毒を喰らわば、

(2.帰郷)




途切れることのなかった砲台の音が止む。
周囲から巨人が掃討されていることを確認し、調査兵団はようやく外の馬を引き入れに向かった。
「リヴァイ兵士長!」
馬と愛馬を探す兵士でごった返すシガンシナ区南門付近。
やや高めの声がリヴァイを呼び、早々に愛馬と再会していたリヴァイは頭(こうべ)を巡らせた。
見ると、金髪の少年と黒髪の少女がやって来る。
(こいつらは確か…)
「第17班所属、アルミン・アルレルトです。こっちはミカサ・アッカーマン。
リヴァイ兵士長に、エレンのことについてお願いがあります」
そうだ、彼の幼馴染だといった2人だ。
少女の方は第104期生の成績1位であったので、多少は知っていた。
2人の綺麗な敬礼を見返しながら、リヴァイは馬へ乗る。
「次第によるが、何だ?」
即してやると、アルミンは一度口を閉じた。
「…僕たち2人とエレンに、1時間で良いので自由行動の許可を下さい」
「理由は」
アルミンはリヴァイを見上げた。

「ここシガンシナ区は、エレンの故郷です」

自身の馬の無事を確認していたエレンは、掛けられた声に驚いた。
「エレン!」
すでに移動を始めている、ミケ・ザカリアスの分隊に属するミカサだ。
「ミカサ?! お前、何自分の班から離れてんだよ!」
彼女の右手は馬の轡(たずな)を引いている。
「大丈夫、許可は取った。あなたの許可も、リヴァイ兵士長から取っている」
「は? 許可って何の」
ミカサはエレンの手を取った。
「行こう。アルミンも待ってる」
調査兵団の本隊が通り過ぎるのを通りの隅で待てば、反対側の路地にアルミンの姿を見つけた。
彼はすでに馬に乗っている。
ミカサが馬に乗りそちらへ駆けたので、エレンも馬上の人となり彼女を追い掛けた。
「おい、何なんだよ2人共…!」
「良いから良いから。早く行こう!」
なぜそんなにも幼馴染みが嬉しそうにするのか、エレンには皆目分からない。

ーーーあっ、調査兵団だ!
ーーーすげー! カッコイイな!

街の中を並足で進む。
ちらちらと寄せられる好奇の視線は、思っていたよりも明るいものだ。
(エルヴィン団長になってから、死亡率下がったって言うしな…)
巨人は南から来るとされる。
ゆえに人類進出のために壁外調査を行う調査兵団は、壁内最南端のシガンシナ区から出発することが通例だ。
この地区の住人は、他のどの区に比べても調査兵団が近しいのだろう。
またもくすぐったい気持ちを持て余しながら、エレンは前を行くミカサとアルミンを追う。

石畳の道を、左へ、北へ。
いくつかの角を曲がった処で、エレンはようやく気がついた。
(この、先は…)
知っている。
この先にあるのは、10年と少し前に『別れた』もので。
…だから、自身の前を歩くのはこの2人なのだ。
無意識の内に馬の轡に力が入り、ミカサとアルミンから距離が空く。
(行けるわけ、ないだろ)
石畳を蹴る蹄の音が減り、ミカサは後ろを振り返った。
「エレン?」
馬を止めこちらを見つめるエレンの目は、所在無さげに揺れている。

「…俺は良い。お前らだけで行ってこいよ」

同じくエレンを振り返り、アルミンはふと思い当たった。
(こんな目をしたエレンは、初めて見た)
ずっと前、ウォール・ローゼで彼に偶然再会したときも。
訓練兵になるからと会いに来てくれたときも。
訓練兵としての3年間も。
こんな、不安に揺れるエレンなど目にしたことが無かった。
(それが、エレンの強さだと思っていたけど)
間違いではないが、きっといくつかは違っていて。
今になってようやく気づける程に、エレンとの別離は長かったのだ。
(ああ、でも)
"そんなこと"で不安になる必要など、もうどこにも無い。
アルミンはクスクスと笑った。
「…馬鹿だなぁ、エレン」
隣で馬を止めたミカサも、薄らと微笑んだ。
「アルミンの言うとおり。エレンは馬鹿」
馬と共に引き返してきたミカサが、轡を握るエレンの手をきゅっと握った。
「大丈夫」
不安に揺れる瞳を向けるエレンが、ミカサは愛おしいと思う。
ミカサの知らないエレンの方がもうずっと多くて、一番色濃いのは訓練兵団の3年間。
それでも、10年近い時が経っても変わらないものがあるのだと、教えたい。
「行こう、エレン」
轡ごと彼の手を引けば、エレンはもう逆らわなかった。
ただ、俯いた表情は見えない。

