毒を喰らわば、
(1.第57回壁外調査)
エレンは後悔していた。
『巨人』がこんなにも、生理的嫌悪をもよおす存在だとは思いもしていなかったのだ。
「マジで気持ち悪ぃ…!」
樹木の上方へ打ち込んだアンカーを支点に、振り子の要領で一気に飛翔距離を伸ばす。
ちらり、と前方の葉影に別の班員の姿が覗いた。
「エレン!」
後方から別の声が飛ぶ。
「はい!」
返事をするや否やブレードの柄を握り直し、エレンは目標とした巨人の頚部目掛けて一気に降下した。
15m級の巨体が、多量の蒸気を上げながら蒸発していく。
「凄いわ、エレン。初めての壁外調査で15m級を2体討伐なんて!」
エレンの前を飛び巨人の焦点を攪乱していたペトラが、エレンの立つ隣の枝へ乗り移り微笑った。
「ありがとうございます。けど、巨人ってほんと気持ち悪いです…」
その言にペトラは、確かにそうよね、と同意を示す。
後ろで別のワイヤーの音が響いた。
「ふん、新兵にしちゃよくやって…ぐっ」
あ、この人また噛んだ。
やや離れた樹上より声を掛けてきたオルオの言葉が不自然に途切れ、エレンは何とも言えない表情をした。
「そのまま一生黙ってれば良いのに」
そうしてオルオに対しペトラから辛辣な言葉が吐かれる光景も、だいぶ慣れたところだ。
ヒュッと風を切る音が聴こえ、エレンは音の方向へ頭(こうべ)を巡らせる。
「なに余裕ぶっこいてやがる。行くぞ」
森の出口が近い。
告げたリヴァイの言うとおり、目を凝らせば巨大樹の並びが途切れる箇所が遠目に見える。
…今回の壁外調査の目的は、ウォール・マリア南方に広がる巨大樹の森の"向こう側"。
あまりに広大なこの森は、幾度にも渡る調査でようやく全容が見え始めたところだという。
「……」
行くぞと言った手前であるが、リヴァイは鋭い眼差しを森の先へ投げた。
(きな臭ぇな)
"何か"が、ジリジリと本能の警鐘を鳴らす。
そこで珍しく迷い足を止めたことが、後に思い返せば僥倖であった。
黙ってしまったリヴァイが見つめる先を、エレンも倣って幹の脇から覗き込んだ。
瞬間。
ーーー ゾ ク リ
四肢を拘束するほどの悪寒が、エレンの爪先から脳へと駆け抜けた。
「エレン?!」
硬直し青くなったエレンに、ペトラが目を見開く。
先程まで飛び回っていたというのに、冷たい汗が噴き出る。
「おい、どうした?」
リヴァイに近い場所で待機していたグンタとエルドも、エレンの異変に気づく。
当然のことながらエレンの様子を目の端に入れていたリヴァイだが、それはペトラたちに任せようかと彼は結論づけた。
「俺は先に、」
「っ、駄目です!!」
言い掛けた言葉を、やや幼さの残る高声が遮った。
遮られた当人を含め、誰もが叫んだエレンを瞠目と共に見返す。
「行っちゃ駄目です、兵長…!」
エレンは流れ落ちる冷や汗を乱雑に拭い、必死にリヴァイを見つめ返した。
(早く、早くしなきゃ、)
この感覚には、覚えがある。
ずっと昔、まだ地下街で暮らし始めて日も浅かった頃。
同じく全身の感覚を奪われるほどの悪寒に襲われたことが、有ったのだ。
身体を縛る硬直を弾き飛ばすように、エレンは叫ぶ。
「兵長…兵長、撤退命令を出して下さい! 早く!!」
その必死の剣幕に、リヴァイさえも気圧される。
呆気に取られ動かぬ上司へ、エレンはなおも叫んだ。
「早くーーっ!!!」
先行するリヴァイ班から、東後方。
ハンジ・ゾエ率いる分隊の中、ジャンとコニーの姿があった。
斜め前方にジャンの姿を見つけたコニーが、スピードを上げ樹々を挟んだ隣へ並ぶ。
「おい、ジャン!」
「何だよ?!」
「これ以上先行ったら、絶対不味いって!」
翔ける風音に負けぬよう声を張り上げた彼に、ジャンはぐっと押し黙った。
(判ってんだよ、俺だって!)
