調査兵団104分隊!

(2.第3分隊の訓練)




王都地下街、小さな家がひしめき合うその一角。
「…ジャンさん?」
に、コニーさん?
呆気に取られたような声を振り返れば、そこには顔馴染みが立っていた。
コニーがにかりと笑って片手を上げる。
「よお、久しぶり!」
まだあどけなさの残る相手の少年は、エレンから『Jäger(イェーガー)』を継いだ1人だ。
「戻って来られたんですか?」
「あー、いや。オレの商売道具が必要になったから、取りに来ただけ」
「…そう、ですか」
目に見えて残念そうな少年に、ジャンとコニーは顔を見合わせる。
だが、彼は早々に別の疑問を口にした。
「ナイフを造る道具なんて、調査兵団に必要ですか?」
必要ないだろう、本来なら。
サバイバルナイフは兵団から支給されるし、調理用も同様だ。
「まあ、普通はいらねーけどな」
普通ではない要件が発生した、ということだろう。
邪魔にならないよう通路の端に避けた少年は、さらに尋ねる。

「イェーガーさんは、戻って来れますか?」

ジャンは押し黙った。
一時的ではない話を訊かれているからだ。

この少年は、エレンがリヴァイと"鬼ごっこ"をしている中で、リヴァイの妨害に回っていた。
あの男の強烈な拳やら蹴りやらを喰らったこともあり、その執着が並ではないことも察している。
ジャンは正直に告げた。

「…無理だろうな」

分隊長などという、肩書きにまで縛られては。
少年が一層眉を寄せた。
「チッ、あの男…やっぱり殺しとけば良かった」
なまじ"出来る"がゆえに、それは冗談に聞こえずジャンの口許が引き攣る。
"鬼ごっこ"でそれが出来なかったのは、エレンの指示があったからだ。

地下街の出口まで送る、という少年の申し出をありがたく受け取り、ジャンとコニーは結構な重さの荷物をえっちらおっちらと運ぶ。
こんな状態では、強盗が出ても反撃すら儘ならない。
「お前らんとこのガキんちょ、みんな元気か?」
「はい。1人地上に出たヤツが居ますが」
コニーの問いに少年が答え、そこでジャンは大事なことを思い出した。
「そうだ、忘れるとこだったぜ。お前ら、前にローゼでエレンに繋ぎ付けたよな?」
「はい」
「この間エレンが言ってたんだけどよ。内地にアイツと連絡取り易いヤツが居るって話だ」
名前はヴァルター・ホルツヴァート、王都の北地区に屋敷を構える貴族。
少年が記憶を探るように視線を明後日へ向ける。
「…鈴蘭伯爵(Convallaria Earl)?」
「お、さすがに知ってたか?」
"人"の情報は、生き残る上での糧だ。
エレンに代わって地下街のヒエラルキーを足蹴にする少年の1人は、しかしジャンの予想を裏切った。
「いえ、あそこと取引の深い花屋の幾つかが、毒草を取り扱っているので」
「…え」
初耳だ、というか。
「毒草って…」
「善意なら薬草、悪意なら毒草、といったところですか」
「あぁ、ナルホド」
毒にも薬にもなる、という言葉は、意外と直球な教訓らしい。

今回使った地上への通路は、数年前にリヴァイとエルヴィンが利用した古い家屋だ。
もっとも、ジャンたちはそんなこと知る由もない。
天井の嵌め板をぐっと持ち上げれば、外からの明かりで鎹(かすがい)が見える。
「よっ、と」
鎹を嵌めて出口の板を支え、まず自分が出た。
「よし。コニー、荷物」
「おう」
重い荷物を上げ切って、息をつく。
「わりぃな、助かったぜ」
「どういたしまして」
礼を言えば、現『Jäger』である少年は微かに笑ってみせた。

「ところでジャンさん。鈴蘭伯爵への繋ぎ、そう簡単には取れないですよね」
「まあな」
その返しでジャンがわざと黙っていたことが明白となり、少年はムッと唇を引き結んだ。
「…いい加減、からかわないでくださいよ」
尋ねられた1に対し、1以上を返すのは馬鹿のやることだ。
この少年も成長したな、とジャンは少し感慨に耽る。
「俺みたいに優しい情報屋は居ねえだろ?」
彼やその周りの子どもは、エレンの身内だ。
そのためジャンにとっても身近であり、また一番近い顧客でもあった。
…こうして情報を切り売りして、鍛えてやる程度には。
「否定はしませんが、すっげえムカつきます」
ただしやっぱりエレンの身内なので、その口の悪さは親譲りと言えよう。
「ちっ、可愛くねえなあ」
「イェーガーさんが言うならまだしも、ジャンさんが可愛いとか言うのは気持ち悪い」
「てめっ…」
マジ可愛くねえ、とジャンの唇が再度引き攣った。
その隣ではコニーが腹を抱えている。
「笑うんじゃねえ!」
坊主頭をすぱんと叩いて、ジャンは少年に向き直った。

