獣の在処(ありか)
(2.潜む獣)
記録係のアルミンが報告書を纏めるのに、半日以上を要した。
それはミカサの方も同様で、彼らは揃って報告書を提出しに行く。
2人を見送ったエレンは、兵団内の見張り台へ登った。
風に巻き上げられた砂埃を避けるように、幾度か目を瞬く。
…そっ、と。
服の上から、己の半身とも云える武器を撫でた。
(遠いなあ…)
北を見れば、ウォール・シーナの壁。
南を見れば、ウォール・ローゼの壁。
エレンが暮らしていた地下街は愚か、産まれたシガンシナさえ見えはしない。
人の登ってくる音が聴こえて、エレンは階段を見下ろした。
「マルコ?」
呼ばれた当人はくすりと小さな笑みを浮かべ、エレンの隣へ立つ。
「はい」
「お、サンキュ」
マグを渡され、素直に礼を言う。
「今日はいろいろあったね」
班長なんて、引き受けるんじゃなかったよ。
そう苦笑するマルコを、エレンは見張り台の手摺に頬杖を付いた状態で見上げた。
「そうか? 結構良い感じだったと思うけどな」
「いや、僕には向いてないよ。そうだな…ジャンならとても良いと思う」
「うえ、マジかよ…。俺はゴメンだぞ」
心底嫌そうに表情を歪めてマグに口をつけたエレンに、マルコは常々思う疑問を思い返す。
(こうやって嫌そうなのも本当で、でもエレンって相当ジャンを信頼してるよなあ…)
喧嘩するほど仲が良い、ってやつだろうか?
当人たちが聞けば全力で否定しそうなことを、勝手に推測する。
そうそう、班長と言えば。
「エレンも結構良いんじゃないかな?」
「はあ?」
お前マジで言ってんのか? と、まるでこちらが頭を打ったかのように聞き返してきた。
ちょっと心外だ。
「クリスタが浚われた後、実質的にはエレンが班長だったじゃないか」
「んな馬鹿な」
勝手する俺が心配で付き合ってやった、の間違いじゃねえの。
(…やっぱり、)
マルコはエレンの評価に、ひとつ確信を持つ。
(エレンは、自分が僕らと"違う"と思ってる)
それは正であり、また否である。
「でも、エレンが居てくれたことで、余計な被害が出なかったんだよ」
クリスタを助け出せた。
立体機動装置を取り返せた。
窃盗団を1つ潰し、今後起こったかもしれない同様の事件を未然に防いだ。
「…本音言えば、もうちょっと暴れたかったけどな」
半分は本心のそれをエレンが告げれば、マルコは今度こそ笑った。
午前中いっぱい今回の件で憲兵団支部へ赴いていたキースは、提出された当の報告書にざっと目を通す。
ありのままを記せと命じていた通り、アルミンは覚えている限りの各処発言をも記していた。
驚くほどの記憶力だ。
(体力面は心許ないが、兵士にはこのような能力も必要だ)
それにしても、とキースは報告書に逐一出てくる名前に視線を注ぐ。
(ここでもエレン・イェーガーか…)
第104期生が訓練に従事し始めて、およそ1年。
何だかんだと、彼は初めから周囲の目を惹いていた。
(もっとも、"こちら"は事情が事情だが)
響いたノック音に、キースは相手を確認すること無く入室を許可する。
「入れ」
元々、この日の訪問は打診されていた。
「邪魔するぞ」
扉を潜ってきたのは、調査兵団現兵士長であるリヴァイだ。
かつて調査兵団団長であったキースにとっては、元部下ということになる。
しかし"人類最強"と名高い彼がいち訓練兵団へやって来るのは、他にはやや奇異に映るだろう。
優秀な卒団予定兵の勧誘にしても、時期がずれている。
キースは表情ひとつ変えること無く言ってやった。
「お前がそこまで気に掛けるとは、世も末だ」
過保護だな、と寄越された言葉を、リヴァイは歯牙にも掛けない。
「保護じゃねえ。監視だ」
隙あらば即逃走するであろう相手に、釘は幾ら刺したって足りないのだ。
「……まあ、止めはせんがな」
傍までやって来たリヴァイに、キースは手にしていた報告書を突き出してやる。
「昨日から今朝に掛けて起きた、事件の一部始終だ」
「事件?」
「エレン・イェーガーを含む8名が、窃盗団に襲われた」
「ほう…」
案の定、興味が湧いたらしい。
来客用のソファに腰掛けたリヴァイを置いて、キースは執務室を出た。
そろそろ休憩時間も終わる。
カンカン、と休憩時間終了の予鈴が鐘が鳴った。
