ここから、

(みんなといっしょに。)




今日も空は青い。
エレンが寝かせられたテントは、イェーガー夫妻のテントの隣。
カルラはエレンの頭を自分の膝の上に乗せ、癖のない髪を一定のリズムでさらさらと撫でる。
「ーーー♪」
時折、節の付いた声が口を突く。
随分と昔にエレンへ歌い聴かせた子守唄であったり、童謡であったり。
ただの節の羅列であったり。
懐かしい歌に惹かれてきたのは、ミカサだった。
「おばさん…?」
テントの仕切り布を捲ると、彼女に気づいたカルラがミカサを手招く。
「ちょうど良かったわ。ミカサ、少し頼まれてくれるかしら?」
「何ですか?」
ちょいちょいと手招きされ、ミカサは装備していた立体機動装置を外して小脇に抱えた。
テントに入り立体機動装置を置いて、改めてカルラへ向き直る。
そうして彼女の膝の上で寝息を立てているエレンを見つけ、自然と口元が綻んだ。
(…懐かしい)
幼い頃は、よく昼寝をした。
家のベッドであったり外の原っぱであったり、エレンとミカサとアルミンで。
ぽかぽかとした陽気の日は気づけばみんなで眠っていて、起きてから可笑しくて笑い合っていた。
カルラはミカサへ隣に座るよう手振りで示し、ミカサは大人しく従う。
彼女の膝を自分の膝側へ寄せさせ、カルラはエレンの頭を持ち上げミカサの膝の上へそっと乗せる。
慌てたのはミカサだ。
エレンが寝苦しくないようにと急いで座る位置を整えれば、カルラが先程まで座っていた位置に収まった。
「それじゃあ、よろしくね。ミカサ」
頷く他に、あったろうか。

眠るエレンは、ちゃんと呼吸をしている。
肌は血が通っていて、触れれば暖かな体温がある。
(エレンが、生きてる)
幸せだ、とミカサは思う。
もちろんエレンが起きればもっと幸せだけれど、今だって十分に。
失い続けていた"今まで"に比べれば、どんなに幸せだろう。
…巨人からエレンを守るのは簡単なのに、なぜ人間からエレンを守ることはこんなにも難しいのか。
いっそ自分が巨人であるなら、もっと簡単にエレンを守れた。
そういう意味で、ミカサはアニたちが少し羨ましい。
(巨人になれたら、もっと早く遠くに行ける)
奪い返すことも、遠くへ逃げることも、きっともっと簡単で。
でも、今は過ぎたことを思うことを止めた。
(エレンは、ここに居る)
たとえ彼がこの先目覚めることがなくても、ミカサは自分が幸せだと思う。
(だって、エレンはここに居るから)
ここなら奪われることはない。
エレンの眠りが穏やかであるように祈り、彼に仇なす者から守れば良い。
(…でも、)
出来るなら、やっぱり起きて欲しいなと思う。
だってミカサが一番好きなエレンの笑顔は、彼が起きていなければ見られないのだから。

ハンジと一緒にテントの整備に知恵を絞っていたアルミンは、視界の端にカルラの姿を見つけた。
(あれ? おばさん、確かエレンのところに居なかったっけ?)
彼女は料理や洗濯といった、一家における家事を調査兵団で切り盛りしている。
裁縫が苦手な者は彼女に服の繕い方を教わり、薬草の使い方が分からなければ彼女に指導してもらう。
リヴァイ班が古城に居た頃からイェーガー夫妻は調査兵団の一員であったが、それはここでも変わらない。
特にペトラを筆頭とした女性陣は、カルラに多大な信頼を寄せていた。
「ハンジ分隊長、エレンの様子を見てきても良いですか?」
物差しと分度器で図面と格闘していたハンジは、アルミンの問い掛けににこりと笑う。
「良いよ良いよ! むしろ行っといで!」
快く送り出してもらい、アルミンはエレンが眠るテントへやって来る。
「…あれ? ミカサ?」
テントの仕切り布を捲ると、ミカサがアルミンを見上げ目をぱちりと瞬いた。
「アルミン…?」
彼女の膝の上に頭を乗せて、エレンが眠っている。
俗にいう膝枕だ。
無意識だろう、エレンの髪を梳きながらミカサが口を開いた。
「そうだ、アルミン。私と代わってくれる?」
「…えっと、それは構わないけど」
膝枕は無理かなあと頬を掻けば、どうして? と彼女は首を傾げる。
「だって、女の人の膝だったら柔らかくて気持ち良いだろうけど」
男の膝枕は気持ち良くないと思うよ?
アルミンの言にあまり納得していないようであったが、ミカサはエレンの頭(こうべ)を枕代わりの外套へ下ろした。
その動作はいっそ慎重過ぎるものに思えたが、アルミンは何も言わない。
「それじゃあ、」
「うん。任せて」
脇へ置いていた立体機動装置を手に、ミカサはテントを後にした。

