調査兵団104分隊!
(1.第3分隊の初陣)
馬上でたなびく、深緑に黒白の重ね翼。
「来た!」
「調査兵団だ!!」
ウォール・マリア最南端、突出地区シガンシナ。
人々は北門を潜ってきた一団へ、溢れんばかりの声援を送る。
先頭を行くエルヴィンの左後方にて、ハンジは彼女にしては珍しく苦笑いを溢した。
「いやぁ…なんか、怖いくらいに歓迎されるようになっちゃったねえ」
ほんの数年前まで。
壁外へ向かう度に、戻ってくる度に、罵詈雑言を受けていた。
受けたところで堪えるような柔さは誰も持ちやしないが、内心では思ったものだ。
(外を目指す勇気すら持たない腰抜けども、ってね)
それにしても、と後方を振り返る。
「"これ"が重たいのは、あの子たちだよねえ」
団長のエルヴィン、そして彼直属の部隊。
分隊長のミケ、その管轄である第1分隊。
分隊長のハンジ、その管轄である第2分隊。
そして兵士長のリヴァイ、その直属班と…。
ひらりと靡く深緑の外套。
調査兵団の紋章の下に記された、"104"の文字。
目敏く気付くのは、やはり子どもだ。
「なあ丸刈りの兄ちゃん! その"104"ってなに?」
道端でこちらを見上げて問われ、コニーはにかりと笑った。
「おー、これな! オレたちが『ウォール・ローゼ南方訓練兵団第104期生』って意味だぜ!」
今は開門待ちのため、会話は続く。
「じゃあ"ひゃくよん"って読むの?」
別の子どもに問われ、コニーは首を捻った。
「…"ひゃくよん"か。何か語呂悪いよなぁ」
「じゃあ"いちまるよん"とかどうですか?」
カッコ良くないですか?
向こう側からサシャが口を挟む。
確かに、と言いかけたコニーは、しかし気づいた。
「オレたちが決めるもんじゃねーな」
サシャも手綱を握る手をポンと叩く。
「それもそうですね! エレーン!」
隊列の後ろから歓声に負けない大声で呼ばれ、エレンは眉を寄せた。
「なんだよ、サシャ!」
今更、と言われそうだが、エレンは不特定多数にじろじろと見られるこのような状況が苦手だ。
(気持ち悪い)
見られないように隠れ、気づかれぬよう動くことは、エレンにとっての当たり前だった。
「私たちの"104"って数字ですよ! "ひゃくよん"より、"いちまるよん"の方がカッコ良くないですか?!」
いったい何の話をしているのか。
「ちょっとサシャ、私たちは第3分隊でしょ?」
彼女と同じ班員のミーナが小突くが、堪えた様子など微塵もない。
サシャはなおもエレンへ話し掛ける。
「ほらエレン! エレンが隊長なんですから、エレンが決めてくださいよぅ!」
こんな、周りの空気に呑み込まれているような状態は、もっと不快だ。
「煩ぇよ! 全員生きて帰ってきてからやれ!」
ハッとサシャが口を噤んだ。
コニーは鋭く向けられた金色に頭を掻く。
「ワリィ、エレン。つい」
エレンはそれ以上何かを言うことなく、また前を向いた。
「あのお兄ちゃんがいちばんえらいの?」
また子どもが首を傾げてきたので、首を振る。
「んー、いや。オレたちのリーダーではあるけど、一番偉いわけじゃないな」
「エルヴィン団長、リヴァイ兵長、ミケ分隊長、ハンジ分隊長…ってくると、エレンは5番目ですね」
順に数えたサシャへ、ミーナが今度は同意する。
「ほんとだ、また5番だ」
エレン分隊長かぁ。
やっぱり慣れないね、なんて話していると、先頭で開門の声が聞こえた。
「第61回、壁外調査を開始する!」
エルヴィンの号令と共に、隊列が『壁』の外へと駆け出していく。
巨人の姿は、無い。
「長距離索敵陣形、展開!」
さらなる号令により、固まっていた隊列が広がる。
それは翼を広げた鳥の形をして、一丸となって兵団を進めるものだ。
中央列はエルヴィンとその直属班を先頭に、主に荷馬車とその護衛班が固める。
両翼は索敵に特化し、巨人を発見したら煙弾を上げ、限りなく巨人との遭遇を減らす。
巨人との遭遇を減らすことで人員の生存率を上げるこの方法は、随分と洗練されてきた。
もっとも、雨に弱いのが難点であるが。
エレンを隊長とする第3分隊は、荷馬車と護衛班の外側…鳥に例えるなら翼の付け根…に展開している。
ちなみに鳥の両翼を第1分隊と第2分隊が担い、他は『目』から『尾』までの中央だ。
第3分隊はジャン、ライナー、マルコ、トーマスを班長に、全4班各5名の構成になっている。
班はそれぞれ、A〜Dの名前で呼ばれていた。
この内、単独で行動可能なのはエレンとアルミンのみだ。
分隊長補佐というアルミンの役職はジャンも同様だが、ジャンの場合その役割は壁内の方が強い。
エレンは左右へ視線を巡らせる。
(とりあえずは順調…か?)
