鈴蘭の君(きみ)





たとえ三重に囲まれた、もっとも安全と言われるウォール・シーナといえど。
人間の営みは他とちっとも変わらない。
…光があれば、闇もある。
ウォール・シーナ中央に位置する王都の地下に地下街があるように、シーナ各地区にも"それ"は存在した。

吹き溜まり、掃き溜め…そう、『ゴミ溜め』が。

ここは王都よりも北にある、ある地区の"ゴミ溜め"だ。
だと言うのに、薄汚れていても金蔓と判る子どもが、エレンの視界の先をまろびそうになりながら走っている。
…本来王都が仕事場であるエレンだが、ポリシーと実益が叶うなら足を伸ばすことも吝かではない。
(追われてるな、アレ)
もう仕事は終わっている、用事は他に野暮用が幾つか。
そんな身軽さが、エレンを動かした。



*     *     *



少年は走る。
足を止めれば己の尊厳が踏みにじられることを、彼は知っていた。
「…っ?!」
行き止まりだ、誘い込まれたか。
後ろを振り返れば追っ手の男が2人、下卑た笑みでこちらを見ていた。
「ワリィなあ、坊っちゃん。オレら、このゴミ溜めで生きてきたからよ?」
土地勘あるんだわ、と悪びれることなく言ってのける。
…そうだ、彼らも生きるために稼いでいる。
偶々、標的が自分であっただけで。
左右を見回し、逃げ道を探そうとした。
「坊っちゃんはおキレイな顔ってわけじゃあねえが、そーゆー純粋培養な育ちを求める豚もいてよ」
おぞましい言葉を耳の端で聞き流し、頭を働かせる。
(戻らなければ)
自分が戻らなければ、父が、家が、あの女の胃袋になってしまう。

「貴族のくせに良い目してんな、お前」

壁しかないはずの背後から、突然の声。
ぎょっとしてそちらを見返れば、黒いフード付きジャケットで顔を隠す男が立っていた。
「よぉ、兄ちゃん。そいつ、オレらの獲物なんだわ」
追っ手の片方が凄む。
発されなかった言葉は、"怪我したくなけりゃ消えろ"である。
フードの影から見える口許が、笑った。
「"ゴミ溜め"の掟はひとつ」

強いやつが手に入れる。

その手が振り被られたと少年が思ったときには、道を塞いでいた内の1人がドサリと崩れ落ちた。
「あ…?」
呆然と、残った男が倒れた相棒を見下ろす。
相棒の男の首には、深々と銀色のナイフが突き立っていた。
絶命しているのは一目瞭然だ。
もう1人の男もまた、目の前に迫った影に息を呑む間に倒れ伏す。
少年は目前の出来事に脳が追い付かない。
(な、にが…)
気絶させた男を当人のベルトで縛り上げ、フードの男は猿轡まで噛ませる。
「ほらお前、手伝えよ」
「……は?」
呆ける少年に、男はまた笑った。
「死にたくないなら、生き延びさせてやる」
ここでようやく、男の声が存外若いことに気付く。
だがその疑問を口にするよりも先に、少年は足を踏み出した。



どんな場所にも酒場はある。
ランクは当然ピンからキリ、しかしここは当たりだとフードの男は言った。
「なあ、おっちゃん! ここ、個室ってねぇの?」
カウンター奥、上等な酒の並ぶ側に立つ壮年の男に声を掛ければ、男は瞠目する。
「…ボウズ、何でそう思った?」
黒いフード付きジャケットに隠れた面(おもて)は、かなり若い。
しかしちらりと覗いた眼は珍しい色で、それがまた猟犬に近しい鋭さを隠している。
「良い眼をしやがるな、ボウズ」
まあね、とまだ丸みのある指先が、カウンターをコツリと叩いた。
「掃き溜め暮らし長いから」
確かに長いのだろう。
このような、本来子どもが入れぬ場所にも手慣れている。
彼に手を引かれているもう1人は、おどおどとして慣れていないようだが。
「ボウズに出せるモンなんざねえぞ?」
「グラスと水と氷で良いよ。場所代だけ払うから」
「いっちょ前に言いやがって」
壮年の男は左奥の通路を指してやった。
「手前から2番目だ」

気に入られることに成功して、もう1人の手を引き2番目の部屋へ入る。
こちらの手には水差しが、少年の手には氷とグラスの入ったワインクーラー。
部屋へ入り、扉を閉める。
少年の手からワインクーラーを引き取り、木製のテーブルに水差しと一緒に置く。

