物々しい空気が、ウォール・ローゼ調査兵団本部に垂れ込めている。
…エレンが、憲兵団により捕らえられた。
巨人殲滅の報が王政府により全国民に伝えられた、3日後のことだ。
今回も"また"、エレンは反抗もせず悲しげに笑うだけで大人しく連行されていく。
遠くで母親の泣き叫ぶ声が聴こえているだろうに、聴こえないフリをして。
今にも憲兵を斬り殺さんとする勢いのミカサを引き留めながら、アルミンはぐっと唇を噛んだ。
(待ってて、エレン。絶対に助けるから)
今日までの半年は、その為だけにあったのだから。

内地の者たちは、気づいていない。
調査兵団に所属する兵士の数が減っていることを。
1年前に比べ、所属兵士の数が半分以下である事実を。

最初は、駐屯兵団に対する技術指南としての出向。
そうして時間が経ち駐屯兵団所属に変わった者たちが、カモフラージュに調査兵団へ来ているのが実態だ。
残りの兵士たちも、あと1ヶ月の間に皆が駐屯兵団所属となるだろう。
元調査兵団所属であった駐屯兵たちは、各々が門の開閉担当班所属となった。
ウォール・シーナ、ウォール・ローゼの各東門は、実質的に調査兵団が動かすに等しい。
「先遣隊がそろそろ出立か」
「ああ。大事なのは、その後だ」
もうすぐ、調査兵団による第87回壁外調査となる。
その先遣隊が、あと2日程で東門から壁外へと出立するはずだ。
シーナ、そしてローゼの東門担当班班長であるイアンとリコは、それぞれに時を待つ。
"そのとき"のために門の傍で飼う、軍馬たちと共に。



懐かしい、なんて。
このような忌まわしい場所に思うことではないけれど。
「同じ牢なんだなあ…」
両腕を手枷に繋がれ、ベッドに仰向けになりながらエレンは1人苦笑する。
審議所の地下牢。
ここは数年前、エレンがエルヴィンとリヴァイに出会った場所だ。

どうしたいかと問われて、巨人を駆逐したいと答えた。
経緯はともかく念願であった調査兵団に配属され、良き先輩たちに出会えた。
誰かを好きになることを、愛することを知った。
狂おしい程に愛されていることを知った。
壁の外へ行った。
巨人を殲滅した。
それなら、次はーーー

(海が、見たい)

氷の大地、砂の雪原、炎の水、そして海。
幼馴染と約束した、外の世界へ。

流れ落ちた涙が頬を伝い、シーツへと零れ落ちる。
鎖に繋がれた両腕では、自分の涙すら拭えない。
「死にたく、ない」
自由になりたい、外へ行きたい。
いつも涙を拭ってくれる手も、宥めてくれる優しい声も。
何も無い静かで真っ暗な地下牢の底、エレンは涙を止める術も無いまま眠りについた。



*     *     *



眠った先に、数年前に見たきりの懐かしい姿が待っていた。
「…アニ?」
呼び掛けに振り向いた彼女は、嬉しそうな、そして哀しそうな表情をしていた。
器用だな、なんて思う。
「あんた、憲兵に捕まったの?」
問われたので頷けば、彼女はエレンに近づいて来た。
「何で逃げなかったんだ。あんたの周りには、あんたを生かしたいヤツしか居ないのに」
まるで見てきたような言い方は疑問だが、エレンはゆっくりと首を横に振る。
「俺だって死にたくねえよ。けど逃げたりしたら、皆が俺の代わりに酷い目に遭う」
これだから、こいつは。
無意識に唇を噛んだ。
(どうしてこうやって、いつも!)
堪らず、アニはエレンの身体を抱き締めた。
「何であんたは自分の心配をしないんだよ?! 私らが一番守りたいのはあんたなのに…!」
エレンは彼女の嘆きに戸惑うばかりだ。
「何で…アニが泣いてんだよ」
「…あんたが馬鹿だからでしょ」
「はあ?」
面と向かって抗議をしたいところだが、離してくれる様子はない。
エレンは下ろしていた腕を持ち上げ、アニの背をぽんぽんと叩いた。
「…なあ、アニ。何であんなことしたんだよ?」
エレンにとって、初めての壁外調査。
そこで彼女は巨人化し、調査兵団を襲った。
右翼の部隊はアルミンを含めた104期生を除いて全滅し、エレンの周りも無事では済まず。
幸いリヴァイ班に死亡者は出なかったが、ペトラとグンタは義体の身となってしまった。
「理由、あるんだろ?」
エレンを抱き締めたまま、アニはそっと目を伏せた。

