黄玉ピトフーイ





石壁がブーツの足音を響かせる。
音は反響し、遮るもののない廊下を進んでいく。
目的地までの道のりは暗闇、手元のランプでは足先程度しか照らせない。
硝子向こうの外を見遣れば、そちらもまた夕闇が暗闇へ切り替わった後である。
しかし晴れた夜空は月が無くとも明るく、リヴァイが向かおうとしている場所よりも見通しが良い。
朧な記憶を掘り起こし、リヴァイは目的地が近いことを察した。
手にしたランプの光源を落とせば、闇が押し寄せる。

人の住まぬ此処は、ウォール・ローゼ調査兵団旧本部。
週に1度以下の割合で、兵団の訓練時に周囲の環境と合わせて使用されている。

暗闇に目が慣れた頃合いを計り、また足を進めた。
目的地の扉が、闇の中に別の明度で浮かび上がる。
リヴァイは口角を上げた。
(なんて殺気出しやがる)
廊下の端にランプを置き、両手を空ける。
完全に目が慣れるまで待つ間に、目的地…旧本部の食堂…の間取りを思い出す。
等間隔に並んだ6人掛けのテーブル、3人掛けの長椅子、厨房への扉、そして窓。
ざわざわと皮膚が粟立つ感覚は恐怖などではなく、沸き上がるような興奮。
(この向こうに、)

『獣』が居る。

気配は消していない、しかも食堂の出入り口は1つだ。
リヴァイは徐に扉を開く。
中もやはり闇、閉鎖空間ゆえに廊下よりも黒が濃い。
僅かに首を傾ければ、一瞬の熱がリヴァイの右頬に生まれた。
同時にトン、と耳の脇で上がった音は、以前に聴いたものとは違う。
…動きの気配はない。
食堂の中へ完全に入り込み、後ろ手に扉を閉める。
カチン、と鍵の掛かる音が鳴った瞬間、蹴りがリヴァイを襲った。
上げた左腕のガードが痺れ、舌打つ。
(チッ、重くなってやがる)
次は空いた脇腹目掛けて、おそらくは右拳。
右足を軸に身体を反転させ、躱す。
流れるように伸びた次手を、リヴァイは大きく飛び退くことで避けた。
他に音が存在しない空間、風を文字通り斬る音はよく響く。
突き出される一閃は正確にリヴァイの急所…主に首…を狙い、リーチの長さから刃渡りを推測した。
(どこに仕込んでる?)
この1本だけではないだろう。

記憶に合わせて右手を横へ伸ばすと、固い感触…テーブルが当たった。
椅子、テーブルと飛び上がり一閃を避け、左足を振り抜く。
振り抜いた足は何も捉えはしなかったが、リヴァイはようやくもうひとりの存在をその目に認めた。

暗闇で、まるで猫のように大きくぎらつく金色を。

(猫? いや、狼か)
脳内でひとりごち、舌で唇を湿らせる。
それはどう見ても舌舐めずりであったが、生憎と見える距離には誰も居ない。
("アレ"は使って来ねえのか)
闇に溶けこちらを窺う相手…エレンが身に付けている武器は、他の兵士も身に付けるナイフだけではない。
彼にのみ扱える、リヴァイでさえ明確な殺意の元に使われれば落命する武器がある。
(…使わねえなら、)
投擲されたナイフはやはり首を狙い、避けるよりも先にリヴァイは大きく足を踏み込んだ。
相手の居るであろう箇所に蹴り込む、そこに気配はない。
だが方向は分かった、十分だ。
次いで突き出した拳には何かが掠める。
夜闇の視界に相手の姿は見える、しかし…疾い。