すると、左から赤の煙弾が1つ上がった。
これは巨人を発見した合図。
ややして前方で緑の煙弾が右に向かって上がり、陣形全体の進路が右へと逸れる。
今回の遠征は、南に広がる巨大樹の森を超え、その東方を調査することが目的だ。
まずは巨大樹の森へ辿り着くことが目標となる。
「他の班の連中も、大丈夫そうだな」
グンタがエレンとさらにその後方を振り返り、少しだけ笑った。
エレンの所属班は変わらないが、他の同期の面々は始めの配属から大きく編成を異なっている。
しかも班構成は同期のみで、経験不足をフォロー出来る先輩格は存在しない。
第104期生たちは今まで4度の壁外調査を生還しているが、経験不足はやはり付いて回るものだ。
再び左翼で赤い煙弾が上がり、進路が右へ変わる。
このまま行くと、巨大樹の森へは西から入ることになりそうだ。
「ここまでは順調だったねえ」
巨大樹の森へ入り、小休憩に入る。
幹部クラスはエルヴィンの元へ集まり、地図を見下ろしていた。
…地図は、60回分の調査を凝縮した成果と言っても良い。
記録班がときに仲間の死を間近にしながら、手放さず書き加えてきた『宝』だ。
「エレン、今回は特に何も感じないかい?」
エルヴィンに問われ、エレンは軽く首を傾げた。
「今は何も。…あまり期待されても困りますが」
「なに、参考までに、というところさ」
そろそろ、森の南側を偵察に向かった班が戻ってくる。
巨大樹の森を南側から出ると、なだらかな丘陵が広がった。
見る限り、巨人の姿はない。
目指す方角は真南。
パァンッ!
巨大樹の森を出て10分程だろうか。
エレンの頭上を後ろから、2発の黄色い煙弾が追い抜いて行った。
赤は巨人発見、黒は奇行種発見と緊急事態、それは過去と変わらない。
しかし黄色の煙弾は、第3分隊が編成されて初めて使用が開始された。
これは駐屯兵団が、問題発生時に撃つものだ。
調査兵団において黄色の煙弾を撃てるのは、エレンたち第3分隊のみ。
中でも撃つ判断が可能なのは、分隊所属22名の内5名だけだ。
先頭で緑の煙弾が上がり、進路が左へ逸れる。
黄色の煙弾の意味は、『嫌な予感がするから進路を変えろ』。
その性質上、進行方向にのみ発射可能なものだ。
いつどこで巨人に襲われるか判らぬ調査兵団だからこそ有用な、"勘"というやつだった。
残念ながら、第3分隊には複数回に及ぶ実績がある。
ゆえに『第3分隊』などというものが作られたのであって、エレンの足枷となったのであって。
「……」
調査に出てしまったのなら、余計な思考は命取りになる。
日に日に身の内で鎌首を擡げてくる矛盾と憎悪は、いつまで飼い殺せるだろうか?
ーーーぞわっ
背筋を撫でた悪寒に、エレンは思わず手綱を握り直した。
腰に下げたホルスターから信号弾のピストルを取り出し、弾を込める。
隣を走るアルミンが、その動作に目を丸くした。
パァンッ!
