ここから、

(みんなといっしょに。)




ガタガタ、と振動がダイレクトに身体へ伝わる。
意識の覚醒と共に、振動は節々に対する痛覚に変わった。
むくり、と身を起こせば、木箱と麻袋の間に挟まれている様子がすぐに判る。
中身は食料であろう麻袋の積まれた反対側を見れば、水晶に包まれていないエレンが眠っていた。
アニはふっと微笑む。
(…そうか。聴こえたんだね)
あんたを呼ぶ、リヴァイ兵長の声が。
エレンの身体には調査兵団の外套が掛けられ、同じ色の布が頭の下に敷かれている。
他方、自らを見下ろしたアニは、掛けられていたのが駐屯兵団の外套であることに首を傾げる。
頭蓋が痛むのは、枕代わりもなく直に床板へ寝ていたからか。
分かり易い扱いの差を甘受し、アニは寝ていた頭側、前方の薄布を捲り上げた。

眩い空と輝くような草原が、広がる。
日差しを翳した手で遮り、駆け抜ける周囲へ視線を流した。

左にミカサが居る。
正面はリヴァイが、右にはアルミンが。
アニが乗る馬車を操っているのはベルトルトで、ならばライナーは後ろか。
「ベルトルト」
駆ける音に消されぬよう声を上げれば、弾かれたように彼がこちらを振り向いた。
「アニ! 目が覚めたんだね!」
彼の声を聞きつけたか、ミカサが速度を落とし馬を寄せてくる。
黒曜の瞳は鋭くアニを捉え、抑揚のない声が尋ねた。
「…エレンは?」
「まだ寝てるよ」
「……そう」
それきりで、ミカサはあっさりと馬車から離れる。
相変わらずのようだ。
アニはベルトルトへ視線を戻す。
「私はどれくらい寝てた?」
「うん、丸2日ってところかな」
「今どの辺を走ってるの?」
「東の巨大樹の森を、さらに東だよ。大体100km近くは走ってる」
「…目的地は?」
ベルトルトは進行方向をまっすぐに指差した。
「もっと東へ。調査兵団が"SITE:aurum(サイト・アウルム)"と呼んでいる森。
そこで調査兵団本隊と先遣隊に合流するんだ」
「そう」
馬車の中へ戻ろうとしたアニは、そういえばとベルトルトを振り返る。
「駐屯兵団の外套はあんたの?」
彼だけ外套を羽織っていなかったので問うてみれば、案の定頷きが返った。
「そうだよ。ウォール・シーナを出るとき、駐屯兵の人が渡してくれて」
憲兵団の外套はボロボロになってしまったし。
続いた言葉の裏の意味を何となく察したが、アニは何も言わなかった。
左手前方に林が見えてくる。
「ミカサ、先行しろ」
「はい」
先頭を走っていたリヴァイがミカサへ指示を出し、答えたミカサが速度を上げ林へと向かった。

川も池も無い林だが、目的は馬を休ませることだ。
適当な場所へ馬と馬車を止め、リヴァイたちは小休憩に入る。
アニが馬車から降りると、ミカサが入れ違うように馬車へ乗り込んだ。
「エレン」
幌に隠れて見えないが、眠る少年の名を呼ぶ声がアニの鼓膜を揺らした。

アルミンから水を渡され、礼を言う。
「アニ」
改めて名を呼ばれ、彼を見返した。
アニの記憶より随分と精悍な顔付きとなったアルミンは、けれど記憶に残るものと同じ笑みを浮かべた。
「エレンを取り返してくれて、ありがとう」
礼を言われる理由など、どこにあるのか。
「…私は、やるべきことをやっただけ」
「そうだね」
困惑を読み取ったか、アルミンはそれ以上何も言わなかった。

手近な木の根元へ腰を下ろし、喉を潤す。
ひと息ついたところを狙い済ましたかのように、リヴァイの声が飛んできた。
「水晶化にはどれだけの体力を使う?」
アニに、というよりも、巨人化出来る者たちへの問いのようだ。
やや離れた位置に座っていたライナーが頷いたので、アニは口を閉じることにする。
「0(ゼロ)から結晶化したエレンの場合、ただ巨人化して戦うよりも体力を消耗したはずです」
「…どういう意味だ?」
リヴァイがライナーの言葉を鸚鵡返しにすれば、彼はアニを見た。
「アニの場合、巨人化していた中で特定部位を硬化し、それをさらに高密度化して結晶化しました」
項の部分を硬化し、項の中にある自身の周囲をさらに高密度にすることで、水晶にまで純度を高める。
「本来であれば、この手順がもっとも効率的です。
結晶化はそもそも、身を守る以外は冬眠と変わらないので」
「…なるほどな」
アニの容姿が以前とまったく変わっていないのは、そういうことか。
「で?」
即したリヴァイに、今度はベルトルトが口を開いた。
「地下牢に居たエレンは、当然巨人化出来ません。彼は意思の力だけで結晶化を成し遂げました」
その弊害が、今の状態だ。
「ライナーが言った通り、結晶化は冬眠と似ています。その後長く眠るからこそ、体力を消耗しても問題ない」
眠っている間に、消耗した分は回復出来る。
「…つまり、エレンは手順を飛び越えて水晶を創り、水晶の中で回復し終える前に結晶化を解いた?」
アルミンの推測を肯定し、ベルトルトは馬車へと視線を向けた。
「…少なくとも1週間は、起きないと思う」