この感覚は、ヤバイ。
とてつもなく。
ギリと奥歯を食いしばり、ジャンは己のさらに前方、班長であるモブリットを追った。
「モブリット班長!」
名を呼ばれ、モブリットは立体機動の速度を緩めた。
振り返れば第104期生の新兵、ジャン・キルシュタインが隣を並走する。
心無しか、顔色が悪い。
「どうした? ジャン」
問われたジャンは半瞬言い淀み、口を開いた。
「班長、これ以上先に行かない方が良いです」
モブリットは我が耳を疑った。
「何だって?」
どういう意味だと眼差しで問われ、ジャンはまたも言い淀む。
(こんな感覚、言葉で説明出来ねえよ!)
けれど、言わなければ。
「上手く説明出来ませんが、物凄く…嫌な感じがするんです。
俺だけだったら気のせいで済ませられるんですが、コニーも同じこと言ってるんです」
班員の内2名がそんなことを言うのだと、モブリットの相談を受けたハンジは悩んだ。
「説明し難い感覚って、人間に残ってる本能であることが多いからね。馬鹿には出来ないんだけど…」
ハンジは一度分隊の足を止めさせ、前方の木々から覗く空を見上げた。
例え壁外経験無き新兵と言えど、その意見を看過するには重たい。
進言してきた新兵は、場の恐怖ではなく『先からの恐怖』を感じているのだ。
「ハンジ分隊長! 信号弾です!」
投げられた声にハッと顔を上げる。
空へ昇る煙は遥か前方より。
(あの位置まで先行しているのは…リヴァイ?!)
もう1発、上がった。
ハンジは大きく目を見開き、考えるよりも先に己の分隊を振り返る。
「全班撤退!」
今まで来た道を一直線に引き返しながら、森の中をひたすらに飛ぶ。
通ったばかりの道だけあって、巨人の姿はまだ無い。
「おい、お前ら。ガスに余裕はあるか?」
やや下方を飛ぶリヴァイの声に、班員たちは次々と返す。
「私は大丈夫です」
「森を抜けても2戦くらいなら出来ますよ」
「俺も大丈夫です」
「まだ余裕あります」
精鋭中の精鋭と謳われる彼らの答えに、エレンは関心しきりだった。
(凄い…)
立体機動装置は、ガスと替え刃がなければただの飾りだ。
消耗が激しいそれらを如何に有効に扱えるか、それが命の分け目とも言えた。
「…すみません。俺は森を抜けたら切れそうです」
実戦と訓練は違う。
ガスも替え刃も、実戦で生き残り続けない限り有効な扱い方は学べない。
ゆえに、新兵であるエレンの返答は予想通りと言えた。
リヴァイは森の木立に他の分隊の姿を捉え、指示を出す。
「森の入口の補給地点で補給を行う。俺たちは殿(しんがり)だ」
「はい!」
森の入口に設けた補給地点には、最後衛であるエルヴィン直属の隊がすでに補給を終えリヴァイたちを待っていた。
班員へ補給指示を出し、リヴァイはエルヴィンの元へ寄る。
「全部隊の撤退要求…。何があったんだ?」
森の奥を見据え尋ねたエルヴィンと同じく、リヴァイもまた次々と森から出てくる兵士たちを横目に次の行動を考える。
「何もねえよ。"まだ"な」
ハンジとミケが追い付いてきた。
「リヴァイ! あの信号弾どうしたの? っていうかちょうど良かったけど!」
「どういう意味だ?」
彼女は補給を行い馬を呼ぶ己の分隊を見つめた。
「モブリットの班の104期生が、青い顔して『これ以上進むな』って言って来たんだ。
えっと、確かジャン君とコニー君?」
隣でミケが驚きを示す。
「お前のところもか。うちもサシャ・ブラウスとミカサ・アッカーマンが同じことを言ってきたぞ」
そこまで聞いて、リヴァイは咄嗟にエレンを呼んだ。
「エレン!」
「は、はい!」
不意に呼ばれ、エレンは慌てて予備の刃を仕舞い込む。
