天秤
(女王主催の夜会にて)
「エレン」
呼び掛けに振り向いた顔の線に沿って、伸びた髪が流れる。
「何でしょうか。リヴァイ兵長」
あの日の地下牢で牙を剥く獣のように輝いていた金色の眼は、いつからか外への発露を見せなくなった。
代わりにその瞳は底の見えぬ海のように深みを増し、覗き込んだ者を引き摺り込んでいく。
豊かであった表情も、他者が見て僅かに変わっていることを認められる程度にしか垣間見れなくなってしまった。
兵士としての役割を思えば、相手に悟らせぬそれは武器だろう。
「今日の予定は覚えているか?」
だが惜しむ気持ちが、彼の幼馴染たちに限らずリヴァイにもある。
けれどエレンのみが抱えてしまった膨大な記憶と数多の同胞たちの想いを、どうしたって他人である者たちが肩代わりすることは出来ない。
得るために失ったものが皆、あまりにも多かった。
「今日は確か…ヒストリア直々の喚び出しがあったはずですね」
「ああ。そいつなんだが、どうも半日で済みそうにねえ」
思考を振り払い目下の用件を告げたリヴァイに、エレンは数秒の沈黙を挟んだ。
「……俺と兵長と、ハンジ団長だけですか?」
「ああ。向こうはザックレーが同席だそうだ」
久々に、露骨に嫌そうな顔を見た。
「それ、明らかに厄介事ですよね」
「察しが良くて助かる。出立は14時だ。ヒッチが迎えに来るらしい」
「分かりました」
そのまま、前庭の掃除に戻ろうとするエレンへ歩み寄る。
「兵長…?」
触れた頬は、まだ子どもらしい温もりを持っていた。
表情を隠す髪を掻き上げ、その目許を親指の腹で撫でる。
「…伸びたな」
端的に告げれば、金色が柔く細められた。
「そうですね。切るのも何か…億劫で」
リヴァイの手から逃げようとはしない、そのことに人知れず安堵する。
愛おしい、と思う。
守りたい、と思う。
こちらが伸ばした手をエレンが拒絶すると言うなら、もはやリヴァイに出来ることは刃を握って彼を守ることのみ。
いつか来るであろうその日が、遠いことを密やかに祈る。
「ここが終わったら、茶を淹れてくれ」
「はい」
最後に親指の先で彼の唇をするりと撫で、リヴァイはその場を後にした。
ほんのりと頬を朱に染めた顔に、薄っすらと満足の笑みを浮かべて。
*
「……ぷっ、」
ハンジは久々に、何の打算もなく噴き出した。
彼女の隣ではエレンが呆気に取られ、リヴァイが憮然とした表情になっている。
向かいのヒストリアは良い笑顔だった。
「ごめんね。私だけなんて御免だなと思って」
さすがは、『牛飼いの女王様』なんて呼ばれる常識違いの女王様だ。
言うことが庶民的というか、エレンたちと同レベルであった。
「いやちょっと待てよ! 貴族のお遊びなんか冗談じゃねえ!!」
ヒストリアはこう言った。
『私の開く夜会に、一緒に出てくれる?』と。
大理石のテーブルに両手を叩きつけ怒鳴ったエレンに、こんな彼は久しぶりに見たとハンジは思う。
ヒストリアは動揺することなく肩を竦めた。
「そうね。私も本当にそう思うわ。でも『ヒストリア・レイスの統治下であること』を、こういった形で示すことが必要なの」
「だからって何で俺なんだよ?! ハンジさんとか兵長の方がよっぽど…」
それは無理だ、という声は、ヒストリアの隣に座る兵団総統ザックレーからだった。
「ハンジは調査兵団団長だ。ゆえに他の役目は担えない」
「じゃあ…」
「そしてリヴァイは『兵士』だ。それ以外でもそれ以下でもないのだよ」
「は…?」
エレンはリヴァイを振り返るが、当人は肯定を返すのみ。
「そいつの言うとおりだ。民衆だろうが貴族だろうが、俺が誇示出来るのは『兵士』としての力のみ。
今回ヒストリアが開こうとしてる夜会で必要なのは、それじゃねえんだよ」
分からない、とエレンの顔に書いてあった。