「ほら、座れよ」

閉じた扉の前で突っ立っている少年を引っ張り、座らせた。
テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろし、冷えたグラスへ水を注ぐ。
「ほら」
グラスを手渡してやると、少年はようやく顔を上げた。
拍子に、頭に被せてやっていた布がずり落ちる。
同じようにジャケットのフードを脱いでやれば、少年の目が丸くなった。
「僕と、あんまり変わらない…?」
自分のグラスに水を注ぎ、ぐっと飲み干す。
「年齢の話か? そんなもん、アテになんねーよ」
薄汚れた格好をとりあえず清潔なものに換えれば、少年はやはり貴族だと判る"空気"だった。
「俺はイェーガー。お前は?」
偽名で良いと告げれば、彼はやっとまともに受け答えをした。
喉の渇きを感じたか、注いでやった水はあっという間に空っぽだ。

「お前、家出してきたんだろ?」
「ち、違う! 僕は…っ」

いきなり断定され否定しようとした少年は、イェーガーと名乗った少年が人指し指を口に当てたことに口を噤む。
彼は悪戯っぽく笑みを深め、もう片方の手でちょいと扉を示してみせた。
扉を見てからもう一度彼を見ると、口元が『合わせろ』と空気だけを形作る。
少年はこくりと頷いた。
「な、…んで、分かるんだよ」
「そりゃあ、何度も見てきたからな。そういうヤツ」
で、掃き溜めに迷い込んで追われた、と。
真実とは違うが、大体合っている。
少年はどういう顔をすれば良いのか分からない。
「貴族に生まれたくせに、何でわざわざそれを捨てるんだか」
心底解らない、とばかりに首を傾げられ、頭に血が上る。
「…貴族がどれだけ大変か、知らないくせに」
金色の目が、すぃと細められた。

「ああ、知らねーよ。あんな豚どものことなんか」

ゾッ、と背筋に悪寒が走る。
「まあ、でも…」
ナイフを投げた指先が、少年の眼前に据えられた。
「"どうあっても生きて帰る"。その目は気に入った」
だから、お前を目的地まで連れて行ってやらないこともない。

その姿は、まるで誘う女のようだ。
「…条件は?」
ワインクーラーから摘ままれた氷が、カランとグラスに落とされた。
「話」
「は?」
「話だよ。お前の現状と原因の話」
そんなもので良いのか、と思いかけた少年は、ハッとした。
(…イェーガーは、『強い者が手に入れる』って言った)
情報を、売られる。
「…ダメだ。これは家の問題で」
「それを判断するのはお前じゃない」
「っ!」
バッサリと言い切られ、言葉を失う。
「リスクも何も侵さず手に入るものなんて、何もねーよ」
それは手に入れたんじゃなくて、"与えられた"って言うんだよ。
…感情を、抉られる。
「けど、そうだな。モノによっては?」
たとえば。

「"殺し"で良いなら、手ぇ貸すぜ?」

タダじゃないけど。
笑う彼の言葉で、ぐらり、少年の足元が歪んだ。



*     *     *



彼…イェーガー…に出会ったのは、もう3ヶ月も前の話だ。
少年は邸(やしき)の自室で、ふと物思いに更ける。
(味方を増やすこと。慎ましやかに生活すること)
邸の中で使用人たちに、完全には無理でも自分を優先付けるように。
大嫌いな社交界も、味方を増やし顔を売り、『貴族』の中を知る大事な機会であると割り切って参加する。
(…イェーガー。あいつ、どこに住んでるんだ?)
コンコン、と控え目なノック音に許可を出せば、メイドが郵便物を手に立っていた。
「ありがとう」
笑みを浮かべ礼を言えば、メイドの女性もまた笑みを返す。
その場で重なる封筒を確認すれば、やや特異なものが1通。
「あら、今回も入っておりますね」
宛名は少年の名前のみ、差出人には"Y"という文字だけの小さな封筒。
「また花の種かな…?」
封筒を軽く振ってみると、カサカサと擦れる音がする。
「では、植木鉢をご用意いたしますね。こちらへお持ちいたします」
これが初めてではないので、メイドの対応も慣れたもの。
彼女は軽い辞儀を寄越し、退室した。

ぐるりと室内を見回すと、窓辺にはプランターが幾つも並んでいる。
緑の芽は随分と伸びて、そろそろ花茎が見えそうだ。
よく見ると葉の形や色が違い、すべてが同じ植物ではないと判る。