リヴァイがエレンとの勝負に勝ち、彼を地上へ引っ張り出したのは3年と半年前。
その間、巨人に対する戦闘訓練が主であったことは間違いない。
元より、エレンの身の軽さは知っていたが。
「!」
一瞬エレンの気配が消えた。
直後、鉛のような重い衝撃を腹部に食らう。
「ぐっ…!」
息が詰まり身体が硬直する1秒、それを狙い澄まし凝縮された殺気が迫った。
皮膚1枚で躱した先の金色が、忌々しげに歪む。
「…クソガキが」
忌々しいのはこちらの方だ。
ナイフを手にした腕が引く、そのほんの僅かな時間差に競り勝ち、リヴァイの手がエレンの腕を掴んだ。
まだ細いそれを折れそうな程に掴み、距離を取れない身体へ蹴りを叩き込む。
「…っ?!」
受け身も取れずまともに蹴りを受け、エレンは自分の内側で骨が歪に軋む音を聞いた。
「がっ、は…っ」
ふっと浮遊感を覚えたときには、考える隙さえ無く背中から床へ叩き付けられた。
あまりの鈍痛に脳髄が痺れ、揺れる。
袖に仕込んだ残りのナイフは手の届かぬ場所へ弾かれ、四肢は的確に押さえ込まれて動けない。
痛みで滲んだ生理的な涙の向こうに、リヴァイが見える。
(憎い、憎い、憎い、憎い…!)
燻り続けていた火は、他でもない『人間』によって形(なり)を変えた。
「お、れが…」
目の前が紅く染まる。

「俺が憎いのは、人間だっ!!」

それはもはや、気持ち良い程に純粋な殺意。
純度の高い油で燃える炎は、このように美しく輝くのだろうか。
知らず、唾を呑み込んだ。
「…知ってるさ。だが、てめえを逃がすわけにはいかねぇんだよ」
調査兵団としても、リヴァイ個人としても。
腕を掴む指先に力を込めれば、ミシリと嫌な音がした。
それでもエレンの眼に宿る殺意は揺らぐことなく、腕を外そうと手首に立てられた爪が食い込む。
明かりひとつない空間で、互いの存在だけが顕(あらわ)だった。

「…ーーっ!!」

不意にエレンの口から甲高い矯声が上がる。
押さえ付ける膝頭で彼の股の間をなおも刺激してやれば、立てられた爪が離れた。
「やめ、…っ、あ…っ!」
この身体に、快楽を教え込んだのはリヴァイだ。
幾ら心情がかけ離れていたとしても、手慣れた温度と感触を拒む術をエレンは知らない。
肌を直接なぞった掌に、組み敷いた身体が跳ねる。
拍子に腕の力も緩んだことを逃さず、リヴァイは白さの浮く首元へ噛み付いた。
「いっ、た!」
突然の痛みは鋭さを伴い、エレンは強く眉を寄せる。
リヴァイは滲み出した鉄錆びの味を舌で舐めとり、己の噛み跡を見下ろした。

ぞわり、と腹の底から沸き上がるのはどす黒い欲。

単に生死を賭けるなら、分配はエレンに上がるだろう。
リヴァイが掛け値無しにそう断じるのだから、調査兵団の中にエレンを止められる者は居ない。
けれどエレンは、"死"を天秤に乗せはしなかった。
確実に"殺す"武器を使わなかった、その理由はどうだって良い。
「てめえを手放す理由なんざ、何処にもねぇんだよ」
せせら笑う銀灰に、金色が険を増す。
先の悲鳴の他に言葉は無く、獣じみた獰猛さと結晶化した殺気のみをエレンは纏う。

こんなものに出会えるとは、なんという僥倖か!

リヴァイが浮かべた笑みの意味を、彼は悟れるだろうか。
「…まあ、悪く思うな」
どんな顔でリヴァイがそう囁いたのか、エレンには見えていなかった。
ただ、押し退けられないリヴァイの肩口を掴んだ指先が、ぎちりとその皮膚を切り裂いた。



*     *     *



ランプを下げて、ハンジは人気のない廊下を歩く。
(もう、エルヴィンも無茶苦茶な…)
本当に、此処にリヴァイとエレンが居るのか。
確かに厩舎には2人の愛馬が繋がれていたが、それにしたって。

