眠るシンを見つめて、レイは小さく息をついた。

彼から" 破滅"について聞き出せたのは、ほんの少し。
正確に言うと、彼がすでに忘れてしまっている記憶の方が多い。
レイは立ち上がり、この部屋の壁に掛けられている鏡へ歩み寄った。


"破滅"は、"実体"として存在しているわけではない。


シンから聞き出した話と、自分がアウルたちと見た"破滅"と。
それらを総合して言えることが、『実体ではない』ということだった。
"破滅"に実体があるなら、わざわざシンを使って話す必要はない。
もっと言えば、"鏡"を通すことこそが実体のない証拠。


鏡が映すのは虚像であって、本物ではない。


レイは鏡を正面から見た。
"破滅"の姿も声も、どうやらシンにしか見えず聞こえないらしい。
自分が聞いたのは、シンを通した声だ。

『今回は、おもしろそうだから降りてみただけ』

"破滅"は『今回は』と言い切った。
天使と悪魔の歴史は、以前にも１度以上は存在したということか。

砂漠から発見された古代遺跡。
祭壇に残っていた血文字と"黒い蝶"。
シンの存在を借りた、"破滅"。

『君の一番大切なこの子と同じ場所に、すぐに堕としてあげる』

ぞくり、と寒気を感じた。
同時に思い出した"破滅"の言葉に、思考を巡らせる暇もなく。



『アイツの気配を追ってみれば…本当に"周り"だな』



幻聴でも何でもない。
レイはおそるおそる伏せていた目を開け、鏡を見つめる。

鏡には、自分の姿が変わりなく映っていた。
だが鏡に映る自分の背後は、部屋が明るいにも関わらず薄暗い。
つまり、本物には存在しない光景が鏡の奥に広がっている。


ふわり、と薄暗い鏡の背景で、１枚の黒い羽が舞った。


その黒い羽が消えたと思ったその時、そこには黒い影があった。
影は徐々に人の形を為す。
数秒で完全に人型を為したそれはレイよりも背が高く、長く黒い髪がさらりと流れていた。
黒い服を纏っていて、窺い見える白い肌がより一層白く見える。
顔は靄が掛かったようによく見えない。
しかしその口元が、綺麗な弧を描いているのは分かった。


『ーーーが入り浸るわけだな…』


頭の中で声が響いた。
誰かの名を紡いだようだが、何故かその部分だけは聞き取れなかった。
気にするべきは、そんな些細なことではない。

「誰だ…？」

レイが問うと、鏡の人物は嘲りを込めた笑いを返して来た。

『何だよ。まさか"破滅"はアイツ１人だとでも思ったか？』
「！」

その言葉に、レイは目を見開いた。
（"破滅"は１人ではない…？）
だが確かに、シンの姿を借りた"破滅"は、自分が１人だとは言っていないのだ。
目の前に映る"破滅"と、シンの姿で現れた"破滅"。
話し方も違えば、持っている雰囲気もどこか違う。
遺跡に残っていたという文字も、複数形で表されていた気がする。

もう１人の"破滅"は、そこで笑みの種類を変えた。

『へえ、確かにちょうど良いな。
力もかなりのもんだし、アイツのあれの傍ってのも動きやすそうだし…』

それも謀ったか？と独り言のように笑う。
一方のレイは、戸惑いや恐怖といった様々な感情が重なり、ただ呆然とするしかない。


ふいにレイの視界で、黒いものがひらりと舞った。


ほんの一瞬のことで、それが何だったのか見極める間もない。
次の瞬間、右手に激痛が走った。

「…っ！！」

あまりの痛みに膝の力が抜け、レイは傍にあった机へガクリと倒れ込んだ。
床に倒れることは阻止出来たが、痛みは激しさを増す。
そして、激痛に霞む視界に入ったもの。

"黒い蝶"

歴史書で見た"紋様を象る黒い蝶"が、レイの右手の甲に止まっていた。
それはまるで根を張るかのように、ずるずると右手に沈んでいく。
この痛みは、侵入者を排除しようとする拒絶反応なのか。
霞む思考でそんなことを思った。

笑い声が聞こえる。


『お前の存在、俺が借りるぜ』



まるで糸が切れたように、意識がそこで途切れた。