「鈴蘭伯爵に花を卸してる店の内、表は花屋で裏が薬草専門のとこがある。
まあ、お前もさっき言ってたけどよ」
そこの店員に、今から云うどっちかのガキを遣いに出せば良い。
「"白い髪にマルーンの眼"のガキか、"焦げ茶の髪にジェイドの眼"のガキか」
こくりと頷いた少年は地下への階段を下り、出入り口を支えていた鎹を外した。

「…こっちからエレンさんに会いに行くのって、出来ますか?」

コニーがジャンを見上げた。
「面会禁止、とは書いてねーよな?」
「お前な…。面会可能時間くらい覚えとけ、バカ」
「必要ねーじゃん、面会時間とか」
まあ、コニーの言うことも一理ある。
基本的に、兵士と一般市民の生活業態は違うのだ。
「面会時間は何時ですか?」
「12:00から14:00だな」
「……そうですか」
少年は2人へ会釈すると地下街へ戻っていった。
バタン、と床板が閉じ、ジャンとコニーは顔を見合わせる。
「何だったんだ? 今の間」
「さぁな…」
きっとよろしくないことだ。
ならば、今から考えるなどナンセンス。
ジャンは少年の動向についての考察を、すっぱりと止めた。



*     *     *



手首と掌の境目から、中指の先まで。
綺麗に収まる果物ナイフ…ではないのだが、見た目がそうなので仕方がない…を手に、エレンはふむ、とそれを検分した。
「こんだけ軽かったら、クリスタたちでも袖に仕込めるだろ」
「…そうじゃなかったらさすがにオレも凹むぞ?」
これ以上軽くとか無理だからな!
砥石から顔を上げ、不満げにコニーがごちた。
口からはまだ、ぶつぶつと文句を垂れている。
「しゃーねーだろ? 俺とジャンと…あとサシャくらいしか慣れてるヤツ居ねーんだから」
「アニも居ねーもんなあ…」
全然会ってないけど、あいつ元気かなぁ?
コニーはかつて、地下街でもつるんでいた同期を思い出す。
(憲兵とか暇そうだよなー)
本人が訊いたなら、きっと自慢の蹴りをお見舞いしたことだろう。



第3分隊の人数は、エレンも含め全部で22名。
これを5人ずつの班に分けて索敵に当たる、それがエルヴィンの構想らしい。
エレンの隣にはアルミンとジャン。
この2人は分隊長であるエレンの補佐、という役職になる。
そして集められたのは、もはや見慣れすぎた同期たち19名。
新兵だけで分隊なんて奇特だよなあ、とはライナーの言だったか。

「それで? あたしらは何をすりゃ良いんだ?」
痺れを切らしたユミルが口を開き、エレンは曖昧に頷いた。
「その前に聞きてぇんだけど。今までの壁外調査で、巨人に襲われたやつって居るか?」
ちらほらと手が挙がった。
俺もだ、とエレンは自分で手を挙げつつ、他に手を挙げる面々へ尋ねた。
「俺は奇行種に樹上で追っ掛けられた。サシャ、お前は?」
「わ、私は平原で追われて…。途中で先輩が代わってくれたんです」
足の速い巨人でした。
他にも踏み潰されそうになった、項を削ごうにもそこまで飛べなかった、等々。
自分から巨人に向かって行った例外は、ミカサだった。
(ミカサはな…ほぼ兵長だもんな…)
彼女は例外として、数に入れないことにする。
エレンは質問を替えた。
「じゃあ、巨人に追われたやつ。そいつ削げると思ったか?」
「むむ、ムリですよっ!」
「逃げるのもやっとだっつーの!」
信号弾を撃つのだってひと苦労したんだ、と各々が受けた恐怖を語る。
巨人と間近に遭遇していない者は、彼らの証言を聞きひやりと背筋を冷やした。

全員が落ち着いたところで、エレンはアルミンへ話を振る。
「アルミン。俺たち第3分隊の役目って何だ?」
「平たく言うと、全員が壁外調査から生きて戻ることだね」
「怪我の有無は?」
「最悪、兵士としては再起困難でも、生きていれば良いって」
「生き延びる手段は?」
「非人道的なものでなければ、何でも」
ここで初めて、他の同期たちは己の所属する分隊の役割を正確に知ったことになる。
エレンはアルミンから他の面々へ視線を戻した。