「…エレンを、私たちの故郷へ連れて帰りたかった」

あそこなら、差別されない。
特別扱いされない。
人間であろうと巨人であろうと、関係ない。
「私"たち"?」
首を傾げるようにエレンの頭が動き、黒髪が頬を擽る。
(そうか、今回は…)
アニの他には、誰も巨人化出来ることをエレンに明かしていないのだ。
ライナーも、ベルトルトも、そしてユミルも。
ユミルは立場が違うので何ら問題ない。
しかしライナーとベルトルトは、自らの正体を明かさず生きていくと誓った。
リヴァイたちと今後を話し合った"あのとき"に。

ーーー俺たちは、明かさない。ずっと隠して生きていく。

「…そっか」
エレンはそれ以上何も言わず、アニを落ち着かせるように彼女の背をまたぽんぽんと叩く。
(もう、叶わぬ願いだから)
アニは水晶の中に閉じ篭り、エレンは拘束されている。
(どこにも、行けない)
ぎゅっと胸が締め付けられ、指先に力が入った。
服を掴まれた感触に、アニは静かに息を吐く。
「エレン。あんたも結晶化しなよ」
「え?」
身体を離し、彼女は両手でエレンの頬を包み込んだ。
「知ってると思うけど、私たちの造る水晶はどうやったって壊れないし、壊せない。
今あんたがやるべきは、あんた自身の命を守ることだよ。エレン」
「けど…」
ああ、また余計なことを考えてる。
エレンのこういうところが、アニは大嫌いだ。
(誰よりも先に進もうとするくせに、変なところで誰が即しても歩こうとしない)
今まではミカサやアルミンが、そしてリヴァイが、無理矢理に引っ張って来たのだろう。
けれど今、ここに彼らは居ないのだ。
「エレン。あんた今、自分が死んだ方が人類の為になるとか思ってる?
もしそうなら、あんたが最期に会いたい人たちを思い浮かべてみなよ」
「……」
「思い浮かべた? …たくさん居るんだろうね。エレンは愛されてるから」
哀切と共に伏せられた薄青の意味が、エレンには解らない。
「アニ…?」
だが次に開かれた彼女の眼差しは、エレンをとても、とても強く射抜いた。

「エレン。あんたが今思い浮かべた人達は、あんたが死んだら絶対に幸せになれないよ」



*     *     *



はっ、と目を開けたそこには、牢の維持設備と鎖がぶら下がっていた。
目尻から何かが滑り落ちる感触がして、また泣いてしまったのかとぼんやりと思う。
(今何時だろ…)
ここは地下牢であるから、時計もなければ窓もない。
鉄格子の向こう、上に繋がる階段側の通路へ目を遣ると、なぜか人影も無い。
(見張りが居ない? 何で?)
じっと目を凝らせば、奥の方で影が揺れた。
ついでに微かな話し声と、階段を登ってゆくブーツの音。
と同時に、近づいてくる足音があった。
交代の憲兵だろう。
(えっ、1人…?)
しかしこちらへやって来る影はひとつだけだ。
その影がエレンに姿を見せ、エレンは目を丸くする。
「久しぶり、エレン」
ほんの少しの苦笑を混ぜた笑みは、訓練兵団卒業後からずっと目にしていない。
「ベルトルト…!」
本当に、久しぶりだ。
少なくとも年単位で会っていないだろう。

ベルトルトは階段を気にする素振りを見せ何かに安堵すると、続いて驚く行動に出た。
ガチャン、と鍵が外され鉄格子の扉が開く。
目を見開くエレンへ静かに、とジェスチャーで示して、ベルトルトは牢の中に入ってきた。
「お前っ、何やって?!」
抑えても響く声に口元だけで笑み、彼は自分の人差し指でエレンの唇に触れた。
「しぃっ。ここは静かだから、すぐに上まで響いてしまうよ」
ベルトルトはそのままエレンの居るベッドへ腰掛け、エレンは横になっていた身を起こした。
じゃらり、と音を立てる鎖が鬱陶しい。
「久しぶりに会うのが、どうしてこんな場所になってしまうんだろうね」

