青い箱庭【前哨戦】

(104期組連作SS)




ーーーずっと、海を見ていた。



1.海のある風景

寄せては返す波の音、時折飛び去ってゆく鴎の声。
それらはあくまで背景であり、さして重要ではない。
波打ち際、ぱしゃんと水を跳ねる健康的な色の足。
海風に浚われるままの、明かりでブラウンを彩る焦げ茶の髪。
海を臨む横顔は左側だけが見えて、綺麗な孔雀緑がきらきらと光を映している。
…美しい光景だ。
何度見ても、どれだけ見ても、美しさは増してゆく。
(このまま時が止まれば良い)
そう思ったことは、両の手では足りないくらいだ。

宛もなく、ふらりふらりと波と戯れる姿を眺める。
朝でも、昼でも、夜でも、夜中でも、いつだって、ミカサはこの光景を眺め続けるだろう。
大切な家族が、世界よりも守りたい"彼"が、戯れ笑うこの光景を。
こちらを見ては楽しげに話す姿に、自然と口許は笑みを象る。
(ああ、)
しあわせだ。

ピッ、とピアスと一体型となっている簡易通信機が微かな音を上げる。
ミカサにとっての、至福の時間の終わり。
『こっちも買い物終わったから、そろそろ帰ろう』
「分かった」
ミカサは立ち上がる。

「エレン。帰ろう」

自分は彼を、エレンを守る為に、エレンと生きる為に生まれてきたのだと。
ミカサはそう断言出来る。





2.帰る家のある路

海岸沿いの道路を、2人並んで歩いてくる。
足元に大きなエコバッグを置いたこちらに気付き、エレンが手を振ってきた。
「ベルトルト!」
こちらも手を上げ応えれば、程なく2人は傍へやって来る。
「結構あるな。夕飯の材料とかじゃなさそう?」
バッグが複数に渡ることに気付きエレンが首を傾げ、ミカサが中身を覗いた。
「園芸用品と…箱?」
機能性収納用具に分類されるケースが、随分と大量に重なっている。
「園芸は分かるけど、どっか模様替えでもすんのか?」
俺も持つと言ったエレンをミカサと2人で制して、ベルトルトはバッグを2つ抱えて歩き出した。
「ミカサが持ってて俺が手ぶらって…」
「私の方が力がある。エレンはこんなもの持たなくて良い」
「俺はどこの姫だよ…」
何処までもエレンを優先する彼女は、過去でもそうだった。
(最期まで、彼らは)

かつて、ベルトルトはエレンを裏切った。
何物にも代えられない使命で以て、築かれた信頼と友情を切り捨てた。
…今でも、鮮やかに思い出せる。

『裏切り者ーーっ!!!』

血を吐くようなエレンの叫びを、紛うことなき殺意と憎悪に満ちた、金の眼を。
その中に確かに見えた、一縷の哀しみを。
(だからエレン、)
覚えていない2人の分まで、ベルトルトは覚えている。
あのとき、僅かでも自分たちを想ってくれた彼に、報いるために。





3.分かち合える贅沢

手持ち無沙汰なエレンに苦笑したベルトルトが、1枚のレシートを差し出した。
「エレンが持つものは、ちゃんと別にあるよ」
片眉を上げてエレンがレシートを見下ろせば、それは商品引き渡しの控え。
店の名前はよく知るもので、彼は顔を上げると先の角を一足先に曲がった。
「ユミル!」
店先の販売カウンターでコーヒーを飲み干したユミルは、エレンへ手を上げ応えてから店の奥へと声を投げた。
「てんちょー! エレン来たぜ!」
すると、中々に良いと評判のハスキーボイスが返ってくる。
「あらほんとぉ? すぐに準備するわ!」
この洋菓子店のオーナーは所謂オネエなのだが、声だけでなく人柄も腕っぷしも良い。
エレンがすく傍まで駆けてきた。
「ユミル、お前いつの間にこんなの予約してたんだよ!」
ずいと突き出された引換え伝票をひょいと抜き取り、ユミルはにやりと笑う。
「そりゃお前、お前らが絶対に居ないときに決まってんだろ?」

