湖面を霧が包み、僅かな水音も真綿で包(くる)まれた未明。
暁の空はほの暗く、見通しは悪い。
ふと目を覚ました輝二はバルコニーへ出ると、湖へ目を凝らした。

夜と朝の境を突き抜ける、『音』が。

不純物の無い金属を、叩くような。
澄んだ氷柱が落ちて、砕けたような。
冴え冴えと冷えた空気に、どこまでも通る鈴の音のように。

『音』が、聴こえる。

気配に気づいたらしいドルルモンが、バルコニーで輝二を見つける。
未明に起きだしている理由を問われ、輝二は素直に告げた。
「音?」
「ああ。今言ったみたいな音が、聴こえて来るんだ」
ドルルモンは押し黙る。
「…オレには聴こえないが」
正直に告げれば、大して驚くでも無く、そうかと返った。
「コウジ?」
ドルルモンは訝しさを隠さず輝二を見上げ、胡乱な視線を受けた彼は未だ眠る輝一を肩越しに見つめた。
「ちょっと行ってくる」
「おい?!」
輝二は言うが早いかバルコニーの外階段へ向かい、ドルルモンは慌てて追いかける。
急ぎでも足音が殺されているのは、さすが戦士と言うべきか。

城を出て、橋を渡る。
宛先を決めず森へ分け入って、初めて輝二は足を止めた。
まだ鳥たちも起きだしていない時刻、『音』を聴き分けることは造作無い。
輝二が足を進めた方角に、ドルルモンは思い出す。
(俺たちが最初に出てきた方向だな…)
予測通り、マグマ・エリアから辿り着いた地点へやって来た。
また立ち止まり耳を澄ませた輝二は、ハッと何かに気づき奥へと走り出す。

水の匂いがする。

輝二の後を追えば、程なくして小さな池が見えた。
池には点々と飛び石が浮かび、少しだけ池の中心へ近づくことが出来そうだ。
底が見えるだけの透明度を誇る池は、だからこそ驚くような深さが目に見える。
「ここだ…」
池の淵で呟かれた声に、ドルルモンはもう一度耳を澄ませてみた。
しかし、捉えられるのは風に吹かれる樹々の葉音のみ。
トン、という軽い音に隣を見遣ったドルルモンは、ギョッを目を剥いた。
「コウジ?!」
点々と浮かぶ岩を飛び、輝二は池の中心へと近づく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
「おい?!」
よっつ、いつつ。
輝二は己を案じる呼び声に、最後の石の上で振り返った。
「大丈夫だ」
何事か言いかけたドルルモンは、ややして諦めたのか口を噤む。
(何を、する気なんだ?)
再び池の中央へ向き直り、輝二はデジヴァイスを取り出した。

十闘士となる他に、何の反応も示さなかったデジヴァイス。
それが今、勝手に通信を試み、画面にノイズを走らせている。
目の前から響いてくる『音』が、原因だろう。
(ドルルモンは聴こえないと言った。たぶん、タイキたちも同じだ)
だが輝一なら聴こえるだろうと、輝二は確信を持っている。
…断ずる理由は直感としか言えないが、5年前も同じ理由でデジタルワールドへやって来たのだ。
"呼ばれている"のは、"呼んでいる"のは、『この』DWの存在ではないのだと。
輝二は沈黙を守るデジヴァイスに尋ねた。

「俺を呼んでいるのは、誰だ?」

波紋すら見えぬ水面、鬱蒼と茂る樹々、黎明の空。
ふっ、と、黙した空気に声音が溶ける。
「!」
一条の光が、隙間なく茂っているはずの樹々の間から伸びた。
光は池の中心、水面際で弾け、突然の眩しさに輝二もドルルモンも反射的に目を閉じる。
やや収まった光量におそるおそる目を開ければ、輝二の視野に森は入らなかった。
喩えるならば、映画の上映スクリーン。
光で白く埋められた画面が、半円形に輝二を囲むように広がっていた。
「これは…」
自分の手を見下ろせば、デジヴァイスからも光が一筋、光のスクリーンへと伸べられている。
ヴン、と太いノイズがスクリーンに走った。
【…… …】
「え?」
画面から声が聞こえたような気がして、聞き返す。
白い画面の中で、薄い影が動く。
【…マ、……に… …】
雑音で聞き取れない。
「誰なんだ、そこに居るのは!」
再度、ヴン、と太いノイズが3度走った。
【……!】
先程よりも、はっきりと。
聞き覚えのある単語で、呼ばれたような気がした。
(まさか)
映る影は、これ以上鮮明にはならないようだ。
けれど『音』…いや声は、これ以上なくはっきりと、輝二を呼んだ。

【…っ、母上! 聴こえますか?!】
【ママっ!!】

あの頃と同じ声音かどうか、分からない。
しかしこのようなこと、ルーチェモンを除いて、他に誰が出来るというのか。

「ロップに、プロン…?」

遥か遠い、遠い過去。
ルーチェモンが消えた後の世界を治めた、3体の天使デジモン。
ケルビモンと呼ばれたビースト型デジモンと、オファニモンと呼ばれたヒューマン型デジモン。
その、生まれ変わり。
【ママー! うわぁん、やっと通じたー!!】
【プロン、落ち着け。まずは母上たちの状況を確認しないと】
【うぇっ…、うん…】
遣り取りを聞いていたドルルモンは、ポカンと口を開けていた。
「…なんだ? こいつら」
輝二としては、苦笑を返すしかない。

