巨人の時代に在ったこと。

(1.あの頃)




「兵長! 書庫の掃除、終わりました!」
階段部分の点検をしていたリヴァイは、階下からの声に手摺から下を覗く。
「分かった。今行く」
「はい!」
元気の良い声の主は、つい7日前にリヴァイ直属班預りとなったエレンだ。
いろいろと特殊な事情の多い新兵だが、リヴァイを含めた班員たちも、ようやく彼の心情を見つめるようになった。
信頼関係が出来つつあることは、素直に歓迎出来る。
(階段は及第点だな)
下の階ではエレンが待っており、リヴァイが近づくと微かに身体を震わせた。
審議所の一件は未だに尾を引いているようで、若干鬱陶しい。
「エレンよ。上の階の窓はやり直せ」
「…はい」
しょぼんとした彼の様子に一瞥くれ、書庫へ向かう。

埃臭さの筆頭であった書庫は、爽やかな空気に包まれていた。
リヴァイは意外性に目を瞬く。
もちろん、書庫も今までに何度か掃除はしている。
だが仕舞われた書物と荷物の量が半端でなく、完全には掃除し切れていなかった。
いつものように壁際の本棚や窓を調べても、埃ひとつ無い。
「…悪くない」
「ほんとですか!」
エレンの声が弾む。
騒がしいものは元来嫌いな筈だったが、リヴァイはエレンの騒がしさが嫌いではない。
そより、と窓から風が吹き込み、ふわりと"何か"が香った。
「おい、これは何の匂いだ?」
発生源を知るはずのエレンへ問えば、彼は笑ってリヴァイが目の前にしている本棚の裏側へ回った。
「これです。裏庭にハーブが何種類か自生していたので」
彼が手にした小さな器の中には、磨り潰された植物らしいもの。
「スッとする香りでしょう? 本の虫干しが終わるまでは、黴臭さが消えないので…」
臭いを香りで誤魔化しただけですけど。
自信なく眉尻を下げたエレンに、リヴァイは思わず手を伸ばした。
気付いたエレンがビクリと反応するが、構うことはない。
ポン、と自分よりも高い位置にある頭を撫でてやれば、金色を宿す両目が見開かれる。
「あ、の…?」
柔らかな髪を堪能するようにわしゃりと撫ぜ、リヴァイは部屋を出ていく。
「お前、今日は昼食当番だろう。3階の窓は飯の後で良い」
早く準備に行けと暗に告げれば、きちんと察したエレンはリヴァイへ頭を下げるとぱたぱたと階段を下りていった。
「…で、てめぇはいつまで覗き見してる気だ?」
階段まで近付き胡乱な声を上げれば、上の踊り場でへらりと気配が笑う。
「いやぁ、バレてた?」
「隠れる気もねえで、よく言う」
降りてきたのはハンジである。
彼女は足取り軽く、リヴァイの元までやって来た。
「まあね」
でも驚いたよ。
その視線は、エレンが下りていった階下へ向けられた。

「この短期間でエレンが貴方に馴染んだのも、貴方がエレンを大切に扱おうとしているのも」

不可解な言葉だった。
「大切?」
壊れ物のように扱ったことは無い。
「んー、そういうことじゃなくて。…って、貴方気づいてないの?」
「何がだ?」
やや眉を顰めたリヴァイに、ハンジは目を丸くした後苦笑した。
彼女はそれ以上何を言うでもなく、手にした1枚の紙を差し出す。
「はい。巨人化実験の要望書。前の"腕だけ巨人化"を踏まえてみたよ」
リヴァイは渡された紙をちらりと見るに留まり、自室へ戻るのかハンジに背を向けた。
「お前、昼飯は?」
「え? 考えてるわけないじゃん」
当然のように返ってきた言葉に、彼女の副官の苦労が垣間見える。
「今から食堂へ行けば、ここでありつけるかもな」
「おっ、マジで!」
じゃあ、有り難くご相伴に預かろうかな!
いつでも機嫌の良さそうなハンジは、更に頬を緩めて階段を下りていく。
1階へ辿り着けば上階にリヴァイの姿など見える訳もなく、彼女はただ視界に映る階段を見上げた。
「…私は、それで良いと思うよ」
ぽつりと零れた声は思った以上に柔らかく、ハンジはふふ、と笑みを浮かべる。
「だって子どもは、大人に守られるべき存在じゃないか」
ねえ? リヴァイ。