先に指笛で呼んでいた自分とリヴァイの馬の轡(たずな)を引き、隊長クラスの集まる輪へと近づいた。
…未だ、ゾクゾクとした悪寒は収まらない。
リヴァイはエレンから愛馬の轡を受け取り、問い掛けた。
「エレンよ。お前ならここからどう動く?」
立体機動に有利な森を出てしまえば、巨人と遭遇した際に兵団の消耗率は高くなる。
今居る地点からウォール・マリアまでは、直線距離でおよそ10km。
休みなく馬を走らせる分には問題ない。
途中に林と森が点在し、調査兵団の探索ルートは必ずその地点を通るようになっていた。
エレンは鳥肌の立つ腕を摩り、口を開く。
「俺1人だけなら、俺は最短距離でウォール・マリアへ向かいます」
ハンジはエレンの顔色が非常に悪いことに気付き、眉を寄せた。
「エレン?」
ちらちらと落ち着かぬ様子で巨大樹の森を振り返るエレンを見、リヴァイはエルヴィンへ向き直る。
「そういうわけだ、エルヴィン。俺もきな臭ぇ感じはずっと持ってる」
「…そうか」
エルヴィンの決断は早かった。
「全部隊、ウォール・マリアまで撤退する!
分隊1・2はルートC、分隊3・4はルートDにて全速で帰還せよ!」
ルート途中で巨人に遭遇した場合は、正面切って戦うのではなく逃走へ重きを置く。
例えば巨人の足の腱を切る、ナイフやブレードを目に投擲する、等。
すぐ再生されることに変わりはないが、その間の60秒は逃げる側にとってとんでもなく貴重となる。
自身も馬を走らせながら、エレンは前を行くリヴァイの背を必死に追い掛けた。
負傷者を載せた馬車は足が遅い。
それでも幸運なことに、単体の巨人に複数回遭ったにも関わらず部隊に損傷は無かった。
ウォール・マリアを目前にし、エルヴィンは次なる指示を出す。
「負傷者は二人一組で運び上げ、他も直ちに壁上へ登れ! 部隊班長は班員の馬を壁の東側へ誘導せよ!」
すでに早馬を出し、シガンシナ区の南門を開放しないよう要請を出していた。
壁上には常には無い数の駐屯兵が待機している。
殿として馬を走らせるリヴァイ班は、中継地点とも言えるもっともウォール・マリアに近い森を駆ける。
ここへ至るまでに巨人に遭遇はしているものの、可能な限りの戦闘回避策が功を奏した。
リヴァイを含めた6名全員が、この時点でも立体機動装置を使用せずに済んでいる。
巨大樹の森と違い鬱蒼と木々の茂る中を、それぞれに馬を操り駆け抜ける。
前方に見えてきた木々の切れ間に、ウォール・マリアが見えた。
「!」
唐突に森の左手側が暗くなり、リヴァイは舌打ちの後に馬の速度を上げる。
「散開!」
指示の声にエレンが馬を右手に向けたそのとき、バキバキと木々をへし折る音が降ってきた。
頭上に出来た影は、考えるまでもない。
「くそっ、15m級か!」
バラバラと降ってくる枝から頭を庇いながら、エレンとそう離れていない位置を走るオルオの忌々しげな声が聞こえた。
ほんの数秒前にエレンとオルオが駆けていた地点はぽかりと上に穴が空き、ニタリと笑う巨人の顔が覗く。
「エレン! 森の右手から回って兵長たちに合流するぞ!」
「っ、はい!」
突発自体には、地下街暮らしで慣れ切っていたはずだった。
しかし相手はとんでもない巨体で、どうしても思考が一時停止してしまう。
馬を操りオルオの位置を視認し、そして返事を返すことが今のエレンの精一杯であった。
若干の迂回を迫られながらも、森の外から光が入ってくる。
(そろそろ木立が途切れる)
刹那、ふっとエレンの視界を掠めた影。
巨大樹の森で恐怖を覚える前ならば感じなかったかもしれないそれが、即座にエレンの警鐘を鳴らした。
「オルオさん、止まって!!」
叫ぶが早いか、自身も馬の轡を全力で引く。
バクン!
