獣の在処(ありか)
(1.第104期生の受難)
ーーーこれはまだ、第104期生が訓練兵だった頃の話。
荒地行軍訓練。
それは班を構成し、指定の場所にある証を手に戻ってくるもの。
1日では到底戻れぬ距離を、教官の監視もなく往復しなければならない。
訓練の目的は、巨人もなく監視もない中で緊張感を保つ、というもの。
今回、不運にも選ばれた16名が、その訓練を実施することとなった。
(あっつ…)
行軍に指定されたのは、訓練兵団からさらに南、荒涼とした砂地と森が点在する地域だ。
片道約30km。
…砂と岩、背の低い木々と僅かな草地。
日射しを遮るものはなく、だらだらとした空気と熱気がやる気を削いでいく。
エレンの所属する班は班長にマルコ、記録係にアルミンが任命されていた。
「かったりぃ…」
最後尾近くを歩くジャンが、ついに悪態を突いた。
「これじゃあ、お腹が減るだけですよ…」
続いてサシャが自分の腹を擦り、周囲を見回して溜め息を吐く。
「おい、マルコ。さっさと森まで行って、ちゃっちゃと帰ろうぜ」
エレンを飛び越えて投げられた言葉に、マルコは苦言を呈する。
「駄目だよ。僕ら1班は、2班と森の中で合流しなければならないんだ。
こちらが急いだところで、今度は森の中で待ちぼうけを食らうよ」
「はー、面倒くせぇなぁ…」
そうだ、兵士なんて面倒なことだらけだ。
(何で志願しちまったんだ、まったく)
そういえば、アニも似たようなことを零していたっけ。
「おっ、でけえトカゲだ!」
コニーの声に脇を見れば、体長2m…ただし尾の先までを含め…近いトカゲが走っている。
エレンたちの馬の速度は常歩(なみあし)で、トカゲの方が速い。
サシャの目が輝いた。
「トカゲ! あれ美味しいんですよ!」
食料を別に確保してはいけない、ってルールは無かったですよね!
「へえ、美味いのか」
さすがにトカゲは食べたことがない。
エレンが呟けば、サシャは大きく頷いた。
「はい! 鶏肉みたいな味なんですよ」
アルミンやマルコは微妙な顔をするが、なぜかジャンがやる気を出した。
「なら狩るぞ! 手近な目標がなきゃやってらんねえ!」
カッと馬の蹄が強く地面を蹴り、ジャンはエレンたちの隊列を追い抜く。
追われる気配に気づいたか、トカゲが速度を上げた。
"ありのままを記録せよ"と命じられているアルミンだが、今現在のことを書くべきなのかどうか。
「…止めないんだね」
いつもならジャンに突っ掛かってるのに。
思い出したようにアルミンが首を傾げるので、エレンはこれ見よがしに息を吐いてやった。
「馬面に構ってやる気力なんかねーよ」
獲ったぞ! という声はそれなりに遠く、サシャが真っ先に駆け出していった。
「絞めるのは私に任せてください!」
面白そうだ、とコニーも駆け出していく。
最後尾のクリスタが、エレンのすぐ後ろのミーナの隣に並んだ。
「エレン、何か難しいことを考えてるの?」
真面目な表情、としか言えない彼の目線が、時折周囲へ向くのは後ろからだとよく見えていた。
クリスタの問いに、ミーナが便乗する。
「うん…エレン、さっきからそんな感じだよね」
わいわいと騒ぐジャンたちが近くなる。
エレンは丘陵になっている左手の砂地、大きな岩山を指差した。
「たとえばあそこに、7m級の巨人がいる。まだこちらには気づいていない」
どうする?
マルコが目を見張った。
エレンは指先を、切り立った岩山の天辺へ向ける。
「あそこで黒いものが光った。ライフルの銃口がこちらを狙っている」
どうする?