会議の途中で退席したエレンと、会議が終わった後に本部を出て行ったリヴァイ。

思い出して、知らず背筋が冷える。
「ん?」
足音が聴こえる。
ハンジは立ち止まり、ランプを前方へ掲げた。
「…誰だ?」
暗闇の先から警戒を滲ませた低い声に問われ、ふぅと肩の力を抜く。
「リヴァイか。私だよ、ハンジ・ゾエ」
「チッ、てめえか」
舌打ちはないだろう、毎度のことながら。
「あれ? エレンは?」
ランプ1つの光源は狭い。
リヴァイの姿しか見えず、ハンジは首を傾げた。
「あ? よく見ろ」
何を、とこちらから彼へ1歩近づいて、ぎょっと目を見開いた。
「ちょっ、エレン?! 大丈夫?!」
明かりが近づいたことでエレンの姿が浮かび上がったが、彼はリヴァイの肩に担がれた状態であった。
それもぐったりとしていて、意識も無い。
ハンジは慌てて担がれたエレンへ寄り、さらに悲鳴を上げることになった。
「ちょっと、エレン血ぃ吐いてるんだけど?! あなたまさか本気でエレン殴った?!!」
エレンの唇が、暗闇でも鮮やかな紅色に染まっている。
…彼女が研究欲やテンションで騒いでいるわけではないことは、リヴァイとて理解している。
しかし、その声がやたらと耳に響いて眉を顰めた。
「うるせぇ…。それはコイツの血じゃねえよ」
「え?」
ハンジはようやく、目の前の可笑しな状況に気がついた。

自他共に認める潔癖症でやたらときっちりしているリヴァイが、上にシャツだけを身に着けている。
ボタンも留められておらず、羽織っていると形容した方が近い。
そして白いシャツのところどころには、血が滲んでいた。
(これ、もう落ちないな…)
ちらりとエレンを見遣れば、彼も似たような格好である。
首筋にくっきりと刻まれた歯型が、暗がりの中でも痛々しい。
「……」
たっぷり5秒を考え込んだハンジは、とりあえずの疑問をすべて投げ捨てた。
深い溜め息を吐き、やって来た方向へくるりと転換。
「お湯沸かしてくるよ。15分もすれば沸くから、タオルとシーツ探して医務室行っといて」
いちおう言っとくと、医務室は1階の左奥だからね。
ハンジを見送り、リヴァイは言われたばかりの医務室へ向かう。



リヴァイが我に返ったとき、エレンはとうに意識を飛ばしていた。
何があった、というより自分が何をしたかは明々白々であり、弁解の余地はない。
…立場上、リヴァイは理性のリミッターが非常に堅いというのに。
理性の箍が外れて記憶さえも曖昧であるなど、一体いつぶりか。

医務室へ到着し、部屋の明かりを点ける。
使われていないということは無いらしく、思っていたほど埃臭くはない。
エレンをベッドへ下ろし、寝かせる前に彼のシャツを脱がせる。
途端、黒と肌色の強烈なコントラストが覗いた。
(チッ、目の毒だな…)
両腕にぐるりと巻き付いた黒。
肩の後ろへ消える黒は背から腰骨へ下り、腰に回る留め具に嵌められている。
(引っ掛かっていたのはこれか)
明るい中で見ても外す方法は見当が付かず、リヴァイは無視することに決める。
下半身も下着まで脱がせてしまってから、裸の身体にシーツを掛けた。
…エレンの唇の紅色は、リヴァイの血の色だ。
その事実に如何ともし難い征服欲を満たされた気がして、そっと彼の唇を指先でなぞる。
「お待たせ〜って、うわ。あなた思ったより血塗れだね…」
湯を入れたポットと洗面器を手にしたハンジは明かりの元でリヴァイを見、改めて呆れたような声を零した。
リヴァイが先に机に置いていたタオルを洗面器へ浸し、絞る。
「エレンの怪我、リヴァイの噛み跡だけ?」
「…いや」
タオルを受け取ったリヴァイは曖昧に否定し、エレンに掛けていたシーツを上半身だけ捲る。
ハンジは目を瞠った。
「なに、それ…」
まるで、黒い蛇が絡みついているかのような。
(なるほどな)
"Schatten Schlange(シャッテン・シュランゲ)"とは、『影の蛇』の意味だ。
エレンの二の腕や手首、腹には赤黒い圧迫痕。
それらに目を顰めながら、ハンジはついに問うた。

「…ねえ、リヴァイ。エレンは何者なの?」

捲られていたシーツが元の通り掛け直され、リヴァイの手がエレンの下半身側に伸びる。
「あなたといいエルヴィンといい、エレンに関して隠しごとが多いよ」
ハンジはいちおうの礼儀として身体ごと反対側を向き、消毒液とガーゼを用意した。
リヴァイがエレンの身体を清める間、何ともし難い空気が漂う。

