834年。
ウォール・マリア突出地区、シガンシナの南門に程近い一軒家。
この地区であれば誰もが知るとある医者の家を、一人の兵士が訪れた。
「すみません、イェーガー医師はご在宅ですか?」
応対に出たイェーガー婦人が、あら、と来訪者に目を丸くする。
「ええ、夫は居りますが…。調査兵団の方、ですよね?」
来訪者は人好きのする笑みを浮かべた。
「突然に申し訳ありません。調査兵団第14班班長、ハンジ・ゾエと申します。
医療班の者なんですが、教えを請うならイェーガー先生が良いとキース副団長に勧められまして」
やや警戒心が滲んでいた婦人の表情が、和らぐ。
「まあ、キースさんの紹介ですか。玄関での応対でこちらこそごめんなさい。
どうぞ、お入りになって」
「では…お邪魔します」
こざっぱりと片付いた家の中は、ほんの少し消毒液の匂いが漂っている。
「今、夫を呼んできますね」
勧められた椅子に座り、ハンジと名乗った兵士は家の中を見回す。

まだ、2人分のものしか揃っていない家の中。
(当然か。だってまだ、)
"あの子"は生まれていないのだから。

2人分の足音にそちらを見ると、イェーガー婦人が夫を伴って戻ってきた。
「お待たせしました」
ハンジは立ち上がり、敬礼を返す。
「突然の不躾な訪問をお許し下さい。調査兵団医療班班長、ハンジ・ゾエと申します」
イェーガー医師も頭を下げる。
「お気になさらないで下さい。私がグリシャ・イェーガーです」
婦人が茶を出すために再び奥へ向かい、ハンジは彼女の後ろ姿を見送った。
「突然ついでですが、奥様…もしかしてお子さんが?」
パッと見では分からない。
分からないが、おそらく4ヶ月頃ではないかとハンジは推測する。
イェーガー医師は破顔した。
「ええ。もうすぐ4ヶ月になります」
ただその眼差しが相応しくなく遠いことを、ハンジは見抜く。
「して、私に教えを請いたいというのは…?」
「えっとですね、教えというよりも意見を伺いたいんです。
調査兵団の損害率はご存知かと思いますが、義手や義足の実用化を目指せないかと」
イェーガー医師が、工業区にツテを持っていることを考慮に入れた問いだった。
彼は特に疑問を抱かなかったようで、顎に手を当て考え込む。
「ふむ…そうですね。現状で実用化されているのは木製の義体です。
失う前と同じように動かすには、どうしても金属化する必要があるでしょう」
「やはり、イェーガー医師でもそうお考えですか」
「木製では、どうしても強度が足りません。それに腐食や破損に酷く弱い」
「ですよねえ…」
「金属とすることで腐食や破損には強くなります。錆の問題が出ますが、手入れで防ぐことは可能でしょう。
それに金属で内側を完全に保護出来れば、神経を繋ぐことが出来るかもしれない」
「やっぱり! 内側さえ衝撃を免れたらいけますか!」
身を乗り出したハンジに、イェーガー医師は苦笑する。
「いえ、これはまだ机上の空論ですよ。実際に造るとなると、金属の選定から始めなければ」
「お話中に失礼しますね。お茶をどうぞ」
ふわり、と香ばしい香りを上げるカップの中身は、薄い黄緑だ。
(紅茶ではないね…)
不思議そうな顔をしたハンジに、婦人がクスリと笑う。
「ハーブティーです。少々お疲れのご様子でしたので、リラックス出来るものを」
さすがは医者の妻だ、バレている。
ハンジは礼を言い、彼女の腹の辺りを見つめた。
「4ヶ月では、まだ男の子か女の子か分からないんですっけ?」
彼女が意味を掴むまでの一瞬、きょとんと目を瞬く様は"あの子"とそっくりだ。
イェーガー婦人は愛おしげに膨らんだ腹を撫でる。
「ふふっ、そうですね。でも、男の子でも女の子でも、可愛い子どもには変わりないですよ」
再び奥へと引いた彼女を見送って、ハンジは何気なく告げる。
「…元気で、素直で、人一倍誰かのために戦う、格好良い男の子ですよ」

ーーーエレンは。

そっと視線をイェーガー医師へ戻せば、彼は驚愕を面(おもて)に乗せハンジを凝視していた。
ハンジはふっと口角を上げる。
「やはり"貴方も"『巡って』いますね、グリシャ・イェーガーさん」
その笑みは、あまりにも遣る瀬無く歪んでいた。



*     *     *



844年。
ウォール・マリア南東部、僻地とも言える山間(やまあい)にて。
「ほとんど壁外と変わりねえな、この地形は」
「そうだな。ゆえに憲兵も、1年に1度以下でしかここを訪れない」
獣道をざくざくと進む、2人の男。
背には一角獣が描かれた、憲兵の団服を着用している。
進行方向を遮る枝を剣で払いながら進むと、ようやく視界が開けた。
「…ここか」
ぽかりと拓けた山の中腹に、村があった。
さらに踏み出し木立から抜けようとした1人を、もう1人が肩を掴むことで止める。
「リヴァイ、解っているな?」
チッ、と舌打ちを打ち、リヴァイはエルヴィンを振り返る。
「憲兵の仕事をしつつ、あの3人を捜す。それで良いか」
「ああ」