(落ち着かない…)
エレンはふるりと頭(こうべ)を振る。
皮の剥き終わった芋を水を張ったボゥルへ放り込み、空いた左手で自身の頭に触れた。
「どうしたの? エレン。もしかして頭痛い?」
同じく昼食当番のペトラが、見兼ねて声を掛けた。
だって、先程から何度も似たような動作をしているのだ、この子は。
エレンははたりとペトラを見つめて、次いで勢いよく頭を横に振った。
「い、いえ違うんです、ペトラさん。体調不良とかじゃなくて…」
「掃除中に頭打っちゃった、とかでもなくて?」
からかう笑みにも違いますと慌てて返して、エレンは新たな芋を手に取った。
「さっき、書庫の掃除を兵長が褒めて下さったんです」
それは凄いことだ、ペトラは素直に感心した。
あの"掃除の鬼"とも形容出来る…実際、ハンジはそう言っている…リヴァイが、掃除の出来映えを褒めるだなんて。
ペトラはまだ、良くても及第点しか貰えていない。
「凄いじゃない、エレン」
ザルいっぱいの芋を剥いているエレンは、流し脇にある踏み台へ腰を下ろしている。
そう、あまり背の高くないペトラにも彼を見下ろせる高さで。
彼女は自身の欲求に逆らわず、エレンの頭をぽんぽんと撫でた。
まるで子どもを褒めるようなそれにエレンは目を瞬き、照れたようにペトラから目を逸らす。
「そ、その…。今ペトラさんがしてくれたみたいに、兵長が頭を撫でてくれて」
思い出して恥ずかしくなったか、頬が赤く染まっていく。
逆に、ペトラは驚いて目を見開いた。
(リヴァイ兵長が…?)
足音が聴こえ、思考を中断するように開きっぱなしの扉を振り返る。
「やっほー、邪魔するよ!」
声高く、ハンジが厨房を覗いてきた。
「ハンジ分隊長、こんにちは。いらしてたんですね」
「うん、ついさっきね〜」
今日の昼食は、賑やかになりそうだ。



エレンには、密やかに育てているものがある。
それはエレンの内側でゆっくりと、けれど着実に育ってきたものだ。
エレンはそれを誰にも見せる気はないし、誰かに気付かせる気もない。
嘘を付くのは苦手だけれど、隠し通すのは得意だった。
隠していることがバレても、隠しているものそれ自体に口を噤めば良い。
(そう思ってきたけど)
最近、育てている"それ"が花開こうとするものだから、少し息苦しい。
誰にも気付かれてはいない。
なのに、苦しい。

調査兵団は、この壁の中のどの組織より死に近しかった。
ゆえに所属する誰もが、明日は我が身と心に秘めて生きている。
夜間、いつものように地下室への階段を下りてくるこの人だって、きっと例外ではないのだろう。
「…お疲れ様です、兵長」
今日は眠気に負けそうであったが、どうやら耐えきれたらしい。
地下牢の扉を開けたリヴァイは、どこか呆れたような表情でベッドに仰向けのエレンを見下ろした。
「さっさと寝ておけと言ったろうが」
手錠の鍵など、寝ていたって掛けられる。
そう言ったのは何日前であったか、しかしエレンが実際に寝静まっていたのは1回だけだ。
リヴァイはベッドに腰を下ろし、手錠を嵌めているだけのエレンの手を取った。
カチン、という音と共に鍵が掛かる。
手錠の鍵を回収して、ようやくエレンとリヴァイの1日が終わるのだ。

けれど、最近はこれで終わりではなかった。

す、とリヴァイの右手がエレンの頭に伸び、まだ僅かだけ湿った髪をそっと撫ぜた。
エレンは日向の猫のように眼差しを細め、武骨な掌の感触を感受する。
(困ったなあ)
数日前の書庫の一件以来、リヴァイはエレンに文字通り接触する回数が増えた。
「あの、兵長…」
「何だ?」
エレンが問い掛ける間も、彼の手はゆっくりと触れてくる。
(…困ったなあ)
堂々巡りに終止符を打つのが、少しだけ怖かった。
「えっと…どうしていつも、こうやって触れて下さるんでしょう?」
「…嫌なら止めるが」
「いえ、まったく嫌じゃないですけど…。何でなのか気になって」
そう、嬉しいから困るのだ。
密やかに育てているはずのものが、身の内から溢れてしまいそうで。
リヴァイの手が、するりとエレンの頬へ下りた。
「…まあ、誤魔化すのも限界か」
エレンを見下ろすようにリヴァイはベッドへ体重を乗せ、ギシリとベッドが軋む。
「一度しか言わねえから、よく聞け」
頬を幾度か滑った指先が、エレンの唇に触れた。

「エレン、お前が好きだ」

エレンの喉がひきつった。
息が出来ずに、薄闇の銀灰を見上げる。
「てめえが俺を嫌っていないことは判るが、その感情がどんな部類かは判らねえ」
目を見開いたままのエレンへ、畳み掛けるようにリヴァイは続けた。
「俺がてめえに思うのは、」
硬い親指の腹が、エレンの唇をなぞる。

