Got ist tot.

(5/黄金に見惚れた翼の話)




痛い。
同様に、物凄く熱い。
折れるどころか砕けるくらいの痛みを覚えた左腕に、エレンの目尻には生理的な涙が浮かんだ。
(猛犬どころじゃねーし!)
左腕はガードだ。
それでも庇った腹から胸にかけて、衝撃で打ち身が出来ているだろう。
鈍器で殴られたに等しい痛みが、まさか人間から発せられるとは思いもしなかった。
エレンの痛みの発生源は、先と変わらぬ表情でこちらを見下ろしている。
「で? ガキが何でこんなところに居る?」
発される質問も、何ら変わりない。
理不尽だ、と思いはすれど、エレンは己が『生意気なガキ』と評価されることを知っていた。
また、理不尽を飲み込めるような性質でないことも、よく知っている。

壁上ということも含め結構な加減を含めた蹴りであったが、子どもの身体は軽々と吹っ飛んだ。
(…こいつ、)
だが手応えに対する違和感は、リヴァイにこの子どもが見た目通りでないと認識させるに至る。
痛みへの悲鳴は上げなかった。
瞳に宿る彩は怒りと疑問であり、恐怖を始めとした怯えの色は視えない。
(ヤなこと、思い出した)
エレンは表情を歪める。
痛み、という感覚は、生命維持装置の1つだ。
こうすれば痛い、という記憶は己を守るものであり、同時にどうしようもなく感情を揺さぶる。
…嫌な記憶ほど、よく覚えているものだ。

微かな敵意と多くの怒りを抱え込んだ金色が、ふと濁る。
リヴァイを真っ直ぐに見返しているはずの眼は、リヴァイではない何かを見ていた。
「…チッ」
そろそろ"辛抱"の二文字を放って良いだろうか。
ここまで待ってやったことは、リヴァイにとって破格の待遇だった。
1歩子どもへ足を踏み出せば、子どもがハッと我に返る。
即座に立ち上がり何をするのかと思えば、すっと左手を差し出された。
訝しがる様を隠しもせずリヴァイが子どもを見返すと、相手は口を開く。
「あなたの"何故"、の理由です」
左手の手首を見せるように上げ、エレンは慎重に答えた。
改めた言葉遣いはあまりに久しぶりで、どこかでボロが出そうだ。
あの蹴りをもう1発食らうよりはマシだろう。

リヴァイは子どもへ近づき、上げられた腕を無造作に掴む。
その手首に嵌められていたのは、大人でも身に付けることが憚られる装飾品。
(ストーンカメオ…? しかもこいつは)
カメオに象られたマリア、ローゼ、シーナの紋章。
再び舌打ち、リヴァイは子どもの手を離す。
「こんなガキがウォール教特権階級とは、あの宗教も末期だな」
初めの蹴りは粗暴の一言に尽きるが、粗野ではないらしい。
エレンは目を瞬き、目の前の兵士を見つめた。
「分かるんですね」
その一言は相手の機嫌を傾けたようだが、エレンは構わない。
「前に北の方で鉢合わせた駐屯兵は、これがウォール教の紋章であることにも気付かなかった」
おかげで面倒だった。
騒ぎに駆け付けた隊長格の駐屯兵が話の判る人で良かった、と思い出す。
「それで?」
「え?」
彼の知りたいことは、ストーンカメオが語ったはずだ。
なおも問われ、エレンは首を傾げる。
「てめぇが何者かは分かった。ならば何故、壁上なんぞに居る?」
ウォール教の御神体は『壁』そのものであり、巨人の侵入を防ぐ高さもまたその範疇に入る。
司教とて、そうそう登りはしないだろう。
子どもは空に浮かぶ三日月に似た色を瞬かせ、リヴァイを見返した。

「俺にしか出来ないことをするために」

抽象的に過ぎる答えは苛立ちを増す要因でしかないが、リヴァイは問いを替える。
「…聞き方が間違っていたようだな。てめぇは何故、いつも俺たちの訓練を見てる?」
エレンは言葉に詰まった。
「それは…」
ほんの数分でイメージを覆されはしたが、本人を前に言いたいことではない。
だが切れ長の灰の目は、言い訳さえも威圧してくる。
あの蹴りがまた飛んでくるとも限らないので、エレンは観念することにした。
「…格好良かったので」
案の定、相手の眉が盛大に寄せられた。
「あぁ?」
この人は褒めても貶しても同じ反応なんじゃなかろうか、なんて思う。
「ふざけてんのか?」
苛立ち混じりに問われ、エレンは首を振った。
「ふざけてなんかない、本心だ。
立体起動装置で飛ぶ姿を、俺はここで初めて見た。それが綺麗だから、ずっと見てた」
特に、あなたは。

毒気を抜かれる、とでも言おうか。
リヴァイは目の前の金の眼をした子どもを"ただのガキ"と判断し、害は無いと結論づけた。
言っていることは、壁外調査へ出立する調査兵団を見送る連中と変わりない。
舌打ちをひとつ、次いでリヴァイは初めて子どもから視線を外す。
壁を降りる前に、ふと思い立った。
「…『壁』にある扉、使ってるのはてめぇか?」
子どもはぱちぱちと瞬きし、可笑しそうに笑った。
「よく気づきましたね。『壁』なんて当たり前のものだから、誰も気にしないのに」
気が付いたのはリヴァイではないが、わざわざ訂正する気も起きない。
長居は無用と刹那の戸惑いもなく壁を蹴り、飛ぶ。
重力落下はもっとも手近な木に打ち込まれた1本のアンカーで水平運動となり、その姿は瞬く間に樹々の向こうへ去った。