この場にいるのは、マルコ、アルミン、ミーナ、クリスタ、そしてエレンだ。
前方のジャン、サシャ、コニーは、大きなトカゲをロープで絞めていた。
平和なもんだな、とエレンは思う。
「この訓練、暑いしかったるいし面倒だけど、仮想敵には事欠かねーよ」
何よりエレンには、こんな広い場所さえ珍しい。
狭く暗い、ひしめき合うような地下と、華美で整然と造られたウォール・シーナ。
そんな地区とは無縁の、ウォール・ローゼ。
(地下街が懐かしい)
地上へ出てしまった以上、適応して生き残らなければならない。
ならば、訓練さえも最大限に利用する。
「本物の巨人は見たことねぇから、そっちはあんま役に立たねーけど」
そんなことはない。
大きく頭(かぶり)を振ったのはアルミンだった。
「思考ロジックは、使わなければ鈍るだけ。戦闘シミュレーションも、あるのとないのとでは全然違う」
「そうだね。サシャたちみたいに目先を追うのも大事だけど、エレンの言ってることは間違いじゃないよ」
それだけの危機感を持ち続けられるだけでも、凄いことだよ。
手放しで褒めてくるマルコへ、褒めても何も出ないぞと返してやる。
(危機感ね…)
地上に出たこと自体が、危機的状況だ。
エレンは遠く聳える『壁』を見つめた。
(あの男、さっさと死ねばいいのに)
そうすれば、契約の履行相手もろとも契約が破棄されるのに。
2班はトーマスを班長に、ミカサが記録係を任命していた。
薪となるものを拾い集めながら、アニは凝った肩をぐるりと回す。
(かったるい…)
まったく、なぜ兵士など志願したのか。
エレンが居なければつまらないのは知っていたが、別に兵士でなくとも良かったんじゃないか。
(まあ、今言っても詮無いことだけどね)
甘っちょろい人間ばかりで、エレンもアニもジャンもコニーも、成績上位なんかに数えられている。
自分たちより上にいるミカサ、ライナー、ベルトルトについては、少し興味があるが。
(ミカサは、私たちとあまり変わらないニオイだ)
「おい、みんな来てくれ!」
ライナーの声に、アニは踏み出そうとした足を引いた。
「焚き火の跡?」
「ああ。1日は経ってそうだがな」
ミカサが口を開く。
「…さっき、嫌な感じがあった」
「嫌な感じ?」
トーマスが続きを即すと、彼女は言い渋る。
「…言葉では説明できない」
それ以上答える様子のない彼女に、トーマスは困惑した。
(危機感の無いヤツらだね、ほんと)
ミカサの説明し難い感覚が、アニには解る。
ライナーが呟いた。
「窃盗団かもしれないな」
「窃盗団?」
曰く、立体機動装置を盗み売買する窃盗団が幾つかあると云う。
(ああ、なるほど)
立体機動装置は高価だ。
売れば相当な金になるし、闇ルートは複数に渡る。
(あのリヴァイって男も、地下で立体機動装置使いまくってたらしいし)
世の中狭いもんだ、と感心さえしてしまう。
「明日の朝には1班と合流する。そのときに、窃盗団の話もしておこう」
トーマスの決定に、誰も否やは返さなかった。
トカゲの肉がメインのスープは、こんな野外だからか随分と美味かった。
すっかり夜も更けようとしている。
「新たな境地の発見、ってか…」
「他にもいっぱい居るんですよ! 美味しい動物!」
「分かったからお前は食ってから喋れ」
「ふぁい」
サシャの頬を抓って黙らせ、エレンは呆れともつかない苦笑を浮かべた。
「なー、ジャン。お前、トカゲ食ったことあった?」
「ねぇよ。食生活、てめぇとほとんど同じだろーが」
それもそうだ。
「んじゃ、アルミンは?」
「僕も初めてだよ…」
「見た目はアレだけど、結構美味しいんだね」
ミーナがフォークに刺したトカゲの肉を見ながら、肩を竦める。
大きな一口を飲み込んだサシャは、ビシリとフォークを上に指を立てた。
「皆さん、食わず嫌いが多過ぎるんですよっ」
食べられる内に食べる、美味しく頂く、それ以上に幸せなことなんてありません!
