十二. 此ノ岸ノ夢ノ終ノ今日 II
至極、単純な話だ。
妖怪を否定していた頃、『夜の姿』となったことを『昼の姿』では覚えていなかった。
今はすべての記憶が、どちらにも残るようになっている。
しかしかつて覚えていなかった『夜』の自分のことを、『昼』では思い出せないままだ。
だから、『夜』のリクオだけが梅の少女を知っていた。
昼のリクオが紅白の梅に出会った、2日後。
日が落ち月が顔を出す時分に、夜の姿となったリクオは中庭の池へと声を投げた。
「河童、ちょいと付き合ってくれねえかい?」
これは珍しい、とばかりに河童は水面へ顔を出す。
「若の頼みなら、喜んで。どちらへ?」
リクオは池の淵へしゃがみ込んだ。
「その行き先を、『水』に詳しいおめぇに探して貰いてぇんだ」
昨日と今日の昼の間に、リクオは妖怪だけでなく各地の逸話にも詳しい清継へ、情報を頼んだ。
紅梅と白梅が同じ木に咲く、梅の話を。
『紅白の梅が同じ木に、だって?!
奴良君、まさかそれは淵底ノ香散見梅桜(えんていのかざみゆすら)じゃないかい?!』
『淵底ノ香散見梅桜?』
『そうだ。梅には元々"香散見草(かざみぐさ)"という別名があるんだ。そして、"梅桜(ゆすらうめ)"という梅もある』
『…梅を表す名前が、2つ重なってるってこと?』
『そう! そして淵底とは、"深い水の底"という意味だ』
『え? まさか水の中に生えてる?』
『いや、伝承によると"水の淵"に生えている梅らしい』
『水の淵って、なんか意味深だね…』
『そう思うだろう? 実はその通りなんだよ奴良君!』
"水の淵"には2つの意味がある。
1つは、此の岸と彼の岸(この世とあの世)を隔てる三途の川の、此の岸の淵。
もう1つは妖に似た領分、"本当は無いのに在る川"の淵。
河童はリクオよりもずっと昔に生まれて、ずっと浮世絵町で暮らしてきた。
その彼なら知っているだろうと思っての探索だっだ。
何せ、梅は昼間に咲く花だ。
妖の姿で向かうには、場所が正確に分からなくてはならない。
昼間よりも濃い梅の香の中、紅白の梅は閉じることなく夜闇に咲き誇っていた。
「はー…これは見事ですねえ…」
「…そうだな」
川面から梅を感嘆した河童に、相槌を返す。
リクオがこの梅を初めて見たのは5年ほど前、初めてこの『夜の姿』となった日の。
あの日の、翌日の夜。
「"りっくん!!"」
変わらない、高く子供らしく、そして明るい声音が自分を呼ぶ。
彼女の姿を認め、リクオは口元を緩めた。
「久しぶり、"ゆすら"」
一晩では鎮まり切らなかった、妖の血。
誰にも見つからず屋敷を抜け出し(思えば畏が発動していたのかもしれない)、辿り着いた場所。
『水が欲しい』と泣いていた彼女に、この川の水を掬って飲ませてやった。
…あの夜以来、だ。
リクオは少女の前に屈み、その目を真っ直ぐに見つめた。
「すまねえ。こんなにも遅くなっちまって」
"ゆすら"と呼ばれた梅の少女は、大人びた静かな笑みに変わった。
「"いいの。りっくん、ちゃんときてくれた。わたしが終わってしまうまえに、きてくれたから"」
え、と。
音にならず疑問が口を突いた。
(終わってしまう前、に?)
考えてしまったリクオに釣られたのか口を閉ざし、少女は彼をじっと見つめる。
そうして、ふと泣き笑いの表情で笑った。
「"すごく、きれいな気をまとってる"」
「え?」
「"ふしぎ。ひるまのりっくんより、つよいの。りっくんはようかいなのに"」
少女の左目から、涙がひと雫。
「"りっくん。わたし、おみずがほしいの。もう、ここのみずはだめなの"」
告げられた言葉に、川面を見直す。
川底がはっきり見えるほどの透明度を持った水だが、何が駄目なのだろうか?
何が違うのか分からないのは、河童も同じらしい。
「…オレ、ここほど綺麗な川は知らないんですけどね」
おかしいなあ、と首を捻っている。
少女は首を横に振り、ちがうのはわたしなの、と続けた。
「"わたしはもう、向こうにいかないといけないの。でも、ここのみずはよどんでしまった"」
このままじゃ、向こうに行けない。
そう言った彼女は、ぽろぽろと静かに泣き出した。
(どうすりゃ良い?)
もう少し詳しく、清継に話を聞くべきだった。
『淵底ノ香散見梅桜(えんていのかざみゆすら)』という名の意味は、おそらくはもっと深いのだ。
首を捻ったままであった河童が、少女へと問い掛ける。
「なあ嬢ちゃん。あんた、梅なんだろ? なんで水を欲しがるんだ?」
もっともな問いだ。
川の間近に生えた梅の木が、なぜ水を欲しがるのだろうか。
少女はふるりと首を振り、もう一度、ちがうのはわたしなの、と言った。
『淵底ノ香散見梅桜』には、根が無い。
元は在ったけれど、何かが起こってただ打たれた杭のように、地に立つ棒だった。
ゆえに水分も養分も地から吸い上げることが出来ず、代わりに年中休むこと無く花を咲かせた。
花咲く紅白に惹かれてきた者たちの"気"を取り込み、それを生命力として。
―――いつからか、彼女は生と死の狭間で咲いていた。
"あの日"は暦の因果か、川面から伸びてくる死者の手が引きを切らず。
いつもなら寄って来ない手たちに恐怖して、彼女は叫んだ。
…あの手が死者ではなく妖怪のそれであったと彼女が知ったのは、ずっと後のこと。
叫びに応えて手という手を凪ぎ祓ったのが、妖のリクオであった。
妖怪に触れられた枝は瞬く間に壊死してしまい、彼女はますます生命力に困窮した。
せめて、と望んだのが、『水』。
けれど水だけでは足りなくて、でも川の水はあの日以来、少しずつ清浄さを失っていった。
―――そして、彼女は川の向こう側から優しく諭される。
"もう、こちらへいらっしゃい"と。
"咲き続けるには、此の岸から離れなければいけないよ"と。
ゆすらは、咲き続けたかった。
ずっとずっと、此の岸でも彼の岸でもいい、咲き続けていたかった。
(でも…)
まだ此の岸で咲いていたい理由も、あったのだ。
「…水?」
リクオはハッと目を見開く。
(あいつなら、なんとか出来るんじゃ…)
ぱしゃんという水音に川を振り返れば、河童が川下を指差した。
「若! 水と言えば龍の方(かた)ですよ!」
ひとっ走り、お声掛けしてきますんで!
不忍池(しのばずのいけ)を創って消えた河童を止める理由など、リクオにはなかった。
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11.5.2
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