またノック音がしたが、今度の訪問者は執事であった。
「坊っちゃん、奥様がお呼びです」
「…分かった」
この家の"奥"は後妻で、少年の母ではない。
しかも小狡く、小賢しいまでに酷い女だった。
父の寂しさに付け入り後妻に収まり、そこから本性を現し始めた。
…極めつけは、少年が"イェーガー"に出会ったあの日。
少年は彼女の言い付けで出掛け、その先で待ってましたとばかりに拐かされたのだ。
(あの女が来てから、評判がガタ落ちだ)
この家は慎ましい家系だった。
庶民だからと区別することの無意味さを説き、受け継いできた。
(あの女さえ、消えれば)
湯水のように金を使い、上位の貴族に媚び、あまつさえ少年の未来まで絶とうとする始末。
父に気づかせるにも、切り札が足りないこの現状。
(…だから、縋った)
少し注意を凝らしてみると、邸の者たちも快くなど思っていないと分かった。
そして地に落ちるかという評判が、かろうじて"家"に及んでいないことも。
『お前に"花"を送ってやる。だから、育つまで我慢しろよ?』
最後に出会った彼は、とても可愛らしい花を手にしていた。
切り花ではなく株ごと手にしていたが、さもそれが当然のように可憐な花が揺れていて。

『この花がお前のところで咲く頃に、使い方を教えてやる』



我慢と地道な根回しの日々を過ごし、さらにひと月。
少しずつ植え付けの時期がずれた花たちは、それでもほぼ同時期に綻び始めた。

カレンデュラ、ロベリア、シクラメン。
アネモネ、アコニートゥム、そしてスズラン。

邸の使用人たちは、少年の部屋を訪れては心から褒めちぎる。
咲き誇る花々は、貴族として志を曲げることなくあろうとする少年そのもののようだと。
(あ…、)
郵便物の束をそのままにしていたことを思い出し、少年は束を外す。
「あった…!」
名前とローマ字がひとつだけの封筒、今回も中には何かの種。
(手紙!)
それから、1枚の薄っぺらい便箋。
『読み終えたら燃やせ』と始まる文字を、一心に読み進めた。



ちりん、と音が鳴りそうな、可憐な花が揺れる。
「あら、中々に気が利くじゃない」
この家の後妻に収まっている女は、食卓へ着くなり目の前の花瓶に満足げに笑った。

ウォール・ローゼ、ウォール・マリア。
それぞれの庶民の間で何かしらの流行り廃りがあるように、ウォール・シーナも例外ではない。
中でも最近流行っているのは、フローティングフラワー。
硝子の器に水を張り、僅かだけ茎を残して切った花を浮かべて観賞するものだ。
シーナの花屋の店先には、必ずその店自慢のフローティングフラワーが展示されている。
貴族たちの間ではさらに観賞の形を変え、食卓に上がる飲み物に花…もしくは花弁を浮かべる。
特に美しい花があるなら、それを食してみせたりもするらしい。
(まあ、美人がやれば絵になるか)
この女がやっても、見苦しくはないが微妙だろう。
「……」
そこでふと、"イェーガー"と名乗った少年を思い出した。
彼ならば似合いそうだ、と明後日に飛んだ思考を呼び戻す。
「…気に入ったのなら株分けしますが。花瓶でもフローティングでも」
「あらそう? じゃあ、私とあの人の部屋へ頼むわ」
ああまったく、気持ち悪い。
女は始終、上機嫌な様子で食事を終えた。
硝子の小さな花器に挿したスズランは、知らんぷりしてちりん、と揺れている。

それが、10日前の出来事。



*     *     *



夜も深まる時刻。
訪れた酒場は相変わらずの繁盛で、喧騒の中を足早にすり抜ける。
「よお、ボウズ。おめぇの連れならもう来てるぜ」
どうやら、背格好だけで覚えられてしまったらしい。
カウンター向こうの男へ軽く会釈し、奥の通路へ。
2番目の部屋はすっかり"イェーガー"の個室と化していて、酒場への馴染み具合が半端でない。

「よ。早かったな」

いつもの2人掛けテーブル、扉から遠い位置にある椅子に彼は座っていた。
テーブルの小皿から何かを取って、彼はぽいと口の中へ放り込む。
「どうした? 座れよ」
乾かした豆を煎ったツマミらしい。
水かジュースしか頼めないのに、なぜそんなものを。
「腹減ってたんだよ。酒飲めるようになったらまた来るって言って、サービスしてもらった」
「はあ…」
なぜ、そんなにも渡り慣れているのだろうか。
自分よりも、3歳程度しか歳上ではなさそうなのに。
器用に眉を寄せナッツをぱくりと食べた少年に、"イェーガー"は笑う。

