Be with you...

(そのつばさは、きみとともに)




ぽたり、ぽたり。
手の甲に落ちる水の感触に、リヴァイは意識を浮上させた。
「…エレン?」
リヴァイが後ろから抱きかかえているエレンが、ピクリと身体を揺らす。
拍子にまたぽたぽたと雫がリヴァイの手に落ちて、流れた。
木々の間から見える空は白んで、すでに朝が来ていることをリヴァイへ教える。
「どうした?」
地上10mの樹上では、自分の身体の向きを変えることも一苦労だ。
体勢を崩さぬようにリヴァイを見たエレンの金色の眼から、涙が浮かんでは零れ落ちていく。
「…ゆめを、みたんです」
ペトラさん、オルオさん、グンタさん、エルドさんが居て、ミケ分隊長も居て。
「ライナーとベルトルトと、…アニが、居て」

みんなが、俺の誕生日を祝ってくれた日の夢でした。

悲哀を含んだ表情ではない。
エレンの顔は、ともすれば能面のように無表情だ。
けれど、『目』は。
次々と涙を溢す金色の眼は、余りに多くの感情を内包しすぎて。
まるで色を忘れたかのように、渦巻いていた。
「…そうか」
リヴァイは涙するエレンを抱き締め、彼が落ち着くのを静かに待つ。

『何かを得るためには、何かを捨てなければならない』

誰もが多くを捨ててきた。
己にとっての最優先の為に、残っているものの方がずっと少ないくらいに。
けれどエレンは、捨てたいだなんて一度たりとも考えなかった。
抱えきれないと判っていても、捨てたくはなかった。
それでもエレンが意図しないところで、『エレン』を生かす為に失くしてしまったものがある。

ぽろぽろと涙を溢し続けるエレンの額に己の額をこつりと合わせ、リヴァイは目元を緩めた。
「…やっと、泣けるようになったじゃねえか」
エレンが失くしたもの。
それは彼の美徳でもあった、感情を顕にする表情だった。

誰よりも涙を流していたのに、泣き方を忘れて。
誰よりも明るかった笑顔は、今までの無理の象徴のように何処かへ消えて。

感情を失ったわけではない。
声にはそのままの感情が乗る。
言葉よりも余程エレンの心を語る目は、より一層感情で彩られるようになった。
「そろそろ降りるぞ。あいつらが獲物を見つけたらしい」
ちらりと下へ目をやったリヴァイの視線を追ったエレンが、あ、と声を上げた。
樹の幹に括り付けていたロープを使い、ナイフで作った足場を慎重に降りる。
エレンを待っていたように、ほんの少し離れた場所で1頭の狼がオォン! と啼いた。

『壁の外』は、自由だ。

巨人化可能な人間、エレン・イェーガーとユミル。
この2人と『壁の中』を残して、すべての巨人は殲滅された。
いや、正確にはエレンも最後の作戦で死亡し、この世には存在しないことになっている。
…それはリヴァイとて同様だ。

エレンが降りた後を、足場のナイフを回収しながらリヴァイが降りてきた。
「おい、アニ。ライナーとベルはどうした?」
ワゥ、とリヴァイを見上げて啼いた小柄な雌狼は、首を森の向こう側へ向け、またワゥ! と啼く。
「追い掛けてるか仕留めたか、ですね」
エレンが指笛を吹くと、森の奥から2人の愛馬が戻ってきた。
樹の根元に置いていた鞍や鐙を取り付け、ひらりと跨がる。
2人の準備が整ったと見るや、小柄な狼はさっと身を翻し走り出した。



ーーーあの日、人類は巨人に勝利した。
調査兵団は最後の王族たるクリスタ・レンズ…本名ヒストリア・レイス…を護ったとして、今や憲兵団をも凌ぐ権力を持つ。
壁内へ帰還することなく名だけが残った"人類最強"と"人類の希望"は、英霊として祀り上げられたと聞く。
(とんだ悪趣味だ)
ユミルが巨人化出来ることは、調査兵団の者しか知らない。
ゆえに彼女には何の枷も無いが、エレンはそうもいかなかった。
…巨人に勝利したそのとき、エレンは殺される。
彼に近しい者ほど、否応なくその事実を突き付けられた。
ゆえに、あの茶番のような悲劇が催されたのだ。
知っている者には喜劇であった、知らされなかった者には紛うことなき悲劇の瞬間を。