真後ろでピストルの発射音。
そして頭上を追い抜いていった黄色の数に、リヴァイは舌打ちした。
「チッ、5発か」
これは黄色の煙弾を撃つ判断が可能な者、全員が同時に撃ったということになる。
リヴァイの前方でエルヴィンが進路変更の煙弾を上げ、調査兵団の陣形全体が左へ回頭した。
ピストルをホルスターへ戻し、エレンはふと空を見上げる。
(…広い)
『壁』に遮られない世界は、とても広かった。
終わりの見えない世界は、きっと何よりも…"自由"。
ーーー『いつか******するんだ!』
耳の奥で、幼い自分の声がする。
何も知らなかった頃の自分が、何かを嬉しそうに告げている。
…何を?
ふるりと頭を軽く振り、エレンは懐古しようとした自身の思考に蓋をした。
「!」
右手奥で黒い煙弾が上がる。
(奇行種?!)
パァン! パァン! と黒い煙弾が次々と陣形の内側に近づきながら上がっていく。
「速い…っ!」
すでに中央列からも、巨人が上げていると見られる土煙が見えた。
「全員抜刀しろ!」
リヴァイの指示が飛び、エレンはブレードを引き抜きながら叫んだ。
「第3分隊、抜刀っ!」
その声は聴こえる範囲の者が復唱し、分隊全体に伝達される。
最後尾の荷馬車護衛班に程近い位置を走るのは、ライナーを班長とするC班だ。
彼らがブレードを片手にしか装着していないことに気づき、荷馬車護衛班の面々は眉を顰める。
「おいライナー! 何やってんだ、抜刀って言われたろうが!」
土煙が、向かってくる。
「奇行種の項を削げるほどの経験、俺たちにはないんで!」
護衛班班長は、ライナーの右手にブレードでない刃物の光を見た。
しかし状況は一気に悪化する。
ドドドド、と地響きで目前に現れたのは2体の奇行種、ライナーたちへ向かってきたのは4足歩行だった。
…蛇足だが、『タタリ神』と言えばイメージが湧くだろうか。
細いが人間には巨大過ぎる手が、目の前へ振り下ろされる。
「ひぃっ!」
「ハンナ、アンカー!!」
コニーの怒鳴り声に、ハンナは反射的にブレードを持つ左手のトリガーを引く。
彼女の身体がぐんっと大きく上空へ移動したときには、コニーとライナーの姿も上空にあった。
…3人の打ち込んだアンカーの先は、目の前にやって来た奇行種の左側面。
ここは平原だ。
4足歩行の奇行種の身体の下を、荷馬車が駆け抜けていく。
護衛班は大きく迂回し、奇行種の後方をぐるりと回っていた。
「こっち向けよウスノロっ!!」
奇行種の肩部に刺したアンカーを巻き戻しながら、コニーが啖呵を切る。
すると悪口だと判ったのか、奇行種がコニーに向けてくわりと口を開けた。
「ばーか!」
キラ、とコニーの手元で何かが光ったのは一瞬で、奇行種の左目が血を噴いた。
今度はライナーとハンナの手から別の光が奇行種へ投げつけられ、右目が血を噴く。
ハンナはアンカーを抜いて巻き戻し、落ちる身体をそのままに地面を転がった。
「いった…!」
痛みと恐怖で震えそうな身体を叱咤して、巨人の身体の下を全力で走り抜ける。
主が居なくなったことに気づいて待っていてくれた馬に、半ばよじ登った。
「コニー! ライナー!!」
振り返ったハンナの視界でコニーが奇行種の眉間にアンカーを打ち込み、ブレードで再度両目を斬り付けた。
「うおぉおお!!」
その後ろ、奇行種の背後でライナーが飛び上がる。
女の内股走りのような挙動の奇行種が、中央列前方へ突っ込んできた。
中央前列のエルヴィンの隊はその前にスピードを上げており、奇行種はエレンたちの目の前を横切る。
エルドとペトラが同時にアンカーを発射し、奇行種の脚部へ躍り掛かった。
「はあっ!」
奇行種は右足、左足のアキレス腱を一気に裂かれ、勢い良く倒れ込む。
ズゥン、と土煙を上げ地に伏せた大きな図体を避けるため、エレンとアルミンはリヴァイに着いて迂回する。
「おらあっ!!」