触れた指先は暖かな熱を汲み取り、生きていることを伝えてくる。
「エレン…」
エレンのすぐ傍へ座り込み、ミカサはただじっと彼を見つめていた。
時々エレンの頬を撫で、髪を梳き、その体温を確かめる。
「エレン」
生きている。
エレンは生きて、ここに居る。
眠っているのは残念だけれど、今ここに、エレンが居る。
「……」
まだ、泣かない。
だってまだ、エレンは起きていないから。
「ミカサ」
声に馬車の入口を見返れば、アニがこちらを覗き込んでいた。
「あんた、ちゃんと水分補給しなよ。私は寝てただけだけど、あんたは違うだろ」
彼女の手には水の入った革袋があり、ミカサは渋々とエレンの傍を離れる。
水を受け取り、ぽつりと告げた。
「あなたにはまだ、お礼は言わない」
だってまだ、エレンは起きていないから。
小さく首を傾げたアニは、次には肩を竦めた。
「良いよ。私は礼を言われるためにエレンを助けたわけじゃない」
そこで何を思い付いたのか、アニは続けた。
「ミカサ。あんたこのままエレンの傍に居なよ」
「?」
何を言い出すのかと、今度はミカサが首を傾げる。
アニは幌の向こう側へ声を投げた。
「リヴァイ兵士長。ミカサと配置を変わっても良いでしょうか?」
問われたリヴァイは許可を出す。
「構わん。お前は立体機動装置なしでも戦えるからな」
そろそろ行くぞ、という彼の声を後ろに、アニはちらりとミカサを見遣る。
彼女は何事か言いたげにアニを見ていたが、ふいと目を逸らし馬車の中へ戻って行った。

アニはミカサの馬へ近づき、馬の状態を見る。
「アルミン、替え馬を貸して」
え? と不思議そうな顔をしたアルミンだが、ミカサの馬を見上げるアニを見て事情を察したらしい。
「分かった。じゃあミカサの馬の轡(たずな)をくれる?」
受け取った替え馬に騎乗し、良い馬だとアニはひとりごちた。
気性は穏やかだし、自分との相性も悪くなさそうだ。
「あ、そうだ」
同じく騎乗したアルミンが、アニの隣へ馬を寄せる。
少しだけ辺りを憚るように、声を潜めて。
「ねえ、アニ。ちゃんと壊した?」
排除された主語の特定に、瞬き2回分の時間を要した。
アニは馬の腹を蹴り、すでに先を行くリヴァイを追う。
「当然。完膚無きまでに壊してやったよ」

王城は、土台が見えるまですべて崩した。
憲兵団本部は、元の形が思い出せないくらいに踏み潰した。
ウォール教本部は、虫けらのように蹴り壊した。

「貴族街に向けて瓦礫を蹴っ飛ばしてやったし」
東の壁をベルトルトが引き剥がしたので、もっといろいろ壊れたかもしれない。
彼女の証言を聞いたアルミンは、笑った。
「あははっ、良い気味だ」
まったく笑んでいない目は、まるで井戸の底のよう。
「…あんたもつくづく、恐ろしい男だね」
一番敵に回したくないよ。
馬車の前方を回り反対側に付いたアニに、アルミンは聞こえずとも答えた。
「だって、エレンを助ける為だもの」
他に理由なんて要らないじゃないか。
その言葉を他の誰かが聴いていても、誰も咎めず一緒に嘲笑ったに違いない。



*     *     *



振り上げていたハンマーを下ろし、額の汗を拭う。
「分隊長、こんなもんですか?」
モブリットの声にハンジが駆け寄り、上出来だと笑みを浮かべた。
「よし、テストだね。ペトラー! ちょっと手伝ってもらって良いかな?」
「はい。何でしょうか?」
やって来たペトラに、ハンジは目の前にある土台を示した。
「私と一緒にこれに乗って、ジャンプしてくれる?」
土台とは言っても、10cmの高さに木を組んだだけの簡素なものだ。
大きさは、あちこちに設置されているテントの底面積分となっている。
あまり平らではない木組みの上に乗り、ペトラは目的を察した。
「テントの底上げですか」
皆まで言わず察した彼女に、ハンジは嬉しそうに笑う。
「そういうこと。行くよ? せーの!」
どん、と大人2人分の衝撃を受けた土台は、揺らぎはしても崩れる気配はなかった。
「よっしゃ! 土台の組み方はこれでオッケー!」
後はもうちょっと、平らに出来たら良いんだけど。
ハンジの呟きを拾ったペトラが、一方向を指差す。
「それならさっき、サシャとマルコとミーナが蔓草を編んでましたよ」
「お、なるほど! 全部には無理だろうけど、それは名案だねえ」
"SITE:aurum"で調査兵団の本隊と先遣隊が合流し、約2週間が経った。
建物の無い生活にも随分と慣れ、今では生活環境の改善にまで気が回る。