(ま、正論だよな)
地下街での生活が長すぎて、エレンは幼馴染であるミカサとアルミンさえ近しいとは言えない。
それは同じく地下から出てきた面々以外、全員に言えることだ。
ただ、"生き抜く"という意味ではサシャが一番近そうだと思う。
「なあ、サシャ」
「はい?」
「人の気配と獣の気配って、同じか?」
「え? えーっと…」
今までの談笑の中では、明らかに異質な問いだ。
思わず皆が口を閉じてしまい、ジャンが微妙な空気感に頭を掻く。
「てめぇはホント、空気ってヤツを読まねえな…」
ククク、と笑いを堪えるのはコニーだ。
「ここ、地下じゃねーもんな」
「うっせ。なあサシャ、どうなんだ?」
なおも問われ、彼女はううんと唸ると明後日の方向を見上げた。
「…あんまり変わんないですよ、正直」
違いは足音の種類とか、物をぶつける音とか、それくらいで。
「へえ」
「茂みが突然ガサッ! って云うのなんか、どっちにしろ怖いことに変わりないですし」
「それもそうか」
サシャの言葉に己の背後の茂みを気にしたクリスタには、誰も気づかずに。
地下に比べて、地上は気配が多過ぎる。
エレンは寝袋の中で眉を寄せた。
(…チッ、掴めない)
視られている。
あまり遠くない場所から、自分たちの様子を窺っている連中がいる。
だが、位置も数も掴めない。
寝返りを打つと、寝袋がひとつ空になっているのが目に入った。
(クリスタ…?)
エレンは音を立てぬよう身を起こす。
彼女の気配はすでに知っているので、それを追って焚き火の傍を離れた。
小さな段差を上り、森の奥へ。
先には明るい内に水を調達した、小さな池がある。
「クリスタ」
「!」
池の淵に愛馬と共に居たクリスタは、不意に名を呼ばれて声を上げそうになった。
「え、エレン…?!」
シィ、と人差し指を唇に苦笑した彼に、パッと自分の口を塞ぐ。
「どうしたの?」
「それはこっちの台詞だ。眠れないのか?」
エレンはクリスタの隣へしゃがんだ。
「えっと…」
「ちょっと耳貸せ」
「え?」
顔を寄せてきたエレンに、クリスタは釣られて耳を寄せた。
「(普通に喋ってるフリしてくれ)」
目を丸くしたクリスタは顔を離し、不思議そうに首を傾げる。
「他の皆は寝ちゃった?」
「みたいだな」
今度はクリスタがエレンの耳元へ顔を寄せた。
「(ご飯を食べてたときにガサッて音がして、気になって)」
次はエレンが。
「(ああ、結構な人数らしい。たぶん銃を持ってる)」
「えっ?」
意図せず声を上げてしまい、クリスタは誤魔化す話題を探し、焦った。
「エレンって、恋愛には興味ないんだと思ってたよ」
よりにもよって、そっちに逃げるか。
エレンは演技でなく呆れた。
「お前な…人を何だと」
そこで、先ほど張り詰めた周囲の気配が緩むのを察した。
(…こいつら、素人か)
窃盗、強盗、人買い。
人様にははた迷惑でしかない生存方法は、誰でも可能な代わりに格差がある。
少なくとも今エレンたちを狙っているのは、地下街で互いを天敵としていた玄人たちとは違う。
「クリスタ。手、出せ」