エレンとマルコは揃って見張り台を下り、井戸へ向かう。
「俺洗っとくぜ?」
「そう? じゃあ頼もうかな」
マルコからマグを受け取り井戸へ赴けば、先客が居た。
「あ、エレン!」
クリスタとユミルだ。
互いに水差しを持っていることからして、食堂の片付けでもしていたのだろう。
彼女らが使っている桶の水を拝借し、マグを洗う。
「エレン。お前、クリスタ守ってくれたんだってな」
藪から棒にユミルが言うもので、エレンはきょとんと目を丸くした。
「守ったっつーか、ちょっと入れ知恵しただけだけど」
それだ、と彼女はクリスタの肩を抱く。
「アタシは現場に居なかったからな。礼を言うよ」
「お前に礼言われてもな…」
マグを洗い、自身の手を洗ったエレンは可笑しそうに笑みを漏らした。
「あ、あの、エレン」
「ん?」
井戸に背を向けようとしたエレンを、クリスタが呼び止める。
彼女はジャケットのポケットからハンカチを取り出すと、丁寧に畳まれたそれを掌に載せ反対の手で布を開いた。
白い布の中にあったのは、エレンが貸し与えた剃刀の刃。
「これ、ありがとう」
医務室でアルコール消毒させてもらったから、もう大丈夫だと思うの。
(なるほど)
だから彼女は、もう少し借りたいと言っていたのか。
(律儀だなあ)
エレンは打算無く笑みを深めた。
「いいよ。それ、クリスタにやる」
「え?」
剃刀ごとき、すぐに手に入るのだし。
「また似たようなことがあるとも限らないし、訓練兵団も安全ってわけじゃねーし」
差し出されたクリスタの手を、やんわりと押し返す。
隠し場所はちゃんと作るべきだけど、と笑うエレンに、クリスタの中で好奇心が勝った。
「エレンはどうやって隠してるの?」
尋ねた彼女の横からユミルも興味津々に覗き込んでくるので、エレンは悪戯を白状するようににやりと笑った。
「俺が言ったってバラすなよ?」
自分のジャケットの袖口を、折り返しの部分だけ捲る。
「服の袖って、すぐ解(ほつ)れないように必ず折り返して縫われてるだろ」
折り返された内側は、基本的に空洞。
エレンのジャケット袖口の裏には、本来とは別の布が当てられ再度縫われている箇所がある。
彼が指先を折り曲げ袖を突くと、そこからヒュッと同じ刃が覗いた。
「最初の内は怪我しちまうけどな」
気を付けろよ、と告げるエレンを、クリスタとユミルはまじまじと見つめ返した。
「お前…猪突猛進な癖して策士だな」
「…褒めるか貶すかどっちかにしろよ」
ユミルが感心したように呟いたが、その言動は如何とも判断し難い。
「それも地下街の処世術か?」
「まぁな。ユミルもやってみれば?」
そうだなぁ、と彼女は満更でも無いように頷いた。
クリスタは剃刀の刃を、元のようにハンカチに包む。
「ありがとう、エレン。怪我しないように練習する」
「ほどほどにな」
揃って食堂へ片付けに行けば、途中でミカサと鉢合わせた。
「エレン。キース教官が呼んでる」
「うわ、マジで?」
有り難いことに、クリスタがマグを引き取ってくれた。
礼を言うとミカサと集合場所へ急ぐ。
相手の姿を見つけて、エレンは駆け寄った。
「キース教官!」
「来たか、イェーガー」
相変わらず表現し難い表情を崩さぬ教官へ、慣れた敬礼を返す。
「すみません。お呼びだったようで」
「ああ。お前に客が来ている」
「は?」
訪ねる者など居ないはずだが、と金色の目は語っていた。
「私の執務室に居る。あちらの用件が終わるまでは、訓練に参加しなくても良い」
「…はあ」
解せない。
ともかく兵舎へ足を向けたエレンに、キースが視線を動かした。
「お前も、厄介な者に好かれたものだな」
「……」
それだけで、察せられるというものだ。
(この人、元調査兵団団長だったっけ)
うっかり暴言を吐きそうになったのを押し留めたのは、褒められるべき所業だろう。
とりあえずノック。
返事はないので、失礼しますと断って入室。
主の居ない執務机から視線を左右へ、来客用のソファにかのリヴァイ兵士長は座っていた。
「よお。とんだ小物に絡まれたみてぇだな」
客人の癖に、まるで主のようだ。
手にしているのは書類の束、今回の報告書か。
「…あんた、暇なんですか?」
半目で質せば、相手は事も無げに。