ロップモン(以下ロップ)らしい声はボーイソプラノと言ったところで、声音が落ち着いている。
一方のプロットモン(以下プロン)らしい声は、ハイトーンの少女ボイス。
「…いや待て、"母上"?」
我に返ったドルルモンが、一番して欲しくない質問を向けてきた。
「……言うな。俺だって泣きたい」
「………そうか」
暗雲が見えそうなレベルで輝二が項垂れていたので、ドルルモンは再度口を噤む。
【母上、父上もご無事ですか?】
【ママと同じように通信したんだけど、通じなかったの!】
ドルルモンの声は、向こうまで聞こえないようだ。
「輝一なら大丈夫だ。あと、泉も無事だ。拓也と友樹、純平には通信が通じない」
ただ、泉もそうだったが、輝二は拓也たちの心配はあまりしていない。
それよりも。

「お前たち、一体何処に居るんだ? ルーチェモンは無事なのか…?」

しん、と画面の向こうが静まり返った。
さわさわと囁く梢の音色が、聴こえる程に。

ややを以て、静かな言葉が届く。
【…大丈夫、だよ。ルーチェはまだ、大丈夫】
"まだ"というプロンの言葉に、あまり猶予がないことが見て取れる。
【母上たちは今、どの辺りに?】
「確か…グランドレイクと呼ばれてるエリアだ」
【…このDWは、オレたちの居たDWと全然違う。オレたちの居る場所を狙ってる奴らが、ずっと待ち伏せてる】
「なんだって?」
思わずドルルモンを振り返れば、彼は重々しく首を縦に振った。
「…バグラ軍だな。目的は、コードクラウンではないのかもしれない」
嫌な予感ばかりが募る。
輝二はスクリーン越しの2匹へ確かめた。
「プロン、ロップ。お前たちのいる場所は、おそらく『白い森』と呼ばれてる場所だ。
霧が立ち込めてるのか?」
【そうです。森が深く、中央に大きな湖が】
【ラーナのエリアなの】
ラーナとは、水の闘士ラーナモンのことだ。
彼女のエリアは、巨大な湖の周りを奥深い森が囲んでいる。
湖には美しい大理石の城が建っており(この湖の城よりも大きい)、ラーナモン以外の闘士たちも利用していた。
…ルーチェモンも、そこに。
「他の十闘士は居ないのか?」
【…誰も】
僅かな望みには、現実が重い。
二の句に迷い、輝二は開きかけた口を閉じた。

時々唸るノイズの他に鳥のさえずりが聴こえ、ドルルモンは耳を峙(そばだ)てた。
夜が明け始め、樹々の向こうが白み始めている。
【ママ?】
【母上…?】
押し黙った輝二に不安になったのか、画面向こうの2匹が恐る恐る声を掛ける。
「…俺たちは、お前たちの居るエリアを探してるんだ。
他にも人間の子どもがDWに来ていて…彼らは『このDW』に呼ばれたらしい」
2匹の驚く気配がした。
【ママたちの他にも?】
【オレたちの知らないDWが、呼んだ?】
見えないだろうが頷きを返し、輝二は続けた。
「でも今のままじゃ、埒があかない。このDWはバラバラになっていて…。
プロン、ロップ。お前たちの居る場所に、目印を出せないか?」
【目印?】

ーーーバリッ

不意に響いた気味の悪いノイズ音に、輝二はハッと周囲を見回した。
ゆらりと光のスクリーンが歪み、走るノイズが背景と一体となっている。
【きゃっ! なに?!】
【何…が妨害しようとし…るんだ!】
ノイズ音に、音声が掻き消される。
【ママッ! 創…から! 目印、創るから! …、】
「プロン?!」
【だから早く、母上たちも…、】
「ロップ!!」
明らかな他意で生じたノイズに、音声もスクリーンも掻き消えようとしている。
「コウジ! よせ!!」
咄嗟に手を伸ばした輝二を、ドルルモンの高声(たかごえ)が止めた。
ギクリと目を見開けば、深蒼の水面に自分の姿が映っている。
ドルルモンの静止がなければ、見えぬ水底の池へ落ちていたところだ。

さえずり、風。
生き物たちの音が、戻ってくる。
池は何事もなかったように、流れた風に水面をさざめかせる。
以前と同じくノイズさえ走らせなくなったデジヴァイスを、輝二は固く握りしめた。
(…頼む)
場所さえ分かれば、何とでもなろう。
余計に敵を寄せ付けることになるとしても、それをこちらが蹴散らせば済むこと。

池の淵に戻った輝二を数秒見つめて、ドルルモンは問う。
「捜しているものは、見つかりそうか?」
輝二はドルルモンを見下ろし、微笑を浮かべた。
「無理にでも見つけるさ」


夜が、明けた。

水鏡に言ノ葉



end. (2011.7.15)


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