先刻の今であるが、エレンはやはり見惚れた。
未だあの兵士の蹴りを受け止めた左腕は鈍痛に痺れているが、その内痛みも引くだろう。
「…そういえば、"邪魔"とは言われなかったな」
晴れている日は、また見に来よう。
そう決めて、エレンは南へと足を向ける。



危惧していた雨は1日で過ぎ、壁外調査を控えた調査兵団は着々と準備を進めていた。
「ウォール教の上位神職者か…。まあ、リヴァイがそう判断したならそうなのだろうね」
内地で開かれた会議からの帰り。
調査兵団の敷地へ完全に入り込んでから、リヴァイは2日前に当人から手にした事実を口にした。
図ったような黄昏時、立体起動訓練も終盤に差し掛かった森、その向こう側。
「…あれか」
エルヴィンが眼差しを上向けた先、揺れる梢に見え隠れする小さな影。
「神職者でもさすがに『壁』の上には登らないと思うんだが、あの宗教は何とも歪(いびつ)だからな」
己が信じる理由の無い"何か"を理解しようとすることは、難しい。
エルヴィンは違和を納得ではなく呑み込むこととしたらしく、切り替えの巧い奴だとリヴァイは嘆息する。

ーーー『壁』なんて当たり前のものだから、誰も気にしないのに。

リヴァイの脳裏に引っ掛かっているのは、そう言った子どもの『目』だ。
ほんの僅か細められた目には、如何とも形容し難い感情が乗っていたように思う。
子どもが持つ感情には程遠い、"何か"。
人のものと断じるには化生に近く、黄昏に溶けそうな彩に混ざる色。
「おっ、エルヴィンにリヴァイ! お疲れ〜」
訓練を終えたらしいハンジが、班員たちに終了指示を出してから駆け寄ってきた。
2人の見ていた方向で何を話していたか検討を付けたらしく、彼女は眼鏡の奥の瞳で笑う。
「また今日も居たねえ、あの人影。…あれ? もう居なくなっちゃった」
『壁』を振り返ったハンジに釣られて再度壁上を見れば、すでにあの影はない。
「なんか、私たちの訓練が終わったらすぐ居なくなるんだよね」
あっちの方へ、と彼女が指差した先は、森に遮られて見えない南側。
あの子どもに害は無いと判断したのはリヴァイだが、腑に落ちるには早すぎる。

にまぁ、とハンジが唇を吊り上げたので、リヴァイは嫌な予感がした。
「うっわあ、珍しい! リヴァイが赤の他人に興味持つなんて!」
うるせぇ、と拳でも蹴りでも見舞ってやろうかと思ったが、ハンジはリヴァイから絶妙な距離を置いている。
一歩踏み出さなければ届かないその距離は、それなりに長い付き合いである彼女だからこそ成せる技だ。
苛立ちを隠しもせず舌打ったリヴァイに、ハンジはしてやったりと笑う。
「ふふふー。私もそうやられてばっかじゃないからね。ところでどんな人間だった?」
「…ただのガキだ」
「えっ、子どもなの?!」
何で子どもが『壁』に登れるの?! ねえねえ!
矢継ぎ早に羅列してくるハンジに今度こそ蹴りを入れ、リヴァイは宿舎へと戻る。
壁に区切られた空は、すでに星を浮かべていた。



さらに1日おいた2日後、エレンは眼下の訓練模様にピリピリとした空気を感じ取った。
(なんだろ…目付きが鋭くなったみたいな)
獲物を見つけ、包囲した直後の獣のような。
(実際に巨人が目の前に現れたら、こんな感じなのかな)
2日前にエレンへ強烈な蹴りを入れてくれた人物は、相変わらず無駄の無い飛翔を見せている。
「やっぱり格好良いなぁ…」
彼はやや梢の開けた場所で他の数名と何事か会話し、指示を受けたのであろう他の面々がその場から飛んだ。
「!」
今、明らかに。
(目、合った)
1秒にも満たず、とうに相手はこちらに背を向けている。
だがあの位置から振り向いても、先には『壁』しか無いのだ。
しかも目線が上にあったなら、そこにはエレンしか居ない。
(なんで?)
内心で首を傾げながら、訓練模様を眺め続ける。
そういえば巨人の大きさってどれくらいだったっけ、などと思考が飛躍した。
(あ、そろそろ終わりかな)
動きに凪が入り、張り詰めた空気が緩む。
「…!」
また、だ。
また目が合った。
しかも今度は、もう1人居る。

壁外調査までの日が浅い中、訓練も随分と真剣みを帯びてきた。
構え続けていたブレードを降ろしたハンジは、刹那、同僚が目前から意識を逸らしたことを見抜く。
(てか、珍しいどころじゃないね)
いつだって隙など見せないリヴァイが意識を向けたのは、例の『壁』の上。
釣られてハンジが壁上へ目を遣れば、いつもの人影はまだそこに在る。
(これ、目ぇ合った気がするな〜)
演習中はきっちりと仕舞い込んでいる研究魂が、ムクリと抽斗(ひきだし)を開けに掛かる。
班長、分隊長クラスを集め…当然ハンジも含まれる…演習後の確認作業を行うリヴァイに、ハンジは無遠慮に声を投げた。
「ごめん、ちょっと外す! 重要事項はモブリットに伝えといて!」
言うが早いかアンカーを放ち、飛び立つ。
盛大な舌打ちが聴こえた気がしたが、もちろん無視だ。
分隊長なに言い出すんですかアンタ! という優秀な副官の声も、もちろん聴こえないフリをした。