「暇を捻り出してる、ってとこだな」
そう宣った。
(付き合わされるこっちの身にもなれよ)
いつもそうだ。
エレンは相手から見えない方の拳を強く握った。
(こっちの我慢が効かなくなる頃に、現れる)
まるでタイミングを測ったように、エレンが逃亡を企てようとした頃にこの男はやって来る。
入団した後にキース・シャーディスが元調査兵団団長であると知って、やられたと唇を噛んだものだ。
(責任者が知り合いなら、こっちの情報は筒抜けだ)
訪れるタイミングだって調整しやすい。
わざわざ"ウォール・ローゼ南方訓練兵団"と指定した時点で、気づくべきだった。
「おい、突っ立ってねえでこっち来い」
鍵掛けとけよ、と余計なことを言う男は、至極楽しそうだ。
入り口の扉へ鍵を掛け渋々と近づいてきたエレンの腕を掴み、リヴァイはその身体をぐいと引き寄せた。
「うわっ!」
不意を突かれたエレンはソファの背に手をつき、倒れこむことを阻止する。
しかし結果的にはリヴァイの上へ乗り上げるような形になり、してやったりと笑む相手を見下ろすことになる。
身の自由を阻害され、金色は歪んだ。
リヴァイはそれを間近で見上げて、湧き上がる欲を唇を舐めることで呑み込む。
「てめぇは人を煽るのが巧いな」
「は? 何言っ…」
皆まで言わせず細い顎先を掴み、口づけた。
逃れようにもすでにエレンの後頭部は抑え込まれ、舌に噛み付こうにも顎を強く掴まれて口が閉じられない。
「ぁ…ふ、っ、んぅ…」
ピチャリ、ピチャリと舌が絡まり、水音が落ちた。
混ざり溢れた唾液が、エレンの唇の端から糸のように伝う。
唇を離して零れた唾液を舐め取ってやると、リヴァイはエレンが自分の体重を支えている腕と足を同時に払った。
「った!」
ボスン、と気の抜けた音と共にソファへ倒され、エレンは目を瞬く。
リヴァイは何やら仕込まれているのが判るその両腕を一緒くたにまとめ、頭上…ソファの肘掛け…に抑えつける。
蹴りを繰り出した片足を事も無げに掴み、両脚の間に身を滑り込ませた。
ぐっと上体を折り曲げ覗き込んだ金色は先の口づけで潤みかけて、だが奥には殺意がギラギラと光る。
「っ、離せ!」
そろそろこの子どもは、反抗が加虐心を煽ると学習すべきだ。
ただ、リヴァイは飼い馴らせない獣が好きなので。
「…悪くねえ」
ああ、愉しい。
噛み付かれないように、今度はエレンの舌を外へと引き摺り出す。
戯れに首筋を舐めあげてやれば、組み敷いた身体が震えた。
「っ、ァ、あ…」
リヴァイが何度かこうして会う内に、エレンの性的思考について判ったことがある。
(コイツの頭ん中には、性欲なんて言葉が存在してねえ)
女を抱いたことはあるらしい。
不愉快なことに、"そういう"意味を持って触れられることには慣れていた。
キスも、触れる程度であれば相手に隙を生ませんとばかりに仕掛けてくる。
…もっとも、地下街で必要な知恵ではあるのだが。
(まあ、楽しみが増えたと思えば良いか)
"快楽に溺れる"という言葉の端すら知らないこの獣を、そこへ突き落としたらどうなるか。
熱い舌を軽く喰(は)みながら、先を夢想してうっそりと嗤う。
カチャ、とベルトの金具が鳴り、エレンはハッと我に返った。
「ちょっ、と、なにして…!」
リヴァイは片手で器用にエレンの腰のベルトを外すと、ズボンの前まで寛がせる。
「あ? てめぇ、どうせ自分で抜いてねえんだろ?」
手伝ってやるよ。
意地の悪い笑みで下着の上から性器の形をなぞってやれば、あからさまに身体が跳ねた。
「っ、ひっ…ぅ!」
触れられることに慣れていない所為で、反応には初々しささえ交じる。
(ハッ、堪んねえな…)
指先は戯れに身体の線をなぞり、リヴァイは朱の走る耳元へ唇を寄せた。
「最後まではやらねぇから安心しろ」
最後ってなんだ、最後って!
怒鳴ろうとした声は口づけに塞がれ、エレンを苛む熱は下がる様子を見せない。
--- 獣の在処(ありか) end.
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2014.8.30
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