あなたのためにととのえた、
(4.わたしのためにととのえられた、)
ガラリ、と扉を開ける音に顔を上げれば、同室者が遠征から帰ってきたようだった。
長義は読みかけの本を閉じ、にこりと笑いかける。
「おかえり、猫殺しくん」
南泉一文字はああ、と疲れの滲む声を返した。
「ただいま。……にゃあ」
とにかく疲れた。
呪いを取り繕うのも、それを揶揄されるのを警戒するのも無理だ。
刀を刀掛け台に戻してしまえば、もう意識を張る理由はない。
「……随分とお疲れのようだね?」
「24時間遠征は嫌いだにゃー…」
ソファークッションに背を預ける長義へ覆い被さるように倒れ込み、南泉は疲労の色濃いため息を吐いた。
疲れた声に揶揄うことを止めたらしい長義は、重いだろうにクスクスと笑いながら南泉の頭を撫でる。
「まあほぼ2日、本丸から離れることになるからね」
南泉がちらり、と視線をテーブルへ向けると、見覚えのない箱。
「…あの箱、」
「ああ、偽物くんからだよ」
「アイツも飽きねえなぁ」
いや、よくやっていると褒めるべきか。
「包丁くんが『甘さ控えめ』と言っていたそうだから、君も食べられると思うよ」
この本丸の甘味マスターが言うなら、そうなのだろう。
しかし。
「…先にこっち喰わせろ」
言うが早いか、南泉は噛み付くように長義へ口づけた。
「っ! んん…ぅ」
こういうことは初めてではない。
それに長義は、南泉と触れ合うことに何の異議もない。
ないけれど。
(まだ、昼間…!)
熱い舌が口の中をぬるりと這って、何とも言えない心地に身体の力が抜けていく。
「ふ…ぁ、んん…」
口内を荒らされながら耳や首元を気まぐれに熱い指先が掠め、ますます感覚が鋭敏になっていく。
(気持ちいい……)
けれど、まだ日は高いのだ。
(これ以上、されたら…)
口づけの合間に漏れる、自身の息に熱が籠っているのが判る。
長義は南泉を抱えるようにしていた手を持ち上げ、薄金色の頭を軽く叩いた。
「ん…、なんだぁ?」
南泉は渋々、というより、なぜ頭を叩かれたのかさっぱり思い当たらない顔をしている。
それに何となく腹が立って、長義は彼の髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「なんだ、じゃないよ! まだ昼間だよ!」
「んなの見りゃ分かるだろ」
やはり首を捻った南泉は、再び唇を寄せてくる。
ぺち、と間抜けな音で犬歯の覗く口を塞いでやって、長義は南泉を睨みつけた。
「まだ昼間だって言ってるだろ!」
「別に、減るもんじゃねぇだろ。…にゃ」
長義はグッと喉を詰まらせる。
南泉の『減るものじゃない』という言葉は、本当だ。
本当だけれど。
ふい、と視線が南泉から外される。
「……これ以上、されたら。最後までしたくなるだろ」
最後の方はもごもごと小さくなり、頬は赤みを増した。
ニィ、と口角を上げた南泉は、長義の朱い頬へ唇を落とす。
(かーわいい、にゃあ)
口に出すと今度は機嫌を損ねるので、違う言葉に替える。
「じゃあ、1回だけシようぜ。ゴム付けっから。…にゃ」
瑠璃色がちらりと南泉を伺った。
「終わったら、そこの前庭で水浴びだな。お前、今日扇風機しか付けてねぇだろ」
この山姥切長義は暑さを感じ難い性質らしく、折を見て涼ませないと熱中症になりかねない。
今は冷房が効いているが、どうせ南泉が遠征から戻ってくるからという理由だろう。
「……痕」
「分かった。付けねぇ」
「…なら、良いよ」
お許しが出たので、南泉は遠慮なく唇を合わせた。
*
南泉が顕現した本丸には、まだ山姥切長義は居なかった。
居なかったけれど、来るだろうという確信を持ったのは顕現したそのとき。
『山姥切の写し』を名乗る、山姥切国広という刀が居たからだ。
そして南泉の国広への印象は、とんでもなく悪かった。
『俺が写しだからか』
『俺なんかが相手で悪かったな』
事あるごとにそんなことを言う相手に、良い印象を持つなんて無理だ。
山姥切国広が南泉の知る刀の写しであるかどうか、真偽は南泉の口に出すところではない。
だが。
「尾張徳川家の重宝を貶める発言とは、良い度胸だなぁ?」
徳川家康の刀剣のひと振りであった南泉一文字は、尾張徳川家へ遺産分けで移った後、当主の差料となった。
尾張徳川家の遺産が美術館へ納められるまで、代々の差料であり無代の評価まで戴いた。
その南泉一文字を差し置いて、たった1代だけとはいえ、それも己を脇差に本差となったのが本作長義以下五十八字略。
当時の当主が惚れ込み、購入した刀だった。