日差しがテントに当たり、白いテントの天井が灯りのように中を照らす。
眠るエレンを見つめて、アルミンはそっと呟いた。
「エレンの寝顔なんて、見たのいつ以来だろう…」
訓練兵のとき部屋は同室であったが、毎日の疲労が酷すぎてそれどころではなかった。
調査兵団に入っても、エレンはリヴァイ班と共に古城に隔離されたので会うことすら侭ならなかった。
「巨人を殲滅してから、もう大分経ったね」
憲兵に連行されるまでは、エレンも引き続いて壁外調査に参加していた。
今までよりもずっと遠くまで調査へ赴くようになって、新たに見たものは数え切れない。
「でもさ、エレン。僕たちはまだ、あの本に載ってたものを見つけていないんだ」
炎の水、氷の大地、砂の雪原、そして海。
それらはまだ、見つかっていない。
でも見つかったなら、誰よりも先にエレンに見せたかった。
そっと彼の額に手を触れ、頭を撫でる。
「エレンとミカサと僕で、約束したよね」
いつか必ず、壁の外へ冒険に出ると。
「僕らは調査兵団に入って、念願叶って巨人を滅ぼした」
ようやくここから、冒険が始まるのだと。
(なのにいつも、それは叶わなかった)
理不尽にエレンを奪われ失って、また"初め"から。
ぽつ、と手の甲に何かが落ち、アルミンは自分が泣いていることに気がついた。
「…エレン」
昨日のアニの涙のように、後から後から溢れて止まらない。
「ねえ、エレン。ここにはもう、エレンを否定する人間は居ないんだ」
外套の下に隠れていたエレンの手を取り、ぎゅっと握る。
「エレン。君が居なきゃ、僕もミカサも冒険に出掛けられない」
エレンが居なくちゃ、意味が無い。
(僕の夢を否定しなかった君が、ましてや一緒に見に行こうと言った君が)
ベルトルトの見立てでは、あと7日は目覚めない。
(なんて、長い時間だ)
数えなくなった『繰り返し』から初めて、エレンを取り返した。
生きる温もりを宿したエレンが、今、ここに居る。
("次"なんて、もう沢山だ)
何度も絶望に感じてきた思いは、すでに壊した心でさえもなお呑み込もうとしてくる。
「もう、嫌だよ…エレン…!」
1週間でも1ヶ月でも、1年だって待つから。
「どうか、起きて」
エレンの手を両手で握り締め、アルミンは静かに泣き続けた。



*     *     *



今日も空は青いが、少し風が出ている。
エレンを膝枕にして寝顔を眺めていたカルラを、外から呼ぶ声があった。
「カルラさん、イェーガー先生がお呼びです」
あら、とカルラはテントの仕切り布を上げたペトラを見遣る。
「珍しいわ。いつもはクリスタちゃんやサシャちゃんで間に合うのに」
ペトラは断りを入れテントへ足を踏み入れた。
「ミケ分隊長の調査班が、薬草と香草の群生地を見つけたんです。
採集してきたもの全部を仕分けるのに、どうしても人出が足りないと」
「そう。じゃあペトラちゃん、私と代わってくれるかしら?」
「はい、もちろん! …って、膝枕を…ですか?」
カルラの手招きに疑問を抱けば、何でもないように頷かれてしまった。
「嫌かしら?」
まさか!
「とんでもない!」
本心から首を思い切り良く横へ振れば、カルラは嬉しそうに笑う。
「良かったわ。じゃあ、よろしくね」
カルラの膝の上から、エレンの頭を自分の膝の上へ移す。
出て行く彼女を見送り、ペトラはほっと息をついた。
(膝枕は、初めてね…)
頭を撫でたり、あまりに可愛くて彼に抱き着いたりしたことはある。
だが、さすがに膝枕はしたことがなかった。
エレンのことだ、申し訳なくて出来ません! とでも言いそうだ。
「もう、子供じゃないもんね」
入団した頃は15であったエレンもそろそろ19、大人の年齢はすぐそこにある。
さらさらとした髪の感触を楽しみ、ゆっくりと頭を撫でた。
「ねえ、エレン」
この声が届くかどうかは分からないけど。
「急がなくても良いわ。でも…私たちが生きている間に、必ず起きてね」
"初め"こそ恐れを抱いたものの、今では当時の自分を殴りたいとペトラは常々感じている。
("また"じゃなくて、"もう一度"だったら良かった)
『繰り返す』のではなく『巻き戻せた』なら、どんなに良かっただろう。
失う前に戻れたなら、こんなにも失くした虚は肥大化せずに済んだ。
誰よりも敬愛する人が、あんなにも苦しむ姿を見ることもなかった。
「ね、エレン。貴方は今、どんな夢を見てる?」
穏やかな夢であれば良い。
悪夢に魘され、憔悴していた姿を知っているから。
「夢に飽きたら、私たちに会いに来てね」
それから、どうか。
「…エレンは、兵長の傍に居てね」
他でもない、エレンにしか出来ないことを。

