十三. 此ノ岸ノ夢ノ終ノ今日 III
あのとき乱れて解けてしまった髪を、綺麗に結び直してくれた。
『ほら、これできれいになった!』
『"あ、ありがとう。でも、おみずにうつしても、よくみえなくて…"』
揺れる水面では、どれくらい綺麗になったのかが見えなくて。
そう言ったら、とても素敵な笑顔を向けてくれた。
『じゃあ、つぎにきたときに、―――…』
シャンッと鳴ったのは、神楽鈴なのか、それとも。
『淵底ノ香散見梅桜(えんていのかざみゆすら)』の少女は、息を止めてしまうだけの衝撃を受けた。
うそでしょう? と。
こんなこと、あるわけない、と。
「へえ…本当に、見事な梅だ」
河童の話を聞いた蛟(みずち)から事の次第を聞き、は持ち前の好奇心で紅白の梅を見にやって来た。
匂い立つ香と色鮮やかな紅白に、黄泉路の見送りには相応しい存在だと1人頷く。
リクオは川面で休む河童へ、労(ねぎら)いの言葉を掛けた。
「ありがとよ、河童」
「なに、お易い御用です。…まあ、普通なら有り得ないくらい緊張しましたけど」
不忍池(しのばずのいけ)は、妖怪しか通ることが出来ない。
ゆえに河童は先に立ち、奴良家南の湖からここまでの道のりを泳いできた。
この程度の距離、疲れる部類に掠りもしない。
だが、案内する相手が『神』なのだ。
("龍"が後ろを付いてきてるなんて、二度とはやりたくないなあ…)
それも水中を泳いでいたのだから、その姿は本来の『龍』であったと想像するに容易く。
振り返るような勇気も、とてもじゃないが持ち合わせていなかった。
(あの嬢ちゃんも、そんな感じなんだろうなあ…)
自らの手で口を塞ぎ、叫んでしまわぬように。
見開かれたままの円(つぶ)らな目は、未だ状況を信じ切れないがゆえ。
産土神(うぶすながみ)の少女は、天津神(あまつかみ)の少年を前に色を失っていた。
梅の少女は震える身体を隠すことも出来ず、戦慄(わなな)く唇から言葉を絞り出す。
「"りゅ、りゅうじんさまに、ごそくろういただくなんて…"」
声として発してしまった事実に、心(しん)から戦慄した。
「"ほんとに、ほんとうに、ぜったいにあっちゃいけないんです…!"」
産土神にとっての天津神とは、文字通り、天地の違いほどの存在である。
特に歳若いゆすらが受けた衝撃は、その身に余るほどだ。
「うーん、オレはまだ『龍神』じゃないんだけど…」
毎回、誰かに新しく会う度に言ってるなあ、とは苦笑する。
ややの間で笑みを納めた彼は、顔を上げようとしない少女を静かに見つめ返した。
(…!)
リクオは息を呑む。
『静寂』が、降りた。
が幽かな笑みを浮かべた、その刹那に。
佇む水面に音無き波紋が正円を描き、3つ目の波紋が失せたとき、は口を開いた。
「オレがこの先見られないかもしれない、それくらいに見事な梅だから。
その見物料だと思えば良い」
自らの顔を覆っていた少女の手が、震えを止めた。
言われた言葉を反芻し、そろそろと幼い面(おもて)を上げる。
「"ほんとう、に?"」
怖々と反問した彼女に、は肯定を示す。
「水が欲しいって聞いたけど」
今度は、しっかりとした頷きが返った。
ゆすらは足元を流れる水へと視線を落とす。
「"…もう、ここのみずはだめなんです。もっときれいなみずじゃないと"」
「ああ。これは"普通の"水になってるね」
リクオと河童は揃って川を見下ろしたが、彼らの会話の意味はさっぱり分からない。
はふっと目元を和らげた。
「もう、心残りは無い?」
ゆすらの瞳が、僅かだけ揺らいだ。
「"…ない、です。ううん、ずっとずっと、向こうのひとたちにまってもらっていたから"」
「そう。じゃあ、リクオは?」
不意に問われたリクオは、しかし美しい蒼海の眼を真っ直ぐに見返した。
「…オレは、ある」
「"え?"」
戸惑いの声を上げたのは梅の少女で。
リクオはゆすらの前に屈むと、袂から取り出した物を彼女へと差し出した。
「オレはこいつを渡しに来たんだ。約束したろ?」