悲劇の真相を、エレンの同期たちは誰ひとりとして知らされずに。



森の中を東へ駆けて数分、新たに狼のシルエットが2つ浮かび上がった。
2つのシルエットの間に、こんもりとした別のシルエットがある。
「鹿だ! 兵長、鹿ですよ!」
「もう兵長じゃねえっつってんだろ」
無表情でも、その目に興奮と感嘆が踊っている。
シルエットの片方、がっしりとした体躯の灰色の毛並みの狼が、口許をすっかり血で汚していた。
もう1頭、灰色の狼よりも背の高い狼も、大体似たような様子だ。
こちらの毛並みは茶色だ。
「すっげー大物! 角もすげー立派だ!」
無表情であることが酷く痛々しく見えるのは、こんなときだ。
かつてのエレンであれば、弾けるような笑顔で驚きと喜びを見せるのだろう。
…リヴァイには、かつてのエレンの表情がまざまざと思い出せる。
ゆえに表情を創る術を忘れたエレンの姿は、己の無力を呪いたい程に苦しい。
「へい…リヴァイさん! 鹿、解体しちゃって良いですか?」
半分はこいつらの分で、と狼たちを順に見て、エレンは手持ちで一番大きなサバイバルナイフを取り出した。
「待て。俺がやる」
「えっ、汚れちゃいますよ?」
不思議そうに目を瞬いたエレンの手から、サバイバルナイフを取り上げる。
「汚れんのは当たり前だろうが」
ここは水場がない。
つまり、血で汚れるとしばらくはそのままということだ。
「何度も言わせんじゃねえ…」
たとえ他者の血であろうと、二度と血塗れになったエレンの姿は見たくない。
「……」
物言いたげに揺らいだ金色の目を、きらりと朝日が照らし出す。
エレンは何も言わず、仕留められた鹿から1歩離れた。



リヴァイはこの先の人生、『壁』へ近づく気はなかった。
たとえエレンが戻りたいと言い出しても、絶対に。



リヴァイが鹿を捌き終えるのを、エレンは3頭の狼たちと共に待つ。
「リヴァイさん。火、熾こしますか?」
「ああ、頼む」
エレンが『ベル』と名づけた茶色の毛並みの狼は、捌かれる鹿へひと飛びの位置で周りを警戒している。
『ライナー』と名づけた濃灰色の狼はエレンたちから離れ、周囲を見回している。
『アニ』と名づけた薄灰色の雌狼は、エレンの直ぐ傍に座っている。
片側の肉を粗方削ぎ終えたところで、リヴァイは火の準備をするエレンを盗み見た。
「……」
自由だ、と思う。
反面、エレンにとっては不自由だ、とも思う。
まだ戦況芳しくなかった頃、エレンは一度だけ、リヴァイに自身の『夢』を語ったことがある。

『俺とミカサとアルミンで、"外の世界"を冒険するんです!』

アルミンの祖父が隠し持っていたという禁書。
"外の世界"を描いていた本の、真実を見つけに行くのだと。
…そう笑顔で話したエレンは、もう二度と還らない。
枝分かれした鹿の角を切り落とし、リヴァイは茶色の狼へ声を投げた。
「待たせたな」
狼は返事のようにワゥ、と鳴き、他の2頭も合わせるように獲物へ齧り付く。
革袋の水を使い、リヴァイは手についた血を洗い流した。
(チッ、汚えな)
その間にエレンは解体された鹿の肉へ手早く火を通し、薬草を詰めた麻袋に入れて保存食を作る。

不意に風が吹き、狼たちが揃って顔を上げた。
「どうした?」
エレンも同じように空を見上げ、微かに湿っぽいものを感じて眉を寄せる。
「雨…?」
まだ遠そうだが、これは確実に降ってくるだろう。
炙り終えた肉を食べ始めたリヴァイが、小さく舌打った。
「今日の移動は無理だな。前に見つけた洞窟に行くぞ」
「はい」



雨は静かに降り出した。
馬2頭も入れる洞窟には、他にも野生動物たちの目が暗闇に光って見える。
狼たちが入ったときにはさすがにざわついたが、彼らが洞窟の入り口に座り込んでからは収まった。
…『雨宿り』というのは、野生動物にも共通の事項らしい。
食うか食われるかの者たちが同じ場所に居る、そんなこともエレンは知らずに生きてきた。

(世界は、広い)

犬や猫ではなく、狼と旅を共にすることも。
雨上がりに空に掛かる架け橋の、ウォール・マリアすら納まりそうな大きさも。
風に混じる雨の匂いも。
色とりどりに咲き誇る野の花や、木々に成る実の芳しい香りも。
「……」
自由だ、と思う。
反面、リヴァイにとっては不自由だ、とも思う。
(だって、兵長には)
エレンは『壁の外』へ行きたかった。
だからこれは、間違いなく『自由』だ。
けれどリヴァイも同じだったのか、エレンには解らない。

『兵長は、それで良かったんですか?』

エレンの表情が変わらないことに初めに気がついたのは、リヴァイだった。
初めはエレンさえ気付けていなかった。
そして、感情が表に見えなくなってしまったエレンを守るために動いたのも、リヴァイだった。
…気にするな、と彼は言う。
自分が決めたことだから、エレンが気にする必要は無いのだと。