急停止した2人の目前を、巨大な口が開閉した。
その後ろを回り込むように、即座に馬を嗾ける。
「エレン! 左だ!!」
オルオの警告にハッと左を見れば、ほんの5,6m程先の樹上を追ってくる異形の影。
(こいつ、奇行種か…!)
通常であれば、巨人は樹に登りはしないしジャンプもしない。
ならば今追ってくる巨人は、遭遇するともっとも厄介な種類ということになる。
大きさは7m級か。
「っ!」
アンカーを前方の樹へ打ち込みエレンが馬から飛んだ瞬間、その位置を再び巨人の頭が襲った。
(森から出たら逃げ場がない。どうする?!)
どんどん迫ってくる森の終わりへ、エレンは感覚だけで翔けた。
「くそっ、エレン!!」
エレンと彼を追い掛ける奇行種をさらに追う形で、オルオは馬を走らせる。
ピピューイッ!
鋭い指笛が響く。
馬を呼ぶためのものではない鋭い指笛は、信号弾と同じく伝達用に使用されているものだ。
(さっきの15m級は兵長が倒したのか…!)
奇行種の視界に入らぬよう馬を走らせながら、オルオはさすがリヴァイ兵長! と内心で喝采する。
だが、現状は好転しやしない。
「不味い、森が途切れる…!」
森から出れば平原となり、立体機動装置のアンカーは巨人の身体に打つしかない。
それは新兵にはかなりの難易度であり、またオルオたちでもあまりやりたくはないものだ。
…徐々に詰まる、エレンと奇行種の距離。
(木を盾に、飛び出さないように引き返すしかない!)
枝の折れる音が間近で響く。
重心を打ち込んだ前方のワイヤーへ移した直後、エレンが先程まで身を預けていた樹が奇行種によって噛み砕かれた。
奇行種の気持ち悪さは通常種を上回り、エレンは別の悪寒に身体を震わせる。
…身を支配する寒気は、この奇行種の所為ではないのだ。
ピィイイーッ!
後方から響いた指笛はオルオだろうか。
エレンの腕でこの奇行種を何とか出来るとは、さすがに思えなかった。
バキィッ!
次の木へ重心を移すより早く、奇行種がエレンの居た木を砕き折った。
「っ、わ!」
足場を失ったエレンは咄嗟にアンカーを巻き戻し、やや不自由な受身のまま地面を転がる。
日当たりの良さは先に木々がないことを示し、ここが森の出口であることを教えた。
「エレンッ!!」
悲鳴のようなペトラの声が聞こえる。
しゃがみ込んでしまった体勢では、立体機動装置のアンカーは即座に発射できない。
勢い余って森の外へ飛び出した奇行種が、起き上がったばかりのエレンを目敏く見つける。
くわりと開いた口を視界の端に捉えたエレンは、咄嗟に左手を見えた樹木へ向けた。
ガキン、と奇行種の歯が空振り音を立てる。
…ペトラには、エレンの姿が瞬時に移動したように見えた。
「グンタ、エルド、先行して他の巨人を警戒しろ!」
リヴァイの指示が飛ぶ。
自身もブレードを構え直し、ペトラはリヴァイとは逆方向から奇行種の背後へ回り込む。
xxxxxxx!!!
耳を劈く奇声を上げ、奇行種が大きく顔を仰け反らせた。
その先で血が飛び散っている。
(目?)