未だ含み笑いの止まらないハンジが、リヴァイの横からさらに続ける。
「エレン。これはね、『ヒストリア女王が独りではないこと』を誇示するためのものなんだ」
「…どういうことですか?」
彼女はここで苦笑した。
「貴族を筆頭とした身分を気にする輩はね、繋がりの薄いところへ付け込むんだ」
私もリヴァイも調査兵団の人間として有名だ。
ナイル師団長やピクシス司令もそう。
「兵団も主な商会も、ヒストリア女王陛下の政権を支持している。でもそれは、ヒストリアの身近な力を示すとは限らない」
余計にこんがらがってきたエレンに、リヴァイは単刀直入に告げてやる。
「エレン。てめぇの役目はヒストリアを豚どもから守ることだ」
初めからそう言えという顔になったエレンに、ヒストリアは頷く。
「リヴァイ兵長の言うとおりよ。だから、兵長にはエレンの護衛をお願いしたいの」
「兵長が俺の護衛?!」
何が『だから』になるのか、エレンには理解不能だった。
それが必要なのはヒストリアでは、と彼女とザックレーを見返れば、ザックレーは無情にも賛同してしまう。
「エレン、君は自身を過小評価するきらいがある。だが我々兵団にとっての君の価値は、ヒストリア女王と同等なのだよ」
「はあ…」
まったく納得のいっていないエレンではあるが、この話が決定事項であることは理解してしまった、残念ながら。
「それじゃあ、エレンは私に付いてきて。明日着る服の採寸をするから」
「…まじかよ」
逃げられないことを悟り、エレンは仕方なくヒストリアに続いて立ち上がる。
「それじゃあ、俺は一旦失礼します」
ザックレーへの敬礼を忘れることなく、エレンは部屋を後にした。
扉が閉まるまで彼の姿を見送り、ハンジはほうと息をついてソファへ深く座りなおす。
「最近、エレンの表情がまったく読めなくてさ。歯痒かったんだよね」
ヒストリアと話してるの見て、ホッとしたよ。
彼女の意見に、リヴァイは心中で同意する。
「ヒストリア・レイス。エレン・イェーガー。両名に図らずも背負わせてしまったものは、あまりに大きいな」
その恩恵に預かれることを喜ばしいとは思うが、とザックレーもまた扉を見つめた。
* * *
ヒストリア女王主催の夜会は、王城のもっとも広いホールで開かれた。
元より華美なものを好まないヒストリアではあったが、質素でもいけないことは承知している。
あくまでもさり気なく、上品に、それでいて文句を言わせぬ格を。
ヒストリアの纏う白絹で織られたドレスには、随所に同じ白で美しい花の紋様とコサージュが。
本物の宝石で惜しまず飾られた王冠を被れば、自ら選び取った『女王』という役割を担うヒストリアの完成だ。
空っぽであった自らが選び、後にヒストリアが改めて自身で選んだものでもある。
(ユミルが言っていたように、過去の私はずっと誰かの役に立って死にたかった。死にたい気持ちはもうないけど、でも)
誰かの役に立ちたい想いは変わらない。
その『誰か』が身近であるなら尚のこと、自分に出来ることなら何でもしたかった。
着替え終わり侍女と共に部屋を出る。
彼女を出迎えたのはハンジと、憲兵団師団長のナイルだった。
ハンジはピュゥ、と口笛を吹く。
「うん。さすがは女神の美しさだ!」
104期生の間に広まっていたあだ名は、懐かしささえ覚える。
ヒストリアは小首を傾げてみせた。
「駄目ですよ、ハンジ団長。そこは『女王陛下の美しさ』って言ってもらわないと」
そりゃそーだ、とハンジは肩を震わせて笑う。
「女王の護衛はご連絡したとおり、私と副官が勤めます」
告げてきたナイルへお願いしますと返し、ヒストリアは彼らと共にもうひとつの着替え部屋へ向かう。
向かうと言っても、隣だ。
そちらの扉の向かいでは、リヴァイが壁に寄り掛かり立っている。
「エレンの方が早いと思ったんだけどな…」