「今聞いた通り、俺たちは生きて壁外調査から戻る必要がある。壁外で巨人に遭遇しないのが一番だけど…」

長距離索敵陣形を用いても、巨人との戦いをすべて避けられるわけではない。
ならば、生き延びるためにどうすべきか。
単独で倒せるのは、ミカサとライナーくらいだろう。
「逃げるための隙を作る、ってことだよね…?」
控えめに答えたクリスタへ、頷きを返した。
「ああ。足の腱を切るか目を潰して、その隙に逃げる」
ただし、と続けた。
「巨人の腱を切る場合、どうしたって立体機動が要る。平原だったらそっちの方が危険だ」
戦い慣れた先輩兵士たちなら、そこから連携して項を削ぐ方が安全かもしれない。
けれどエレンたちには、そんな経験値など無い。
この4度の壁外調査を生き延びているのも、単なる運と片付けるべきだろう。
「…つまり、巨人の目を潰して逃げるってことだな?」
言ってから、ライナーは自分で首を傾げた。
「だがエレン。平原だと腱を切るのと同じことだろ?」
「それはやり方による」
やり方? と誰もが顔を見合わせたところで、エレンはミカサを呼び寄せた。
「なに? エレン」
ここはリヴァイ班と第3分隊が拠点とする古城に程近い、横手がすぐ森になっている広場だ。
森は巨大樹の森には及ばないが、立体機動の訓練には最適。
エレンは森の樹木を1本指差した。
「装着したブレードを、あの木にぶん投げてくれ」
「分かった」
エレンが彼女から離れると、ミカサはボックスからブレードを引き抜いた。
キン、と刃が鳴る。
彼女は右手にしたブレードをゆっくりと左下へ向け、そして。

ガッ!

斜め下から斬り上げられたミカサの右手には、トリガーのみ。
刃の部分は、エレンの示した木の幹に深々と突き立っていた。
「これが方法その1。ブレードを巨人の目に投擲する」
発せられた声に、木に刺さった刃から視線がエレンへ戻ってくる。
「まあでも、出来るのは兵長とミカサくらいだな」
自分で言っておいて否定するか。
「おいエレン、ふざけるなら余所でやれよ」
苛ついた様子を隠さないユミルに、肩を竦めてやった。
「やり方によるって言っただろ。実際、兵長はこれやってんだから」
「げっ、マジかよ」
人類最強パネェ、と慄くコニーが、たぶん普通だ。
何せブレードの投擲には、かなりの筋力とバランス力が必要になる。
しかも巨人に対するほぼ唯一の武器であるブレードは、消耗品。
1人につき4組しか持ち歩けないそれを、誰が投げ捨てようとするだろう?
出来るとすれば、それは残りの3組で他の倍以上を討伐可能な兵士だけだ。
…そう、リヴァイやミカサのような。
「んじゃ、あたしらみたいな常人はどうすんだ?」
再度尋ねたユミルに、エレンは右手に持つ物を振ってみせた。
「これを使う」
「…ナイフ?」
どう見ても、ただのナイフだ。
自分たちが持っているものより細身で、小さいくらいしか特徴はない。
「エレン、それ…いつ取り出したのかな?」
ベルトルトの問いには、答えなかった。
「それは今必要じゃねえから、また今度な」
エレンの隣で、ジャンが手にしていた布袋の口を開け地面へ広げた。
ざらざらと並べられたのは、エレンが手にしているものと同じナイフ。
「今人数ギリギリ分しかないんだ。あとは自分のサバイバルナイフで代用な」
全員に配られたナイフの第一印象は、"軽い"だった。
アルミンは細身のナイフを鞘から抜く。

刃は根元から切っ先へ鋭角を描き、切るというよりも刺すといった方が良さそうだ。
腰に装備しているサバイバルナイフを左手に持ってみるが、重さがまったく違う。
よく磨かれた刃は、光を美しく反射した。

「こいつを、」
エレンの声にハッと我に返る。
彼の左手にはアルミンの右手のものと同じ、抜き身となったナイフの柄が握られていた。
水平に伸びた左腕が、肘だけ曲げられる。

カッ!