ベリーたっぷりの季節限定タルト、香ばしい焼き目の数量限定ブリュレ、季節限定フレーバーの茶葉詰め合わせ。

ユミルは時たま、こうやってエレンを拗ねさせるのが好きだ。
煌めく金色と奥深い翠の眼を子供っぽく揺らめかせるエレンが、可愛くて仕方がない。
もちろん、エレンが一番笑顔を見せるのは、美味い菓子を食べているときで。

予約品を2袋に詰めたオーナーが、いそいそと店から出てきた。
「お待たせ、ユミルちゃん。エレンちゃんもいらっしゃい!」
「もう…店長、"ちゃん"付け止めてくれよ。俺男なのに」
「あら、だって可愛いもの。エレンちゃんはきっと、幾つになっても可愛いままよ?」
「えぇー…なんだよそれ」
口を尖らせてしまったエレンへここぞとばかりに差し出されたのは、別にラッピングされた袋。
途端にパッとエレンの顔が輝くのだから、ユミルは苦笑する。
「クッキー!」
「そうよ、私とチーフシェフの新商品モデル! ちゃんと12枚焼いたから、皆で食べてね」
「ありがと、店長!」
これだけ喜ばれたら、職人冥利に尽きるだろう。
ケーキの入った袋を1つ持ち先にミカサとベルトルトの元へ向かったエレンに代わり、ユミルはオーナーを振り返った。
「じゃあ店長、無茶な予約聞いてくれてありがとな」
「良いのよ。だってエレンちゃん、ブリュレの日はいつも来られないもの」
またよろしくね! と見送られ、ユミルもエレンたちの元へ向かう。
(せっかく限定フレーバーあるし、今度エレンに美味い紅茶入れて貰うか!)

ユミルにとって、エレンは弟みたいなものだ。
何処其処の菓子が美味い、という話が一番多いが、エレンが何の気兼ねもなく話している相手である自信がある。
(もっと構ってみたい)
なぜそんなことを思うのか判らないが、ユミルは自分に正直に生きている。
「エレン、帰ったらヒストリア呼んでお茶な!」

何より至福のティータイムを。





4.おいしいもの

邸(やしき)の玄関門でガチャガチャと作業をしていると、こちらへ戻ってくる4人の姿が見えた。
コニーが手を振れば、片手の空いているエレンとユミルが手を振り返してきた。
「何やってんだ? コニー」
門の静脈認証をパスして真っ先に入ってきたエレンが、コニーの手元を覗き込みながら尋ねる。
ちらりと彼を見上げ、コニーはまた視線を手元へ落とす。
「なんか、トラップの反応が遅いんだってよ」
この邸はセキュリティが固い。
それは住む人間も邸の名義人も随分とその筋で有名な為で、狙われる理由を挙げればキリがなかった。
(エレンは目立つからな〜)
センサーのチェックと接続回線の組み換えを終え、パタリと掌サイズの扉を閉じる。
「コニー、ちょっと口開けろよ」
「は?」
手を払い工具箱を持ち上げたところで告げられ、首を傾げる。
するとエレンがクッキーを差し出して来たので、遠慮なくパクついた。
「うぉっ、うまっ!」
食べながら喋るな、とユミルから呆れが飛んでくる。
しかし美味い。

…エレンは菓子に目がない。
普通に朝昼晩と食事をし、尚且つ合間にティータイムを挟む。
好き嫌いはなく、むしろ逆。
近所に菓子屋があれば、ユミルと一緒にあっという間に常連となってしまう。
(あの頃に比べりゃ、すげーもんなぁ)
仕事以外で、エレンがじっとしていることはほぼ無い。
「あ、そうだコニー。夕飯の後さ、PCの組み方もっかい見てくれよ」
違った、画面の中でも駆け回っている。
コニーは笑って頷いた。
「おう、任せろ! AOTのイベント用に強化しとこーぜ!」