「え? うん」
エレンは差し出されたクリスタの右手の先…ジャケットの袖口…に、指先へ忍ばせていたものを差し込んだ。
「エレン?」
「(剃刀の刃だ。手首から曲げたら届くだろ)」
「あの…」
「(縛られたら、そいつで縄を切って機会を伺え)」
あまりに距離が近い状態が続いたせいか、クリスタは頬をうっすらと朱に染めていた。
「もう、からかわないでよ」
「ははっ、悪かったって」
じゃあ、俺はもう寝るな。
「お前も早く寝ろよ」
「うん。おやすみ、エレン」
クリスタと別れ寝床に戻ったエレンは、寝袋に入ると目を閉じた。
(15分くらいは寝れっかな)
目測正しく15分後、エレンたちは銃で武装した窃盗団に襲われたのである。
クリスタは人質として連れていかれた。
馬はすべて放されてしまい、移動手段は自身の足のみ。
「訓練は、中止だ。早く憲兵に知らせに…」
「間に合わなかったら?」
ピシャリと投げつけられた言葉に、マルコは口を噤んだ。
エレンは他の班員を眼差しだけで振り返る。
「次の町に着いたら、立体機動装置より先に買い手が付くぞ」
「買い手…?」
まったくピンと来ていない面々に、コニーが苦虫を噛み潰したように告げる。
「クリスタを慰み者として買うってことだよ」
「なっ?!」
信じられない、と瞠目する中で、ジャンは気まずげに後ろ頭を掻いた。
「マルコの肩持つみてーで悪いけどよ。お前、気づいてたろ?」
あの連中に。
「は?」
アルミンは目の前で交わされる会話に付いていけない。
「ま、待ってよエレン! どういうこと?」
「どうもこうも、俺たちが飯食ってた頃から狙われてたんだよ」
「そんな…」
数と武装に不安が多く、エレンは単騎で何とかすることを諦めた。
(いちおう、クリスタには入れ知恵しといたけど…)
急いだ方が良い。
獣道を進もうとしたエレンを、ミーナが止める。
「待ってエレン! 馬も放されちゃったのに、どうやってあいつらを追うの?!」
ああ、もう。
踏み出そうとした足を止めて、エレンはこちらを見る同期たちへ身体ごと振り返ってやる。
「自分の足で追うんだよ。クリスタの買い手が貴族だったら、憲兵だって手出し出来ねえぞ」
ジャン、地図見た感じどうだ?
「森を突っ切りゃ、道の悪い馬車より早く町に入れそうだな」
アルミンの持っていた地図をするりと抜き取り、ジャンはそんな評価を下す。
「ふぅん…。町に入る前ならどうとでもなるな」
「ちょっ、と、エレン! 君まさか1人で行く気かい?!」
マルコは慌ててエレンの肩を掴んだ。
「人数は分かった。武器も分かった。後は追い付けば済む話だろ」
方角はこっちだな。
すでにエレンの意識は、同期たちから離れている。
(エレンは…)
それは、彼にとって自分たちが頼れる存在ではない、ということ。
アルミンは拳を握り締めた。
「待って、エレン」
投げた声は、震えていたかもしれない。
「僕も行く」
その声と眼差しに違うものを感じたのか、エレンはまっすぐにアルミンを見返してきた。
(僕は、何のために訓練兵団へ入った?)