見えなかった。
音のした方向を見ると、ミカサが突き立てたブレードのすぐ上にナイフが刺さっていた。
その軌跡を、誰も捉えられていない。
「こいつを巨人の目にぶっ刺す」
投げ方のコツさえ掴めれば、射程は10m以上まで広がる。
「ブレードを投げるよりずっと簡単で、確実だ」
材料費はブレードの仕入れ値よりも安くつくし、何より。
「動物が獲れますね!!」
がっつり拳を握ったサシャに、エレンはにやりと笑ってみせた。
「ああ。生き延びる可能性が高くなる」



コン! だとかカン! だとかいう音が森の方から聴こえてくるので、つい気になってしまった。
「…何の音でしょうか?」
呟いたペトラと同じく、他のリヴァイ班の面々も音の方向をそわそわと窺っている。
「見てみるか?」
リヴァイの問いかけには、全員が一二もなく頷いた。

リヴァイ班であるエレンが第3分隊の分隊長となり、旧ウォール・ローゼ調査兵団本部は一気に大所帯となった。
今までエレンだけを構えば良かったペトラたちは、後輩の増加に嬉しいながらも戸惑いを隠せない。
そのエレンは幹部職となったことで、リヴァイと共に訓練を抜けることが増えた。
まだ新兵の括りである彼に、訓練時間の減少は由々しき事態だ。
その点は本部に居る間の隙間時間に、リヴァイがマンツーマンで訓練を付けているという。
(う、羨ましい…)
などとペトラやオルオは思ったクチであるが、エレンの立場を考えるとそうも言ってられない。
またエレンが居る日の午前中は、第3分隊独自の訓練へ回すというのがお達しだった。
無論、それにリヴァイ班が関わってはいけない、という規則はない。

「エレン」

リヴァイの声に、エレンがこちらを振り返る。
「お疲れ様です、兵長。皆さんも休憩ですか?」
「そんなところだ」
誰かがエレンを呼ぶ声が聞こえ、彼は一度こちらに背を向けた。
「わりぃ、サシャに聞いてくれ! サシャ、お前はもう良い。俺と代わってくれ」
「へっ? 私で良いんですか?」
「今日は当てるだけだからな。お前、そいつで兎くらい狩れるだろ?」
「もっちろんです!」
「あと、ミカサにももう良いって伝えてくれ。コニー手伝えって」
「了解です!」
声だけでサシャと遣り取りし、エレンはまたリヴァイたちへ向き直る。
第104期の兵士たちが何をやっているのか、その様子を見たエルドは目を丸くした。
「……ナイフ投げ、か?」
どう見ても、そうだ。
幾つかの班に分かれて、決められた樹木に向けてナイフを投げている。
「おい、エレンよ。命懸けの調査兵団で曲芸なんてバカなこtoガハッ」
「カッコつけも噛んでたらただのバカよ」
でもエレン、どうしてナイフ投げを?
オルオに対して辛辣なツッコミを入れることを忘れず、ペトラが問う。
するとエレンは、どこか不思議そうに返してきた。

「"生き延びる"以外に理由が要るんですか?」

愚問だった。
「いいえ、要らないわ」
無駄な質問をしてごめんね、と詫びてから、ペトラは第3分隊の役割を思い返した。
「あのナイフ、支給のやつではないよな?」
尋ねたグンタへ、エレンは自分が持っていたナイフを差し出す。
「特注品ですよ」
受け取ってまず驚いたのは、その重さだ。
「軽いな…持ってることを忘れそうだ」
エルド、オルオ、ペトラと回されたナイフを手にして、リヴァイは鞘を抜いた。
「…ナイフというより、アイスピックか」
幅が狭く鋭角を魅せる刃は、突き刺すという動作を容易くするだろう。
「アイスピック?」
「酒場で使う、氷を砕く道具だ」
錐のでけえやつだ、と説明してやれば、エレンもイメージが沸いたらしい。
「巨人の目に投げるから、刺さるものじゃないと」
なるほど、合理的だ。
エレンは訓練に励む同期たちへ視線を戻した。
「俺たちの中で、先輩方のように平原で巨人を削げるのはミカサくらいです。
出来ないことを出来るようにするには、どうしても時間が掛かる」
本物の巨人に対さない限り、その事態に遭遇しない限り、本当の対処など出来やしない。
「今やってる訓練なら、巨人が目の前に居なくてもやれます」

まずは当てる。
次は狙う。
その次は動く。
そして反射にする。

「ナイフを扱うだけなら、3年も要らない」
次回の壁外調査は、まだ大まかな日程候補しか出されていなかった。
(その間に、全員に叩き込む)

生き延びる、術なら。
エレンは持っていた。

「エルドさんたちもやりますか?」
「えっ、良いのか?」
「生き延びる手段のひとつと考えれば、無駄なものではないでしょう?」
それもそうだ。
エルドが確認のために目線を合わせて来たので、リヴァイは頷いてやる。
「構わん。的にされんようにな」
「動く相手を的にするのはまだ先だから、今日は大丈夫です」
エレンのフォローがフォローになっていない。
(後々で的にされるのか…)
きっとそうだ、とエルドたちは不安を胸に仕舞い込んだ。



