黄玉ピトフーイ.2
日の高い最中、カカッ、と馬の蹄が石畳を蹴る。
しばらくすると音は土に吸収され、風切り音と草を擦る音に変わった。
「あー、くっそ…」
何で俺が!
ガリガリと頭を掻いたジャンに、半馬身後ろを同じく駆けるアルミンは苦笑する。
「はは…仕方ないよ、ジャン」
だって、僕だけでは解らないから。
残念そうに続けられて、ジャンは彼を振り返る。
「解らなくて良いだろーが。んなもん」
「…うん。でも僕は、やっぱり胸を張ってエレンを"親友"だって言いたいんだ」
アルミンは昨日の『エレン』を思い出す。
「僕とミカサはエレンの幼馴染だけど、でもジャンとコニーの方がずっとエレンを知っているから」
ーーー調査兵団第3分隊。
エルヴィンの発起した案は、驚くべきものであった。
調査兵団第3分隊分隊長に、エレン・イェーガー。
分隊長補佐にジャン・キルシュタインとアルミン・アルレルト。
所属する兵士は…第104期卒団兵22名、全員。
エルヴィンとリヴァイ以外の全員が、ぽかんと口を開けていた。
「いや、エルヴィン…あなた何言ってるの?」
乾いた笑みで問うたハンジの言葉は、発起人以外の内心の代弁だ。
エルヴィンは笑って話し始めた。
「では、この案に至った経緯を説明しようか」
新兵である第104期卒団兵22名が最初の壁外調査に出てから、何度壁外調査があったかな?
そう、4回だ。
その4度の壁外調査で、新兵の死亡者は居るかい?
そう、居ない。
では負傷者は?
ああ、軽微なら居たが、すでに復帰しているね。
そうだ、第104期の新兵たちは、誰ひとりとして未だ欠けていない。
「新兵の最初の壁外調査での生還率は元来、30%だ。驚くべき数字だろう?」
「それは、そうだけど…」
「新兵だけで分隊を作るなど、それこそ彼らの生還率を下げるのでは?」
班長のネスの言うことはもっともで、エルヴィンは違わず頷いてみせた。
「その通り。第3分隊は、他の分隊とは違う役割がある」
エルヴィンの話が、耳の奥で反響する。
エレンは片手で額を抑えた。
(これ、は…)
心臓の鼓動は速くない、早鐘を打っているのは脳そのものだ。
エルヴィンは続ける。
「生還率以外の話をしようか」
エレン・イェーガー、ジャン・キルシュタイン、コニー・スプリンガー、サシャ・ブラウス、ミカサ・アッカーマン。
「この5人の104期生の名前に、共通点は見えるかい?」
ミケが目を細めた。
「"この先は危険だ"と、言ってきた者たちだな」
「…あ、ほんとだ」
ハンジもぽん、と手を叩いた。
「しかも全員、1回だけじゃなかったよね」
結果を確かめる術が無いこともあったし、用心が過ぎたものもある。
エルヴィンは首肯し、なおも続けた。
「第3分隊の役目は2つだ」
必ず生還し、調査兵団の生還率を上げること。
危険察知を巨人索敵の要領で行い、調査兵団全体の生存率を上げること。
ジャンが顔を顰めた。
「…あんまり良い感じじゃないっすね、それ」
アルミンも彼の言に頷く。
「必ず生還する、というのは構いません。ですが"危険察知"なんて、勘に頼るものを任務に組み込むのは…」
当たるかどうかなんて判らない。
必ず感じるものでもない。
下手をすれば、『なぜ気付かなかったんだ』なんて余計な軋轢の元になる。
それは誰もが思うところであり、新兵3名に向いていた視線がエルヴィンへ戻った。
ふん、とリヴァイが嘲笑う。
「安心しろ」
ガキ共に自分の生存を頼るような兵士は要らねえ。
エルヴィンはリヴァイに苦笑するが、否定はしない。
「危険察知は、あくまでオプションだと思ってくれ。私が君たちに期待するのは、その並外れた生還率だからね」
エレンはエルヴィンの説明を、何も聞いちゃいなかった。
(こ、れは…)
自分は今まで何をしていた?
今まではまだ、"存在"していたじゃないか。
(地下街に戻る、簡単な手段が)
なぜ、今まで忘れていた?
(居心地が、良かったんだ)
無意識に、燻る炎に目を瞑ってしまうくらいには。
ジャンは一切の反応を見せないエレンに、不気味なものを覚えた。
「おい、エレン」
小声で話し掛けても、エレンは顔を上げない。
きしりと何かが軋んだ気がして視線を下げれば、白くなりそうな程握り締められた手がある。
(っ、ヤバい)
肌に感じる、この空気は。
「エレン…?」
アルミンはうすら寒いものを感じ、ジャンが青くなっていることに只ならぬ事態を察した。
(なんだ…?)