『いつか、壁の外を冒険するんだ!』
そう約束した、理不尽に奪われた幼馴染を捜すためだった。
実際にはそれよりも前に再会することが出来たけれど、どちらにせよアルミンは兵士に志願しただろう。
(いつか出会えたときに、胸を張れるように)
壁の外へ行ってきたのだと、言えるように。
(一緒に夢中になったあの本の世界が、外にはあるんだって)
「君にとって、僕たちは足手纏いでしか無いのかもしれない。それでも僕は、君に失望だけはされたくないんだ」
兵士を志願した覚悟が軽くないことを、アルミンは証明したかった。
「私も行くよ、エレン」
彼の隣で、ミーナが口を開く。
「アニが言ってた。物を盗ったヤツは、しばらく逃げたら必ず盗った物を確認するって」
「…そういやそうだ。てことは、あいつらどっかで留(と)まってるかもな」
どんだけ売るのか、確認しねえと売り上げ分かんねーもんな。
コニーが確認するようにエレンへ告げる。
サシャは陰鬱な雰囲気を払拭せんと、わざと明るい声を上げた。
「高いところへ登りましょう、エレン」
森で迷ったら山に、平地で迷ったら大きな木に登れ。
「父が口を酸っぱくして教えてくれた、サバイバルの極意です!」
ジャンから地図を受け取り、マルコはエレンが向かおうとしている方角を指差した。
「この先に岩山があるはずだ。そこへ登ろう」
どうやら、全員が意思を固めたようだ。
「…まあ良いけど」
お前らも物好きだな、とエレンは苦笑した。
それは雑談の最中に見せる笑顔と同じで、負の感情の混ざらぬもの。
「急ぐぞ。時間が惜しい」
「ああ」
走り出したエレンを追い、全員が駆け出す。
その殿(しんがり)で、ジャンはこっそりと溜め息を吐いた。
(地下と変わんねえなあ…)
エレンはリーダーには向いていない、それには我が強すぎる。
彼は完全に一匹狼で、そこにジャンやコニーのような後方支援が放っておけずに加わるタイプだ。
…そして、誰かが自分と一緒に歩くという期待を、彼は一切持ち合わせていない。
エレンはいつだって、己の意志に沿うものを選んでいるだけだ。
(なのに、気づいたらこうなってる)
『ブルータス、お前もか』
いずれはこいつらにも、この言葉をプレゼントしてやろう。
前方を行くアルミンたちの背を見ながら、ジャンは1人笑った。
岩山に登り、見えた煙。
遠眼鏡で確認すれば、窃盗団が立体機動装置を馬車に積み直していた。
「町へ先に入られたらアウトだな」
「森を突っ切れば、馬車より先に行けますよ」
「ああ。けど、それだけじゃ駄目だ」
何か策を講じないと。
地図をじっと見下ろしてたアルミンは、エレンの言葉に顔を上げた。
「…考えがあるんだ」
小休憩に足を止めていた窃盗団が、また動き出す。
クリスタは両の手首を縛られ、1台目の馬車の梁に腕を吊るされる形で立たされた。
「おい。この娘、こいつも高く売れんじゃねえか?」
相当な上玉だ、と下世話な声が聞こえるが、クリスタは梁に結わえ付けられた縄を見上げていた。
(結び目が甘い…?)
強い衝撃があれば、きっとこれは外れる。
(馬車がどこかに乗り上げたりすれば…)
せっかくエレンに貰った"武器"も、このままでは使えない。
「よし、出発だ!」
馬車が走り出した。
岩山を下り、道なき道を駆け抜ける。
草を掻き分け木々へ登り、枝を乗り越え、時に鉢合わせる野生動物さえ足蹴にして。
「うわっはー! エレン速いですねえ!」
「さすがにお前には負けるっての」
エレンの障害物を障害物としない走りは、地下街を駆け抜け培ったものだ。
森は構成物が違うので、狩猟民族で森育ちのサシャにはさすがに及ばない。
「は、速いよあの2人…!」
他の面々は彼らを見失わないようにするので精一杯だ。
窃盗団にとって、この道は通い慣れたもの。
ゆえに地図など見ないし、妨害してくる存在もない。
…まさか、ただの茂みだと判断したものが引き倒された大木だなんて、思いもしない。
彼らは何の疑いもなく、町への道ではなく迂回路へ進んでいく。
「よし、上手くいったぞ!」
「あとは、どっちの馬車に立体機動装置が乗ってるか…!」
立体機動装置は金属製だ。
ゆえに、重ねて運ぶ場合はどうしてもぶつかって甲高い音が出る。
道が悪くなる地点に潜み、マルコは耳を澄ませた。
馬車が近づいてくる。
1台目。
そしてもう1台が通過した。
(2台目だ…っ!)
