきます」
パタン、と玄関の扉が閉まってから、もう一度クスリと笑う。
(帰って来るのは、日曜日かしらね)
カルラは今でも鮮明に、エレンが告白してきた日を思い出せる。
『すごく…すごく好きな人が、出来たんだ。その人のことを考えると、どうしようもなくなるくらいに』
でも、と苦しげに続けた息子の姿に、医者という職業上滅多に動揺を表に出さない父グリシャでさえ、目を見張った。
(一番苦しいのは、あの子自身)
エレンが恋した相手は、同性だった。
歳はひと回りも上で、それでも好きで仕方が無いのだと言って、エレンは泣いた。
『ごめ…っ、ごめんなさい。俺、"普通"じゃなかった…っ!』
存在は認知されていても、未だ社会的には認められていない愛。
自身ではなく両親に掛かる中傷を真っ先に恐れた我が子を、どうやって責められようか。
思い出したカルラは、テーブルに置かれた2箱のチョコレートに暖かな笑みを浮かべた。
…エレンが、カルラとグリシャのために作ったそれを。
「確か…開けていないワインがあったわね」
たまには夫婦で語らうのも、良いかもしれない。
今日は、バレンタインデーだ。
リヴァイのマンションへ向かう道すがら、またちらちらと雪が降り始めた。
電車の車窓から見える雪は、分厚い雲から降ってくる。
(路面、凍らなかったら良いなあ…)
雪が積もるのは嬉しいのだが、凍ると危ないので嫌だった。
多くの人で賑わう駅を下り、雪に濡れない地下のショッピングモールを歩く。
「……」
最後の掻き入れ時とばかりに、多くの店が店頭で品物を販売していた。
並んでいるのは、女性が思わず足を止めたくなるような装いの菓子たち。
ふと、そんな店のひとつで目的のものを見つけた。
(これと、あとはあれと…)
残りはスーパーで良いや、と地上階へ出る。
雪はまだ降り続けて、傘を差そうか少しだけ迷った。
最寄りのスーパーで夕食の材料を調達し、マンションへ到着。
教えてもらった暗証番号と合鍵で、リヴァイの住まいに足を踏み入れる。
「…ただいま」
誰もいない。
けれどエレンは、そんな言葉を小さく小さく言の葉にした。
コートを脱ぎ、玄関脇のハンガーへ掛ける。
食材を冷蔵庫に閉まって、手洗いとうがいを。
時計を見上げると、今は18時。
(遅いって言ってたし)
夕食のメニューはシチューにした。
温め直せばすぐに食べられるし、何よりルーがあれば手間が意外と少ない。
エプロンを身に付け米を先に研いで炊飯をセットしてから、エレンは玉ねぎを手にとった。
ひとり先に夕食を取ってから、また時計を見上げる。
時刻はもうすぐ21時。
先に風呂を使ったエレンの身体から、ほかほかと湯気が上がった。
まだ連絡のないスマホを眺めて、何時くらいに帰って来るのだろうかと考える。
(とりあえず、準備だけ)
髪の水気を可能な限りタオルで拭き取ってから、エレンは再度キッチンへ立つ。
小さめの鍋とビターテイストの板チョコ、牛乳、ココア、シナモン、それから鷹の爪。
ほんの少しだけスパイシーな、ホットチョコレートの材料たち。
自分用にミルクチョコレートも買おうと思ったが、結局迷ってやめてしまった。
(いつ帰って来るかな…)
板チョコは先に湯煎にかけておいて、さて、と考えた。
テレビを付けようかと思って、やっぱりやめる。
鞄に今日出された課題を入れてきたことを思い出して、今やってしまえとノートを取り出した。
「エレン」
居ないはずの声に名を呼ばれ、パチリと目を開けた。
「え…あれ……リヴァイさん?」
目を擦ろうとした手をやんわりと掴まれて、エレンはそれでも首を傾げる。
時計を見ると、22時30分。
ラフなスウェット姿のリヴァイを見上げ、あれ? とやはり疑問符を上げた。
みじろいだ拍子に肩からずり落ちたものを見下ろすと、毛布である。
「えっと、おかえりなさい」
「ああ」
「いつ帰ってきたんですか?」
「3,40分前だな」
シチューは勝手に食ったぞ。
そうですか、お粗末さまでした。
「で?」
「え?」
くしゃりと頭を撫ぜた手の行き先に合わせて首を動かすと、そこにはキッチンがある。
「あれは何だ?」
大方何が出来るか予想できるが、鷹の爪なんぞ何に使うんだ?