「上手くいったな」

そうだ、上手くいった。
「これからが大変だ…。父さんを慰めながら、引き継ぎもしていかないといけない」
「まあ、お前ならいけんじゃねえ?」
頑張れよ、と大して思ってもなさそうに彼は言う。

可憐に揺れたスズランの花。
他に混ざり咲いていたアコニートゥム。

始めに飾ったのは、スズラン。
案の定、後妻の女は飲み水に浮かべるフローティングフラワーにスズランを使い始めた。
小さな花は可愛らしく、シャンパングラスにでも浮かべれば絵になるのだろう。
…スズランは、その身すべてに毒がある。
人を殺すには足りないが、体調を崩させ、免疫力を弱めるには事欠かない。

そして今より5日前。
"イェーガー"からの手紙がもう1通届いた日。
後妻の女は体調を崩しながらも、相変わらず花ごと飲み水を口にしていた。
残念ながら、少年の他にスズランの毒性を知る者は誰も居なかったのだ。
ーーー空が黄昏る夕刻。
少年は後妻の女の部屋へ忍び入り、眠る彼女のグラスに1枚の花弁を舞い落とした。
花弁はスズランの花と同等の大きさへ刻み、違和感なく飲み込めるように。

その日が駄目なら翌日、それでも駄目ならまた次の日。
花弁が尽きるまで続ける心積もりであったが、呆気なく初日で決着はついた。

「どっちも強い植物だからな。あっという間に周りの駆逐しちまうぜ。
あ、アコニートゥムの方は、後で俺の使いが引き取りに行くから」
実に楽しそうな"イェーガー"は、氷を摘まみグラスへ落とす。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
少年は慎重に口を開いた。

「…幾らになる?」

これは、依頼だった。
少年から"イェーガー"への、『殺し』の依頼。

彼は少年の意図を正確に判じ、歪曲的に加担する"殺人教唆"の役割に徹した。
「んー、吹っ掛けてやるかなあ、とは思ってたけど」
あらぬ方向を見ていた金色が、少年へ戻る。
真正面で目が合い、少年の喉がヒュッと可笑しな音を立てた。
…明るさが足りているとは言えない部屋の中。
光源を取り込むために開いた瞳孔に、少年の姿が映り込む。

「お前、俺に投資しろ」

射竦められた。
(逃げられない)
にや、と"イェーガー"の口の端が上がる。
「今すぐじゃない。お前なら、あと1年もあれば家を安定させられるだろ?」
なぜ断定するのか、問い返す隙は与えてくれなかった。
「だから、俺が何処の誰だか探し当てろ。俺を支援するために」
すぐにでも踏み倒せそうなことを言われ、反論する。
すると彼は椅子から腰を上げ、こちらを覗き込むように身を乗り出した。
襟首を捕まれ、力任せに引き寄せられる。
「…っ?!」
それは蛇のように鋭く射て、獣のように獰猛。

「お前は貴族だけど、他の豚どもよりはマシなはずだ」

囁くような声音が、耳朶を震わせる。
薄い赤の唇から、目が離せない。
強すぎる眼差しに反するふわりとした声が、少年の混乱を助長した。

「出来るだろ? "ーーー"」

耳元で呼ばれた己の名に、陥落した。



*     *     *



数日後、花を引き取りに来た男を見上げて、少年は目を瞠った。
「お前…!」
"イェーガー"に出会う理由となった、少年を誘拐した2人組の…生きている方の…男だ。
プランターを足元に置き門を開けようとしたメイドを制して、男を見上げる。
相手は肩を竦め、何処かすっきりとした顔で笑ってみせた。
「そう怖い顔しなさんな、坊っちゃん。イェーガーさんの指示を破る気はねぇさ」
イェーガー"さん"?
彼が少年を邸に送り届けてからどうしたのかは、何も知らない。
その間に、この男を従わせるようなことをしたのだろうか。
少年はむっつりと眉を寄せたが、"イェーガー"の判断に口を出す気はなかった。

「…お前があの人の"手足"だって云うなら、別に構わない」

アコニートゥムを寄せ植えしたプランターを手渡せば、男はあっさりと踵を返した。
「そんじゃ、確かにお引き取りいたしますよ。こちら控えです」
どうやら正規物に見える配達の控え書を渡され、少年は狐につままれたように男を見送る。
メイドは不審な顔を隠さず、男の背を見ていた。
「坊ちゃま、あの男は…?」
少年は嘆息に近いものを吐き出す。
「種の送り主の花屋の、最近入った手伝いだ。店主に何度注意されても口が悪い」
口から出任せとはこのことだが、メイドはどうやら納得したようだった。
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2014.3.3
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