どれだけの時間が経ったか、雨はまだ止まない。
ふるり、と寒さに身体を震わせたエレンを、リヴァイが抱き寄せた。
「だからくっつけと言ったんだ。周りを見てみろ」
「周り…?」
エレンは薄暗い洞窟で目を凝らす。
(あ…)
動物たちは各々に寄り添って体温を分け合い、寒さを凌いでいた。
旅の共である狼たちも、互いにぎゅっとくっついて丸まっている。
何とはなしにエレンの頬へ手を伸ばしたリヴァイは、自身の体温よりも冷たい肌に驚いた。
(ガキの癖に、何でこんなに冷てぇんだ?)
エレンは触れてくる手を条件反射のように上から握り返して、ほぅと息を吐く。
暖かな手は、どの記憶と合わせても変わらない。
(あったかい…)
いつだって、エレンの傍に在ったのはこの手だった。
古城でたった2人だけになってしまっても、同期たちと共に隠れ家を点々としていても。

頬に触れる手がぐいとその頭を引き、エレンは引かれるままに体勢を崩した。
すると唇に暖かなものを押し付けられて、カッと頬に熱が集中する。
「んっ、へいちょ…!」
「兵長じゃねえって言ってんだろうが」
思わず役職で呼んでしまったエレンを咎めるように、ぬるりと舌が侵入する。
「ふ、ぁ…っ」
慣れ親しんだ感触は、応える以外の選択肢を与えてはくれない。
エレンの指先は、無意識に温もりを手繰り寄せる。
逆らわずさらにエレンの身体を抱き寄せて、リヴァイはシャツの上から冷えた身体へ掌を這わせた。
「ひゃっ…! へい、リヴァイさん!」
まって! と悲鳴を上げたエレンを、何だとばかりに見上げてやる。
手は止めてやらない。
「こ、こで、するんですか…っ?」
従順な身体は、エレンの意思に反して熱を帯び始めている。
(けど…!)
「何か問題があるか?」
平然と問うてくる涼しい眼差しが、悔しい。
「ひ、昼間だし…っ、それに、」
みんなが見てる、と強く目を瞑ったエレンに、リヴァイはちらりと周囲へ視線をやった。
…確かに、他にも居ることには居るが。
同時に込み上げてきたのは、治まりようもない愛おしさだ。
(馬鹿なヤツだな)
本当に。
リヴァイはシャツをたくし上げる手を止めて、エレンの顔を上げさせる。
どうやらこの子どもは、人に囲まれていたことを今でも忘れられないようで。

「なあ、エレンよ。此処には、"人間"は俺たちしか居ねぇんだ」

此処だけじゃない。
少なくともこの広い大地に、『壁』の中に居た人間は誰ひとりとして存在しやしない。
「咎めるヤツも誰も居ねえ。侮蔑、嘲笑、懐疑、嫉妬、憎悪…何ひとつ、てめぇに向けるヤツは居ねえ」
此処にあるのは『自由』。
過酷でいて美しい、世界の片隅。

「…てめぇの自由を阻害しているとすれば、それは俺だ」

だから惑うな、足を止めるな。
「問え。抗え。喰らいつけ。てめぇが翔ぶために必要だっていうなら、幾らでも」
呆気に取られてリヴァイを見下ろしていた金色から、ぽろり、と雨に似た雫が落ちる。
ほんの少し青褪めた唇が、戦慄く。
「お、れ…」
幾度も落ちてくる雫を舌で掬い取り、リヴァイは理解した。
(目の中に収まり切らねえ感情が、これか)
「おれ、は…」
ざあざあと、雨は強く降り続ける。
雨音に掻き消されそうなエレンの声は、心の中の恐怖を如実に表していた。
それを吐露することさえ、不安を煽る。

「…俺は、壁の外に行くのが夢でした。壁の外へ行って、本に書かれたホントウの世界を探しに行くのが」

ミカサとアルミンは居ない。
それでも、エレンは此処に生きている。
奇跡のような状況に救われ、奇跡のような人に掬われ、こうして此処に。
「だから俺は…、俺は、良いんです」
ミカサとアルミンは居ない、それでも自分が此処に居るのは、真実だから。
「俺には他に何もない。巨人化の能力と、兵士としてのそこそこの経験だけ。けど、兵長は違う…」
リヴァイには、必要とされている要素が幾つもある。
きっと最後の作戦だって、エルヴィンたちは反対したはずだ。