初めの2人より数拍遅くアンカーを発射していたオルオが、奇行種の無防備な項目掛けて刃を振り下ろした。
(す、凄い…)
アルミンは己の前方で繰り広げられた戦闘に、ただ度肝を抜かれた。
馬の速度を上げたエルドとペトラは、リヴァイにほんの1度目配せされただけだ。
それはオルオも同様で、彼らの今までの戦歴と信頼が垣間見える。
エレンは自班の安否が気になりずっと後ろを見ていたが、赤い煙弾が上がり目を見張った。
「兵長、後ろから通常種が来ます!」
眼前で起こった出来事に思考が途切れていたアルミンは、エレンの声で我に返る。
リヴァイは舌打ちしたようだ。
「アルミン、エルヴィンに速度を上げたまま次の森へ行けと伝えろ!」
「は、はいっ!」
アルミンが無意識にエレンを見れば、彼はこちらを見て頷く。
それに心の落ち着きを取り戻したアルミンは、馬を嗾け前方へと速度を上げた。
* * *
位置的には、ほぼ真東。
奇行種の襲撃を辛くも乗り越え、調査兵団が辿り着いたのは巨大樹の森だった。
あの奇行種はわざわざ遠くの人間を狙う動きをしていたようで、右翼側の死傷者は奇跡的に無く。
誰もがホッと胸を撫で下ろしたところだ。
森は外から見た限りでは楕円形をして、全長としては『壁』の南にある森よりはやや小さい。
エルヴィンが中央列の班長たちと会話している樹木の隣の樹で、エレンはアルミンと共に枝に座り込んでいた。
「死傷者が出なくて良かったね」
「ああ。ライナーたちも無事だって言うし」
革袋の水でようやく喉が潤い、軽く息を吐く。
(それにしても、)
二度と奇行種には遭遇したくないと思うのに、奇行種の割合が高くはないだろうか。
「でも、エルドさんたちもエレンも凄いよね」
「は? 俺は何もしてねえだろ」
アルミンは首を横に振る。
「だって、リヴァイ兵長の指示が判っていたのは君も同じだろう?」
あの時動いたのはエルドとペトラ、オルオだけ。
グンタとエレン、そしてリヴァイも、その挙動が揺れることはなかった。
「そりゃあ、俺はお前らより長く兵長の班に居るし」
それはあるが、それだけではない。
続けようとしたアルミンを、間近に刺さったアンカーが止めた。
「エレン」
ミカサが同じ枝に飛び乗ってきた。
エレンは眉を寄せ、今度こそ溜め息を吐く。
「お前なあ、また勝手に班離れてんじゃねえよ…」
第3分隊の班構成は、エレンとアルミン、そしてリヴァイとエルヴィンが個々の能力を吟味して作り上げたものだ。
元々の人数が限られているため、1人が抜けるとその戦力差は埋まらなくなる。
ミカサはエレンの言葉に堪えた様子もない。
「エレンは私が居ないと早死にする」
「……」
何度言われただろうか。
もはやエレンは、言い返す手間さえ掛けたくない。
「エレン!」
またも名を呼ばれ、今度は誰だと声を振り返る。
するとやって来たのは、ライナーと彼の処の班員たちだった。
エレンとアルミンが立ち上がると、ライナーやコニーは隣の枝へ、ハンナだけが同じ枝へ降りてくる。
「エレン、エレン!」
ハンナが結構な強さでエレンの両肩を掴み、泣きそうな顔をした。
「お、おう? 何だ?」
その剣幕に押されながら先を即せば、彼女は一度唇を引き結ぶ。
「…エレン」
「なんだよ?」
辛抱強く相槌を打てば、ハンナは泣く寸前の表情で笑った。
「ありがとう、エレン。あなたの訓練のお陰で、私は死ななかった…!」
第3分隊が編成されてから、104期生の訓練の半分が今まで経験したことの無いものに変わった。
誰もが困惑し、それまで見ていたはずの"エレン"という人間が見えなくなって。
『俺たちは"責任"を負っちまった。だから、出来ることは全部やってもらう』
彼に容赦は無かった。
あれできっと、同期の大半は悟っただろう。
(エレンが、私たちの知ってる『普通』の生き方をしていないことを)
けれどエレンは、間違ってなかった!