先輩兵士たちが加わった訓練を、エレンとリヴァイはまだ遠目から眺めている。
「てめえはやらなくて良いのか」
ちらりと金色を見上げて訊いてやれば、にぃと唇が吊り上がった。
「要ると思いますか?」
「…要らねえな」
リヴァイは知っている。
草木も眠る時刻に、エレンが古城を抜け出していることを。
抜け出した先の森で、兵士としては求められることのない訓練を行っていることを。
(一度尾行してみたが…)
エレンは立体機動を行う際に、妙な癖が出る。
特に高さを変える横移動において、ガスの噴射より先に振り子の要領で飛び出して行くことだ。
何度注意しても変わらず、無理に変えようとして落下しかけること複数回。
聞けば、訓練兵の頃からそうなのだという。
癖の理由(わけ)は、夜半に抜け出すエレンを追えば判明した。

抜け出したエレンは森の手前まで来ると、周囲を軽く見回した。
誰も居ないことを確認し、軽い準備運動の後に数本のナイフを樹木へ投擲、直後に同じ方向へと走り出す。
…足音はしなかった。
樹木に突き刺さったナイフの柄、そこに足を掛けたエレンの姿がふわりと上に消える。
暗闇に完全に溶け込んだ"それ"は、闇に慣れたリヴァイの目にも見えない。
("Schatten Schlange(シャッテン・シュランゲ)"か…?)
パシッ! と何かを弾くような音が微かに漏れる他に、音はない。
エレンの姿は、時計の振り子を伝うように森の奥へと消えた。

(あの武器に、動力は入ってねえ)
無いからこそ、服の下に隠れる大きさなのだろう。
動力が無くとも高所への移動が可能な、恐るべき暗殺武器。
立体機動時のエレンの癖は、"Schatten Schlange"での移動に慣れている結果なのだろう。
…3年以上経った今でも、その武器を手放す気が無いという表れ。
ゆえに、聞いてみたくなった。

「エレンよ」
「はい?」
「お前、壁外に出たとき何を思った?」

首を傾げる彼に、リヴァイは先に自分の答えを示してやる。
「俺は溝(どぶ)と変わらねえ地下から地上に出て、キレイなもんだと思った」
あの地下がクソみてぇなところなのは元から知っていたが、と続ける。
「だが調査兵団に入って壁の『外』に出て、俺は地上である『壁の中』ですらクソみてぇな空気なんだと思い知った」
じっと耳をそばだてているエレンへ、再度問う。

「なあ、エレンよ。『壁の外』に出て、お前は何を思った?」

エレンの眼差しは訓練風景から逸れ、森と丘の向こうに聳える『壁』を捉えた。
「…『壁の外』は、」
地下街から出て訓練兵から調査兵団の兵士となり、初めての壁外調査を終えてから。
エレンは幼い頃の記憶を思い出すことが増えた。
帰還した日、両親と再会したことが引き金となったのだろう。
(地下に居た頃は、思い出そうとしないと何も思い出せなかったのに)
過去のエレンは、感情と行動が常にイコールで結ばれていた。
その幼い自分が幼いなりに、いつも感じていた理不尽がある。

「『壁の外』は、自由だった」

どんな方角を見上げても、そこには空を遮る『壁』が在った。
シガンシナは突出地区だ。
それ以外の地域にはない狭さで、50mもの壁に囲まれている。
(…けど、)
だから何だ、と思う。
こんなにも狭い世界だというのに、ただの害獣に成り下がった人間が多過ぎる。
「『壁の外』は、楽ですね」
「なに…?」
意味が掴めず聞き返したリヴァイに答えることなく、エレンは訓練中の同期たちの元へ戻った。
リヴァイの舌打ちは聞こえないフリをして。



(壁の外は、楽だ)
壁外は、誰かを疑う必要がない。
巨人という例外はあれど、"人間"という面倒な生き物を相手にせずに済むのは、とても楽だ。
人間、という意味では調査兵団の面々が共に居ることになるが、生死を分ける中で足を引っ張る者は居ない。
云うなれば、疑う必要が無い。
(余計な感情が生まれない、それだけ)
それだけで、あんなにも軽かった。
(翔べるような気がした)
"人間"に対する憎悪や嫌悪感が自身の身体から剥離していく様は、エレンにはとても魅力的だった。
だからこそ、浮かんだ願望を意志の力で沈め、鍵を掛ける。
認めてしまえば己を喰い破る、その矛盾を。

(壁の中に戻りたくない、なんて)
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2014.7.30
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