ただ、その向こうでブレードを逆手に両腕を構えたエレンの方が、酷くペトラの目を惹いた。
昼光さえも押し退けギラつく金は、
(まるで、獣)
生命の危機に瀕したとき、人も動物も等しく本能で動く。
人の場合は動物的本能に加えて、生活を送る上で身に染み付いた行動を無意識に取る傾向がある。
エレンの場合、それは立体機動装置よりもずっと長く、己の身体の一部となっている"武器"の存在であった。
エレンが使う暗殺武器、"Schatten Schlange(シャッテン・シュランゲ)"。
その先端"spitz(シュピッツ)"には、立体機動装置のアンカーと同じく固定用の鈎(かぎ)がある。
通常は閉じられたままだが、射出時に僅かな動作を入れると展開されるようになっていた。
鈎を展開すると、"Schatten Schlange"は"spitz"を本体へ巻き戻すのではなく、"spitz"側へ巻き戻しに行く力が強くなる。
使用用途は、專ら『高所への移動』だ。
暗殺対象となる内地の人間は屋敷に暮らしていることが多く、また1階の警備は基本的に厳しい。
ゆえに"Schatten Schlange"本体帯の強力な伸縮性と強度は、人1人の移動であればこなせるだけの設計を為されていた。
奇行種がエレンを振り返った瞬間、エレンは左手を視界の隅に映った木の幹へ向け"spitz"を放った。
足を踏ん張る余裕もなく加減なしで引かれ幹に激突することになったが、今のエレンには痛みよりも怒りが勝る。
「巨人如きが調子乗ってんじゃねえよ!」
狙われているなら好都合だ。
エレンの目的は、目の前の奇行種を倒すことではない。
ぐるんと奇行種の首がこちらを向くのに合わせ、ブレードを逆手に持ち奇行種へ向ける。
一瞬後に"spitz"がエレンの両腕へ戻った頃には、すでに奇行種は目から血を噴き出し奇声を上げていた。
他の面々には、巨人が目を覆い突然に仰け反った様だけが見えた。
それが何であれ、格好のチャンスが巡ったことだけは明白。
「でかしたエレン!」
森からタイミングを図っていたオルオが、奇行種の肩部へアンカーを打ち素早く飛び上がる。
エレンは立ち上がり、平地へ駆け出すと指笛を吹いた。
馬は存外傍に居たようで、すぐに駆け寄ってきてくれた。
何かの融ける音に馬上で頭を巡らせれば、例の奇行種が蒸気を上げ倒れている。
「ボサッとしてんじゃねえ! 走れ!!」
リヴァイの叱咤の声が飛び、エレンは馬の腹を強く蹴った。
ウォール・マリア突出地区シガンシナの壁上では、殿のリヴァイ班が遅れていることに焦燥感が募っていた。
「来たぞ! リヴァイ兵長たちだ!」
誰かの声に、慌てて誰もが南を注視する。
始めに2騎、少し遅れて4騎。
内5人が壁へアンカーを打ち付け飛び上がり、残った馬上の1人が他の馬と共に壁の東側へと走り出す。
次々と壁上へ上がってきたのはリヴァイ、ペトラ、グンタ、オルオ、そしてエレン。
馬を退避させたのはエルドのようで、そちらには壁上に何人か配したので大丈夫だろう。
エルヴィンは内心で息をつく。
壁上へ着地したエレンは、膝が笑い立ち上がれなくなった。
そのまま座り込んでしまった彼を、ペトラが労わる。
同じ視線の高さへしゃがみ、ぽんぽんとその肩を叩いた。
「よく頑張ったわ、エレン」
声が出せずに弱々しく笑みだけを彼女へ返したエレンは、ハッとたった今駆け抜けてきた平原を振り返る。
「お、おい、あれ…!!」
誰かの驚愕の声が、波のように周囲へ広がった。
遠く南の地平を覆う巨大樹の森から、1体、また1体と巨人が現れる。
湧き出てくるとでも形容すべきか、その数はあっという間に増大した。
「あっははは…マジで…」
自他共に巨人好きを隠さぬハンジですら、口から漏れ出たのは乾いた笑みだ。
ぞろぞろと群れを為す巨人の数は、30を超す勢いとなる。
「おい、ハンジ。つっ立ってねぇで砲台の的位置まで分隊を移動させろ。ミケ、てめぇの分隊もだ」
リヴァイの苛立ち紛れの命令で我に返った。
「おっと、そうだった。全員西側へ即時移動! 駐屯兵団が巨人を狙いやすい位置にね!