そこまで言われてようやく、エレンは思考が回った。
「今日、バレンタインデーだったので」
ふにゃりと笑ったエレンに、リヴァイは一瞬動きを止める。
そんなことには気付かぬ様子で、エレンはすぐに作りますねとキッチンへ立った。
程なくして漂ってきたのは、少しだけ甘い香り。
本当にすぐ出来るものであったらしく、そっとマグカップが差し出された。
「どうぞ」
リヴァイがカップを受け取ると、エレンは彼の隣へ腰を下ろす。
湯気の立つ白いカップには、やや黒の勝る茶色がとろりと満たされていた。
ひと口飲めば、シナモンの控えめな香りとほろ苦いながらも舌触りの良い甘さが広がる。
「…悪くない」
呟かれた一言に、エレンは満足気に笑った。
「そういえば、リヴァイさんは貰ってないんですか?」
「チョコレートか?」
「はい」
リヴァイはテーブルの上を目線で示す。
「ペトラとハンジとナナバと…、あと経理部に居るリコってハンジの友人から貰ったな」
「へえ…。あ、これリヴァイさん宛に預かりました」
エレンはソファの端に置いていた鞄から、軽くラッピングされた小袋を取り出す。
こっちはクリスタとユミルから、と差し出されたのは、マドレーヌとフィナンシェの詰め合わせ。
「あとこれ、は…ミカサから、です」
すみません、と我が事のように項垂れたエレンは、気不味げにもう1つの袋を差し出した。
「……」
受け取った包みを眼前に持ってきて、リヴァイはエレン手製のホットチョコレートをもうひと口。
「…まあ、食えるもんだからマシだろ」
「すみません…」
ミカサからという包みの中身は、『ひと目で義理と分かる』で打って出たチョコレートの詰め合わせである。
通常のもの、朝専用、それからこの辺りではレア度の高い、白も入っていた。
マグカップの中身を順調に空に近づけながら、リヴァイはエレンへ問い掛ける。
「お前の分は無いのか?」
カップの中身のことだと分かり、エレンは頷く。
「それ、俺にはちょっと…その、」
苦くて。
コーヒーを飲めることが大人、といった子どもの意地が、羞恥に繋がるのだろう。
ビターな菓子より順当に甘い菓子を好むエレンのことなど、リヴァイはとうに知っている。
知っているがゆえに"今さら"という気持ちと、それから。
(…まったく)
口角が上がることを、止めはしない。
「思いもしないところで可愛いな、お前は」
「は? かわ…?!」
言われた言葉に赤くなる仕草がその通りなのだと、エレンが気づくことはこの先もなさそうだ。
リヴァイはもうひと口、口をつける。
「お前も飲んでみるか?」
「え? いや、今俺が言ったこと聞いて…」
ましたか? という声は、不意に合わせられた唇に飲み込まれた。
「ん…っ?!」
エレンの口の中へ、暖かくほろ苦い甘さが広がる。
僅かだけ感じる刺激が、絡められた舌の上で弾けた。
「っ、んぅ…ふ、ぁ…」
あっという間に翻弄されて、エレンの指先はいつの間にかリヴァイの服を縋るように掴み。
こくり、と苦くてスパイシーな液体を飲み込んだ。
ようやく唇を離したリヴァイは、荒い呼吸を整えようとするエレンの目を覗き込む。
酸欠で潤んだ金色は、とても甘そうだ。
「味はどうだ?」
とりあえずは、飲ませたホットチョコレートの感想を尋ねた。
「…苦いです」
さっき言ったのに、と眉を寄せるエレンの耳元で、リヴァイはにやりと笑って囁く。
「なら、俺が甘くしてやるよ」
ことん、とローテーブルへ置かれたカップの中身は、すでに空だ。
洗うのは明日になるなあ、と頭の隅っこで考えたエレンの思考は、深く重ねられた口づけであっという間に霧散した。
---Happy St.Valentine's day!
--- Sweet happiness. end.
2014.2.14
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