隣の枝で、ライナーが肩の荷を下ろしたように笑う。
「まったくだ。俺も礼を言うぞ、エレン」
おかげで俺たちでも、条件さえ揃えば奇行種が倒せると分かった。
「3人共、ナイフは補充した?」
アルミンの言葉には、三者三様に肯定が返った。
「まあ、俺に礼言いたいなら、生きて戻ってからもっかい言えよ」
どこか悪戯を仕込んだようにエレンが言うもので、思わず笑みが浮かぶ。
隣の樹木で笑い合うエレンたちを見ていたエルヴィンは、荷馬車後方護衛班の班長が苦笑したことに気がついた。
「彼らがどうかしたのかい?」
「ああ、いえ、」
あの新兵たちが、まさか奇行種を倒すとは思わなくて。
「そうだな。確かに、思わぬ副産物だ」
エルヴィンに言わせれば、それはあくまで"副産物"でしかない。
「私の人選に誤りが無かったようで、ホッとしたよ」
護衛班班長は、エルヴィンの視線がエレンにのみ注がれていると判り嘆息した。
「エレン…いや、エレン分隊長ですか。噂には聞いていますが、何者なんですか?」
「なに、エレンはエレンさ」
穏やかに笑む調査兵団団長は、それ以上何も言う気がないらしかった。
進路を真東へ変更し、約30分。
エレンたちの眼前には、巨大樹ではない森が広がっていた。
見渡す限りの森は随分と深そうで、高低差のないここからでは一切の全容が分からない。
「すごい…」
馬を走らせながら左右を見て、アルミンが呟く。
人間の視野は160〜180度だが、この森はその範囲に収まらない。
巨人の気配がないことを確認してから、エルヴィンは森の手前で全体の足を止めさせた。
「第1分隊と第2分隊、それぞれから3班を森の迂回へ回す」
残りの班は森の外側で哨戒、中央列は森の中へ入る。
エルヴィンの作戦を聞いたハンジとミケが、即座に分隊を編成しに行った。
中央列である第3分隊は、リヴァイたちと共に森の中へ。
巨大樹ではない森が、随分と久しぶりに感じる。
(こっちの方が落ち着くな…)
エレンは1人、胸中でごちた。
…巨大樹は、立体機動装置なしで登るのは難しい。
ただの木々であれば、立体機動装置が無くとも動ける自信があった。
森は深く、出口は遠い。
途中で何度か小休憩を入れながら、行軍を続ける。
しかし第3分隊に限る話であれば、静かに馬を進めるだけな訳がなかった。
「獲りましたぁ!」
「うおお、サシャすげぇ!」
エレンの右後方、B班のサシャが何か獲物を獲ったようだ。
彼女は背中に手製の弓矢を背負っていたので、それを利用したのだろう。
振り返ってみると、馬を下りたサシャの足元に鹿が倒れている。
「…すげ」
さすがの大物に、荷馬車班が1つ列を止めてくれた。
チッ、とリヴァイの舌打ちが聞こえる。
「エレンよ。てめぇはどんな教育をしてきたんだ?」
火の粉がエレンに飛んできた。
「訓練内容は、兵長も全部ご存知でしょう」
「狩りは知らねえぞ」
「サシャは狩猟一族の出です。元から知ってますよ」
エレンが正論を返すと、また舌打ち。
少し小気味が良い。
「第3分隊の本分は、生還すること。巨人と戦うことだけが生き残る術じゃない」
そう返したエレンをリヴァイは物言いたげに目線で振り返ったが、何も言わずまた前を向いた。
(まだ、諦めやがらねえ)
エレンから向けられる殺意は、第3分隊結成の件からこっち、形(なり)を変えた。
理不尽に対する純粋な怒りではなく、どうしようもない衝動を抑えるような、どろりとした殺意へ。
「……」
おそらく、リヴァイとエルヴィンのやり方は間違っていたのだろう。
あの清々しい程の殺気が、こんなにも濁ってしまったのは。
(ハッ、今さら何を)
リヴァイは己を自嘲した。
前方から、光が射し込んでくる。
「森の出口だ…!」
出た瞬間に、巨人の口が無ければ良い。
そう思っているのは、きっと全員だった。
「…っ!」
広がった景色に、誰もが息を呑む。
目を見張るような水色。
キラキラと朝露の張った、蜘蛛の巣のように輝く水面。
巨人の姿は、無い。
「ウミ…かな、でも海はとても広いというから、じゃあこれは、湖…?」
興奮しきって震える声音で、アルミンが呟く。
エレンは言葉を返すこともせず、ただ目の前に広がる景色を見つめていた。
(…きれい、だ)