最後のT字路で、アルミンが反対側へ馬を向けた。
「僕、ハンネスさんを呼んでくるよ」
「分かった」
彼の姿を見送って、ミカサが向かう方向を見る。
(…うちがある)
遠い記憶となってしまったかつての我が家が、同じ姿で建っている。

ここに、住んでいた。
両親とミカサ、そしてエレンの4人で暮らしていた。
(でも、俺は)
エレンのシガンシナでの記憶は、そこで終わったのだ。

ミカサはエレンが路地の入り口から近づいて来ないことを承知で、馬を繋ぎ自宅の呼び鈴を鳴らした。
内側からの問い掛けに、声を上げる。
「カルラおばさん、ミカサです。ただ今戻りました」
扉が開き、ミカサの養母であるカルラが顔を出した。
調査兵団のジャケットに酷く驚いた彼女に、少しの罪悪感を覚える。
「おばさんに、会わせたい人がいるんです」
ミカサは"エレン"とは言わなかった。
(母さん…?)
最後に見た姿は、薄情なことであろうが覚えていない。
生き延びることに必死で、生き残ることに必死で、無償の愛を受けた記憶は尽く朧になった。
それでも思い出の面影は重なり、年月の重なりを思う。
カルラの目がエレンを見、その目が大きく見開かれ、そして。

「エレン…っ!!」

自分の名を、呼んだ。
エレンは動けなかった。
目の前まで駆けてきたカルラが、思い出すようにエレンの頬を包み、撫でる。
ぎゅうぅと、強く全身で抱き締められても。
「エレン、エレン…!  生きていてくれて、本当に良かった…っ」
全身全霊で、自分の生を喜んでくれている。
なのにエレンは、戸惑うばかりだった。
「どう、して…」
その先に何を問いたかったのか、エレン自身にも解らない。
だがカルラは、涙に濡れた笑顔で息子の額に自分の額を押し当てた。
「解るわよ。だってあなたは、私の大事な息子だもの」
ああ、そうなのか。
理解なのか納得なのかさえ判別出来ない何かが、すとん、とエレンの胸に落ちた。
「…っ」
人買いに拐かされ、否応なく別れたこの人は、己の母。
そして自分は息子。
母の向こうから父が駆けて来るのを見て、エレンは微笑う。
目尻から零れ落ちた涙は、地下街へ渡って以来の忘れ物だった。



*     *     *



ずっと昔、俺が師匠(せんせい)のところで暮らし始めて半年くらいの頃、同じことがあったんです。
全身に悪寒が走って、周りは暑いのに寒気で歯の根が噛み合わない。
あのとき、たくさん死んだんです。
リヴァイさんも地下街に居たから分かると思いますけど、気づいたら子供が集まってる場所ってあるじゃないですか。
ちょっと年上のヤツがスリ集団作ったりとか、美人局(つつもたせ)の子供版みたいなのもあったなー。
そこに行ったら自分に近い年齢のヤツが居て、手しか出て来ない屑も多かったけどガキ同士遊ぶことが出来た。
…で、その悪寒が襲った原因ですけど。
憲兵団の一斉摘発でした。
運悪く、俺たちの遊び場に賭博と強殺で追われてた一味が潜伏してたんですよ。
道の片方に火を付けられて、袋小路で煙に巻かれたヤツが出てくる反対側で斬る。
そんな感じで、火に巻かれたヤツは有無を言わさず全員殺されたらしいです。
俺は例の悪寒で顔も真っ青で、他のヤツらに「調子悪いならさっさと帰れ」って追い出されたんですよ。
一緒に遊んでたコニーが「研ぎ料請求に行く」ってんで、俺を送ってくれて。
次にそこに遊びに行ったのは4日後で、呆然としました。
何にも無かったんです、黒焦げた地面以外は何も。
一体何があったんだか皆目分からなくて。
後で運び屋の仕事途中にジャンに会って、ジャンに「お前生きてたのか!」て思いっきり驚かれて。

「それからは、"不味い"と思ったら絶対に進まないようにしてます」
遊びに行く先だろうが、逃げる先だろうが、仕事中であろうが。
何を置いても、エレンは自身の感覚を優先した。
外れたら外れたで構わない、外れて良かったと思えば良いだけの話だ。

心地良い倦怠感の中、つらつらと思い出すのは随分と昔の話。
鋼のような筋肉に覆われた身体に後ろから抱き込まれ、エレンはほう、と息を吐く。
「ねえ、リヴァイさん。昔の俺の夢、調査兵団に入ることだったらしいですよ?」
「あぁ?」
どの口が言ってんだと言わんばかりの相槌に、クスクスと笑う。
エレンは自分を抱き締めるために前に回された手を片方掴み、まじまじと見つめた。
自分の手よりも大きく、硬い掌。
握ってきた得物は似たようなもののはずだが、並べるとエレンの手は女のそれのように華奢だ。
「…っ!」
肩と首の境目辺りにやわく歯を立てられ、ビクリと身体が震える。
痛みよりも快感に近い刺激に、息を詰めた。
「地下で半年も逃げやがった奴の言う台詞か?」
エレンに言わせれば、半年に"届かず"逃げられなかったのだが、リヴァイにとっては逆となる。
「ちゃんと聞いてください。"らしい"って言ったじゃないですか」
今度は噛まれた箇所をぬるりとした舌が這い、反射的に肩を竦めた。
「覚えてねえのか」
どうでも良さそうに尋ねられ、過ぎたことなので同じようにエレンは返す。
「まったく」