『前』と違って兄貴っぽく振る舞えるのが、コニーには意味もなく嬉しい。





5.花に囲まれる

「俺、こっちの荷物ライナーに渡してくる。今の時間なら裏庭だし」
玄関扉の手前でエレンはユミルにケーキの袋を渡し、ミカサから園芸用品の詰まるバッグを引き取ろうとした。
しかし、ミカサがエコバッグを手放すことはなかった。
「良い。私も行くから」
エレンは何かを言おうとして、けれど諦めて息を吐いた。
「…分かった。じゃあ行くぞ」
「うん」

丁寧に剪定された垣根が3重に、一番外側から段々に低く邸を囲う。
裏庭は芝生ではなく砂利が敷き詰められ、表や中庭とは様相が違った。
エレンは自分たちよりも背の低い松の様子を見ているライナーへ、軽く声を掛ける。
「ライナー、頼まれたの買ってきたぞ!」
ライナーはエレンとミカサを振り返り、軍手を外す。
「お、早かったな」
ミカサからバッグを受け取り、中身を確認した。
「種と球根?」
「ああ。そろそろ春物を植える時期だからな」
カレンデュラ、アジュガ、こっちはカンパニュラだ。
へえ、と色違いの両眼を瞬かせるエレンを、ライナーは幼い頃に夢で見ていた。
夢のエレンの眼の色はどちらも金色であったが、宿る光の強さは変わらない。

夢で見て、本物に出会って、そして思った。
…彼から、目を逸らしてはいけない。
後悔なんて言葉では足りなくなると、夢の中でもう一人の自分が言った。

「エレン。明日空いてるなら、1階のアレンジ変えるか?」
花や植物にも興味の強いエレンは、当然だと頷いた。
「やる!」
エレンが庭の手入れをすると、鳥や小さな動物が集まってくる。
彼らに囲まれて楽しそうなエレンを見るのもまた、ライナーのお気に入りだ。





6.食べることは生きること

ライナーにもクッキーを渡し、エレンはミカサと邸へ入る。
手洗いの為に洗面所へ向かうと、廊下の奥から良い匂いが漂ってきた。
西側の窓を、少し傾いた日が照らしている。
「俺、厨房寄ってみる」
別れ際にミカサへクッキーを手渡し、エレンは邸の厨房へ足を向けた。

「お帰り、エレン」
入り口からひょいと覗いた人影に、アニの口許が綻んだ。
そんなに良い匂いした? と尋ねれば、素直に頷きが返ってくる。
「今日のメニューは?」
アニは鍋の蓋を開け、味見用の小皿に中身をそっとよそう。
「今日は鮃のムニエルと、蕪がメインのブイヨンスープ。あとは簡単な煮浸しとひよこサラダだね」
はい、と小皿と小さなフォークを手渡してやれば、分かり易くエレンの目が輝いた。
いただきます、と蕪にフォークを入れ、ぱくりと口へ。
「すっげ、蕪がとける!」
ほろりと口の中で崩れた蕪はしっかりとスープの味が染み込み、蕪の葉とベーコンが香ってきた。
「蕪は油断してると、すぐに溶けるんだ」

アニは、朝以外の皆の食事を賄っている。
食事の準備は皆も手伝ってくれるし、エレンも料理は下手じゃない。
それでもアニは、エレンを含めた面子が少しでも邸に集うのであれば、必ず厨房に立った。
(何でも好きなものが食べれるって、幸せじゃないか)
誰かのために料理を作ることが楽しいなんて、アニは思ってもみなかった。
鍛練の他に料理が趣味だとは、我ながら笑えてしまう。

(私は、エレンに笑って貰うために作る)