合図の音を2度鳴らす。
ロープを繋いで伸ばされたそれは、先回りした先のエレンとジャンへ届く。
カランカランと空き缶が音を立て、2人は2台目の馬車へ狙いを定めた。
「…エレン。分かってると思うけどな」
「分かってるよ。"こいつ"は余程じゃねえと使わねえ」
こいつ、とエレンは右の指先で左の手首をノックしてみせる。
…そこには、エレンが暗殺に使用する武器が在る。
半信半疑の様相ではあるが、ジャンは納得した。
「行くぞ!」
「おう!」
枝を踏み切り、身を躍らせる。
ボフッ、と走る馬車の幌の上へ落ちて、ジャンは後ろへ、エレンは前へ。
「こいつ?!」
ジャンは振り子の要領で一気に馬車の中へ飛び込み、ライフルが構えられる前にその銃身を掴む。
(発砲だけは阻止しねえと…!)
相手の膝を思い切り蹴り、相手が怯んだ隙に体当たりをかました。
体当りした先は、馬車の外。
エレンは上から、踏み台よろしく御者役の男の頭を両足で遠慮無く蹴り飛ばした。
不意を突かれた御者は呆気なく手綱を手放し、馬車から落ちる。
「てめえっ?!」
御者を蹴り落とした勢いで、さらにジャンの相手とは別のもう1人の首に片足を引っ掛け、引き倒す。
「ぐっ…!」
拍子に床に付いた銃身を踏みつけ、エレンは嘲笑(わら)う。
「こんな狭いとこで、ライフルが有効に働くかよ」
もう片方の足で鳩尾へと力任せに足を振り下ろせば、男は痛みと圧迫感に痙攣して気絶した。
「この、ガキどもが!!」
2台目の馬車への襲撃は、1台目の馬車の出入り口に拘束されていたクリスタにもよく見えた。
(エレンとジャン?!)
助けに来てくれたのだろう。
ガチャ、と脇の男がライフルを構え、クリスタは叫ぶと同時に足を振り上げた。
「やめてっ!」
男を馬車から蹴り落とすには至らない。
しかし妨害には事足りて、男の矛先がこちらに変わった。
「大人しくしてろ!」
「っ!」
ライフルの柄で撲られ…幸い顔ではなかったが…、吊るす縄が解けて馬車の奥へと身体が飛ばされる。
どさりと半身を床にぶつけて、呻き声が出た。
「クリスタっ!」
エレンの声に、男がまたそちらへ銃を向ける。
ダァン! と破裂音が響き、2台目の馬車の左前輪が軸を裂かれた。
車体が大きく揺れる。
「エレン、馬っ!!」
馬車を牽いている馬まで巻き込んでは、貴重な足が減ってしまう。
怒鳴ったジャンの意図を正確に受け取って、エレンはジャケットに仕込んでいたナイフを投擲した。
ぶちり、と馬と馬車を繋いでいた革ベルトが断ち切れ、馬車が傾ぎ馬は真っ直ぐに駆け出す。
「うわっ?!」
荷台はバランスを崩し、派手な音を上げて横転した。
「エレン! ジャンっ!」
クリスタの声が遠くなる。
「エレン、ジャン?!」
「無事か?!」
追い付いてきたアルミンたちが口々に声を掛ける。
「…いってて、何とかな」
もはやガラクタと化した荷台から身を起こし、ジャンは身体を伸ばした。
エレンはさっさと立体機動装置を身に着けている。
「早く、クリスタを追うぞ!」
各々が立体機動装置を装着する中、エレンはミーナを呼んだ。
「うん、何?」
「ちょっと頼みがある」
パシュッ、キュルルルッ!
アンカーの発射音、ワイヤーを巻き取る音。
次々と飛び立つ仲間を見上げて、アルミンは手元の信煙弾を空へ向ける。
パァン!
「くそっ、てめぇらのせいで大損だ」
荷台でライフルを向けてくる男が吐き捨てた。
クリスタは倒れた格好のまま、男を睨み続ける。
「おい、傷つけるなよ。そいつは高く売れる」
御者役の男がそんな言葉を発し、ライフルを構えた男は下卑た笑いを浮かべた。
「そうだなぁ、吹っ掛けても買い手が付くだろうな」
あんたには、大損の責任を取ってもらう。
…クリスタは何も言わない。
走り続ける馬車が石を蹴り、荷台が揺らぐ。
「おっと、」
それに男の目が逸れた一瞬。
クリスタは縄の間で指先を折り曲げ、袖口からエレンに渡されたものを素早く取り出した。
(これで縄を切る!)