パシャン、と水音がしたところで、ハンジはリヴァイへ向き直った。
「エレンの後始末は終わった?」
「ああ」
「見た感じ、他は内出血の跡だねえ。とりあえずは早い回復を祈るしかない」
この男は一体、エレンの腕をどれだけの力で掴んだのやら。
エレンの右手には包帯が巻いてあるが、治療は的確なようなので手は出さない。
「じゃあ、次はリヴァイの治療だね。とりあえずシャツ脱いで、傷見せて」
脱ぐときに顔を顰めたのは、乾いた血がシャツに張り付いていた為だろう。
ハンジはリヴァイの上半身を視界に入れて、またうわ、と呟いた。
「ちょっと、情事の跡って言うには酷過ぎない…?」
鋭い刃物で割かれたような傷、裂傷、抉られたようなもの、そして噛み跡。
リヴァイがエレンに刃物を保たせたまま事に及ぶというのは、少々考え難いことではあるが。
リヴァイは息を吐いた。
「コイツの爪、よく見てみろ」
「爪?」
治療の手を止めて、ハンジはエレンの手をシーツの下から外へ出す。
「……」
男にしては綺麗に整えられている指先。
リヴァイも似たようなものだろうと揶揄しようとしたハンジは、エレンの爪が赤いことを見て取った。
やや長めに卵形の爪は鑢(やすり)が掛けられているのかつるりとして、それでいて。
(…これは)
もう一度、リヴァイの背を見てみる。
力の限り掴んだような爪痕は肩甲骨の辺りにすぐ見つかり、その深さは爪痕というには深過ぎた。
「刃物がなくても、相手の力が自分より強くても、コイツは人を殺せる」
「…どういう意味だい?」
他言無用なのは解ってるよ。
消毒液を染み込ませたガーゼで、目につく傷痕を拭っていく。
滲みるのか、時折ピクリと筋肉が震えた。

「コイツの仕事は、人を殺すことだ」

標的(ターゲット)は内地の豚共、特に餓鬼の人買いに関わる連中。
「それって、」
王都の地下街に暮らす子供が絶対の信頼を置く、暗殺者。
「エレンが…?」
「商売道具はその腕のやつだ」
エレンの両腕に巻き付く、黒い蛇。
狙われたなら、リヴァイとて絶命するだろう。
「冗談でしょ…? あなたが無理なら、誰も無理じゃないか」
「そうだな」
立体機動装置よりも速い射出速度。
見切れるとすれば、似たような生業を持つ人間だろう。
「ん? 待ってよ。エレンが訓練兵団に入ったのは、3年と半年前だよね。
それって、リヴァイがやたらと本部空けてたのと関係ある?」
「…ああ」
それきりリヴァイは沈黙してしまい、ハンジは内心で口を尖らせる。
(ちぇっ、思いっきりからかえるネタの匂いがぷんぷんするのに)
しかし、だ。
手際よく手当てを続けながら、件の会議を思い返した。
(もし、あのエレンが本来の姿だとすると)
こちらに背を向けるリヴァイから表情が窺えないことを良いことに、にまりと笑みを作る。

(とんだ化け物だ!)

そしてリヴァイも…『化け物』だ。
彼が調査兵団に入った頃に同じく兵士であったハンジは、彼の最初の壁外調査時のことをよく覚えている。
…1人で6体もの巨人の群れを屠った、人間の姿をしたバケモノ。
ハンジにとっての最上級の褒め言葉は、当人を怒らせはしないが歓ばせもしない。
けれどエレンが、あの垣間見た姿の通りであるなら。
(なにそれ、面白い!)
変人奇人死にたがり集団と呼ばれる調査兵団だ、バケモノが居たって一向に構うことはない。
ハンジが来る前までにあったであろう事を想像すれば、化け物というよりも獣だろうか。
(ふむ、相手を喰らい尽くしてしまいたい?)
生憎とハンジは獣ではないので…研究欲の塊であることは自覚済みだが…、その気持ちはよく判らない。
「ま、やり過ぎないようにね」
逃げられたら元も子もないでしょ。
余計なお節介を言った彼女に、リヴァイは鼻で笑う。
「逃すわけねぇだろうが」
ハンジの口からはまたうわあ、と感心と呆れが同時に出た。
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2014.2.1
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