いつしか、鋭い眼光が胸を締め付けるような切なさを湛えていることに、気づいた。
「兵長…?」
それは昼間のふとした瞬間であったり、夜に心地良い微睡みを伴っているときであったり。
今、己を見下ろしてくる目は、まさにそのときの色を宿していた。
エレンはそっと両手を伸ばす。
「リヴァイ兵長?」
頬に触れた片手を大きな手に掬われ、次には静かに口づけが降りてくる。
…初めは、驚いた。
審議所でこれでもかというくらいに強い痛みを醸したその手が、こんなにも優しく触れてくることを。
触れた箇所から、合わせた唇から、どうしようもない程の愛おしさを注がれることを。
注がれる愛はもうエレンの身から溢れてしまっていて、窒息する錯覚さえ感じてしまう。
「ん…へい、ちょう」
甘やかな声を上げたエレンに、リヴァイは口づけを深めた。

どうして、そんなに切ない瞳(め)で見つめてくるんですか。
いつだかの夜、少し困ったように問われたことがあった。
(てめぇの所為だよ、クソガキ)
そんなこと、何があったって言いはしない。
唯一人、決して記憶を持ち越さないエレンには、絶対に。
「…エレン」
穏やかな眠りについたエレンの髪をゆっくりと梳きながら、リヴァイはあどけない寝顔を見つめる。
もう何度、彼を失くしただろう。
彼が巨人に喰われ命を落としているのなら、まだずっとマシだった。
それなら彼を、巨人を屠る力で守れば良いだけなのだから。
「エレン」

今度こそ。
今度こそ。

"何処かで"『巡り始める』者たちと共に、次こそはと持てる力を振るうのに。
だというのに、いつだってエレンはその命を散らされる。
それは約束したはずのリヴァイの手によるものですらなく、何も知ろうとしない"人類"の手によって。
とうにリヴァイの心は、エレンを害するすべてへの憎悪に塗り潰されてしまった。

ーーーだから私らは思った。エレンを故郷に連れて帰るって。
そうでないなら、人類なんて滅んでしまえって!

女型巨人であるアニは、リヴァイ直属の部下であるペトラとオルオに1発殴られた後、そう言って泣いた。
それはまるで慟哭のようで、エレンを地下室に押し込めていて良かったと思った覚えがある。
超大型巨人であるベルトルトと鎧の巨人であるライナーは、グンタとエルドが殴り飛ばした。
ハンジとミケも1発ずつ殴っていたので、彼らは宿舎で根掘り葉掘り訊かれるに違いない。
まあ、くっきりと残る青痣の理由を話すにしても、どうせ周りだって『巡って』いる。
アニとベルトルトは今回憲兵団に所属しているので、面倒臭かったかもしれない。
「シガンシナ区もトロスト区も、すでに終わったことだ。俺たちも分かってて切り捨てた」
リヴァイの言に、ハンジがニヤリと笑う。
「でも、次はちょーっと頑張ってもらうからね?」
目線の先で、アニはむすりと顔を逸らした。
「分かってるよ。あんたらを…エレンの周りのヤツを、殺すなって云うんだろ?」
でも、怪我は知らない。
アニの言葉を、リヴァイは鼻で笑う。
「上等だ。今度は壁外調査時にとっ捕まえてやるよ」

変化はまだある。
それはリヴァイ班に、1週間毎に臨時班員として1人を加えることだった。
もっとも、第57回壁外調査まで1ヶ月しか残されておらず、4名のみが対象であったが。
選ばれた彼らは、"今までに"エレンとは直接関わったことのないベテラン兵士。
誰もが班長を任する者だ。
彼らはエレンに懐疑的な視線を向けながら、古城での生活を始める。
そして、出て行く頃にはエレンの頭を撫でて本部へ戻って行った。
…リヴァイ班の面々があまりに普通にエレンに接する姿と、ごく偶に実行されるリヴァイの躾が相当に効くらしい。
「これがホントの、飴と鞭ってヤツだよねえ」
勉強になるなる、と笑うハンジは、珍しくリヴァイの蹴りを食らわなかった。