自分の指が傷付いたって良い。
縛られているために、拳は握っていても不自然にならない。
握った片手の影になるようにして、クリスタは慎重に縄を切り始めた。
立体機動装置があれば、森の中を素早く突っ切り先回りすることが出来る。
「残りは銃持ってる男が1人と、馬使ってる男1人だ!」
「後ろから行ったら狙い撃ちされるだろーが!」
馬車を追いながら、大きな声でエレンたちは会話を成す。
「先回りったって、道は?!」
「あるよ! この方角に森を突っ切れば、大きく蛇行した道と交差する!」
アルミンの声と指差す先を見て、ジャンは素早く考えを巡らせた。
「よし、コニー! サシャ! お前ら全力で先回りしろ! 馬と馬車繋いでるベルトを切るんだ!」
「おう、任せろ!」
「了解しましたっ!」
名指しされた2人は進行方向を90度切り替え、森の中へ消える。
「エレン、ミーナは?」
「さっきの馬車牽いてた馬の回収頼んだ。後で追い掛けてくる」
マルコの問いに、エレンは振り返ることなく答えた。
エレンの傍を並走するジャンは、チリチリと焦がすような気配に内心で舌打つ。
(しばらく落ち着いてたと思ったら…)
元来、エレンは己の意にそぐわぬ理不尽な状況を許容出来ない。
自身の正義のみを振り翳せた地下街は、確かにエレンにとって生き易かったのだろう。
兵士、という職業は、それとは正反対に位置のように思う。
「…おい、エレン」
「何だよ?」
あまり大きな声では言えない。
「(殺すなよ)」
声は発さずに、唇の動きだけで。
エレンは眉を寄せ、ジャンから視線を逸らした。
「コニー! 道の向こう側へ行ってください!」
「おーけー! 同時にやるぞ!」
自分たちでも驚くような速度で、コニーとサシャは窃盗団の道のりを先回りした。
向かってくる馬車を視認し、アンカーの片方を道脇の樹木へ打ち込むとガスの噴射でスピードを上げる。
ブレードを引き抜いた腕を、2人同時に大きく振りかぶった。
「クリスタを!」
「返してもらいますっ!」
スパン! とベルトが断ち切られ、馬と馬車が離れる。
「うわああっ!!」
御者役の男の悲鳴が、馬車と共に土手に転がっていった。
土埃が濛々と上がる。
「クリスタ、無事か?!」
「クリスタ!」
コニーとサシャが叫ぶところへ、エレンたちが追い付いてきた。
「サシャ、さっきの馬掴まえて来てくれ!」
「あ、はい!」
サシャが再び飛び立ったのを見送り、エレンは横転した荷台の縁に足を掛ける。
「動くんじゃねえ、ガキども」
ゆるりと眼差しを上げると、収まっていく土埃に男の姿が2つ浮かんだ。
「チッ、とんだ収穫だぜ…」
1人の構えるライフルの銃口はこちらに、もう1人は曲刀を手にして。
曲刀は、その腕に抱え込まれたクリスタの首に据えられている。
「クリスタ!」
伏せられていた眼(まなこ)が、ハッと上がった。
エレンは彼女の青い目を強く見つめ返す。
「躊躇すんじゃねえ!!」
言われ、クリスタは左手に隠す刃を知らず握った。
刃は白い指先をなぞり、つぅと赤い滴を零す。
「おい、てめぇら! 立体機動装置を外せ!」
がなり立てる男に、マルコはちらりとエレンを見た。
彼は動かない。
「こいつがどうなっても良いのか?!」
ぐい、と首を掴まれたクリスタは、また顔を俯けた。
さぞかし、怖がっているように見えただろう。
(まさか)
もう、縄は切れた!