アニは何も覚えていないが、ベルトルトが教えてくれたことは真実だと思っている。
だからこそ、アニは美味しいご飯を作り続けることを決めたのだ。





7.知らなかったこと

アニへのクッキーお裾分けついでに自分も食べて、エレンはすっかり小腹を満たした。
邸の奥へと足を向ければ、別の人影がこちらへ歩いてくる。
「あれ? エレン、1人?」
マルコは厨房からこちらへやって来るエレンに小走りで寄った。
「マルコ! ただいま!」
「うん、おかえり。エレン、他には誰も居ないの?」
そこの厨房でアニと一緒だったけど、と続けた彼に、ギリギリセーフかな、とマルコは苦笑した。
「駄目だよ、1人は」
「ここでマルコに会ったんだから、セーフだろ?」
ムッと口を尖らせたエレンが余りに子どもっぽくて、マルコはついその頭を撫でる。
「はは、そうだね。部屋に戻る?」
「いや、みんなを探してる」
はい、と差し出されたクッキーに、疑問符だけを返した。
エレンは笑う。
「いつもの店の店長の新作だって。人数分くれたからさ」

マルコは、かつてエレンの身に降りかかったほとんどを知らない。
訓練兵団からいずれかへ入団する以前に死んでしまったので、話はもっぱらジャンたちから聞いたことばかりだ。
(想像することも、難しい)
なんて残酷な世界だったのだろう。
なんという重さを、エレンは背負っていたのだろう。
それでも幸せはあったのだと聞いて、安堵の息を吐いたのは当然といえた。
(次には、絶句したけど)
「なあ、1Fって他に誰か居るか?」
問われて、我に返った。
「あ、地下の電源ルームにアルミンが居たかな」
「珍しいな。あいつ、地下室嫌いだろ?」
地下が好きな人はそう居ないんじゃないかな、と笑って、2人連れ立って向かった。

マルコは過去にあった多くを知らない。
けれど、知らないからこそ新たに知っていけることがある。
(エレンが甘いもの好きだとか、花と鳥が大好きだとか)
好悪の感情の彩りは、どう思い出しても"あの頃"には見えなかったもので。
『人を知る』ことの意味を、マルコはエレンに教えられている。





8.ぬくもり

追加したサーバーの負荷テストをしていたアルミンは、マシンルーム手前の部屋の開閉ランプに気がつく。
ひやりとするマシンルームからそちらへ戻り、端無く笑みが浮かんだ。
「エレン、おかえり!」
「おう、ただいまアルミン」
マルコがアルミンの作業を引き継いでくれるというので、エレンとアルミンは揃って1Fへ戻る。
「そういえば、ヒストリアが凄く上機嫌だったよ」
「夕飯の前にお茶する約束だからな」
エレンの話に相槌を打ちながら、アルミンは幸せを噛み締めた。

(エレンが居る。楽しそうに笑って、嬉しそうに喋って、…隣に)

エレンとミカサ、アルミンの3人で海を見に行ったときのことを、鮮明に覚えている。
ーーーいつか、3人で壁の外を冒険するんだ!
その約束を、エレンとミカサは覚えていないけれど。
養父たるザックレーに"行ってみたい場所はあるか"と初めて尋ねられたとき、3人は何故か声を揃えた。

『海に行きたい!』

ずっとずっと、生活の仕組みも何もかもが引っくり返るくらいに長い時間が経って。
そうして果たされた約束は、涙となって砂へ吸い込まれた。
「アルミン、ちょっと口開けろよ」
「なに?」
要望に応じて口を開けば、香ばしいものが放り込まれた。
クッキーだ。
「美味いだろ? 俺もさっき食ったけど、すげー美味くてさ!」
あの頃は、もうこんなにも屈託無く笑ってはくれなかった。
それでも。
血腥く、容赦なく、人類に敵意を向けられてなお。
残酷な世界の中で、エレンは幸せそうに笑っていた。
(あの人が、守ってくれていたから)
それは、その当人によって絶たれた箱庭に過ぎなかったけれど。
(僕は、使えるすべてを利用して、エレンを守る)
大人となる前に消された命、二度と喪わせたりするものか。