呟いたヒストリアに、リヴァイはハッと呆れたような笑みで答えた。
「大方、自分の格好に葛藤してるんだろうよ」
カチャリ、と閉じていた扉が開き、執事が出て来る。
「お待たせいたしました、女王陛下」
彼は中が見えるよう、扉を大きく開けた。
「!」
そうして皆して部屋を覗き込み、ヒストリアもリヴァイもハンジもナイルも、目を見開いた。
「…何ですか。揃って変な顔して」
だから似合わねえって言ったのに、と溜め息を吐き出したのは、確かにエレンだ。
しかし今の彼の姿は今までに見慣れた彼ではなく、思わず言葉を失うのも無理はない。
「エレン、……凄く、格好良いね」
辛うじてヒストリアが絞り出した陳腐な褒め言葉は、彼ら全員の胸中を代弁したと言っても良いだろう。
「はあ?」
本人には通じていないようだが。
金の刺繍の施された、黒絹の上質なコート。
その下は同じく最高級であろうダークグレイのストライプスーツで、エレンの身体に誂えたようにぴったりだ。
髪は僅かに整えたのみで、いつものやや無造作な状態に近い。
それすらも違和感なく、ダークに纏められた礼服はエレンの容貌と金色の眼をこれでもかと引き立てた。
渋々と出てきたエレンの肩をハンジが掴む。
「ちょっ、凄い、凄いよエレン! 誰が見ても君は貴族の御曹司だよ!」
「それ、褒めてます?」
「褒めてるよ! めっちゃくちゃイイ男だよエレン!」
「はあ…それはどうも…?」
何を言っても無駄だろうな、とエレンの返答にはすでに諦めが入っていた。
「こいつは驚いたな…」
「…ナイル師団長まで」
彼はそれなりに常識ある人間のように思えていたのだが、違うのだろうか。
ふとエレンの視界に見慣れた指先が入り、視線を向けた。
「兵長?」
リヴァイはほんの少しだけ乱れていたエレンの後れ毛を、そっと流してやる。
「よく似合ってる」
端的に告げられた言葉が真実褒め言葉であると、エレンには分かってしまった。
彼の無表情に冗談とそれ以外を見分けられるくらいには、ずっと近くに居たのだから。
「…っ」
頬に熱が集まることを止められない。
リヴァイの率直な意見に照れたエレンを、ハンジは微笑ましく眺めていた。
が、ヒストリアはどうも面白くない。
なので遠慮なく邪魔をした。
「エレン」
「…っ、え、なに」
彼の片腕に己の腕を組む。
リヴァイが眉根を寄せたことに気づくが、無視だ。
「どう?」
彼女は自分の周りへ主語なく問い掛け、問いの内容を察した者たちは大きく頷いた。
「うん。これは良いね!」
ハンジが太鼓判を押す。
「ええ、良いかと。エレンのことを知っている者には、私から言っておきましょう」
ナイルもまた太鼓判を押した。
「いかがですか? リヴァイ兵士長」
態とらしく問い直したヒストリアに、リヴァイは小さく息を吐く。
「誤魔化すには十分だろう。だが、こいつにてめぇのエスコートは出来ねえぞ。ましてやダンスなんざ知識もねえ」
兵士としてしか生きていないのだから、当然だ。
リヴァイやハンジ、そして亡きエルヴィンやミケであれば、夜会への出席を求められることもままあったために知らないでもない。
ヒストリアは分かっているとばかりに頷き、隣のエレンを見上げた。
「マナーはともかく、ダンスは私も知らないので大丈夫です。それに…」
昔はアルミン曰くの『悪人面』を、彼の大きな目と素直な性格がカバーした。
ゆえに親しみやすさが先行し、周りには人が集まった。
今のエレンは物憂げに伏し目がちであり、表情があまり動かない。
危うい魅力を放ちながらも近づくことを拒絶する、そんな雰囲気に周りが気圧されていた。
加えてこの出で立ちであれば、堂々としているだけで大概の輩は抑え込めるだろう。
ほんとかよ…とぼやいているのは当人だけで、その点についてはリヴァイも文句はない。
ひたすら納得できていないエレンを正面から見据え、教え込むように繰り返してやる。