こんなにも輝くものを、エレンは壁の中で見たことがない。
広がる水面の向こうにも木々が見えて、対岸があることを思わせる。
パシャン、と時折水音が跳ねるのは、魚だろうか。
「エレン。第3分隊を2班ずつ、ハンジとミケへ預けてくれないか?」
「へ? あ、はい。索敵ですね」
エルヴィンの指示を的確に受け取り、エレンは馬を返すと己の分隊に正面から対した。
「ジャン、マルコ。お前らの班はハンジさんの分隊に合流してくれ。ライナーとトーマスの班はミケさんの方へ」
「了解」
「行ってくるよ」
第3分隊4班が、それぞれに移動を開始する。
(索敵…そうか。だからエレンは動かないのか)
ここに残る中央列の索敵は、エレンが担うということだ。
…誰よりも"第3分隊"の役割を理解しているのは、やはりエレンなのだろう。
アルミンはほぅ、と息を吐く。
(『生還する』ことがどれだけ難しいか。エレンはたぶん、誰よりも知っているんだ)
ただ『壁の中』で生きるだけでも難しいことを、彼は彼自身を以て証明している。
エレンとアルミンは荷馬車と馬の雑用に回ることにし、隊列を離れた。
「わっ?! エレン分隊長、何やってるんですか?」
「何って、馬を休ませるんですが」
「それは分かってます! そんなことは私たちがやりますから!」
荷馬車護衛班の面々に言われて、エレンは困ったように笑う。
「それこそ、俺の仕事が無くなります」
確かにエレンの肩書きは"分隊長"であるが、ハンジやミケのような実力が伴っているかといえば、それは否だ。
他の兵士に比べて危険察知が得意というだけで、他に特筆したものがあるわけでもない。
…暗殺技術は自慢するものでもないのだし。
むしろ知られては困る。
「例えばここに突然奇行種が現れたとして。的確な行動を取れるのは、俺ではなく先輩方ですから」
異論は返らない。
(当然だ。正しくシンプルで、ゆえに反論を許さない)
エレンの言葉に感心すると同時に、アルミンはおかしくなって少し笑った。
「エレン、口が上手くなったよね」
一気に彼の表情が呆れた。
「お前なあ、この場面でそんな人聞き悪ぃこと言うなよ」
「あはは、ごめんごめん」
だって僕の知っているエレンは言葉で説明するのが下手で、いつも僕が頑張っていたから。
「ああ、ミカサも言わねえしな…」
そういった頃もあった。
エレンにとってはとても遠い、砂のように零れ落ちる記憶だけれど。
荷馬車の整理と自班の馬の世話。
そのどちらも終わったが、まだ第1分隊と第2分隊は戻らない。
巨人発見の煙弾が上がっていないので、それが救いだ。
「エレン」
リヴァイの声に振り向くと、リヴァイ班の面々が全員揃っている。
「俺たちで湖側の調査をする。アルミン、お前はエルヴィンの隊だ。伝達班に混ざっとけ」
「はい、分かりました」
じゃあエレン、また後で。
アルミンを見送り、エレンはペトラたちの元へ向かう。
「徒歩ですか?」
「ええ。土壌がどうなっているか分からないから、行ける範囲で調べるのよ」
「分かりました」
無論、立体機動装置は着けたまま。
しかし壁外で徒歩とは、随分と稀なシチュエーションだ。
ざくざくと踏み締める土は硬い。
これなら馬も走れるだろう。
木々はまばらで、それらの幹は細くて白い。
(立体機動装置は使えなさそうだな…)
人が乗ったら、枝が折れそうだ。
グンタが荷馬車に積まれていた柄杓と白い器を手に、湖へ寄る。
「何をするんですか?」
「この水が安全かどうか調べるのさ」
わざわざ柄杓で掬うのは、水が人体に悪影響を与える可能性を考えてのもの。
器へ入れた湖の水に、細長く切られた紙の端を浸す。
「それは?」
「水が飲めそうかどうかを調べる紙だな。色が変わった場合は危ない」
「へえ…」
器に浸した紙は、濡れてはいるが色が変化した様子は見受けられない。
「じゃあ、この湖は大丈夫ってことですか?」
「いちおうは、ってとこか」
地下街で手に入る水に比べれば余程安全そうだが、それとこれとは違うらしい。
「湖、何か居るんでしょうか…?」
「落ちるなよー」
苦笑気味に声を掛けてきたグンタに笑って、エレンは少し離れると湖の淵ギリギリへしゃがんだ。
覗き込んだ水面に、自分の姿が映る。
(…あれ?)