さくさく、と草を踏む音に、ペトラはふっと意識を戻した。
(あれ、私寝てた?)
「ペトラさーん、居ますか?」
この声はクリスタか。
「ええ、ここに居るわ」
ばさりと仕切り布が上がり、思った通りクリスタが顔を覗かせた。
「お昼ご飯、食いっぱぐれちゃいますよ。私はもう食べたので、交代しますね」
巷で女神と呼ばれる少女は、やはり気の配り方が違う。
「ありがとう。じゃあお願いするわ」
「はい!」
どうやらエレンを膝枕していることに疑問は抱いていない様子で、彼女はペトラの隣へ腰を下ろす。
「あら? でもユミルに怒られない?」
クリスタを溺愛しているユミルが、寝ているとはいえ男を膝枕することを許すだろうか?
疑問を口にすれば、クリスタはくすくすと笑い声を上げた。
「大丈夫です。むしろ、エレンだったら一緒に居ろって言いますよ」
はて、なぜだろう。
首を捻ったペトラは、クリスタとエレンが一緒にいる様を想像してみる。
「……」
なるほど、了解した。
(私もそれ、すごく見たい)
彼女らが訓練兵であった頃は、よくある光景だったのかもしれない。
ペトラの中で、楽しみが1つ増えた。

尊敬する先輩兵士を見送って、クリスタはエレンを見下ろす。
「ペトラさんって、エレンのお姉さんみたいだよね」
実際、彼女はエレンを弟のように思っているのだろう。
カルラとは少し違う優しい眼差しは、時折自分たちにも注がれる。
「ねえ、エレン。私たちね、エレンよりずっと前に先遣隊で壁外に出たんだよ」
知ってるよね、とクリスタは続けた。
「いつだったかな。見たこともないくらいに速く飛ぶ鳥が、兎を狩っているのを見たの。
あんまりにも飛び方が綺麗で、つい見入っちゃった」
馬車へ詰め込んだ書物の中に、あの鳥は"鷹"と書いてあった。
「誰だったかな、トーマスかな? 鷹がリヴァイ兵長みたいだって言ってた」
疾く、美しく翔け、狙いは決して外さない。
「それから、猫をふた回りくらい大きくしたような動物を見つけたわ。
持ってきた図鑑には載ってなくて、名前付けないとねってハンジさんが言ってるの」
あの大きな猫はエレンみたいだったなあ、なんてクリスタは笑う。
「眼が大きくて、可愛い感じがエレンに似てる」
でもあの大きな猫も、狩りになれば豹変するのだろう。
巨人を駆逐してやる、とありったけの憎悪を燃やしたエレンのように。
「鷹もあの大きな猫も、ユミルがスケッチしてるんだ。
ユミルってば、エレンが起きたら真っ先に見せてやる! って張り切ってるよ」
返事はなけれど、クリスタは話す。
起きたエレンに話したいことを。
(もっともっと、いっぱいあるんだよ。エレン)
クリスタだけじゃない。
他の同期たちも、先輩たちも、みんなみんな、エレンに話したいことがいっぱいある。
教えたいことがいっぱいある。
「だから、ちゃんと起きてね。エレン」
待ってるよ。

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