村へやって来た憲兵に、村の住人たちは驚いた。
以前の見回りは半年前で、この村には1年以上の間を空けて来るのが通例だったというのに。
村長がそう訝しげに尋ねて来たので、エルヴィンは勿体ぶってこう言った。
「実は…麓の村で、子どもが行方不明になったんです。
いつもこちらへ来ている同僚は、ちょうど平地側の探索に行ってまして」
「そういうことでしたか。それで、お探しなのはどんな風貌の子で?」
エルヴィンが村の大人たちの相手をしてやっている間に、リヴァイは子どもを1人呼び止める。
「おい、そこのガキ」
「なに?」
「ちょうどてめぇと同じくらいの歳のガキを捜してる。金髪で、薄青の眼をした女だ」
子どもがうーん? と首を捻った。
「金髪の女って、たぶんアイツかな。案内してやるよ、憲兵さん」
走り出した子どもを追って、リヴァイは村の奥へと向かう。
「おい、そいつを知ってるのか?」
「うん。アニって名前で、いっつもライナーとベルと一緒にいる無口なヤツだよ」
ビンゴだ。
「ライナーとベルってのは、そいつのダチか?」
「たぶんだけど。なんか、友だちにしては仲良くない気がすんだよなー」
子どもが立ち止まり、リヴァイも足を止めた。
「ほら、あの池の傍の。真ん中がアニだよ」
「ああ、見えてる」
「あいつら、大人に見つかったらすぐ逃げるんだ。しかもすっげぇ早いの」
「ほう」
「夜はちゃんと帰ってくるんだけどさ。秘密の遊びでもしてんのかなー。
あ、オレ戻っていい?」
そう言った少年に礼を言い、リヴァイは彼の姿と葉の擦れる音が消えるまで待った。
すると、池の傍に居た3人も移動を始める。
立体機動装置であれば軽く飛び越えられる大きさの池の、反対側へと。

ガツッ!

聞き慣れぬ音が不意に響き、続いてビュルッと何かを巻き取る音。
「よお。見つけたぜ、ガキ共」
そして目の前に降り立った、凶悪な目付きをしたこの男は。
「リヴァイ兵長?!」
背の高い少年が思わずといった形で名を紡ぎ、しまったと口を塞ぐ。
リヴァイは彼にはとても珍しく、口角を引き上げ笑ってみせた。
もちろん、凶悪さには拍車が掛かる。
「やっぱり、"てめぇらも"『巡って』やがったか」
ベルトルト、ライナー、そしてアニは悟った。
幾度も『繰り返して』いるのが、自分たちだけではないことを。



*     *     *



845年。
その日は、グリシャがウォール・ローゼ南方にある街へ往診に向かう日だった。
「父さん、オレとミカサは準備出来たよ!」
「ああ、分かった」
子ども部屋から出てきたエレンとミカサに、グリシャは先に外へ出るよう言いつける。
外にはすでにアルミンが待っていたようで、すぐに子どもたちがはしゃぐ声が聞こえてきた。
「あらあら。楽しそうね」
こちらも出掛ける準備を整えて、カルラが奥から戻ってくる。
「でも、本当に子ども3人と私も一緒に行って、大丈夫なのかしら?」
昨日から同じ心配をしている妻に、グリシャは苦笑する。
「大丈夫だと、ハンジ班長も言っていただろう。心配症だな」
今日はウォール・ローゼへ往診へ行くのだと、すでに客人の常連となっていたハンジに教えていた。
すると彼女は、ウォール・ローゼで友人が果樹園を営んでいるから行ってみないかと誘った。
エレンや妻のカルラ・イェーガーも含めて、である。
「父さん、まだぁ?」
痺れを切らしたか、エレンがグリシャを呼ぶ。
「今行くよ」
それに応えて、グリシャは往診鞄を手に家を出た。
「あっ、おじさん! こんにちは!」
礼儀正しく挨拶をしてきたアルミンに挨拶を返し、子どもたちとカルラに声を掛ける。
「待たせたね。では行こうか」

グリシャは知らない。
ミカサとアルミンが、同じく『巡っている』ことを。

父の後ろを歩くエレンの右手をミカサが、左手をアルミンが繋ぐ。
「エレンはわたしが守る」
ミカサが呟けば、エレンが眉を寄せる。
「だから、お前に守られなくても大丈夫だってば」
エレンが眉を寄せれば、アルミンが宥める。
「まあまあ。ミカサはいつもこうだから、それで良いんだよ」
そうしていつも、3人で笑い合うのだ。
2人の瞳の奥にどれだけの想いが詰まっているのか、エレンは知らない。
知らなくて、良かった。

