「雨はお嫌いですか?」

不意の声に、顔を上げた。
振り向いた先には、困ったように微笑むジャーファルの姿。
自らの背後では、サアサアと降り続ける雨の音。
「ノックしたんですが、気づきませんでしたか」
驚かせてしまいましたね、と謝る彼に、アリババは首を横に振った。
「…いえ、気付かなくてすみません」
元より、そのような気遣いなど不要なのだ。
ここは彼と彼の王の城であり、自分は厄介者に等しいのだから。

微かに笑みを浮かべたアリババは、また視線を窓の向こうへ戻した。
ジャーファルは音を立てずに扉を閉め、扉の脇へ視線を移す。
案の定、女官に運ばせた朝食はどう見ても置かれたそのままの状態で、洩れそうな溜め息を噛み殺す。
(アラジンは、ほんの少しですが食べてくれるようになったんですが…)
激動と言っても良い、あのバルバッドでの出来事。
煌帝国の手が伸びる前にと、強引に彼をシンドリアへ連れてきた。
ゆえにアリババは友を、多くを失った事実を他で誤魔化せず、荒れていった。
始めは火のように、今は底なしの沼のように。
(似合わないなあ…)
シンドバッドから聞いただけではあるが。
きっと、無血革命成就の瞬間が。
砂漠地方の乾いた青空と、強い太陽の輝きと、その下(もと)で人々を勇気づけ立ち上がらせた、それこそが。
アリババが、彼だけが持つ『王』としての輝きなのだろう。
しばらくアリババの後ろ姿を眺めて、ジャーファルはもう一度思う。
(…似合わないなあ)
王でなくとも、絶望から人を救い上げる光。
それがこんなにも憂い、翳り、弱っていく様は、見ていられない。

「雨が珍しいですか? バルバッドは、海風のおかげで水には困らないと聞いていましたが…」
ジャーファルが部屋に留まっていることも、ちゃんと気づいている。
アリババは空を見上げ、ゆるりと首を振る。
「いえ、珍しくはないんですけど…」
思い出してしまう。
バルバッドで起きてしまった様々なことを、掬い上げられなかった多くを。
ここは、忙しさを言い訳に自らから顔を背けていられたバルバッドではない。
シンドリアという他国に居ては、自らに目を向けることしか出来ない。
ジャーファルはそっとアリババへ歩み寄った。
「君に、聞いてみたいことがあったんです」
存外近い位置から声がして、アリババは目を瞬く。
(そっか。この人、暗殺者だったんだっけ)
足音を忍ばせることなど、造作も無いのだろう。
ちゃんと身体ごと振り返れば、数歩先でジャーファルがいつもの穏やかな笑みで立っていた。
「隣、良いですか?」
同じく穏やかに問われ、アリババは僅かに迷ってから頷く。
大きな窓から、2人して雨空を見上げた。

君には良い気分の話ではないですが、とジャーファルは前置く。
「君はバルバッド王家の人間で、バルバッド国において王家は憎悪の対象になっていた。
けれど君は僅かな期間で"霧の団"の頭として、"怪傑アリババ"として認められていた」
その事実が少し不思議だったんです。
ジャーファルの横顔を盗み見、確かに気分の良い話ではないなとアリババは思考の隅で思う。
(…けど、確かに)
外部の人間からすれば、その通りだ。
「オレがスラムの人間だったことは知ってますよね?」
「ええ」
「"霧の団"のメインメンバーは、みんなガキの頃のオレを知ってます。
だからあの頃スラムに住んでた子どもなら、みんな知り合いです」
ザイナブとかハッサンはちょっと歳が離れてたけど。
ほんの少し苦笑したアリババの表情は、ジャーファルが初めて目にした凪だった。
けれど凪は、一瞬の後に掻き消える。
「"霧の団"はカシムが作った盗賊団だ。そのカシムが、オレに"頭"の役目を頼んだ。
だから揉め事はほとんど無かったんです」
腕を訝しむ者には、王宮で培った剣術と体捌きを。
能力を訝しむ者には、食料や武器を主とした商人との交渉術を。
頂点にある者としての『特別』を求める者には、…アモンの炎を。
それに、と苦笑が自嘲に歪む。
「旗印として、サルージャの名前が必要なだけだったし」
アリババは容姿も含めて、目立ち、名を挙げるにはうってつけだった。
実際に盗賊仕事の段取りを組んだことはない。
「まあ、『義賊にする』って言ったときは大騒ぎでしたけど」
おや、とジャーファルはアリババを見た。
「君の発案だったんですね」
「そうです。オレが"霧の団"でやったことは、それくらいです」
カシムの中に構想はあったようだが、形にしたのはアリババだった。

「……」
アリババ・サルージャという人間は、己を卑下することが得意らしい。
シンドバッドのようにとはさすがに無理だろうが、彼は周囲の評価を見返っていない。
(勿体ないというか、何というか…)
それこそ、アラジンの言葉は的を射ているだろうに。
口を開こうとしたジャーファルを、アリババの思い出したような呟きが止めた。
「…でもメインメンバーって言っても、アイツは違ったか」
唐突な三人称に内心で首を傾げたジャーファルへ、アリババは初めてしっかりと視線を合わせた。
「ジャーファルさんはアイツに会いませんでした? アジトで」
左眼に眼帯をしていて、顔も髪もほとんど隠してるんですけど。
貧しい国には珍しくもない出で立ちだが、ジャーファルには思い当たる人物が居る。
「レイン君ですか?」
その返しに、アリババが目を見張った。
「アイツ、名乗ったんですか?」
余所者の前に出ることも、ましてや名乗るなど。
(おやおや…)
ジャーファルは緩みそうになる口元を、服の袖口で隠す。
この部屋に閉じ籠るようになってから初めて見た、負でない感情を表に出すアリババだ。
(これは、早々にシンドリアへ来て頂きたいですねえ…)
あの異色の眼をした少年がここに居たら。
遠慮も何もなく話すアリババが、見られるかもしれない。
負の出来事以外で考え込むアリババに、ジャーファルはふと思い出し服の袂を探った。
「アリババ君」
呼び、彼の手に小ぶりの包み紙をひとつ。
「何ですか? これ」
「さあ、何でしょう?」
中身は貝の形に焼き上げられた菓子なのだが、バルバッドには無い品だ。
食べ物だと言えばいつもの堂々巡りになってしまうので、それは明かさない。
悪戯っぽく笑って、ジャーファルは身を引く。
「では、私はそろそろ失礼しますね」
こんなにもアリババと会話が続いた覚えは、今までに無かった。
違いは対するアリババ本人にも有ったようで。
「…ジャーファルさん」
「はい?」
扉に手を掛けたところで声を掛けられ、振り向く。
何かを口篭る彼を辛抱強く待ち、続いた言葉は。

「……いつもありがとうございます」

泣きそうな笑みを共にした、礼心。
『想』の在り処 ---end.


2013.3.3

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