一昨日に聴いたばかりの、硬質な響きがエレンの耳を突いた。
金属の擦れる音に、風を切る音。
歩き出した足を止め、背後を振り返る。
「ああー! 待って待って、君ちょっと待って!」
中性的な顔立ちの、眼鏡を掛けた人物が壁上に降り立ち、こちらへ駆け寄ろうとしてくる。
エレンは反射的に足を1歩引き、走り出す体制を取った。
…と、相手がピタリと足を止める。
「あっ、ごめん驚かせて! これ以上近づかないから、逃げないでくれないかな…?」
敵意は無い。
少なくとも蹴りを入れてきた人物に比べれば、断然穏やかな人間のようだ。
エレンは引いた足を戻し、きょとりと相手を見返した。
(わお)
ハンジは思わず吹きそうになった口笛を噛み殺す。
フード付きのローブに隠された影の中でも、美しい色の眼はとてもよく見えたので。

ハンジが壁上へ赴いたことを見て取り、リヴァイの眼差しが険しくなる。
彼の視線の先を追った分隊長ミケ・ザカリアスは、ああ、と納得したように呟いた。
「夕方にここを見てる人か。この間、リヴァイも会っていたな」
どうやら目撃していた者が居たようだ。
軽く舌打ち、リヴァイは先にエルヴィンに告げた事項を再度口にする。
「ウォール教の神職者だ。害はねぇから関わるな」
兵士長に断言されては、周りは肯定しか返せないのだが。
(あの野郎、後で削ぐ)
そんな物騒なことを思案されているなど、興味の対象を目の前にしたハンジはちらとも考えない。
彼女は警戒を滲ませる壁上のシルエット主へ、敵意が無い証に空の両手を上げてみせた。
「驚かせてごめんね。私は調査兵団のハンジ・ゾエ。君は?」
「…エレン、です」
僅かに入った沈黙は、話し方を改めるかどうかの逡巡だ。
ハンジは手にした相手の名前を舌で転がす。
「エレン、エレン君か〜。エレン君はいつも私たちの訓練を見てるけど、どうしてかな?」
エレンが答える言葉など、前回と変わりない。
咎められはしても怒られはしないだろう、と正直に話すことにする。
「立体起動装置で飛ぶ姿が格好良くて、つい…」
返答にぱちりと目を瞬いたハンジは、吹き出した。
「ぷっ、あははははっ!」
良いねー良いねー! 素直だねー!
1人納得して笑い出した彼女…彼だろうか?…に、エレンは戸惑う。
「あの…?」
怖い人ではないが、変わった人だ。
認識を書き換えたエレンに、ハンジは浮かべた笑みをそのままに笑いを収める。
「いやぁ、面と向かって言われると照れ臭いね! もしかしてそれ、リヴァイにも言った?」
「リヴァイ?」
初耳の名前にエレンは首を傾げ、その反応にハンジも首を傾げた。
「あれ? この間リヴァイと会ったんだよね?」
目つきが悪くて口も悪くて、小さいおっさんだよ。
(酷い言い様だな…)
この人殴られるんじゃないだろうか、とエレンは余計な心配をする。
「あの人、リヴァイって言うんですね」
「そうそう。すーぐ手も足も出て凶暴なんだけど、すっげえ強いんだよ。確か1人で4千人分?」
「えっ…」
何だその可笑しな桁は。
困惑はそのまま表情に乗ったらしく、ハンジが再び吹き出した。
「ククッ…素直な子は好きだなぁ」
からかい甲斐があって。
エレンは最後の部分を聞かなかったことにする。
「リヴァイに何かされなかった? いきなり蹴られたりとか殴られたりとか」
まさか日常的なことなのだろうかと危惧しながら、エレンはこくりと頷く。
子どもの返答に、ハンジは本気で頭を抱えそうになった。
(リヴァイ…それはないでしょ……)
こんな子どもにまで容赦しないとは、らしいと言えばらしいが、それにしたってもう少し。
(そうそう、聞きたいことは他にあるんだった)
ひとつ息を吐いて、切り替える。
「ねえ、エレン君」
名を呼べば、彼はこちらの言葉を待ってくれる。
素直さは決してマイナスには受け取られない、"性格"の中でも美徳に近いもの。
「君はどうして『壁』に登るんだい?」
ふ、とエレンの口元が緩やかな弧を描いた。

「俺にしか出来ないことを、するために」

ぱちん、と泡が弾けたような氷解がハンジの脳裏で起きた。
(…これだ)
リヴァイがこの子どもに微かでも意識を奪われているのは、"これ"の所為だ。
黄昏に同化しない、生命の輝きを内包する鮮やかな金の彩。
大きな眼とまろい顔立ちから分かる、幼さ。
それらを合わせた面(おもて)に宿る、年齢不相応な表情。
あまりにアンバランスな等号、次々と脳裏に現れる疑問符、そのすべてが一緒くたにされて喉の奥に詰まる。
(この子は、)
何者なんだろう。
普段であれば必要以上に探究心が湧き上がるはずのハンジであるが、それが今、成りを潜めている。
続く言葉が、出て来なかった。
「…そっか」
ハンジは自分の内にある、疑問を噴き出す泉が枯れたのだと気づく。
この子どもにより、枯れてしまったのだと。
「エレン君、明日も見に来るかい?」
問い掛けた瞬間、アンバランスの均衡が崩れる。
虚を突かれ瞬きを繰り返したエレンは、曖昧に笑った。
「えっと、邪魔でなければ?」
今更じゃないか。
ハンジは笑う。
「じゃあ、明日はリヴァイも連れてきたげるよ」
するとエレンの表情が固まった。
「また蹴られませんか…?」
うっわあ怖がられてるよリヴァイ!
なにこれ受ける! と声に出して笑い、ハンジはひらりと片手を振った。
「じゃーね!」
ひょいと『壁』から飛び降りあっという間に見えなくなった姿に、エレンは苦笑する。
「賑やかな人だったなぁ」
ハンジさん、か。
呟きを残し、星の瞬き始めた空を見上げてエレンは歩き出した。



