王(ファラオ)は復活した。
"千年アイテム"と"神の石版"の加護と呪いをその身に宿す彼は、冥界の扉を開き現世の地へと。
ーーさせてはならなかった。
大人ですらないその身に余りある多くを背負わされた彼を、穏やかたれと冥界へ還したのなら。
これ以上、彼の手を煩わせてはいけなかった。
あの碑文はその為のものであったと、今なら解る。
(ようやく在るべき地へ戻り安らぎを得た彼を、呼び戻してしまうなど)
碑文を護るべき我々(プラナ)が、碑文を破った。
彼が、現世へ戻って来ざるを得ない状況に…してしまった。
「あゝ…」
冷えた夜の砂漠。
静寂だけが横たわる砂の上で、セラは天へ…あるいは地へ祈る。
ここからは見えない場所で同じく祈っているであろう、兄の気配を感じながら。
ーそれは祈りや希望に似てー
故郷へ帰り皆と別れ、藍神…ディーヴァとセラは、小さなバラックへ身を寄せている。
これからどのように生きるとしても己を省みることが必要だと、藍神は誰よりも痛感していた。
「兄さん、水は足りる?」
朝の祈りを終えたセラが聞いてきたので、ちらりと水袋を見遣る。
「大丈夫だ。4日は保つ」
生と死を司る太陽がすべてを決めるこの地で生きるのに、もっとも必要なのは水だ。
逆に言えば、水さえ手に入れば後は何とかなる場合が多い。
バラックの薄い敷布を避け、藍神は外へ出る。
低い太陽でも、ここでは目を灼く。
(日本とは大違いだな)
あそこは中々に過ごしやすい国だった。
童実野町はあの海馬瀬人の王国のようなものであったが、デュエルさえ強ければ制度が整っていたのは良い。
「セラ?」
同じく外へ出てきたセラが、藍神の袖を引いた。
「兄さん、誰か来る」
彼女が指差した方向を見て、ギョッとした。
ドドドド、と劈く排気音はこの辺りで聞くことはないし、周囲を巻き込む砂煙も同様だ。
2人が驚いている間に騒音の元は目の前に止まり、それがサイドカー付きのオフロードバイクであるとの認識が最初だった。
ライダースーツに身を包んだ運転者が黒のヘルメットを取れば、見覚えのある顔。
面識はないが、誰であるかは知っている。
「きみがディーヴァ君、だね。そしてそっちがセラさん」
合ってるかい? と首を傾げてきた男の名は。
「マリク・イシュタール…」
藍神が名を言い当てたことに驚くことなく、彼は目を細めただけであった。
「やっぱり知ってたか。話が早くて結構だ」
サイドカーに乗っていた2つのヘルメットを手渡され、セラと顔を見合わせる。
マリクは人好きのする笑みで、自分の後ろとサイドカーを示した。
「君たちに伝えたいことがあるんだ。イシュタールの民から、この地に根差すプラナの子どもたちへ」
この辺りで一番大きな街までバイクで連れて行かれ、次はその街の端に据えられた小さな空港へ。
「リシド、準備は?」
「は。万事恙無く」
これまた誰であるかはとうに知っているリシド…マリクの部下だか家族だか…が合流し、スタンバイされていた小型ジェット機へ乗る。
「はい、これ。お腹空いてたら遠慮なく食べて」
何の変哲もない白いビニール袋をそれぞれに渡され、中を覗けば紙の容器に入れられたコシャリ。
見た途端に空腹を覚えるのだから、人の身体は面倒だ。
藍神は正面に座るマリクを見、苦笑交じりに礼を言った。
「有り難くいただくよ」
「頂きます」
セラと共に、少し遅めの朝食を摂る。
久々に満足の行くまで食べて、途中で渡されたシャーイ・ミーザも有り難く飲んで。
ジェット機はエジプトの首都カイロへ。
明らかに送迎車と分かる車に乗せられ着いた先は、予想通り。
(エジプト考古局…)
「お待ちしていました。ディーヴァさん、セラさん」
2人を出迎えた人物のことも、当然知っている。
「イシズ・イシュタール…」
不躾に名を呼んだことを、彼女が咎めることはなかった。
「どうぞこちらへ。マリク、少しの間だけ頼みます」
「判ったよ。姉さん」
次はイシズに連れられ、どう見ても使える者が限られているエレベーターへ。
鉄の箱はゆっくりと下へ降りていく。
「ここは、海馬コーポレーションが警備しているのですか?」
エレベーターのパネルに見つけたロゴに、セラが我慢出来ず尋ねた。
イシズはクスリと笑う。
「警備…そうですね。ある特定の史跡、遺物の保管とセキュリティに関して、海馬瀬人自らが出資と技術提供を申し出ましたから」
「…特定の」
「そう。言わずともお判りかと思いますが」
最先端技術を使用されていることが分かる重厚な扉、廊下、そしてまた扉。
最後の鍵が外れ、目の前に広がった展示ケースと保管品の数々は。
「あの方の……『名も無き王(ファラオ)』の、遺物」
「ええ」
セラの呟きを拾い足を止めたイシズの背へ、藍神は問い掛けた。
「僕たちをここへ連れて来て、何を?」
イシズは優しく微笑むのみ。
「あなた方に、見せたいものがあります」
再び厳重なロックの扉を抜けたその部屋で、藍神とセラは息を呑んだ。
名を削られたカルトゥーシュ、彫られた姿は王の器…武藤遊戯…によく似た人物。
周りに彫られたヒエログリフは、おそらくかの人物についての説明で。
(ファラオの石版…!)