思わずその姿に手を伸ばしてしまい、ぱしゃんと波紋が浮かび像が歪む。
エレンは水面へ伸ばし濡れた指先を、ぎゅっと握り込んだ。
(きっと、気のせいだ)
そのとき映った自身に抱いた違和感を、エレンは思考の奥底へと沈めた。
「…広いなぁ」
立ち上がり、目の前の光景を見つめる。
遮られない空。
空を写し取り続く湖水。
肌の白い木々に、澄んだ声で鳴く鳥。
巨人さえ目に入らなければ、『壁』の外は美しかった。
"焦がれる"、とでも表現しようか。
思わず手を伸ばしたくなる、この感覚を。
その感覚に逆らわず、エレンは手を伸ばした。
オルオが野生動物…おそらくは鹿のような…を獲った横で、ペトラが土壌を採取している。
「グンタが湖水を調べましたが、おそらくは大丈夫そうです」
木に目印を付けながら説明するエルドに、リヴァイは頷いた。
「…エレンはどうした?」
リヴァイの問いにああ、とエルドは後ろを振り返る。
「あいつならグンタと一緒に居たので」
あっちです、と指された向こうを見て、リヴァイは目を見開いた。
(…違う)
湖岸に立つエレンの姿を見て固まった上司に、エルドは首を捻って同じくエレンを見た。
そして、思わず頬を緩める。
「…良い顔して笑いますね、あいつも」
エレンは湖の淵ギリギリに立ち、空を見上げていた。
眩しいのか、それとも他に何かあるのか、右手が真っ直ぐに空へと伸ばされている。
空を掴むように伸ばす手の先を見つめて、エレンは微笑っていた。
穏やかに、先にある太陽のように眩しく、目は光を集めキラキラと輝いて。
リヴァイはエレンから目を離せぬままに、彼を凝視した。
(違う…)
王都の地下街で獲物を射る、獣のような目。
"敵"に対し向けられる、針の筵のような殺気。
気心の知れた同期たちと笑い合う、年相応な声音。
分隊長として立つ、歳不相応に静慮な面差し。
閨で見せる、快楽に溶けて淫らな肢体。
従順を装った、密やかなる獰猛さ。
(違う…)
そのどれにも、当て嵌らない。
目に映るすべてを受け入れ、浮かべられた笑みは。
一片の疑いもなく、純粋に喜びだけを映すその目は。
『外』の世界に純粋に満たされる、その姿は。
(それ、は)
今や、調査兵団の誰もが忘れた姿だった。
初めは『壁の外』への好奇心であっても、時を重ねるごとに心情は塗り変わる。
…生き残ることへ。
『壁の中』に戻ることへ。
"壁外への進出"とは、自由を求めることに他ならない。
『壁』に遮られ閉じ込められる現状への、怒りの矛先ゆえの"自由"。
それがいつの間にか『生き残る』ことへ移り、そして『壁の内側に』安寧を覚えるようになる。
壁の無い、あまりにも広い世界に、不安を覚えるようになる。
(こいつは、)
けれど違う。
今リヴァイが見つめる先の姿は、違う。
(これが、)
目に映るすべてに笑う姿が。
そこにある『自由』に綻ぶ笑みが。
これこそが、『エレン・イェーガー』という人間の本質。
リヴァイは唐突に、そう理解した。
リヴァイだけが…悟った。
>>
2014.7.30
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