手を握れば笑って握り返してくれる、その温もりが、アルミンの世界のすべてだ。





9.まもる

エレンの目的地は3階、アルミンの目的地は2階の資料室。
資料室…図書室と何ら変わりない…へ向かうと、ジャンの姿が入り口にある。
「ジャン? 何でお前がここに?」
「アルミンが居なくて困ってたんだよ!」
ここをこんなにした張本人だからな! と息を吐いた彼は、顎で中を見てみろと示した。
エレンが資料室の中を覗くと…なるほど、本棚が空っぽで、本は床に所狭しと積まれている。
アルミンが苦笑した。
「整理してたらいろいろ気になっちゃって。だから買い物も頼んだんだ」
言いながら、彼の手はベルトルトが運び込んだ整理用品を漁る。
「お前は? アルミンの手伝いじゃねーだろ?」
問われたエレンが頷き「ヒストリアとお茶」と告げれば、なら一緒に言ってやるよ、とジャンが廊下へ出た。

2人揃って3階へ向かうが、特に会話はない。
お互い、下手に話そうとすると喧嘩腰になることを理解している。
ただ、口を開かずとも、エレンはその大きな目で語ることがままあった。
僅かだけジャンより下にある、この美しいオッドアイは。
「なんだ?」
「…口、開けよ」
「あ?」
何だって? と問い返そうと開いた口に、何かが問答無用で突っ込まれた。
ジャンに見えるのは、エレンの指の付け根だけだ。
(…クッキー?)
香ばしい香りとさくりという歯応えを十分に味わい、腹へ納める。
甘さは控えめ、けれどこれが3枚ほどあれば、小腹を満たすにはちょうど良い感じだ。
…けれど、そう、何となく気に食わないので。
ジャンは引かれようとしたエレンの腕を掴み、クッキーの粉の付いた指先をぱくりと口に含んだ。
「…っ?!」
身体の内側に仕舞い込まれる舌も、先端を担う指先も、微細な神経が張り巡らされた箇所だ。
まだあまり節くれだっていない人差し指に舌を絡ませれば、掴んだ手首からピクリと震えた。
わざと唇を開きピチャリと音を立ててやれば、また震える。
もうひと回りしゃぶって人差し指を解放し、親指の先をぺろりと舐める。
上目遣いにエレンの顔を窺えば、頬はうっすらと朱に染まり、金と翠の眼は何とも言えぬ風情でジャンを見つめていた。
ピチャ、と音を立てて指先を解放して、腕は解放せずにその手の甲へ口づけをひとつ。
「……」
そのまま指先を絡め握っても、文句は飛んでこない。
色違いの目の奥に微かに灯る期待の色を見つけて、ジャンはほんの少しだけ笑うとエレンの腕を引いた。
合わせた唇の隙間から、忍ばせた舌を擦り合わせる。
「…んっ」
甘い声が漏れる。
離れて目を覗き込めば、どうやら満足いくものであったらしい。
エレンは何も言わないが、ジャンは繋いだ手を引いてまた階段を上り始めた。

(我ながら、人生が2度目でありがたいな)

彼の、幼馴染みの少女に恋をしていたはずだった。
彼女の笑顔にはどうしても彼が必要で、気づけば彼ばかり気にするようになっていた。
(ミカサは強ぇから、見てなくても大丈夫だって思えたんだよな)
『エレンは私が居ないと早死にする』
かつて彼女が言った言葉は、比喩でも何でもなかったのだ。

(今は自由に生きられる。だから、)

エレンが喧嘩をする相手は、ジャンだけだ。
それなら幾らでも相手をしてやって、それから、身の内から溢れるくらいに慈しんでやりたい。
(前の人生で生きられなかった、何十年分を)