壁内であるというのに壁外の死線に近しい感覚がざわめいて、ハンジは困惑する。
調査兵団で長く生き残るということは、それだけの死線を知っているということだ。
彼女の隣でもミケがすんと鼻を鳴らし、同じように眉根を寄せている。
ゆら、とエレンが己の右手をゆっくりと持ち上げ、ジャンは驚愕した。
「やめろ、エレン!」
エレンが"Schatten Schlange"を常に装備していることは、彼も知っている。
知っているがゆえに、驚きは人一倍であった。
…腕を上に持ち上げるということは、人に向けて"Schatten Schlange"を撃てる体勢になるということだ。
殺気が覆い隠せていない。
殺意がヒリヒリと肌に刺さる。
(気づいたか)
リヴァイは机に寄り掛かっていた体勢を戻し、組んでいた腕を外した。
エルヴィンの考案した『第3分隊』は、嘘ではない。
だが、それだけのものでもない。
これはエレンが、調査兵団(ここ)から逃げられないようにするための…頑丈な鎖。
(さて、どうする?)
エレンの右手が持ち上がる。
(あの武器で此処を血に染めるか、それとも)
ガリッ!
アルミンは目を疑った。
「エレンっ?!」
一体、何を!
ぽたり、と流れ落ちた血が床に染みを作る。
「…安心しろよ、ジャン」
エレンは声だけを友人へ向けた。
「さすがに此処では、使わねえ」
思い切り噛み付いた右手指の付け根には、くっきりと歯型が残っている。
溢れ出してくる血に頓着することなく、上げられたエレンの眼差しはエルヴィンとリヴァイを見据えた。
突然のエレンの行動に誰もが唖然としているが、誰も口を開く勇気を持ちはしない。
「…そんなに、俺を逃したくないですか」
断定された物言いは、返答を期待したものではない。
ギラギラと憎悪を孕み見据える金色は、地下街で相対したものより余程苛烈な輝きだった。
(地下街の頂点は、伊達じゃないな)
さりとて、焦りや葛藤を表に見せるエルヴィンではない。
「たった今、提案したとおりだよ」
ただ調子を崩さず、返してやるのみ。
は、と笑みを零したエレンの表情は、地下街で垣間見たものと変わらず。
「さすが、ナイル・ドーク師団長が苦い顔をする相手ではありますね」
まるで見てきたかのような物言いに、幾人かが訝しげにエレンを見た。
エレンはしばらくエルヴィンを見ていたが、ちらりとリヴァイを見遣った後完全に視線を外した。
「俺は退席します。ジャンとアルミンが居れば十分なんでしょう?」
「…ああ、構わないよ」
返答を聞くなり出ていこうとしたエレンの腕を、ジャンは咄嗟に掴んだ。
「おい、エレン!」
潜められた声は、それでも静まり返った会議室では大きい。
呼ばれた名前の意図する処を、エレンは正確に把握した。
「…理性ぶち切れかけてるから、人の居ねえとこに行く」
俯き加減の表情から僅かに覗いた彼の両眼は、ジャンが一目で"不味い"と断ずるに値した。
反射的に掴んだ手を離せば、エレンは未練なく会議室を出ていく。
ガラリと引き戸が閉じられてから、背筋に嫌な汗が吹き出た。
(なんつーことしてくれてんだ、この団長様は…っ!)
あのエレンは、あの状態のエレンだけは、駄目だ。
過去に何があったかなんて、ジャンは思い出したくもない。
「さて、では話を続けようか」
平然と進めようとするその豪胆さには恐れ入るが、苦言を呈したって許されるだろう、さすがに。
周りだってまだ呆気に取られて…下手すると怯えて…いるままだというのに。
「…エルヴィン団長」
「何かな? ジャン」
にこやかと先を即され、調査兵団こえぇ、と呆れ混じりに思ったジャンに罪はない。
「もう、俺のフォロー効く段階越えてるんで。後はそっちで何とかして下さい」
ていうか、俺を巻き込むなと。
リヴァイが腕を組み直し、ジャンを流し見た。
「安心しろ。元よりそのつもりだ」
兵長だと違う意味で安心出来ねぇよ、とジャンが内心で呟いたところへ、リヴァイは続けて一言。
「後でアイツが行きそうな場所を教えろ」
まるで当然のように続けられて、ジャンは口許が引き攣った。
(だから、俺を巻き込むんじゃねえよ…!!)
ジャンは調査兵団での日常が、地下街の頃と変わっていない錯覚を覚え始めている。
溜め息と共に自分の前髪をくしゃりと掻き回した彼を、アルミンは羨望の強い眼差しで見守っていた。
(よく判ってるなあ…)
アルミンとミカサはエレンの幼馴染だが、それだけだった。
離れていた時間はやはり長く、ジャンほど彼の機敏は解らない。
(でも、なんか…お母さんみたいだよね)
こんな状況なのに、可笑しくて少しだけ笑いそうになった。
後に彼は、コニーが同じ表現をしたことを知るのである。
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2014.2.1
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