目前に迫った壁外調査の関連書類を提出しに、ハンジはリヴァイの執務室を訪った。
「やほー、邪魔するよリヴァイ」
「いらん。帰れ」
「うわひっど。はい、これうちの班の分ね」
日常茶飯事の会話をして、用件を済ませる。
「もしかしてうちのが最後?」
何となく尋ねてみれば、リヴァイはいや…と呟いた。
「あと2班残ってる」
「ん〜催促してくる?」
少しの親切心で進言すれば、まだ構わんと返ったので、ハンジは話題の矛先を変える。
「エレン君のことなんだけどさあ、あの子大丈夫かなあ?」
書類へ落ちていたリヴァイの視線が、ハンジへ向けられた。
「何の話だ?」
「エレン君の話だよ」
チッ、と舌打たれる。
「生憎と、そんな名前の奴は知らん」
おや? と目を丸めたハンジは、小さく吹き出した。
「そっかそっか。名前も名乗らずに蹴っ飛ばした理不尽なおっさんだもんねえ」
「ああ?」
お、そろそろ堪忍袋の緒が切れるかも。
正しく予想したハンジは諸手を上げ、リヴァイの疑問へ素直に答えてやる。
「エレンって言うんだよ、あの子。壁上でいつも私たちを見てる」
「…あいつか」
「ついでにリヴァイの名前も教えておいてあげたから、感謝してよ」
「頼んでねえ」
面倒くせぇ、と逸らされた視線は再びハンジへ戻り、リヴァイに続きを聞く気があることを教えてくれた。
ゆえにハンジは話を続ける。
「壁の上ってさあ、意外と目立つと思わない?
あの子は夕方くらいから出歩いてる感じするけど、夕方なんて夕陽で影がくっきり出てよく見える」
壁の上に立つと、同じ高さにいる人間もよく見えるのだ。
「駐屯兵とか、運が悪ければ憲兵とか。絡まれるんじゃないかと思ってさ」
リヴァイは別段、何とも思わなかった。
ウォール教のストーンカメオは、それなりの虫除け効果であるはずだ。
何より、そんなことは百も承知で壁上を歩いているのではないのか。
「北の方で駐屯兵とひと悶着あったらしいがな。
今こんな東側に居るってことは、切り抜けられるってことだろうが」
大体、なぜ部外者の心配などする必要がある?
言外に込めれば、ハンジが珍しく苦笑した。
「気づいてないの? 貴方がそうして話を聞いてくれてる時点で、相当な関心の証だって」
エレン君にしか出来ないことって、なんだろうねえ?
己の興味とリヴァイへのからかいを当分に交えて呟くと、ハンジは軽い足取りで執務室を後にする。
言いたいことだけ言われて去られ、リヴァイは閉じられた扉を睨みつけた。



さらに2日後。
やはり、7日前と比べて緊張感が格段に違う。
いつものように調査兵団の訓練風景を見下ろして、エレンはアルミンに教えてもらったことを思い出した。
「そうか。壁の外に出るのか」
ならばこの真剣さも頷ける。
ハンジの姿は見つけられないが、リヴァイの姿はちらほらと見受けられた。
(じゃあ、俺がこの景色を見られるのも最後かな)
エレンが歩く先は、もうここよりずっと先だ。
本当は一番南の扉を使うのが、一番早いくらいに。
それでもエレンはここに来て、彼らの翔ぶ姿をいつも見ていたのだから。
(もう行かないと)
南へと身体の向きを変えたところで、異変に気がついた。

『壁』の上に、エレン以外の人影がある。

(人…? 駐屯兵団の見回りは、まだ先のはず…)
何より、傾いた日に影を作っているのは一人だ。
見回りは2人ひと組が鉄則、それは憲兵団でも変わらない。
エレンはじっと人影を見据えた。
「…、…った…」
人影が声を発した。
ふらり、と覚束ない足取りで、人影がエレンへ一歩近づく。
「我々は…間違ってなどいなかった…」
ふらふらとしているのは上体だけで、足元はしっかりとしている。
辛うじて見えるのは薔薇の紋章、立体機動装置がカシャンと音を立てた。
影がエレンをじとりと見つめ、エレンは総毛立つ。
(こいつ…)
普通じゃない。
「ウォール教が隠す真実。神聖なるは『壁』などではない。『壁』が守る『者』…!」
にやりと口を開いた男の目は、爛々としていた。