ミカサはかつて、両親と共にエレンの住む町から少し離れた川沿いの森に住んでいた。
東洋人の血を狙ってケダモノがやって来るのも、いつも同じ。
ただ毎回、タイミングが少しずつ"違って"いて、"違っていた"場合にやって来るエレンはいつも怪我をした。
なぜタイミングが変わるのか、さらに幾度かを経たミカサは気づく。
それはミカサが、『両親の死を回避しようと事前に行動したとき』だった。
(私がエレンと共に在るためには、どうあっても父さんと母さんが死なないといけない)
酷い話だ。
けれどミカサは両親について気づいた時点で、もう何度も、何よりも大切な『エレン』を失っていた。
ゆえに彼女の精神は随分と昔に均衡を失い、残酷な決断に苦を覚えることはなかった。
ただ、その日までを大切に生きることを誓って。

(私は、エレンだけを見て生きる)

数えることを放棄した『巡り』で、アルミンは"変わる事象"と"避けられない事象"があることを発見した。
例えば、超大型巨人と鎧の巨人によるシガンシナ区襲撃は、"変えられない"。
続くトロスト区襲撃も、残念ながら"変えられない"。
エレンが巨人化することも、"変えられなかった"。
第57回壁外調査で女型巨人が襲撃してくるのも、"変えられない"。
だが、エレンの母が死ぬことは"変えられる"。
続く同期や仲間たちの死も、"変えられた"。
それなのに。

(なんで、エレンが人間に殺されることは"変えられない"んだ…!)

何度も何度も、いつだって。
巨人を殲滅した後だったり、巨人を滅ぼす間近だったり。
そんなときに、いつもエレンは殺された。

始めは王の勅命による処刑、理由は最後の巨人であるから。
次は調査兵団に紛れ込んでいた憲兵のスパイによる殺害、理由は似たようなもの。
その次は、王都を訪れたときに襲撃を受けた。
さらに次は、殲滅した巨人の能力を解明するためと研究所へ強制収容され、解剖された。

次も、その次も、次も次もその次も。
エレンは守っていた人類に殺されるのだ、いつだって!

気を抜いていたわけではない、むしろ回を増すごとに警戒心は増していった。
自分たちだけじゃない、"周りも"だ。
だというのに、エレンは理不尽に命を奪われ、自分たちは『巡って』しまう。
エレンが殺されたそのときに、絶望がすべてを喰らい尽くして目が覚めるのだ。

(エレンを救えない世界なんて要らない。エレンを否定する世界なんて、要らない!!)



*     *     *



始めに行動を起こしたのは、まだエルヴィンが調査兵団のいち兵士であった頃。
"また"『ここから』か、と絶望感に苛まれていたエルヴィンに、当時分隊長を務めていたキースがこう尋ねたのだ。

ーーーお前は『エレン』を知っているか?

リヴァイとハンジが"同じ"であることは、ずっと以前に判っていた。
ではなぜ、キースも"同じ"なのか。
「キース分隊長は、彼と親しかったのですか?」
「親しいというか、近しくはあったな。彼の父であるグリシャは私の友人だ。
それに…彼が訓練兵団に入れば、私は必ず彼と彼の同期の担当教官になる」
もしや、とここに来て初めて思い当たった。

エレンとある程度親しくなった者は、『巡る』のではないかと。

リヴァイやハンジは元より、調査兵団を志願した者へも不自然にならぬよう問い掛けることにした。
予測していたとおり、後にリヴァイ班となる者たちやミケ、モブリットも『巡って』いたようだ。
この行動を前回かその前からやっていれば、と思ったが、気づかなかったのだから仕方がないと諦めた。
そして問いは、調査兵団以外にも及んだ。

ーーー『エレン』を知っていましたか?

驚いたことに、駐屯兵団南方総司令ドット・ピクシスが、すでに駐屯兵団においてそれを確認していた。
「トロスト区奪還作戦でエレンに付けた者たちは、皆知っているよ」
詳細を知る者として駐屯兵団精鋭班であるイアンとリコの両名と話す機会を設けてくれた折、彼は淋しげにエルヴィンへ告げた。
「我々はいつも、彼に碌な礼も言えないままだ」

正面に腰を下ろしたイアンは、額を抑える。
「どうすれば良いんだって、考えましたよ。今だって、いつだって、ずっと」
だって苦しいでしょう? これは余りにも。
彼はトロスト区奪還作戦で命を落としていたが、ここ"数回"は生き抜いて『巡っている』と言った。
エルヴィンも頷きを返す。
「その通りだよ。我々も、もはや極論にしか達せなくてね」
リコはエルヴィンを見、そりゃそうだろうさと呟いた。
「私は思う。そもそもの最大要因は、」
内地の人間だろうって。
口には出さぬそれを、エルヴィンもイアンも察している。

試していないのは、もうそれだけだ。

別れ際、2人はエルヴィンへこう進言した。
「我々は今までと違い、ピクシス司令直属の班員となっています」
何かあれば自由に動けます、と。
「それから、エレンの叔父であるハンネスも我々の部下となっていますので」
「…分かった。ならば、」
今度は共に剣を取ろう。
誰でもない、いつでも未来を胸に生きていた、1人の少年の未来の為に。

>>  next
光よ、