その身体に触れたい、
口づけたい、
啼かせたい、
暴きたい、
それから、

どうにかして、守りたい。

「ど…して、そんなこと、言っちゃうんですか…」
駄目だ、溢れる。
(隠しておきたかった)
エレンが密やかに閉じ込めてきたものが、他ならぬリヴァイの手によって零れ落ちた。
ぽたりと流れ落ちた雫に、今度はリヴァイが目を見開く。
枷に繋がれた両手では、声を塞ぐことも涙を拭うことも出来ない。
(伝えたくなかった)
「おい、エレン?」
なぜ泣く?
流れた涙を拭い問うリヴァイへ、開いてしまった花は黙っていてはくれなかった。
目を閉じれば、眦からまた涙が溢れる。

「…好き、です。リヴァイ兵長」

貴方に触れたい、
貴方を知りたい、
貴方の傍に居たい、傍に居て欲しい。

酷く嬉しくて、同じだけ哀しかった。

「言いたく、なかった。伝えたくなんて、…なかった」
涙を拭う仕草の優しさに気づいてしまって、またひとつ雫が零れる。
「何故だ?」
審議所の地下でありったけの殺意と憎悪を塗り込めていた瞳が、水面に映る月のように頼りなく揺らいだ。
「…だっ…て、そんなの、」
邪魔、とまでは言わない。
けれど調査兵団である己たちの隣人は、『平穏』ではなく『死』だ。
守ることの叶わぬ約束など、するものじゃない。

常に見せる元気な様は沈んだ太陽のように鳴りを潜め、エレンはやはり月のように静かに泣いていた。
(馬鹿なヤツだ…)
リヴァイは止まる気配を見せない涙を幾度と無く拭ってやりながら、薄っすらと笑んだ。
「ガキが余計なことに気を回してんじゃねえよ」
エレンが此処に居る理由は何だ?
(巨人化の有用性を証明するため)
リヴァイ班が在る理由は何だ?
(エレンを巨人と人類から守り、時に止めるため)
リヴァイが彼の隣に居る理由は?
(…守るために)

選択肢が潰えたときには、殺すために。

未だ泣き続ける彼の唇へ、そっと口づけた。
驚き見開かれた金色が、ゆら、とランプの灯りを反射する。
「なあ、エレンよ。俺の役目は、お前が暴走した場合に何とかすることだ。
前にも言った通り、『殺す』ってのは最後の手段であって最初の手段じゃねえ」
何のために、精鋭が4人も揃っているのか?
それは殺すためではない、"生かして取り戻す"ためだ。
「お前を生かすにしろ殺すにしろ、その役目を担うのは俺だ。
お前に何かあった場合にどうにかするには、その時点まで俺は五体満足で生きている必要がある」
エレンの双眸が、リヴァイの言わんとすることに気づきハッと揺れる。
「へい、ちょ…」
「"人類最強"を舐めんなよ? クソガキ」
涙はもう、止まった。
ゆらゆらと困惑と共にリヴァイを映す金色の目元を指の腹で撫で、もう一度エレンへ口づけた。
焦る子どもを落ち着かせるように柔く、堪能するように長く。
リヴァイは名残惜しく唇を離し、彼の頭をくしゃりと撫でた。
「ガキはもう寝ろ」
泣いた所為ではない頬の赤みを隠すことも出来ず、それでもエレンは口を開く。
「…あの、兵長」
立ち上がりこちらを見下ろすリヴァイへ、ふわりと微笑った。
「ありがとう…ございます…」
月夜ではなく、日向に綻ぶ花のように。

(どうか、その笑顔が失くなることのないよう)



班員による立体機動訓練では、もはや見慣れた光景がある。
「いってぇっ!」
「エレンよ、てめぇは俺に何度同じことを言わせやがる」
「うぅ…すみません」
先日と同じように体勢を崩し落下し掛けたエレンに、リヴァイの容赦無い蹴りが見舞われた。
「あちゃー。またやっちまったか、エレン」
「判ってても、身体が着いて行けてねーんだな」
リヴァイも班員たちも幾度と無く壁外調査を生還しており、エレンとの技術力はそれこそ雲泥の差である。
彼らから見たエレンは巣立ったばかりの雛鳥で、かと言って、付いて来て貰わなければ困るのが現状。
「ったく、これだからガキは面倒くせぇん…ぅぐっ」
「一生黙っててオルオ」
いつもの辛辣な言葉を投げつけてから、ペトラは前方のエレンとリヴァイへ視線を戻して、そして。
(…えっ?)
何らかの言葉を返したらしいエレンの額を、リヴァイがべしりと叩いて黙らせる。
だが彼の手はそのままエレンの頬をするりと撫で、エレンの眼差しが合わせるようにゆるりと和らいだ。
(えっ…?)
見間違いかと瞬きをすれば、エレンはもう一度お願いします! とリヴァイへ意気込んでいる。
(気のせい…かしら?)
それでも、どこか甘やかで侵し難いあの一瞬が、現実であったと言うなら。
(どうか、失くならないで)
隣の窓から『死』が手招く場所であっても、望む心は自由なのだから。
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2013.10.14
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