「『彼の者、人に非ず、彼の者、"生きた壁"であり、彼の者、我らが真に崇めるべき『壁』の者である』」

我々は、間違ってなどいなかった!
笑い出した駐屯兵に、エレンは驚愕を隠せない。
(なんだコイツ、なんで裏詩篇を…?!)
駐屯兵は勝手に話し始める。
「ウォール教の信者どもの中に、おかしな行動を取るやつが居る。
そいつらは『壁』を崇めるフリをして、本山でまったく違うものを崇めていた。普通の信者どもには知らされない」
エレンは一歩後ずさった。
「ウォール教の御神体は『壁』ではない…! 『壁』に深く関わる人間だ!」
なんだ、こいつは。
ぞわぞわと、エレンの内側に得体の知れない"恐れ"が積もっていく。
(正気じゃない)
駐屯兵はどんどん近づいてくる。
大きく両の手を広げ、狂ったような眼差しをエレンへ注ぎながら。
「かつて、巨人から産まれた赤子が居た。
我らの保護の手は今一歩届かず、あの赤子は巨人の元へ還ってしまった」
何を言っているのだろう。
(巨人に生殖能力は無い)
エレンが眉を潜めた様など、見えていないのだろう。
男はひたすらに話し続ける。
「ウォール教の隠すもの。真に崇めるべき者。…これで、我らが同胞たちが報われる」
逃げる、という発想の飛んでいたエレンの肩が、がっと強く掴まれた。
エレンはようやく我に返る。
「っ、離せ!」
掴んでくる腕を引き離そうとするが、所詮は子供と大人。
それも相手は訓練を積んだ兵士、エレンの力ではまったく敵わない。
「『壁』が必要なのは、人類が巨人を拒絶したからだ。ウォール教は、その中核を為したに違いない」
何とか拘束から逃れようと、エレンは暴れる。
「止めろ、離せ…っ!!」
掴まれた肩が、ミシリと内側で嫌な音を上げた。
駐屯兵は恍惚とした表情でエレンを見下ろし、にやりと歪な笑みを浮かべる。

「ウォール教の連中が崇める『生きた壁』は、お前のことなんだろう?」

北に居る同志たちも、同じ意見だ。
エレンは駐屯兵の脛を思い切り蹴りつけ、僅かに腕の力が緩んだと見るや腕を大きく振り回した。
拘束が緩み、掴まれた肩が軽くなる。
次いで、相手の身体を全力で突き放した。
駐屯兵がたたらを踏んで数歩後ずさり、エレンもまた反動で後ろへ身体が下がる。

ーーーふっ、と。
エレンの足元が、消えた。



陣形訓練も終盤に入る頃、リヴァイは何ともなしに『壁』を見上げた。
(2人…?)
1つの人影が壁上に在るのは、すでに団員の日常に組み込まれている。
だが今日、見上げた壁上には影が2つあった。
片方は『エレン』という名らしい少年であろうが、もう1つは?
「兵長、あれ…」
何か、揉めてませんか?
兵士の1人が進言したことで、リヴァイの行動は決まった。
「ミケ、少し頼む」
言うが早いかアンカーを打ち出し、『壁』へ向かう。
…壁上の2つの人影は、どう見ても穏やかな雰囲気には見えなかったのだ。
「え、あれ? リヴァイは?」
遅れて集合場所へ現れたハンジは、あるはずの姿が無いことに当然の疑問符を浮かべる。
返事も待たずに任されたミケは、『壁』をひょいと親指で示した。
「壁上で揉め事らしい」
「えっ?!」
そこで初めて『壁』を見たハンジは、息を飲む。
「…っ!!」
その先の行動はもう、反射と言っても良い。
彼女の周囲に居た者たちもまた、信じられない光景に目を見開いた。

ーーー人影の1つが、落ちる。
50m上の『壁』から、真っ逆さまに。

(ま、ずい)
自身を支えるものがゼロになり、エレンは風切音を他人ごとのように聞いていた。
壁上で足を踏み外し落下しているのだと、理解したのは視界が空に向いたそのときだ。
(やだな…痛いのは、嫌いだ)
地面へ激突して受けるであろう衝撃を考えて、うんざりする。
けれどそこに、自身の命の心配は露ほども無い。
心配があるとすれば、それは。
(あの人たちが、見てるかも)
つい先程まで飛び回っていた、調査兵団の兵士たち。
彼らがこの状況を目撃して、その後にエレンの身に起こることを知ってしまう。
それだけが。

落ちる人影、迫る地面。
真っ直ぐに向かっても、こちらが『壁』に激突するだけだ。
リヴァイはロスを承知で直線コースを外れ、壁に対して斜めになるよう方向を修正した。
アンカーを壁の上方へ打ち込み、トリガーを持つ腕を伸ばす。
(間に合え…っ!)
落下してきた影が、リヴァイの視界に入り込む。

ドスッ! と身体に衝撃を受けた瞬間、何かがエレンの頭を抱え込んだ。
何かに抱き込まれたまま、エレンは地面を転がる。
正確には、転がった感覚だけがあった。
(え…?)
痛くない。
覚悟した衝撃にも、痛みにも、程遠い。
(暗い、)
目を閉じているのではなく、何かに視界を遮られている。
手に触れているのは何だ?
(柔らかい、これは…布?)
エレンの頭を守るように抱えているのは、手?
混乱するエレンの視界が、衣擦れの音と共に動いた。
「…おい、無事か?」
聞き覚えのある声だ。
恐る恐る顔を上げれば、リヴァイという名だと教えてもらった男が己を見下ろしていた。

自分の身に起こったことが解っていないのか、戸惑いの色を含む金色がリヴァイを見上げる。
…無理もない。
(あんな場所から突き落とされればな)
リヴァイはエレンを抱えたまま身を起こし、立ち上がった。
子どもらしく、彼の身体は軽い。
「立てるか?」
「え…あ、はい」
抱き上げていた身体を下ろしてやれば、彼は本人の進言通り危なげもなく地を踏みしめた。
自分より上背のある少年を上から下までざっと見遣って、リヴァイは息をつく。
「…怪我はねぇようだな」
服についた泥を払う姿に、エレンはようやく彼に助けられたのだと思い至った。
(なんで?)
壁上から訓練を眺めているだけの、関係のない人間を助けるなんて。