あと負傷者は二人一組で壁内へ降ろして救護班。新兵の諸君は救護班の手伝いに回ってくれ!」
「はい!」
残りの分隊へ同様の指示を出し、リヴァイは自班の面々が集う一角へ向かう。
「何してる。俺たちも移動だ」
「兵長!」
初めにリヴァイの姿を捉えたのは座り込んでいたエレンで、他の面子は未だ地平線を凝視していた。
「…兵長」
「なんだ?」
グンタの声に相槌を返してやれば、彼の声音はらしくもなく震えていた。
「もしあのまま作戦通りに森を突っ切っていたら、あの巨人の群れに遭遇したってことですよね」
「だろうな」
返せばそれきり彼は黙ってしまい、しかし立ち上がったグンタはエレンの頭をぽんと撫でた。
言葉は何もなかったが、とても暖かな手であった。
グンタに倣ったかエルドとオルオも…オルオは少々乱雑に…座り込むエレンの頭を撫でて、他の兵士たちの元へ向かう。
「…あの馬鹿オルオが。エレンの髪が乱れちゃったじゃない」
オルオの背に冷たい一瞥をくれ、ペトラは若干乱れたエレンの髪を手櫛で直してくれた。
そうして先に行ってしまった先輩たちを見送り、エレンは幾度も撫でられた頭に片手で触れてみる。
(なんか、くすぐったい)
わざわざ待ってくれたのであろうリヴァイの声が、今度こそ落ちた。
「おい、てめぇはいつまで座ってるつもりだ?」
あ、ヤバイ蹴られる。
「…すみません。安心したら力入らなくなって立てなくて」
「あぁ? 腰抜かしやがったのか」
正面に立つリヴァイの向こう側。
巨人の群れが大きくなり、合わせるように駐屯兵団の緊張が高まっていく。
そういえば、固定砲台が使われる様を見るのは初めてだ。
危惧した鋼鉄の蹴りがいつまで経っても来ないので、エレンは首を傾げた。
「兵長?」
見上げた先のリヴァイが、これみよがしに溜め息を吐く。
その足がこちらへ踏み出され、エレンは身を固くした。
「? …わっ?!」
すぐ傍までやって来たリヴァイの右腕がエレンの脇腹へ差し込まれ、戸惑う間に視界が大きく揺れる。
「ちょっ、兵長?!」
まるで麦袋を担ぐかのように担ぎ上げられ、驚きよりも羞恥が勝った。
「お、下ろして下さい、歩けますから!」
「たった今立てねえっつったのは誰だ。じっとしてろ」
落とすぞ。
低く続けられ、エレンはビシリと硬直した。
(落とすって…)
まさか50m下とか言わないよな…?
「エレン?! どうしたの怪我したの?!」
調査兵団本隊が移動した西側へ近づくなり、ハンジが駆け寄ってきた。
まあ、リヴァイに担がれているような状況では心配されるのも当然だろう。
上体を起こし後ろへと捻って、エレンはようやく彼女と顔を合わせる。
「す、すみません。怪我はないんですけど…」
何だか兵士たちの視線のほとんどが自分に向いている気がしたが、エレンは気のせいだと思っておいた。
リヴァイが面倒くさそうに口を開く。
「奇行種に襲われて、啖呵切って一撃くれたんだ。ここで恐怖がぶり返そうが問題ねえだろ」
「えっ? まさかさっき遅かったのってその所為?!」
ズゥンッ! と腹の底に響く音が轟いた。
エレンがもう一度向けた視線の先で、巨人の群れに次々と砲弾が襲い掛かっている。
(あのレベルの武器だと効くのか…)
不意に体勢が変えられ、どすんと何処かへ降ろされた。
突然のことに尻が痺れる。
「あの、兵長…?」
けれど自身の上に出来た影が動かず、エレンは戸惑った。
「エレンよ」
「はい、?」
呼び声に顔を上げれば、くしゃり、と先の先輩たちよりも大きく無骨な掌がエレンの頭を撫でた。
「よくやった」
エレンは目を見開く。
(今、この人)
ーーー微笑った。
>>
2013.9.20
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