「エレンよ。これは任務だ。それは分かっているな?」
「…はい」
「任務の内容を言ってみろ」
エレンはちらりとヒストリアを見下ろした。
「ヒストリア女王に隙が無いことを、現政権上で力を持つ貴族たちへ誇示することです」
リヴァイが満足げに頷く。
「は、分かってんじゃねえか。なら、てめぇもそのための重要な役者だと割り切れ」
堂々としているだけで良い。
貴族共への受け答えも、最低限で良い。
「どうにも面倒そうな輩が張り付いてきたら、俺を使えば良い」
嫌そうな顔を隠さないエレンだが、口答えはしない。
兵長を使うってどうよ…という小さな呟きは、ヒストリアにだけ漏れ聞こえた。
「後は、ヒストリアが明確にした飲食物以外は口にするなってとこだな」
向けられた視線に、ヒストリアは答えた。
「初めに果実酒を持ってこさせます」
「俺たち酒飲めたっけ?」
「果実酒に見せかけたただのジュースよ」
「あ、そう」
投げやりではあるが、捨て鉢ではない。
「俺の役目は分かってます。ちゃんとやりますよ」
思い描いていた空想の、何十倍も残酷な真実を見つけた。
手にした真実をどう扱えば良いのか、当事者のエレンとて模索のまっ最中だ。
「…それを、壁内の外野に掻き回されるのは御免ですから」
ギラリと光った金色の眼には、エレンが理性の檻に繋いだ獣の性が息づいている。
それが、リヴァイのお気に入りだった。
「ああ。それで良い」
大人しく彼らの会話が終わるのを待っていたハンジが、エレンの組まれていない手を取った。
「じゃあ、エレン。私とエレンの関係性は、調査兵団とその出資者って感じでよろしくね!」
「俺の頭をパンクさせる気ですか…」
それじゃあね! と去っていったハンジと執事を見送れば、場に残るのはエレンとヒストリア、それにリヴァイとナイルだけだ。
リヴァイはエレンの護衛だと言っていた。
ということは。
「ナイル師団長はヒストリアの護衛ですか?」
「ああ。私は一旦失礼する。警備状況の確認の後、時間までには参上します」
ヒストリアが頷いたことを確認し、ナイルもハンジと同じ方向へ去っていった。
「私たちも行きましょう、エレン」
「分かったよ…」
ヒストリアに先導されるような形で、エレンとリヴァイは夜会の会場へと向かった。
*
ヒストリア女王統治下において、初めて女王自らが開いた夜会。
貴族たちにとって大きな意味を持つそれは、若く美しい女王にお近づきとなるまたとないチャンスでもあった。
前政権や憲兵団を筆頭に、それらと癒着関係にあった貴族たちをも容赦なく断罪したヒストリアは、民衆からの指示が圧倒的である。
おまけに王家私有地で発見された光る鉱石を分け隔てなく民衆へ与え、地下街の環境を改善しようと孤児院まで開設した徹底ぶり。
何とか首を繋げた貴族たちは、今までと同じでは生き残れないと隣人の火事を間近にして知ってしまった。
同じ身分の人間を敵として伸し上がるという意味で、貴族というものは兵士や商人、民衆とも違うイキモノだ。
真っ当な人間性を持っている者は多いが、そうでない者も多い。
繰り返しになるが、女王とお近づきになれば自身の首は安全だし、地位を上げ財産を増やす切っ掛けとなる。
今代は『女王』、己が若いならば己が、息子がいるならば息子を使って近づくのが手っ取り早いだろう。
…常、ならば。
階上より現れた女王を見上げた者たちは、ギョッと目を剥いた。
無論、賢明な者たちは表情に出しはしないが。
女王は1人の少年…青年にも見える…に伴われ、姿を見せた。
彼女の右手を自らの左手にエスコートする少年は、金糸の縫い込まれた重厚なコートを靡かせながら隙の無い身のこなしで共に降りてきた。
やや伸び気味の前髪から見え隠れする、美しい眼に惹きつけられる。
「(おい、あれは誰だ…?)」