差し出された物をおそるおそる受け取り、ゆすらは丸く見開いた眼(まなこ)でリクオを凝視した。
「"これ…"」
それは確かに、あの日に約束したもので。
―――つぎにきたときに、かがみをもってきてやるよ。
彼女の顔をそのまま映せる、丸い手鏡。
裏返せば、薄い女郎花(おみなえし)色に、梅と鶯が刻まれている。
止まっていた涙が、重ねて溢れ出した。
貰った手鏡を胸へと抱き寄せ、ゆすらは花が綻ぶように笑う。
「"…ありがとう。ありがとう、りっくん"」
少女の様子を見守っていたは微笑し、そっと言の葉を紡ぐ。
「『水天・降(すいてん・こう)』」
空気を震わせた3つの波紋。
形となり霧散したのは、確たる言霊。
やがて、ぽつり、とリクオの頬に何かが落ちる。
見えぬ空を見上げれば、降りくる雫。
雨粒は間を置かずぽつぽつと数を増やし、程なくしとしとと降り始めた。
雨の中、紅白の梅が散っていく。
ゆら…と湧いた薄霧に、少女の姿が徐々に溶けていく。
幸せそうに、微笑んで。
「"りっくん、ありがとう"」
リクオもまた、笑みと共に頷いた。
「ああ。またな、ゆすら」
散った梅の花弁は、水面に触れてふわりと消える。
…此の岸を離れた梅の木は、次は彼の岸で咲き誇るのだろう。
一夜の邂逅に、は言の葉を手向けた。
「さよなら。淵底ノ香散見梅桜(えんていのかざみゆすら)」
いつかまた、彼の岸で。
少女はへ深々と頭を下げ、霧の向こうへと姿を消した。
気づけば住宅街の外れ、土手に立っていた。
流れる川のせせらぎだけが、先刻までの出来事の証人。
紅白の梅が立っていた場所を仰ぎ、河童はぐぐぐと伸びをする。
「では若、オレはこの先の分かれ道に居ますんで。あんまり遅くならないようにお願いしますねー」
オレが雪女に怒られますんで。
告げてすいっと行ってしまった彼に、リクオは肩を竦めた。
「ああ、分かった」
に目を向ければ、彼はまだ梅の在った場所を見つめている。
そういえば、同じように雨に降られたというのに、彼は濡れていない。
視線に気づいたのかはくすりと笑みを零し、リクオを振り返った。
「昔は"りっくん"って呼ばれてたの?」
問われ、いいやと返す。
「ねぇよ。ゆすらだけだ。…おめぇは?」
「ん?」
「愛称で呼ばれたりとかって、あったか?」
少しだけ首を傾げ思案の様子を見せたは、ゆるりと否定の動作を取った。
「ないかなあ…。"龍の子"は愛称じゃないだろ?」
「ははっ、そうだな」
「"龍の方"なんて呼び方は初めてだったけど」
「ふぅん…」
「リクオ?」
黙ってしまったリクオに、は不思議そうな顔をした。
「…特別、だったんだ。ゆすらは」
リクオは言葉を選び、続ける。
「この姿で初めて出会った、人でも妖怪でもない存在だったんだ」
彼女に出会った日から5年、妖のリクオは昼のリクオの中に封じられていた。
その間も含めて、他の誰も"りっくん"だなんて呼びはせず。
だからこそ、彼女が呼んだ愛称は、特別だった。
(あのとき、ゆすらもそう思ったのか)
"ゆすら"と呼んで良いかと問うたとき、彼女が嬉しそうに頷いたのは。
「…なあ、」
呼び掛ければ、シャンッと音が鳴る。
(特別、なんだ。他の誰と比べても)
リクオは名前の付けられない感情に、1つだけ、与えるべき名前を見つけた。
「""って呼んでも良いか?」
虚を突かれて瞬いた蒼海は、次には柔らかく細められ。
「…良いよ。リクオになら」
答えた彼は、かつてのゆすらと同じように、嬉しそうに笑った。
笑って、くれたのだ。
End.
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11.5.5
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>> あとがき
愛称で呼ばせるだけなのに、なんでこんなに長く…(遠い目)
ともあれ、ようやくくっつくまでの折り返し地点です。
奴良組の他メンバーももっと出したい。