ヒュッと上から風が下り、エレンの背後でワイヤーの音が鳴った。
「駄目だ、逃がした」
悔しげな声音を溢したのはハンジだった。
「駐屯兵か」
「ああ。けど、おかしい。兵士は2人ひと組の行動が原則だ」
だがエレンを突き落とした兵士は、1人。
ハンジの視線がリヴァイからエレンへ移り、眼鏡の奥の眼差しがホッとしたように緩んだ。
「良かった。怪我はなさそうだね」
「は、い…おかげさまで」
壁上で駐屯兵が発した言葉と、リヴァイが助けてくれたという事実に、エレンは混乱が収まらない。
「あの…、なんで…?」
あまりに断片的過ぎる問いを、どう取ったのか。
リヴァイはあからさまに溜め息を吐いた。
「人が突き落とされんのを見て、何もしねぇ方がおかしいだろうが」
隣でハンジがにまりと笑う。
「ま、常に見てなきゃ間に合う距離じゃあなかったけどねえ?」
「てめぇは黙ってろ」
リヴァイの鋭い一瞥をものともしないハンジは、エレンの感嘆を誘った。
「おい、てめぇ。エレンといったか」
「はい」
「壁の上で悶着起きたのは2度目だろう。やり方を改めたらどうだ?」
彼にしては珍しく、命令ではなく意見だなとハンジは思う。
(そりゃそうか)
エレンは部下でも兵士でもない。
それに、今回はリヴァイが気づいたから良いものの、次回は期待出来なかった。
「エレン君。私たちは明後日、壁外調査へ発つんだ」
暗に助けられないのだと込めれば、エレンは少し残念そうな顔をした。
「…そうですか」
彼らの飛ぶ姿は、もう見られないのか。
(けど、そろそろここに来るのもキツかったし)
エレンはぺこりと頭を下げた。
「えっと…助けてくださり、ありがとうございました」
…あ、でもここからどうしよう。
礼を言ったエレンが顔を上げ、聳える壁を見上げ、戸惑うように瞳を揺らした。
「壁の上に戻りたいのか」
「えっ? あ、はい…」
でもまた登り直せば良いし、と続くはずであった言葉は、唐突に揺れた視界に飲み込まれた。
「わっ?!」
視界が斜め下にずれ、腰の辺りをがっしりと掴まれている。
所謂"俵担ぎ"で、リヴァイの肩に担がれているのだと知れた。
「えっ?! ちょっと…!」
「ハンジ、てめぇは先に戻って、今回のことは他言無用だと伝えて来い」
「イェッサー。じゃあね、エレン」
慌てて顔を上げたエレンの目の先。
ひらりと手を振り、ハンジは立体機動で森の中へと消える。
またも混乱に脳内を占拠されたエレンに、低く通りの良い声が掛かった。
「口開けてると舌噛むぞ」
途端、重力に逆らう重さが風を切る音と共にのし掛かる。
思わず瞑ってしまった目を開けると、強烈な速さで地面が遠くなっていた。
そうして驚いている間にリヴァイは壁上に着地して、すとんとエレンを下ろす。
元の空の近さに戻って、けれど頭が付いていけない。
「ありがとうございます…?」
「何で疑問系なんだ」
何ででしょう、と苦笑した少年に、あの化生染みた"何か"は見当たらない。
金色はウォール・マリアの向こう側を見ている。

「ウォール・マリアまで、馬でどれくらい掛かるんですか?」

質問の意図を、掴みかねた。
「…ウォール・マリアのどこへ行きてぇんだ?」
ほぼ夜も更けた闇の中、金色だけがはっきりとそこに在る。
そろり、とその眼差しが笑んだように見えた。
「『壁』に、登りたいんです」
何となく予想していた答えだ。
彼は今、このウォール・ローゼの上をわざわざ歩いているのだから。
「巨人に喰われてぇのか?」
エレンは笑う、何の変わりもなく。
「巨人なんて俺には関係ないです」
それじゃあ、俺は帰りますね。
得体の知れぬ子どもは、リヴァイに背を向けると北へと歩き出した。
「おい」
声を投げれば足を止め、エレンが首だけを巡らせる。
リヴァイは自身でも理解不能な衝動のまま、告げた。
「兵士になりゃ、『壁』に登れるんじゃねえのか?」
そのときエレンの金色に過ったものは、あの色彩。

「そこに"自由"は無いでしょう?」

空を飛べるのは魅力的だが、なくたって『壁』には登れる。
再び歩き出したエレンを見送ることなく、リヴァイは壁から飛び降りた。
(…チッ)
もやもやと広がる苛立ちに、舌打ちを残して。



*     *     *



ヒストリアにとって、それは青天の霹靂だった。
唖然として、目の前の男を見上げる。
「本家へお戻りください。ヒストリアお嬢様」
ウォール・ローゼ西方地区の教会へ、数日前に移ったところだった。
「…え、あの」
困惑するヒストリアなど構う様子もなく、レイス本家の使者は続ける。
「すでにこちらの責任者と話はつけております。さあ、お早くご準備を」
そんな急に、と思っても、ヒストリアの口から言葉は出なかった。
…男の目は蛇や蜥蜴のように濁り、冷たい。
スカートの裾をきゅっと握り締め、渇きを覚えた喉を震わせる。
「…出発は、何時頃でしょうか?」
「正午に馬車でお迎えに上がります」
「…わかり、ました」
それでは、と未練なく男は教会を後にする。
ヒストリアは唇を噛み締め、俯いた。
(本家に、帰る)
良いことなんて、ひとつもないのに。
(伝え、なきゃ)
お別れだと、伝えなければならない。
ヒストリアは重い足取りで、教会の裏手へと足を向けた。