さらにその石版を護るように三方を囲って立つ、『魔物』の描かれた石版。
「三幻神…。神の、石版」
広い部屋だというのに、置いてあるのは4枚の大きな石版のみだった。
それ以外には最低限の照明と、警備に必要な機器しか見当たらない。
何を思ったか、イシズは『王の石版』の保護ケースを操作して解除してしまう。
「えっ?!」
「何を…?!」
これはエジプト国家として、そして世界的にも重要な考古学資料のはず。
それを、なぜ。
イシズの微笑みは絶やされない。
「声を、聴きました。求める者に、救いの手を差し伸べる声が」
藍神の目が、大きく見張られた。
「削られた偉大なる王の御名を、あなた方は知っているはず」
そうだ、全部知っている。
人々の意識を、記憶を繋いで、すべて見た。
まるで吸い寄せられるように、藍神は石版へ歩み寄る。
セラもまた兄と同じく石版の目の前に立ち、操られるように腕を伸ばした。
神聖なる石版。
ーーそれに触れてはならない、触れたら…。
藍神は反発した磁石のように、石版へ触れようとした自身の手を強く引いた。
「だ、めだ。触れたら…僕が、触れたら」
石版が、穢れてしまう。
移るはずの高次元の世界を穢してしまった、自分では。
額を抑え爪が喰い込みそうな程手を握り締める彼の背を、イシズは押した。
「大丈夫です。ディーヴァ」
"あのとき"、現世に遺っていた千年アイテムも、千年アイテムによって生まれたすべての『歪み』も。
「あの方が、すべて持って行かれましたから」
泣きそうな顔をした藍神へ頷き、イシスはもう一度彼の背をそっと押す。
逆らわず再び石版の前に立ち、藍神はその手を伸ばした。
彼の様子を見守っていたセラも、一緒に。
石版に、指先が触れる。
削られた王の御名はーー。
*
眩すぎる光に包まれ、意識が飛んでいたかもしれない。
藍神とセラが気づいたそこは、考古局の地下保管庫ではなかった。
「こ、こは…」
神殿だと、考えずとも頭が理解した。
一糸乱れぬ石積みの壁、絶妙に太陽光を取り込む天井、各所に置かれた護りの石像。
振り返れば長方形に切り取られた外の景色が見え、家で云う玄関先か。
頭から眩い光が抜ければ、見えなかった衛兵たちの姿が見えてくる。
古代エジプトの壁画やパピルスに見る、姿だ。
「ここ、は」
立ち上がった藍神の手をぎゅっと握り、セラが密やかに口に出す。
「古代エジプト…いいえ、『冥界』」
「冥、界…」
古代エジプトの死生観において、『死』は別世界への旅立ちを意味した。
死者は居を生者の国から死者の国へ移し、生者の国への復活のため新たな生活を始めるのだ。
…そうか、と藍神は呟く。
「高次元の世界は幾つもある。古代エジプトにおける冥界も…そこに、在ったのか」
衛兵は死んでいるのかと思ったが…冥界なのだから死んでいるのは当たり前か?…、たまに視線や首が見張りのために動く。
ということは、彼らは魂のない人形ではない。
「僕たちを咎めないってことは、奥へ進んで良いのかな」
「たぶん…」
藍神とセラは手を繋ぎ、意を決して神殿の奥へと足を進めた。
周囲を警戒しながら歩き続け、分かれ道や広間のような空間を抜ける。
今までずっと真っ直ぐ来たが、2人が足を止めると衛兵か石像が進む方向へ首や目線を向けるので、良いのだろう。
しかし何度目かの広間のような大きめの空間に着いて、足が石のように固まってしまった。
四角く切り取られた広間の出口へ、向かいたいのに。
「…っ」
つう、と冷や汗が流れる。
ちらりとセラを見れば、彼女も顔を青くして全身を硬直させていた。
(怖い…っ)
だって、この先にいるのは『王(ファラオ)』だ。
王であり、神の子孫であり、現人神。
ーーこの先には、『神』が座している。
古代、王は神であった。
玉座に着いたそのときから、人ではなく神として、民と国のためにその身を捧げた。
「次の謁見者、前へ」
誰かの声が呼ぶ。
この先は王の御許、大神殿にある謁見の間だ。
(謁見者、って…)
ここには藍神とセラ以外に誰もいない。
ふと部屋の入口に立つ衛兵と目が合うと、衛兵が軽く顎を動かした。
…行け、と。
(呼ばれているのは、僕たちか)
繋いだ妹の手をきゅっと握り、彼女を見下ろす。