10.いっしょに

階段を上がり廊下の角を曲がった途端、向こう側から来た誰かと思い切り良く鉢合わせた。
「うひゃあっ?!」
「?!」
「おい?!」
相手は驚いて後ろへひっくり返り、バッサァ! と手にしていたらしい雑誌が大量に散らばる。
「サシャ! 大丈夫か?!」
「ふぁい…エレンとジャンですかぁ…。びっくりしました…」
エレンが手を差し出せば、彼女はその手を借りスカートの裾を叩いて立ち上がる。
廊下に散らばったのは料理雑誌と女性誌、それにレシピ本だ。
それらを拾い集め、ジャンはサシャを振り返った。
「おい、これ資料室か?」
「あ、そうです。自炊が終わらなかったので置かせて貰おうかと」
「分かった。俺が持ってく」
お前はエレンをヒストリアんとこ連れてってくれ。
ジャンは荷物と共に来た道を引き返し、サシャはくるりとエレンを見遣る。
「良い匂いがします…」
「あ? ああ…どんだけ鼻効くんだよ、お前」
ほら、とエレンがクッキーを差し出せば、彼女は満面の笑みで食いついた。
「んー、美味しいです! これ、あそこのお店ですか?」
「おう。新作だってさ」
話しながら、エレンの目的地へと2人で足を向ける。
彼は大抵、この時間にユミルとヒストリアの3人でお茶をしていた。
「今日のおやつは何ですか?」
「ベリーのタルトと限定ブリュレ。ユミルが予約してた」
聴いているだけでお腹が空いてきそうだ、サシャは零れそうになる涎を我慢する。

エレンは、甘いモノが好きだ。
甘くなくても、美味しいものなら基本的に何だって食べてくれる。
「なあ、サシャってこの間どこに修行行ったんだっけ?」
「南に5駅先のイタリアンバールですよ〜」
「軽食なら俺も作れる?」
「そうですね、いけると思います。ジェラートが凄く美味しいお店でした!」
サシャが手にしてきたレシピを作ってみたいようなので、どれをどうしようかと頭の中で算段を付ける。
(アニにも手伝ってもらって…)
エレンは好奇心が強い。
初めて見る食材、初めて見る料理に、サシャと同じように一喜一憂してくれる。
不味いものは不味いと言うし、美味しければそれを嘘偽り無く伝えてくれる。
(エレンは、真っ直ぐです)
彼は自分を曲げない。
サシャにはそれがとても眩しくて、羨ましくて。
「実は今度また、コース料理作ろうと思うんですよ」
「えっ、マジで?」
「マジです! それで、次はどんなのが良いですか?」
「うーん、あんまり堅苦しくないやつ?」
「うちで作って食べるんですよ! 空気は堅くなりませんってば」

何となく…何となくだが、サシャはもっと以前から、エレンを知っている気がしていた。
食べ物以外に関する頭脳が空っぽなので…自覚済みだ…、勘でしかないのだが。
その"以前"で、サシャは美味しいものを食べて、思ったのだ。
(『こんな美味しいもの、みんなで食べられたら…』)

『みんなで食べたら、もっと美味しかったのに』

サシャは食べることが好きで堪らないが、それよりも好きなことがある。
それはエレンと、みんなと一緒に、ご飯を食べることだ。
(デザート付きなら、言うことなしです!)





11.この美しき日常に

キラリと光を反射するガラスのティーポットで、美しい琥珀色が揺れている。
つるりと磨き上げられた青磁器に注がれた紅茶は、芳しく鼻腔を擽った。
ベリーのタルトを切り分けたところへエレンがやって来て、ヒストリアは微笑む。
「おかえり、エレン」
私も食べたいです! と毎度喚いたサシャを何とか追い出して、エレンが息をついた。
「ただいま、ヒストリア」
ヒストリアの向かいにはユミルが座っており、エレンはその隣に腰を下ろす。
バルコニーに面した洋室の一角、艶の深い黒檀の丸テーブルを囲んで、3人だけのティータイム。
「今日の海はどうだった?」
「んー、昨日より碧色が強かった。あと、港の方にヨットがかなり停まってる」
「ヨット…あー、そろそろ観光シーズンか」
人が増えるな、と憂鬱げに呟いたユミルは、上手いこと切れたひと口分のタルトをフォークでひと刺し。
「エレン」
「ん、」
ユミルから差し出されたタルトを、エレンは雛鳥よろしくぱくりと食べる。
彼はもくもくとベリーの甘みと酸味を味わいながら、ブリュレの表面を割った。
スプーンに掬い取られたブリュレはヒストリアへと差し出され、彼女は少し身を乗り出して遠慮なくパクつく。