そして、とっておきがひとつ。
リヴァイ班が拠点とする古城へやって来た人物に、エレンは息が止まるほどに驚いた。
「父さん、母さん…っ?!」
食堂へ呼び出され、一体何だろうかと考えていたところに、これはまさに不意打ちだったらしい。
後から後から涙が滴り落ち、言葉が出なくなってしまった。
同じように涙ぐんだカルラが、エレンに駆け寄りその身体を強く抱き締める。
「エレン、エレン、エレン…!」
ごめんね、会いに来れなくて本当にごめんね…!
一緒になって泣く母子を、グリシャが抱き寄せた。
「すまない、エレン…」
お前を生かす為のことが、お前を酷く苦しませてしまった。
親子の泣き声に自身もじわりと涙腺を刺激されながら、ハンジはそっと食堂を後にする。
案の定、廊下にはリヴァイが壁に背を預け立っていた。
「…あいつの母親も、知ってんのか」
エレンが巨人になってしまうことを。
ハンジは目尻の涙を拭い、頷く。
「うん。辛抱強くイェーガー先生を説得してね。黙っていたって駄目でしょう?」
上手く行って、本当に良かった。
これからエレンの両親は、調査兵団の専属医師として働くことになる。
腕は物凄く良い。
何せ、本物の医者と看護師だ。
兵団の中で彼らとエレンに対する悪意が湧いた場合は、直接手を下しても良いことになっている。
それはリヴァイやハンジに限らず、エレンの同期たちも同様にだ。
「エルヴィンも、随分とぶっ壊れたな」
自分を棚に上げて笑ったリヴァイに、ハンジは肩を竦めた。
「そりゃあ、ねえ? 仕方ないじゃない」
子ども1人救えない世界を、幾度も繰り返しているのだから。



*     *     *



かくして、第57回壁外調査は幕を開けた。
幾ばくかの手加減をアニが実行していたためか、彼女はリヴァイとミカサの猛攻の前についに膝を折った。
ちなみに作戦に関して、初めてミカサの位置が秘されるというエルヴィンの徹底ぶりである。
項(うなじ)から切り出されたアニは、案の定水晶の中に閉じ篭っていた。
なぜ同期が、と錯乱するエレンを宥めながら、調査兵団は壁内へと帰還し57回目の壁外調査を終えた。

アニは憲兵団に所属している。
ゆえに調査兵団は、憲兵団に対して有効な切り札を所持したと言えた。
彼女の身柄は憲兵団に引き渡され、憲兵団は彼女の水晶を審議所最奥の地下牢へ幽閉する。
どんな機材を使用しても破壊できない水晶に、他の手段は無かった。



アニを捕獲した半年後、調査兵団の作戦は転換点を迎えた。
彼女から事前に巨人化し皮膚を硬化する方法を教えられていたハンジは、それをエレンへ伝授。
巨人化したエレンの力を用いてウォール・マリアを奪還した後、調査範囲を壁外の南方以外に広げたのだ。
「巨人は南から来る。それが真実であるのか確かめなければならない」
それがエルヴィンの内地と王政に対する説明であったが、真の意味は違う。
彼らの目的地は、もはや壁内には無かった。
南を重点に東、北、西と調査範囲を変えながら、彼らは巨人を掃討していく。
1年、2年と時は過ぎ、3年と4ヶ月。
ウォール・マリアから巨人を完全に排除したと発表された後、まことしやかに噂が流れ始めた。

ーーー巨人になれる人間が、調査兵団以外にも居るらしい。

人の口に、戸は立てられない。
噂には時折尾ひれと真実が繋ぎ合わされ、じわりじわりと布に落ちた雫のように広がっていく。

ーーーオレ聞いたぜ、憲兵団に居るらしいって。
ーーーは? 何で憲兵団に巨人になれる人間が居るんだ?
ーーー調査兵団のヤツは、ウォール・マリアを奪還してくれた英雄だぞ!
ーーーじゃあ、もう1人は何なんだよ?

ウォール・マリアから更に壁外における巨人の数も、調査を重ねるごとに確実に減っていく。
だがエルヴィンは、意図的にその情報を削減して内地へ伝えていた。
調査兵団の目測では9割を掃討しているが、王政府に伝わる情報は7割といったように。
けれど、兵士の負傷はあれど死亡者はほとんど出ていない。
エルヴィンが切れ者であることは内地でも周知であり、彼の作戦がさらに死亡者を減らしているという理解になっている。
おめでたい豚共だな、とはリヴァイの言だ。

調査兵団が壁外にて巨人を殲滅した情報が壁内へ伝わったのは、本来の日付より、実に半年後のことであった。

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光よ、