「セラ、大丈夫かい?」
彼女も兄を見上げ、笑みを作るのに少し失敗した。
「行きましょう、兄さん」
恐怖のような、武者震いのような。
思い通りにならない身体を叱咤して、2人、謁見の間へと足を踏み入れる。
今までに通ってきたどこよりも、美しく光が満たす空間。
居並ぶ衛兵たちの間を歩いていく。
まだ、祭壇は光に包まれてよく見えない。
中央へ近づくにつれて、歩みが遅くなっていった。
居並ぶ者たちが衛兵から神官へ代わり、俯き加減の藍神の視界の先に雛壇が映る。
その祭壇に順に並ぶのは。
(六神官…)
千年アイテムの本来の所持者。
呪われし秘宝を王と共に所持し、国を治め守護した神官たち。
見上げなければならない祭壇の最上階。
彼らはそこへ続く階段を護るように立ち並ぶ。
謁見の間の中央で、自然と歩む足は止まった。
(顔を、上げられない)
セラと2人、片膝を付いたのも無意識で、自分たちが無意識下で『王の御許に在る』と思っていたのだと気づく。
する、と衣擦れの音が響いた。
「お前が藍神か」
凛、と声がする。
立ち上がった気配、そしてひたり、と足を踏み出す音が。
「それから、妹のセラ」
足音はさらにひたり、と続く。
「"あのとき"はちゃんと会うことが出来なかったら、一度会ってみたかったんだ」
雛壇を降りる音が続く。
(これ、以上は…)
駄目だ、と。
藍神は胸を渦巻く感情に眩暈がした。
「それに、お前たちの方界モンスターとデュエルもしてみたい」
ひた、ひたり。
視界の端で、青い顔をしたセラが小さく唇を動かす。
「……だめ」
そうだ、駄目だ、これ以上は。
(これ以上、この方を僕たちに近づけさせては)
雛壇は、人と神とを隔てる境目。
神官は人と神を繋ぐ伝令者であり、神に仇為す者を倒す剣でもある。
「…っ」
『キューブ』を持っていれば。
『プラナ』の証を持っていれば。
このような焦燥は湧いてこなかったのだろうか。
「ーーっそれ以上、近づいてはなりません!」
藍神が吐き出した言葉は思いの外よく響き、謁見の間に木霊した。
冷や汗がどっと流れ落ちる。
足音が止まった。
暴言のように響いた言葉を咎める声は、まだ、無い。
「あなたはファラオだ。僕たちと同じ場所に、立って良いわけがない」
だって。
(私たちは、)
(僕たちは、)
藍神とセラの慟哭が重なる。
「「あなたを現世へ呼び戻してしまった…っ!!」」
あってはならないことだった。
少なくとも『プラナ』であった自分たちは、それを阻止する側であったのに。
(これ以上、彼の手を煩わせてはいけなかった)
『キューブ』も『プラナ』の力も失った今、藍神とセラは只人だ。
只人が王と同じ地に立てるなど、あり得ない。
現世で彼が降臨した様を、セラは会場近くのビルから、藍神は取り込まれたモンスターの内から目撃した。
ーー混沌と化した次元領域を劈いた、圧倒的な力。
冥界から六神官の1人を喚び出し、次元の闇を丸ごと消し去った光。
それは『彼』自身が内から発する輝きだった。
デュエル・リンクスで繋がっていた世界中の人々の意識すら掬い上げ、次元領域で繋がっていた現世との扉を閉じて。
『彼』はまた、去っていったのだ。
(この、心臓は)
床に付いていない方の手で、藍神はぐっと胸元を握る。
(マアトの羽より重い)
リン、と耳飾りが鳴る。
「なんだ、そんなこと」
くす、と笑う気配がして、気づけば跪き頭(こうべ)を垂れている藍神とセラの目に、美しく磨かれた足が映っていた。
「…っ?!」
叫ばなかったのは奇跡だったかもしれない。
「気にするな、というのは無理なんだろうが。一刻でも現世へ還ったのは俺の意志で、お前たちのせいじゃない」
詭弁だ、と返す間は与えられず。
「元はと言えば、俺が冥界へ還るときに千年アイテムを持ち帰らなかったせいもある」
まあ、発掘されるとは思わなかったが、と困ったような声が降る。
「発掘した海馬のせいでもあるし」
よりにもよって、千年リングが一緒に出たのも悪かった。
「だから」
顔を上げてくれと言う優しい声に、逆らう術があるはずもなく。
それぞれの頬に触れてきた手は淡い光源のような熱を持ち、やんわりと即してくる手に逆らえず、2人は恐る恐る顔を上げた。