クリスタは小さな刃を指先に強く掴み、大きく自分の上へと振り翳した。
「っ、ぎゃあああ!!」
小さな刃が通った後を、鮮血が飛ぶ。
瞬間、エレンは地を蹴った。
ライフルを蹴り上げ、持ち手の顎下へ容赦ない肘打ちを喰らわせる。
ーー次。
踏み出す足を止めることなく、顔を抑え呻く男の手から曲刀を叩き落とし、渾身の蹴りを鳩尾へ。
ジャンはエレンにより取り落とされたライフルを引っ掴み、構えた。
先刻までそれを手にしていた男が、憤怒の形相で立ち上がる。
ヒョウッ、と風が吹いた。
突如視界に影が差し、エレンは反射的にクリスタを自身の身体で庇った。
だが響いた音は、人が何かしらに打たれる聞き慣れた音。
庇うエレンの腕の間から、クリスタはそれを見た。
「ミカサ?!」
ジャンの目の前では、上からの打撃で再度地面と仲良くなった男がいる。
「アニ…?」
ここに居るはずのない馴染みの姿に、訳が分からず混乱する。
間抜けな顔を晒す元情報屋に、アニはその相貌を動かすことなく息を吐いた。
「なんだ、終わっちゃってたの」
つまらない。
どうやら、始めからエレンの側に居ないと駄目らしい。
「みんな、無事?! …って、アニにミカサ?」
馬に乗ったミーナが、ようやく辿り着いた現場で目を丸くする。
サシャもやって来た。
「馬掴まえて来ましたよ! …って、あれ?」
彼女は反対方向から来たのだが、向かいからトーマスやライナーたちが駆けて来て首を傾げた。
「そうか、あの信煙弾だね」
納得顔のマルコに、アルミンが頬を掻いて頷く。
「うん。そんなに遠くないと思ったし」
素晴らしい判断だよ、と賞賛したマルコは、即座に表情を引き締めた。
「よし、窃盗団の人間を拘束するんだ。僕はトーマスと憲兵を呼びに行く」
「途中で見つけた連中は縛っておいたよ」
アニの補足に礼を言って、彼はベルトルトの馬を借り受けるとトーマスと共に道のりを取って返した。
「コニー、君たちの馬は?」
ベルトルトはアニの伸した相手を縛り上げながら、コニーへ状況を尋ねた。
「あー、こいつらに放されちまってさあ」
「ああ…」
中々に、厄介なものに巻き込まれたものだ。
「エレン、怪我は?」
ブレードをボックスへ仕舞ったミカサが、しゃがんだままのエレンへ声を掛けた。
「俺はねーよ」
そう、エレンに怪我はない。
しかしクリスタの白い指先には、ぱっくりと赤い傷口が見えている。
「握ったときに切っちまったか」
「あ…」
まだ、刃はクリスタの手に握られたままだ。
「あの、エレン」
「何だ?」
そっと傷口へ布を押し当てられ、ピリリと痛みが走る。
ほんの僅か眉を顰めて、クリスタはそれに耐えた。
「これ、もう少し借りてても良い…?」
これ、と反対の指先に持ち替えていた刃を、見せるように少しだけ上げる。
エレンは不思議そうに目を瞬いた。
「別に構わねえけど。また怪我するぞ?」
「ううん、大丈夫」
クリスタは、自分が切り裂いた窃盗団の男を見た。
彼女が翳した刃は男の右目付近を鋭く抉り、その顔は血塗れになっている。
(あの目、もう見えないだろうな…)
少しだけ、良心が痛む。
すると唇を引き結んだクリスタの頭に、ぽんと暖かなものが乗せられた。
顔を上げれば、柔く細められた金色が在る。
「よくやったな、クリスタ」
場にそぐわない、にかりと浮かべられた笑み。
それは木々の合間から差し込んできた朝日のように、眩しかった。
じわりと胸の辺りが暖かくなる。
(…認めて、くれた)
クリスタはなぜだか、そう思った。
>>
2014.8.30
ー 閉じる ー