「俺は自由です。だけど兵長は、俺の存在に縛られてる」

俺のために他を全部棄てたことは、『自由』だったんですか?
(…馬鹿なヤツだ)
もう何度思っただろうか。
リヴァイは吐きかけた溜め息を飲み込み、無骨な指先で流れる涙を拭い取る。
「…エレンよ。俺は調査兵団という集団を個として扱うことは出来るが、個人にここまで関わったことはねえ」
切っ掛けはともかく、エレンに責任を持つと最初に言ったのはリヴァイだった。
「最後の作戦の話をしたとき、俺はエルヴィンに問われた」
どうしたいかと問われ、思い出したのはこの男の判断に従うと決めたときのこと。
リヴァイ個人の意思は、あのとき以来何処にも無かった。
「てめぇの命を守るために、てめぇを死んだことにする。そして壁外で生きてもらう。
ならばお前はどうしたいのかと、十数年ぶりに俺個人の意思を問われた」
迷いはあった。
『自由』を求めるエレンを縛り付けることになるのは、明白だったのだから。
じっとリヴァイの言葉を待つエレンに、今度こそ小さく息を吐く。

「なあ、エレンよ。てめぇが思ってる以上に、俺はてめぇに全霊懸けてんだよ」

心臓を捧げるのは、人類の進撃の為に。
人類の進撃を遮る、巨人を殲滅する為に。
『壁の外』が解放された今、捧げた心臓はこの左胸に戻ってきた。
「俺は『自由』だ。だから…」
リヴァイはエレンを抱き寄せていた右手を引き、トン、と己の左胸に拳を置いた。

「俺の心臓を捧げよう、エレン。俺のすべてはてめぇのモンだ」

その代わり、てめぇの心臓を俺に寄越せ。
余りにも真摯な銀灰は、エレンの内側の感情をぶち壊すに十分過ぎた。
「…っ」
エレンはさらに溢れ出した涙を乱雑に拭い、右の拳を己の左胸に置く。
言葉が、震えた。

「兵長、リヴァイ、さん。俺の心臓を、貴方に、捧げます…!」

この身体がいつか、土に還るそのときまで。
溢れる涙を堪え切れず、エレンは俯き瞼を落とす。

「あなたを、あいしています」

か細く消え入りそうな告白は、リヴァイの胸を灼いた。
引き寄せる時間さえ惜しいとばかりに、乱暴に唇を塞ぐ。
「んん…っ!」
必死に応えるエレンの涙は流れるばかりで、口づけは塩の味がする。
「俺も愛してる、エレン」
間近に彼の目を覗き込み告げてやれば、金色が嬉しそうに煌めいた。

(俺は、)
(俺たちは、)

『自由』だ。



*     *     *



見渡すかぎりの青、塩の匂い。
本の中の世界は、想像を絶する圧倒さで彼らを出迎えた。

「これが、『海』…!」

青を臨む崖の上、アルミンはただただ、目の前の光景に見入る。
調査兵団精鋭部隊は複数回に渡る壁外調査の末、ようやく此処まで辿り着いたのだ。
アルミンの隣で、ミカサはマフラーをぎゅっと握った。

「…エレンが居ない」

エレンが居ない、それでは意味が無い。
これでは、夢を叶えたとは言わない。
「…そうだね。でも、」
生きていると、言われた。
リヴァイと共に、『壁の外』で。
(独りじゃなくて、良かった)
知らされたアルミンが初めに思ったのは、そんな安堵。
だからこそ、絶対に追いついてみせると胸に誓った。
「ミカサ! アルミン!」
サシャの声が2人を呼ぶ。
早く早くと急かす彼女に、ミカサとアルミンは駆け寄った。
「見てください、これ!」
彼女の指差す足元には、崖を構成する岩肌が在る。
「…!」
息を呑んだ。

ーーー岩肌を幾度も刻んで彫り上げられた、自由の翼。

羽はいびつで、とてもつたない。
けれど他に、誰も居ない。
こんなものを残す相手も、託す相手も、他に誰も!

ミカサは膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
力の抜けた指先が、震えながらも刻まれた翼をゆっくりと辿る。
…壊さないように、消えないように、本物であるように。

「エレン」

生きている。
エレンは此処で、海を見ていた!
「…アルミン」
私は、決めた。
ミカサは立ち上がるとブレードを引き抜き、刻まれた紋章へピタリと据える。
「私は絶対にエレンに追いつく。そしてあのチビをぶん殴る!」
「えっと…物騒なことは止めた方が良いよ…?」
苦笑したアルミンは彼女を宥めるに留め、同じように跪くと翼の紋章にそっと触れた。
(エレン、約束だよ)
炎の水、氷の大地、砂の雪原、そして海を。
(一緒に、見よう。エレンと僕とミカサの、3人で)
『壁の外』は、自由だ。

(エレン。君の『自由』を阻む存在は、もう何も無い…!)
---Happy Birthday!

2014.3.30

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