ーーーもっと早く、故郷へ連れ帰っていれば。

ベルトルトは毎回のように彼の死を誰かに伝えられ、そして絶望してきた。
意識が途切れる瞬間に思うことは変わらない。
それなのに、もっと早くと急いでも、変えようとしても"変わらない"。
「エレンには、こんな場所は似合わない」
エレンほど、似合わない人は居ないよ。
彼があまりに哀しげな顔で笑うものだから、エレンは口を噤むしかなかった。
「昨日、第87回壁外調査の先遣隊が出発した」
「えっ?」
エレンはベルトルトを見上げる。
「え、待ってくれ。じゃあ今日は…?」
「日付のこと? 今日は11日だよ」
驚いた。
「俺、丸3日も寝てたのかよ?」
「そうなるね」
だからこそ、ベルトルトが1人で見張りを引き受けることが出来たのだけれど。
(人間は、醜悪だ)
エレンの何が恐いというのだろう。
2人で見張りにあたれという上の指示さえ、無視してしまう程に?
(巨人化するかどうかは、ただの確率論なのに)
まあ、そんなことはもう重要ではなくなった。
こうしてエレンが捕らえられてしまったのなら、取るべき行動など用意した選択肢しか存在しない。
…でもそれは、彼に知られて良いものでもない。
だからベルトルトはわざと話題を変えた。
「調査兵団の先遣隊って、確か104期生で組まれてるって聞いたけど」
尋ねれば、エレンの表情がパッと明るくなった。
「そうなんだよ! ジャンとマルコが班長でさ、あいつらすっげー息ぴったりなんだ!」
ジャンの癖に、と悪態を突きながらもやはり彼は嬉しそうで、地下牢という場だけが相応しくない。

ジャンの班にはサシャとコニーがいて、彼らはどうやら未知の食材(の可能性があるもの)の毒味要員らしい。
特にサシャは狩猟一族の出だけあり、立体機動装置以外の武器の作成と扱いも上手い。
弓を使わせたら一級だと。
マルコの班にはユミルとクリスタが居り、こちらは記録要員だという。
ユミルは絵が上手いとエレンが話し、ベルトルトは本気で驚いた。
「あのユミルが? 人は見掛けによらないなあ…」
もっとも、絵を描くことなんて、巨人を殲滅したからこそ表に出せるようになった事柄だろう。
ユミルは初めて発見した植物や昆虫、動物をスケッチし、記録に残す。
クリスタはグリシャ直伝の腕で薬草や香草を旅の供に加工し、時に植物を押し花にして保存する。
他のメンバーたちもそれぞれに役割を持ち、慣れもあろうが壁外で3ヶ月は暮らせるという。
「俺はまだ、最長1ヶ月だからさ」
せっかくのエレンの笑顔は、また翳ってしまった。

ーーーエレンが殺されたそのときが、再びの始まりの合図。
それに気づいた当初は、自分たちの行動が間違いではないと思っていた。
(人間の側に、エレンが居るから)
なのに、違った。
更なる繰り返しの中、エレンを故郷へ連れ帰ることが出来たことがある。
しかもその内の2度は、今思えばエルヴィンかリヴァイ辺りが手を回していたようで、調査兵団はエレン奪還に動かなかった。
…ギリ、とエレンに見えない方の拳を握る。
(それでも駄目だった。エレンを守り切れなかった…!)
どこから嗅ぎつけるのか、村が憲兵に包囲されて共々殺されたり。
あろうことか村の人間にエレンが殺される最悪の事態に直面し、ベルトルトは彼の亡骸を抱えて絶叫した。
隣に居たライナーは放心状態で、アニはその時点で正気を失っていたように思う。

ライナーは始めは少し心情が違っていて、エレンを故郷に連れ帰るというのもほとんどが義務感だった。
エレンの死を"起点に"『繰り返して』しまうのも、彼のせいで自分たちの未来が無いと憤慨していた。
そういう考え方もあったか、とベルトルトは逆に感心した覚えがあるが、当然アニはそんなライナーを心から軽蔑した。
あるときには、先に殺してやるとまで言い放つに至っている。
…きっと、彼女の抱えていた淡い恋心が、『繰り返す』中で形を変えてしまったのだろう。
恋は執着に、執着は依存に。
さて、今はどうだろうか。

「あの、さ。アニはどうしてるんだ?」
独り言のように問われ、ベルトルトは目を瞬いた。
「ああ、アニか。彼女ならここの、」
牢の外を指差し、更に奥を示した。
「一番奥の地下牢に安置されているよ」
「そう、か…」
煮え切らない声が返り、今度はベルトルトが首を傾げる番だ。
「エレン?」
名を呼ぶことで先を即せば、笑うなよ? とエレンは釘を刺してきた。
「さっき寝てたとき、夢を見ててさ。その夢にアニが出て来たんだ」
話をした。
泣かれたり、怒られたりした。
「俺に、同じように水晶に閉じ篭れって」
聞いたベルトルトは笑みを浮かべる。
「そうだろうね。僕もそう言うよ。というか、言いに来た」
彼は複雑そうな表情でベルトルトを見上げた。
「何で…」
何度でも言い聞かせよう、彼を救うためなら何度だって。
「そんなの、エレンに死んで欲しくないからに決まってるよ」

見張りの仕事に戻り、ベルトルトは牢のエレンの気配だけを感じる。
(もし、エレンが結晶化を拒むなら)
無理矢理にでも結晶化させることを、リヴァイたちも合意の元で決めていた。
己の意思ではないから、外からの声も何も聴こえなくなるかもしれない。
(…それでも)
"また"、彼を失うことに比べれば。

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光よ、