「(何処の家の方でしょう? 初めてお見受けしましたわ)」
ヒストリアの左後ろに憲兵団師団長のナイルが控えていることは、何ら不思議ではない。
「(女王陛下に劣らず、美しい殿方ですこと)」
「(くそっ、何処の子息だ?!)」
驚愕は、少年の右後ろに人類最強と名高い調査兵団兵士長が控えていたことにより加速する。
「(調査兵団のリヴァイ兵士長じゃないか! 彼が護衛だって?!)」
「(ただの馬の骨ではないということか…?)」
クスクス、とヒストリアは笑みを隠さずエレンへ耳打ちする。
「見てよエレン。貴族たちの動揺っぷり」
エレンの目から見ても、動揺していることは明白だ。
「調子に乗って厄介持ってくんなよ。俺じゃ何も出来ねえからな」
横目にヒストリアを見て返してやれば、彼女は女王の笑みへと変わった。
「私は女王よ。誰も私に逆らうことなんて出来ないわ」
階段を降り切ったヒストリアは、見てなさいとばかりにエレンの前へ出る。
「皆様、本日はようこそおいでくださいました」
ヒストリアの姿を斜め前に、エレンは手持ち無沙汰に腕を組んだ。
(堂々としてろって言われてもなあ…)
エレンの知る中で、参考になりそうな人物はほとんど居ない。
一番身近で堂々として見えるのはリヴァイくらいだ。
(ハンジさんも堂々としてるけど、ここは何か違う気がする…)
なので、安易に動作をリヴァイっぽくすれば良いのだろうかと考えていた。
結論から言えばそれは正解で、リヴァイとハンジはエレンの佇まいに感心している最中だ。
(ほう…悪くない)
(わお、中々様になってる)
しかも態とだろう、つい先程はヒストリアと密やかに会話を成していた。
誰もが有難く女王のお言葉を拝する中で、まったく興味の無さそうな態度も功を奏している。
実際興味がないのだが、貴族たちは勝手に邪推するはずだ。
女王への不敬が許されるとは即ち、余程の地位か力…財産があるのではないかと。
ヒストリアの言ったとおりに、エレンの着替えを手伝った執事が果実酒…実際はジュース…を運んできた。
彼女の取らなかった方のグラスを手にして、乾杯は合わせるべきかとエレンは周囲の動作だけをなぞる。
「乾杯!」
女王の音頭で乾杯が成された。
ハンジは早速話し掛けてきた貴族の相手をし終えると、次の相手をやんわりと断り誰もが近付きあぐねているエレンの前へ立つ。
「お久しぶりです。ようやく見(まみ)えることが出来て、光栄ですよ」
エレンは口許が歪まないように神経を張る必要に迫られた。
(何で俺、ハンジさんに敬語使われてんだ…)
ひとまず一呼吸置く。
「…いいえ、こちらこそ。見知った方に1人でも多く生き残ってもらえていたなら、それ以上のことはありません」
ヒストリアに注意を向けていたナイルは、エレンの言葉の選び方に脱帽した。
(巧いな…。これで、さらに邪推は進むだろう)
過去から調査兵団へ出資していた者であると。
言われたハンジも、つい本心を返した。
「…我々調査兵団は、そうしてここまで進み続けてきました。
これからもあなたにお力添えいただければ、この上なく心強いことはありません」
すべてが、エレン無くしては成し得なかったこと。
例え当人の意思でなくても、当人が葛藤していたとしても、それが事実だ。
エレンもまた、握手のために交わした手を強く握り返した。
「…もちろんです」
そのたった一言が、エレン自身の決意を示す。
独り抱えるには重過ぎる多くを抱えて、それでも進むことを。
「女王陛下。僭越ながら、彼はどちらの…?」
調査兵団団長と言葉を交わす少年について、1人の貴族が意を決してヒストリアへ尋ねた。
ヒストリアは微笑む。
「彼は、私の大切な人です」
嘘ではない。
解釈は受け取った人間により様々だが。
「今回は、無理を言って出席してもらいました」