ヒストリアにとって急であった話が、他の者を驚かさないわけがない。
部屋を訪れた彼女に、ミカサとアルミンは目を丸くした。
エレンはまだ、眠っている。
「本家に戻る…。随分と、急な話だね」
アルミンの言葉はもっともで、けれどどうにも出来ないもので。
「…私、妾腹なんです。だから、」
本家の呼び出しならば、それがどのような用件であれ応えるしかない。
眠るエレンの髪を撫でていたミカサが、指先をその肩へ移した。
「エレン。エレン、起きて」
軽く身体を揺すると、むずかるようにエレンが眉を寄せる。
「駄目。エレン、起きて」
なおも揺すられ、ようやく翡翠の眼が細く覗いた。
「な…んだよ、みかさ」
呂律の怪しい口調は、どこか可愛げが残る。
「ヒストリアが、家に戻らなければならなくなった」
パチ、と。
音がしたのではと思うほどに、寝惚けていたエレンの目が勢いよく開かれた。
「は?」
身を起こしたエレンの目線はミカサからアルミンへ移り、彼が頷いたと見るやヒストリアへ行き着く。
「…今日の正午に、迎えが来るんです」
急過ぎるな、と呟いたエレンに、笑おうとしたヒストリアは失敗した。
「す、みません…」
「ヒストリアの所為じゃねーだろ」
いつだって、子どもは大人の都合に振り回される。
エレンにぽん、と頭を撫でられ、ヒストリアはじわりと浮かびかけた涙をぎゅっと堪えた。
「もっと、エレン様のお役に…立ちたかったです」
「…そうか」
ありがとな、ヒストリア。
正真正銘、ヒストリアのためだけに向けられた彼の笑みを、強く心に刻み込んだ。
ミカサが立ち上がる。
「荷物の整理を手伝う」
「あ、でも…」
遮ろうとしたヒストリアを、ミカサはその黒曜の目で押し留めた。
「最後になるかもしれないから」
断れるわけが、なくて。

正午を過ぎた頃、1台の馬車が教会から離れていった。
教会の上階からその影を見送り、エレンは視線を空へ向ける。
「なんかもう、最近めんどくさいな…」
彼の表現を茶化すこと無く、アルミンは頷いた。
「…そうだね。判っていたことではあるけど」
『エレン』が目を覚ますということ、それ自体が大きな"潮目"だ。
アルミンは思案を巡らせた。
「…ねえ、エレン」
「んー?」
「僕らも、荷物を纏めておこうか」
すぐに姿を隠せるように。



*     *     *



『エレン様、お早く!』
『こちらです! 裏手からお逃げ下さい!』
わたくしたちが、時間を稼ぎますから…!

(ああもう、面倒くせぇ!)
「エレン、こっちだ!」
アルミンの手を引いていたエレンの腕が、そのアルミンにくいと引かれて進行方向を変える。
「…ミカサのやつ、相手殺してねえだろうな」
少々の危惧を呟けば、アルミンはたぶんね、と困ったように笑った。

薄靄の掛かる早朝の町を、2人で駆ける。
切っ掛けは何だったか。
…そう、ヒストリアからの手紙だ。
あれが、第1の警告を発したカナリアだった。
ほんの3日前に届いたヒストリアの手紙は、便箋1枚しか書かれていない。
急いで書いたようで美しいはずの彼女の筆記は乱れ、便箋は折り目が斜めになっていた。


『 拝啓 E様
  突然のお手紙をお許しください。
  この手紙がE様の手元に届く頃、私は今居る場所に居ないでしょう。

  ウォール教本山の最高司祭が替わりました。
  以前の大司祭様から代替わりした理由は、判りません。
  跡に就いたのは、以前副司祭であった男です。
  名前はニック。
  E様がそこにいらっしゃるのに疑惑の目を向け、礼を尽くさなかった礼儀知らず。

  どうかお気をつけ下さい。
  あの男は、ウォール・マリアが破られたのはE様が目覚めたからだと考えています。
  あろうことか、E様をあの部屋へ閉じ込めもう一度眠らせれば、『壁』が戻ると。

  今までにお世話になった教会のシスター長へ、同じ手紙を送りました。
  あの人たちなら、きっとE様をお守りします。
  私はもう、ここから逃げないといけません。

  E様、E様、どうかご無事で。
  敬具 H.R 』


幸いだったのは、エレンがすでにウォール・ローゼの壁を巡り終えていたことだろう。
どうやってウォール・マリアへ行くか、ミカサとアルミンでいつも話し合っていたところだ。
「エレン、アルミン、こっち!」
駆け抜ける先にミカサが居る。
エレンはアルミンと共にそちらへ走り、3人で路地へと抜けていく。
(俺には『鍵』がある。いざとなれば『壁の中』に)
せめて、ウォール・マリアへ抜けられる街に辿り着きたい。
表通りをちらりと見遣れば、朝の市が立ち始めていた。
「アルミン、人が多い方が逃げやすいか?」
「…一概には言えない、かな」
一度足を止め、3人で息を整える。
エレンは胸元の鍵束を、服の上からそっと握り締めた。
その様子を見つめて、ミカサが口元を歪める。
「『壁』の扉は、外側にはない」
アルミンもまた苦く頷く。
「…ああ。"彼ら"は約束を破った」
「あいつらは、自分たちの為だけにエレンを閉じ込めた」
ギリ、と握られた拳が震えた。

「おい、居たか?!」
「まだだ。くっそ、あのガキ…!」

追手の声だ。
3人は慌てて次の路地を表通り側へと曲がる。
表通りの手前まで来て、気配を殺した。



ここはウォール・ローゼ調査兵団本部に程近い街だ。
班員たちと共に新しい掃除用具と食料の調達に出向いていたリヴァイは、立ち始めた市の一角で足を止めた。
さすがに、市の中へ馬を連れてはいけない。
壁に寄り掛かり、ふっと息を吐く。
…調査兵団の扱う馬は、とんでもない貴重品だ。
生憎と、調査兵団が信用し懇意にしている馬の預け場所は、ここには無かった。
「…?」
市の喧騒とは別に、物騒な音が混ざっている。
例えるなら、誰かを無理に捜しているようなものが。
(チッ、こんな朝っぱらから揉め事か?)
すると馬の立つ向こう側の路地から、小さな声が聴こえてきた。