(ああ…。平和で、幸せ)

こんなにもゆったりと流れる時間を、かつては終ぞ体験することはなかった。
これからは、と思ったそのとき、ヒストリアが望んだことは二度と叶えられずに。
「ね、エレン。次の休みはジャンに車出してもらって、ショッピングモールに行かない?」
「…着せ替え人形は嫌だからな」
「大丈夫、それはジャンにやってもらうから!」
「……それなら別に良いけど」
ヒストリアとエレンの遣り取りに、ユミルが笑いを堪えている。

ずっと昔に、自分でさえも気付いていなかった分厚い己の虚像を壊してくれた、大切な人。
本当の名に戻った自分を自身でさえ掴めずに居た中、『普通のヤツだ』と肯定してくれた、大事な人。

2人が覚えていないことを、ヒストリアは居もしない神に感謝した。
あんなにも酷い世界の酷い話は、覚えていなくて良い。
思い出さなくていい。
もうすでに新たな人生を始めているのだから、そんなものに囚われなくて良い。
(囚えようとするなら、どんな手段を使ってでも守り抜く)
かつて救い出してくれた、大切な人。
かつて手を引いてくれた、大事な人。
(私は、『私』。エレンとユミルを守って生きる、『ヒストリア』)

ヒストリアの"個"は、長い長い後悔の刻を経て、ようやく自我を持った。
その自我を生み育んでくれた彼らは彼女の親であり、世界よりも愛おしいもの。
そんな彼らと一緒にお茶をして、ヒストリアは今日も心から幸せで笑うのだ。





12.肯定に拒絶

自室の出窓からは広い庭と、ずっと遠くにある海が眺められる。
海岸沿いのこの邸は海を臨むに相応しい位置を持ち、エレンの好きなものがたくさんあった。
「……」
時折、どうしようもないことが頭の中で、胸の内で渦巻く。

大人は嫌いだ。
こちらが子どもだからと甘く見て、平気で嘘をついてくる。
大人は嫌いだ。
こちらが必死に守ろうとした約束を、簡単に反故にする。

("大人"になりたくねぇなあ…)
永遠に子どもであり続ける物語の主人公のように、生きていられたら。
(けど、そんなのはただの"化け物"だ)
時間は止まらない。
生命として生まれたのなら、その時間に沿って身体は生き、老いていく。
ならばせめて、大嫌いな大人たちを反面教師に生きていく。
(…海が見たい)
もっと、近くで。

時折、どうしようもない何かに突き動かされ、エレンは浜辺から動けなくなる。
まるで、呼んでくれる誰かを待つかのように。
(…何でだろ)
いつも誰かが傍に居る、誰も待つ必要などないのに。

ミカサ。
アルミン。
ジャン。
ユミル。
ヒストリア。
アニ。
ベルトルト。
サシャ。
コニー。
ライナー。
マルコ。

家族、友人、恋人、親友、兄弟、悪友、仲間。
すべての関係性がここに在る。
他に必要なものなど、何も無い。
(俺は、俺たちは…『自由』だ。なんだって出来る)
ここから、何も奪わせやしない。
「みんなが俺を大切にしてくれる。守ってくれる。だから、」
腕を枕に、エレンは色違いの双眼を伏せた。


ーーー他に必要なものなど、在りはしない。
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2014.5.19
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