藍神とセラが『王』と認識している彼は、ただ優しく微笑んでいて。
武藤遊戯によく似ているが、まったく違う人物だ。
混乱と焦燥の頂点にあった頭が思ったことなど、陳腐なことばかり。
感情の堰が決壊したのだろう、ぽろり、と頬を零れた涙は止まらず。
「……っ、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい…!」
呼び戻してしまった。
迷惑を掛けてしまった。
彼の大切な友人たちを、傷つけてしまった。
頬に触れていた手を縋るように握って、藍神は衝動のままに心を吐露した。
謝罪の言葉は次々に口を突き、頭の中はぐちゃぐちゃになってしまって止まらない。
泣き出して、謝罪を繰り返すのはセラも同じ。
王は…アテムは2人を咎めること無く好きにさせ、片膝を付くとその両手で彼らの頭を抱き寄せた。
「辛かったな。お前たちのこと、気づけなくて済まなかった」
あなたのせいじゃない、という2人の声を、アテムは黙殺する。
(多くを遺してしまったのは、事実だ)
それでも、と泣き続ける藍神とセラの頭を撫でた。
(この手で救えるものは、如何程も無いが)
友と、好敵手。
そしてこの2人を救えたと云うのなら、アテムは神に感謝しても良かった。
*
アテムの投げた目線に応え、泣き止んだ藍神とセラをアイシスが神殿の奥へと連れて行った。
ここは冥界、彼らが師と仰いだ人物もここに居る。
「良いのですか」
玉座へ戻ったアテムに、六神官の1人セトが問うた。
「何がだ?」
海馬瀬人によく似た鋭い視線が、アテムへ向く。
「あなたは結局、すべてを許されてしまう。同じことを犯さぬ保証は無いというのに」
この会話は何も初めてではない。
鋭い視線と言葉の奥に、いっそ過保護な程アテムを護ろうとする思いやりがあることを、アテムはもう解っていた。
「ここは冥界で、あの2人はここの住人じゃない。だからアヌビスの審判はずっと先の話だ」
死者の国には、死者の国の理(ルール)がある。
「時が来て冥界へ還るのか、次元上昇で至るのか。それは彼ら次第だが」
白状しよう、自分は浮かれているのだと。
「良いじゃないか。現世の話が出来て、俺は嬉しい」
裏があって表もあって、それでも彼らはアテムの友人たちと話し、過ごしていたのだ。
「偶には、現世に思いを馳せることを許せ」
冥界はとても穏やかで、過ごしやすいことは嘘じゃない。
それでも。
(現世で過ごしたあの日々は、俺にとって濃すぎたんだろうぜ)
セトが返す言葉を探すところへ、大神殿守備隊の隊長が謁見の間へ入ってきた。
「どうした?」
六神官の1人シャダが問うと、彼は報告を始める。
「はっ。西部の砂漠に、見知らぬ舟が降りてきたと街の者から報告が」
ざわり、と広間に動揺が走った。
「して、その舟に人は?」
「は、異国の風貌をした背の高い男の目撃情報が」
誰もが緊張に張り詰める。
冥界とて、何もないわけではないのだ。
「早急に対策を…」
「待て」
守備隊と警備隊を集めようとしたシャダを止めたのは、アテムの声だった。
「その異国風の男、どんな格好だった?」
「は…見覚えのない形の白いローブのようなものを着ており、見慣れぬ硝子の装飾を左目の辺りにしていたとか」
ふっ、と笑い声が聴こえてアテムを見返った者たちは、目を丸くした。
(なんて、楽しそうな)
「セト。決闘場の準備を」
「王、何を…?!」
「すぐに分かるさ」
早く、と何とも愉しげなアテムに即され、セトは釈然としないまま謁見の間を後にする。
彼の姿が見えなくなってから、アテムは再び指示を出した。
「これから、白いローブに硝子の装飾を左目にした異国の男が現れる。顔は…そうだな、セトにそっくりだ。その男が来たら、謁見の間まで通すように」
王の発言のあらゆる箇所に各々が驚愕の反応を示し、大神殿は久方ぶりに騒がしく。
アテムは笑みが浮かぶのを止められない。
(…早く来い)
見果てぬ闘いのロードは、冥界にも容赦なく続いていた。
End.
2016.5.8
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