これも嘘ではない。
解釈は以下略。
貴族たちがなおも色めき立つのに、内心で溜め息をつく。
(明日にはどんな噂に変わるのかな…)
挨拶に並ぶ貴族たちが多く、ヒストリアはしばらくこの場を動けそうにない。
ハンジに影響されたか、エレンに近づこうとする者が視界の端に映る。
「若き御当主とお見受けしますが、お名前を伺っても?」
人の良さそうな老夫妻がエレンへ問うのに、リヴァイは舌打ちするところだった。
(本名は名乗るなと言っちゃいるが…)
偽名の1つでも考えてやれば良かったか。
リヴァイの内心を他所に、名字を名乗らないのは不自然だろうな、とエレンは老夫妻を見返した。
彼の唇から紡がれた名前は。
「…エレン・クルーガーです」
あまりにも自然に出た名前だった。
父の記憶の中で、父に良くも悪くも多くの情報を齎し、そしてエレンが持つに至った巨人の力の先々代宿主。
(ここで偽名名乗っておいて、俺が忘れるのも不味そうだし)
老夫婦は本当に挨拶だけであったようで、女王をよろしくというようなことをエレンへ伝えると場を後にした。
これだけであれば、エレンも気が楽だ。
(『フクロウ』は、いつもどんな気分だったんだろうな)
エレンと違って、味方なんてほとんど居なかったろうに。
じっとしていることも飽き、エレンはオーケストラの演奏が始まったタイミングで階上へ上がった。
無論、ヒストリアには再度飲み物を持ってきた執事経由で伝えてある。
階上は休憩用にテーブルと椅子のセットが並んでいるだけ、食事も飲み物もダンスも階下だ。
それでもエレンの存在は目立つようで、ちらほらと人が寄って来る。
大抵の輩はエレンがあまり喋りたがらないことを雰囲気から感じ取って、あっさりと引き下がってくれた。
が、そうでない輩も居る。
「クルーガー卿は、どのような経緯で女王と懇意に?」
エルヴィンと近い世代に思える男が話し掛けてきた。
その目の奥にある打算と媚は、エレンでも見抜ける。
「先程のハンジ団長のお話では、以前から調査兵団へ資金を提供しておられたようで」
(資金じゃないものなら提供してるか…)
硬質化の力で造った対巨人用武器とか。
「素晴らしい慧眼をお持ちだ。税金を喰うだけであった調査兵団がまさか憲兵団を凌ぐような影響力を持つなど、誰も思っちゃいなかったでしょう!」
何かを答えてやる気すら失せた。
「瓦解寸前までいった調査兵団の復活! 新聞も記事にしやすかったでしょうねえ。
ここまでに死んでいった数え切れない調査兵たちも、ようやく浮かばれたってわけだ!」
カッ、と頭に血が昇る。
しかしエレンが男を振り返ったときには、リヴァイの手が先に男の襟を捻り上げていた。
「どこの貴族か知らねえが、俺が居ることを分かっていて言うとは良い度胸だ」
「ヒッ?! リ、リヴァ…ッ?!」
「数でしか死んだヤツらを知らねえ赤の他人が、死んでいったヤツらを語るんじゃねえ」
襟首がギリギリと締め上がり、男は顔を真っ赤にして喘いでいる。
唐突に手を離されどさりと落ちた身体は、しばらくの間酸素を求めて使い物にならなかった。
その間にリヴァイは男が襟に留めていた家紋のピンバッジを奪い取り、自身の胸ポケットに入れてしまう。
「チッ、胸糞ワリィ」
目線で場所を変えることを示され、これ幸いとエレンもその場を離れる。
「俺を使えと言ったろうが」
舌打ちされたことに、異議は唱えなかった。
先の小さな諍いは誰が認めることなく済んだようだ。
階段の踊り場へ辿り着くと、ようやく挨拶列から抜け出したらしいヒストリアが上って来た。
「エレン、大丈夫?」
慣れない服装に慣れない場所、慣れない人種の相手。
すべてを含めた諸々に対する問いだったのだろう。
エレンは半分程度しか減っていないグラスを彼女へ手渡す。
「帰れるなら帰りてえけど」