その刀は、購入された刀がその家に在り続けることが稀な時代に、尾張徳川家所有であり続けた。
近い子孫の代であれば『父の/祖父の差料』という遠慮だろうと思えたが、何代も過ぎれば十分に『家の宝』だ。
そもそも長義の刀が文句なしの名刀であることは、購入されたそのときに知っていたので。
南泉の発言に顔を青くしたのは、国広よりも加州だったように思う。
当人が発言の意味に気づかないとは、とんだ茶番だった。
ゆえに南泉は遠慮などせず、国広を常に「山姥切の写し」と呼んだ。
顕現してからしばらくは、中々に愉快だったと思う。
南泉と国広を中心とした微妙な軋轢に、腰を上げた小烏丸から正面切って問われたのはいつだったか。
「『山姥切国広』と呼ぶのと、『山姥切の写し』と呼ぶのと、そなたにはどれだけの違いがあるのか。この父に訊かせてはくれぬか?」
簡単な話だ。
「俺と同じ尾張徳川家の重宝を、貶めるような言い方をされてんだ。それを赦せとアンタは言うのか?」
写しの刀は珍しいものではない。
重要なのは、『山姥切の写し』と告げながら『写しなんか』と卑下していることだ。
『俺が写しだからか』
『俺なんかが相手で悪かったな』
これはすべて、本歌・山姥切に掛かる言葉だ。
『俺が山姥切の写しだからか』
『山姥切の写しの俺なんかが相手で悪かったな』
今度こそ国広が青褪めたが、南泉に言わせれば遅きに失する。
「刀工堀川国広の傑作? 刀身見れば、お前も名刀だってことくらいオレにも判るぜ。
けどよぉ、それが刀工長義の傑作を貶して良い理由だとでも思ってんのか?」
「そっ…んな、俺は、そんなつもりは」
「アイツはなぁ、このオレを差し置いて差料にされるくらいに評価された刀だ。
それを貶すってことは、アイツやオレを評価したオレたちの主への侮辱ってことだよなぁ?」
血の気が引くとはこのことだったと、後に和泉守兼定と堀川は語った。
*
詳細は省くが、あのときの南泉の言葉選びは、例えようもなく的確だったと言えよう。
今腕に抱える、南泉の昔馴染みでかつて本差でもあった長義の刀には、何の憂いもない。
もう南泉が『山姥切の写し』と呼ぶ必要もないし、余計な口を出す者も居なかった。
まあ、少々過保護だったかもしれない、とは、偶に思う。
(…オレが留守だと、揃ってコイツに構いまくるんだよなぁ)
他者が関わることで嫉妬するような、短い付き合いではない。
それを知っている物吉など、懇意にしている太鼓鐘貞宗が驚くくらいに長義へ構いに来ているのだが。
もぞり、と身じろぐ音がして、長義が目を覚ます。
「ん…。ねこごろしくん、いまなんじ」
「18時10分だ、にゃ。まだ寝れるぞ」
むずがりながらも、長義は否を返した。
「おきる…。きょう、こべつの飲み会だろう? お酒のアテを確保しないと」
「あー、そうだったな。今日のメンツ、は……げっ」
言いかけて思い出し、南泉は唸る。
「化け物斬り集会じゃねぇか…。にゃー…」
「ふふっ、可愛い語尾。今回は髭切くんと膝丸くん、にっかりくんだね。楽しみだなあ」
怖いなら君は留守番にする? なんて言うので、可愛くない口を塞いで瑠璃色を覗き込む。
「お前、オレに黙って他所の本丸に化け物斬りに行ったろーが。あれも確か、源氏のヤツらと一緒のときだったよにゃあ?」
「別に、危険はほぼないし、楽しいんだから良いじゃないか」
南泉の眉根が寄る。
長義は身を起こしながら、くすりと笑った。
「判ってるよ。猫殺しくんが、俺の身を案じてくれていることくらい」
この本丸で顕現して2週間ほどは、大いに戸惑ったものだ。
あんまりにも、長義に都合よく周囲が整えられていたので。
それが目の前の刀の仕業であることも、他の長義の馴染みたちが黙認しつつ手を貸していたことも。
その環境にもっとも合致する刀は長義の他に居ないのだから、察するのは容易い。
ーーもう少し違う要因があれば、長義は『俺はそこまで弱くない』と猛抗議しただろう。
しかし悲しいかな、抗議するに相応しい材料は用意されていなかった。
(当然だ。解っているから、それを排除したに決まってる)
かくして、長義のための箱庭は完成した。
完成してしまった後に顕現すれば、もう長義に出来ることなど何もない。
今日も明日も、健やかに過ごすのみだ。
「ほら起きて、猫殺しくん。早くしないと、常連の酒豪たちに取られてしまうよ」
「分かった。分かったから髪ぐしゃぐしゃにすんじゃねえ! にゃあ!」
「あははっ! 可愛い語尾が隠れてないよ」
そうしていれば、南泉が満足げに笑うと知っているので。
End?
>>
(はこにわはここちがよすぎてこまる)
2019.8.18
ー 閉じる ー