風向きや川幅、流れの速さ、山の地形による鉄砲水の可能性など、考え得る対処をすべて為してキャンプを張った。
食料や水や薬草、その他にも生きるために必要なものは、順調に備蓄も整ってきた。
しかしまだ出会っていないもの、それは天候の悪化だ。
随分と長い間晴天が続いているので、そろそろ不味そうだと言い出したのは誰だったか。
調査兵団は、壁内の誰よりも自然の中で生きる術を持っている。
だがそれとて、期間を経て必ず壁内に戻ると定められていた。
戻れば足りないものが揃う、それが今まで。
今はもう、足りないものはこの手で足していくしか無い。
だのに苦労して足していったものを、自分たちの消費以外で削られては堪らない。
ゆえに、知恵を絞る。
テントが下から濡れて水浸しにならぬよう、底上げの土台を組むことを提案したハンジは云う。
「人間の知恵は、こういうときのために有るんだよ」
断じて人を貶めたり辱めたり、ましてや殺すために絞るものではない。
皮肉に口元が歪むのは、仕方のないことだろう。

今日は探索に1班、食料・資材調達に2班が出掛けていた。
残っている面々はハンジのように現在の拠点を整備してみたり、馬車に積み込んできた生活物資以外の整理をしている。
「お? あったあった!」
生活物資以外を積む馬車の荷台に乗り込んでいたユミルが、機嫌の良い声を上げた。
この荷台の中身は、主に紙だ。
詳細にするならそれは本、書き込まれていない記録用紙、予備のペン軸、インク、鉛筆、等々。
壁外で発見したものをスケッチし記録するユミルは、ハンジと同じくらいこの馬車の中身に世話になる。
探していた本は気象について書かれたもので、内容の一部が壁内では禁書に含まれていた。
(季節の移り変わりは、動植物も例外じゃない)
もっとも、緊急性が高いのは季節の変化ではなく、天候の変化についてである。
天気の読みが良いのは座学に強いアルミンだったが、彼は最終任務のために壁内へ残った1人だ。
目当ての本を片手に、ユミルはキャンプから離れ"SITE:aurum"の西側へと向かった。
(今日の担当は、コニーとトーマスだったか?)
西は、壁のある方角だ。
そして最大の目的である、"エレンの奪還"を為した者たちがやって来る方角でもある。
「…?」
足音がこちらへ駆けて来た。
ユミルがさらに先へ進めば、向こうからトーマスが走ってくる。
「どうしたんだ?」
彼女に気がついたトーマスは息を切らし、ユミルの肩をがっしと掴んだ。
「な、なんだよおい?」
困惑するユミルを余所に、トーマスは大きな声で告げた。
「来たんだ!」
「は?」
「来たんだよ! リヴァイ兵長たちが!!」
ユミルの目が、大きく見開かれた。

待ち望んだ報に、キャンプに残っていた面々は沸き立つ。
打ち上げられた信号弾に気付いて、探索に出ていた班の者たちも即座に戻ってくるだろう。
「リヴァイ!」
初めに姿を見せたリヴァイに、ハンジが駆け寄った。
彼の後ろからミカサとアニ、ライナー、ベルトルトも馬を並足にして姿を現す。
「アルミンは馬車の中?」
「ああ」
馬を降りたリヴァイが馬車へ向かう。
「イェーガー医師は?」
問われ、ハンジは別の方向を見遣った。
「今日は探索班と一緒なんだ。カルラさんはもうすぐ…」
リヴァイと入れ替わるようにして馬車から降りたアルミンが、樹々の間から駆けて来るミーナを見つける。
彼女の後ろから、カルラも駆けて来る。

「…っ、エレン!」
「エレン!!」

再び馬車から出てきたリヴァイは、エレンを抱きかかえていた。
求めた姿に誰もがその名前を呼ぶが、この騒がしさであるというのに彼は目を閉じたまま微動だにしない。
一同は、安堵と同時に一物の不安を胸に過ぎらせる。
「生きて…るんだよね?」
恐る恐る問い掛けたハンジへ、リヴァイは頷いた。
「寝てるだけだ。一度、目も覚ましてる」
"幾度"にも渡る『繰り返し』は、『繰り返した』者たちの心を壊し、摩耗させた。
残ったのは、ただひたすらに強い憎悪と疑念。
一度は目覚めたエレンと対話したリヴァイですら、疑心ばかりが内を満たす。

ーーーエレンは、本当に起きるのか?