「どうだ? あいつら行ったか?」

聞き覚えのある声、…いや、忘れるはずがない。
リヴァイは馬たちを引き連れ、そちらの路地へと近づく。
「?!」
突然に目の前へ現れた馬に、驚いた気配が複数。
念のためやや離れて狭い路地を覗き込めば、美しい翡翠色がリヴァイの姿に目を見張っていた。

「…エレン?」

間違ってはいない。
何より、人に執着を持たない己にあそこまで強烈な印象を残した相手だ。
だが。
(目の色が…)
「リ、ヴァイ…さん?」
こちらの名前を呟いたところからして、やはり間違いはない。
続いて声を返そうとして、先ほど聞いた物騒な音が近づいてきた。
何かを捜して喚いている。
ちらりと横目でエレンを確認すれば、連れらしい他の2人も同じく表情を固くしていた。
(追っているのはこいつらか…?)
リヴァイは馬を路地側へ寄せ、後ろ手にエレンへ手振りの指示を出した。
そうして自分は路地の角へ背を預ける。
(…しゃがめ?)
エレンがアルミンを見返すと、彼もミカサも同様の動作と認識したようだ。
被るフードを目深にして、3人でその場へしゃがみ込む。
足音がどんどん近づいてきた。

「そこの旦那。こんくらいの背のガキ共を見なかったかい?」
足音は、リヴァイのすぐ傍で立ち止まった。
エレンは気が気ではない。
リヴァイは尋ねてきた男へ首を横に振ってやる。
「見てねえな。人探しなら憲兵を当たったらどうだ?」
「あ、…ああ、その前に捜しとこうと思ってな」
ありがとよ、と男は口籠りながら去っていった。
(憲兵にバレると何かヤバイのか?)
内心で首を捻りながら、路地へ声だけを投げてやる。

「おい、行ったぞ」

ほぅ、と安堵の息を吐いてしまったのは、無意識だ。
エレンは立ち上がり、リヴァイへ頭を下げた。
「ありがとうございました」
不信感をこちらへ向けているのは、黒髪の少女と金髪の少年。
「エレン。こいつは誰?」
「ミカサ…。助けてくれた人を"こいつ"呼ばわりは止めなよ」
少女を窘めた少年が眼差しで問うてくるので、リヴァイは仕方なく答えてやった。
「リヴァイだ。調査兵団で兵士長をしている」
(…"兵士長"なんて役職が出来てるのか)
思案したアルミンには気づかず、彼はエレンへ言葉を向ける。
もちろん、視線は市に向いたままで。

「お前、ウォール教の庇護を受けてるんじゃなかったのか?」

なぜ、そんなことまで知っている?
険を見せたミカサとアルミンを、エレンは制した。
「ウォール教のトップが俺の出ている間に替わって、俺を連れ戻そうとしているんです」
翡翠色は、あの金色と似て非なる強さで輝いている。
「ほお、宗教組織も面倒くせぇんだな」
トップが替わって組織の方針が大きく転換されるのは、よくあることだ。
「『壁』に登れば、あいつらは追ってこねえんじゃねえのか?」
するとエレンが頭(かぶり)を振ったのか、衣擦れの音がした。
「登るための扉が、あいつらに抑えられてます」
なるほど、中々に目端の利くことだ。
「エレン、もう行こう。一箇所に留まっては危ない」
少女の声が聞こえる。
リヴァイは咄嗟に口を開いた。

「エレンよ。お前は"ウォール・マリアへ行きたい"と言っていたな」

再び3つの気配が硬化する。
「…言いましたが」
それが何か?
強い懸念を乗せた声に、リヴァイは何でも無いように装った。
「『壁』の向こう側へ行けるのは、現状では調査兵団だけだ。訓練兵団に入って、調査兵団を志願すれば良い」
兵団組織は宗教組織の介入を許さない。
たとえ所属を知られていようと、ウォール教が手を出してくることは不可能なはずだ。
「訓練兵団の卒業には、3年掛かると聞いた。そんな長期間、エレンを危険な訓練に参加させるわけにはいかない」
少女の声が噛み付いてくる。
(まあ、正論ではあるが)
リヴァイは薄っすらと口角を上げた。
「今のままでも似たようなものだろう?」
子どもが3人、逃げ続けるにも限界がある。
「1週間、1ヶ月、半年、1年。それを続けられんのか?」
ミカサは悔しげに口を噤んだ。
(…その通り、だから)
何やら考えていたアルミンが、顔を上げた。
「リヴァイ兵士長。その"訓練兵団"には、身元が不確かでも入れるんですか?」
「ああ」
「調査兵団に入る条件は何かありますか?」
「ねえな」
調査兵団は万年人手不足だ、余程のことが無い限り喜んで迎え入れる。
「…そうですか」
行こう、エレン。
ミカサに続いてアルミンもエレンを促し、エレンはもう一度だけ声を投げた。
「ありがとうございました。リヴァイさん」
もう行きますね。
告げるが早いか、軽い足音が幾つも離れていく。



しばらくしてリヴァイが路地を覗くと、そこには人の気配など微塵も無く。
「……」
3年、と。
リヴァイは言葉を口の中で転がした。
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2014.8.10

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