ヒストリアは踊り場から階下を見渡した。
ワルツの音楽が流れ、人々は各々で楽しんでいる。
ヒストリア自身も大体の貴族と挨拶を交わしたし、貴族以外の主要な商家の人間とも必要な言葉は交わし終えた。
何かあるかと言われれば、少し小腹が空いた程度か。
「エレンはお腹空いた?」
「ん? …いや、そういう感覚はねえな」
「ダンスに誘われても私たちは断るしかないから、エレンはもう引っ込んじゃっても良いよ」
本来、これはヒストリアが熟(こな)すべき仕事だ。
『女王が盤石であること』を示すという役割は、すでに果たされている。
「来た道戻れば良いのか?」
「うん。ご飯と部屋は準備させているから、今日は泊まっていって」
そんなこと、昼間には一言も言っていなかったくせに決定事項か。
(『クリスタ』のときとは大違いだな)
きっと、良いことなんだろう。
彼女にとっては。
ヒストリアはエレンの後ろに控えるリヴァイにも声を掛ける。
「兵長も、エレンと一緒に退室してくれて大丈夫です」
「分かった」
エレンは階下を見下ろす。
華やかな世界。
自分とは無縁だと思っていた、豊かで、平和で、贅沢な処。
(これも、無縁じゃなくなった)
エレンの意思とは無関係に、強制的に広げられていく多くの関係性。
それは不愉快な心地と、自由への一歩としての確かな手応えを与える。
(……疲れた)
未練なくきらびやかな"世界"から視線を外た。
礼服が少し肩に重い。
ヒストリアと共に階下へ降り彼女へ軽く手を振ると、エレンは二度振り返ることなく夜会の場を後にした。
*
ヒストリアが手配した部屋は客間の一角で、なぜかツインの部屋だった。
「…兵長と同室ってことですよね」
「そのようだな」
ロングコートを脱ぎハンガーを探すと、目当ての前にテーブルの上の料理を見つけた。
料理の皿の間にあるものは。
「…手紙?」
エレンが手を伸ばす前に、真っ白な封筒はリヴァイの指先に取り上げられた。
「ヒストリアの字だな」
女王の直筆署名が封筒の裏に、簡単な糊付けの封筒は呆気なく開く。
「……」
中身の便箋を開いたリヴァイは、分かり易く眉を顰めた。
次いで、溜め息。
「兵長?」
訝しく思ったエレンの眼前に、ひらりと翳される1枚の便箋。
読めということかと受け取って、中身を読んでみる。
「…………はあ?」
認められていたのは、女王様の命令が1つ。
ーーー明日、朝の支度が済んだら今日の夜会服を着て、隣の客間に集合してね。
「集合ってことは、これ兵長もですね…?」
「あいつ…ここぞとばかりに女王の権限を使ってきやがるな…」
呆れ混じりにリヴァイはジャケットを脱ぎ、エレンのコートを奪うと見つけたハンガーに掛けた。
テーブルの料理はまだ温かい。
「おい、エレン。さっさと着替えてさっさと食うぞ」
「あ、はい」
翌朝になれば分かることを、今考えても仕方がない。
それこそ、早くに開放してくれた女王様の好意を有難く受けるべきだ。
「あっ、兵長! 料理に肉ですよ。肉がこんなに入ってる…!」
料理を見遣って歓声を上げたエレンに、胸を撫で下ろした事実は心の奥底に沈めた。
* * *
ここには1枚の絵がある。
ヒストリア女王、ハンジ調査兵団団長、リヴァイ調査兵団兵士長、ナイル憲兵団師団長、そしてもう1人、名をクルーガー卿と名乗った貴族の青年の描かれた1枚の絵だ。
その絵を見上げて、今日もヒストリアは女王の顔を作る。
「私は、エレンの味方。あなたの背は、帰ることの出来る場所は、私が守るから」
兵士ではなくなった彼女は、彼らと共に立つことは出来ない。
けれどこれが己の選んだ道であり力であると、彼女はもう胸を張れる。
--- 天秤 end.
2017.5.21
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