調査兵団のジャケットを纏う自分を改めて見遣った母は、寂寥の垣間見える笑みを浮かべた。
『あなたは結局、夢を叶えちゃったのね』
何のことだか分からず困惑するエレンの頭を、伯父のハンネスがわしゃわしゃと豪快に撫でる。
彼は駐屯兵団のシガンシナ地区班長だ。
『しかも初めての壁外調査から生還した! 俺よりずっと立派な兵士じゃないか』
もちろん、ミカサとアルミンも同様に。
(俺の、夢?)
調査兵団本部への帰り道、幼馴染みに確認すれば、大きく頷かれた。
『そうだよ。"調査兵団に入って外の世界を見に行くんだ"って』
『エレンと私とアルミンで冒険して、"海"を見に行くって』
覚えてないの? と眼差しで問われ、エレンは素直に首肯する。
アルミンが首を傾げた。
『え? じゃあどうして調査兵団に入ったの?』
『…そういう勝負をしたからな』
『勝負?』



エルヴィンとリヴァイが勧誘に来たとき、エレンは素気無く断った。
その後も何度か彼らはエレンに会いに来て…しかもジャンの手を借りずに…、とてもしつこい。
特にリヴァイの眼は完全にエレンを捕食対象と捉えており、諦めさせるには時間が必要だった。
そしてエレンが出した結論が、 "鬼ごっこ"である。
『地下街で俺を捕まえられたら、調査兵団に入っても良いですよ』
期限は6ヶ月。
だというのに、6ヶ月目の半ばでリヴァイに捕まってしまった。
(今思い出しても、あれは本当に不覚だ)
エレンの首筋を舐め上げたリヴァイが、軽く鼻を鳴らす。
「てめぇの様子だと、里心が着いたわけでもなさそうだな」
悪寒以外で背に走った感覚を、エレンは目を閉じてやり過ごした。
「…まあ、そうですね」
寧ろ逆か。
チリ、と状況に不釣り合いな気配が漏れ、リヴァイは上半身を起こす。
後ろから抱き込んでいたエレンを仰向けにさせれば、夜闇に翳らぬ金色がこちらを見上げた。

地下の暗闇で爛と光る、金。
リヴァイがあの日魅入られた、それ。

「…てめぇ、」
唸るように零せば、金の瞳は僅かな光源を取り込み鋭く尖る。
威圧を隠さぬ銀灰に怯むこと無く存在を主張する、そうそう出会えぬ獣飼う者。
「だって、巨人なんかより人間の方が醜いじゃないですか」
人間、と口にした直後に漏れた気配は、剃刀と同じ。
「だからやっぱり、俺が憎いのは人間だ」
己の両親と同じように、涙する人がいる。
涙させた原因は、今もどこかで笑って肥え太る。
憎まずして、何をしろと言うのか。

滲み出た気配は部屋を満たし、知らずリヴァイは喉を鳴らした。
この男、怯むような可愛げを持ち合わせて生まれてはいない。
「…エレンよ。あんまりその目をするんじゃねえ」
屈服させたくなる。
こちらを覗き込むように囁かれ、ぞくりと聴覚が痺れた。
「リ、ヴァイさん…?」
あまり明瞭でない思考で名を呼べば、てめぇは煽り方があざとい、と溜め息混じりに零される。
それが不穏な言葉であると察することが遅れたのは、やはり不覚だった。
「…っ?!」
悪意と思わずにはいられぬ箇所をぞろりと撫ぞられ、エレンの身体が跳ねる。
伸し掛るように体重を乗せられ、押し返そうとした腕はあっさりと捉えられてしまった。
「っ、ちょっと、また…っあ!」
ヤる気なのかと続くはずの声は、抑え切れずに漏れた自身の甘い声が塞いだ。
それでも文句を紡ごうとするエレンを見下ろし、リヴァイは意地悪く笑う。
「とりあえず黙れ」
喉元に喰らいつかれ、腕を捉えていないリヴァイの片手は容赦なくエレンの下肢を開きに掛かる。

去ったはずの熱にまたも浮かされ始め、拒む意思も流されて。
せめてもの抵抗に、エレンはリヴァイの硬い背へと爪を立てた。
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2013.9.20
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