穏やかな彼の寝顔を求めないわけではない。
けれど、それは望んだ未来のほんの一部にしか過ぎない。
求めた未来は、それだけのものではないのに。
「エレン…っ」
息を切らせたカルラが、取り縋るような勢いで息子の名を呼ぶ。
「エレン、エレン…!」
無事で良かった。
生きていて、良かった。
リヴァイに抱えられたエレンの頬は暖かく、久しぶりにその寝顔を見たとカルラは笑みを浮かべる。
頬を両手で包み込み撫でても、エレンは何の反応も見せない。
それでも彼が生きていることには変わりなく、安堵に膝の力が抜けそうだった。
「…ありがとうございます、リヴァイ兵士長」
息子を救ってくれて。
カルラがリヴァイへ礼を言えば、彼は首だけで後ろを振り返った。
「礼を言う相手が違う。奪還したのは、そこのアニ・レオンハートだ」
馬と馬車を移動させようとしていたアニへ、ライナーとベルトルトが頷き彼女の手から轡を引き取る。
握っていた馬の轡をアニが離せば、明らかに兵士ではない女性が1人近づいてきた。
(この人が、エレンの)
「貴女がアニさん?」
「…はい」
この目で見るのも、直接会うのも、初めてだ。
戸惑うアニへ、彼女はそっと微笑んだ。
「私はカルラ。エレンの母です」
そうだろう、だってとてもよく似てる。
笑みの浮かべ方がそっくりで、きっとエレンが彼女に似ているのだろう。
カルラはアニを真っ直ぐに見つめ、それだってエレンにそっくりで。

「エレンを救ってくれて、ありがとう」

礼ならば、リヴァイにも言われた。
アルミンにも言われた。
「私は、自分の望みに従っただけ…です…」
だのに、なぜだろう。
同じ礼なのに、同じように返せなくて声が震える。
す、とカルラの腕がアニへと伸び、アニはビクリと身体を強ばらせる。
その様子に微かに苦笑して、カルラは彼女の頬をそっと撫ぜた。
「それでも、貴女が救ってくれたことに変わりはないわ」
だから、と頬を撫でた掌には、エレンと同じ温もりがある。

「エレンを、私の息子を助けてくれてありがとう。アニ」

笑みは遠い昔に亡くした母を思い起こさせ、別れた父を思い出させ、そして。
(エレン、を…)
亡くしてなるものかと誓った、エレンの笑顔に瓜二つだった。

(わたしが、たすけた)

ぽろぽろと薄青から零れ出した涙を、カルラが優しく拭う。
2人の様子を、アルミンはやや離れた場所から静かに見ていた。
(なんか、懐かしい感じがする…)
報われたのだろう、と思う。
アニが泣いているところなどおそらく誰も見たことがないし、彼女も見せようとはしない。
けれど今、カルラの言葉でアニは泣き出した。
ダムが決壊したかのようなそれは、彼女の強い心の内側を垣間見せるように。

流れる涙は止めようとしても止まらず、アニはさらに戸惑ってしまう。
今度こそカルラは苦笑して、アニの頭を抱き寄せた。
ぽんぽん、と彼女の肩口で宥めるように頭を撫でられ、アニはいつかの夢と錯覚しそうになる。

「…大丈夫よ。エレンは必ず起きるから」

ああ、逆効果だ。
(母は強しって、本当だね)
益々涙を溢れさせてしまったアニを見て、ハンジは心穏やかに呟く。
…誰もが酷く恐ろしいものとして抱いている不安。
それを彼女は、たった二言で払拭してしまった。
(待つことの辛さを、貴女もよく知っているのに)
馬の蹄の音が複数聞こえ見返れば、エルヴィンを含め"SITE:aurum"の外へ出ていた者たちが帰ってきた。
リヴァイの抱えるエレンを目にして、彼らの目が見開かれる。
「エレン!」
目を覚ます様子のないエレンに不安を抱くのはやはり同じで、しかしそれを口にしないところが指導者の素質なのだろう。
エルヴィンは何も言わなかった。
グリシャがエレンへ駆け寄り、そっと彼の頭に触れる。
「エレン…エレン、無事で良かった…」
涙ぐむ彼に、そういえば親という存在はグリシャとカルラだけなのか、とハンジは思い至った。
リヴァイは何事か問いたげなエルヴィンを見上げ、すぐに視線をエレンへ戻す。
「どこにコイツを寝かせれば良い?」
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2013.8.18
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