ここから、
(みんなといっしょに。)
緩々と頬を撫でても、反応は返らない。
それでもアニは飽きることなく、エレンの頬を、頭を撫で続ける。
雨の気配がある、と周囲は少し慌ただしい。
北の空が暗く、どことなく湿った風が吹いていた。
長距離探索へ出掛けた者たちは、どこかで降られたりしていないだろうか。
…この周辺は大きな山や湖があるわけではないので、天候が安定している。
そう言っていたのはアルミンだ。
「エレン」
幾度も幾度も、『繰り返す』度に多くの人間を殺してきた。
彼の仲間も、己たちの同期も、顔も名も知らぬ者を。
けれどアニは、その一度たりとも後悔などしてこなかった。
後悔はいつだって、ひとつ。
「エレン」
彼を守り切れず、失うことだった。
(やっと…守れた)
ここまで来て、ようやく。
「ここには、あんたが喜ぶものがいっぱいあるよ。エレン」
アニも少しだけ見せてもらった、聴かせてもらった。
ユミルの描いた数々の植物を、動物を。
彼らが見つけた多くの風景を、情景を。
夕日が綺麗なものだなんてアニは思ったこともなかったし、朝日が歓びだなんて感じたこともなかった。
けれど皆の言葉通り、それは美しかった。
登る朝日がキラキラ輝いて眩しいなんて、自分の目がどうかしたのかと思った。
「あんたが生きているだけで、こんなに違うんだ」
朝日も夕日も月夜でさえ、すべては失う合図でしか無かった。
幾つも欲しがってなどいなかった、欲しいのはエレンの生、ただひとつだけだったのに。
眠り続けるエレンの姿を見降ろして、いつかに聞いた童話を思い出す。
呪いの眠りに落ちたお姫様を、王子様がキスで目覚めさせるのだ。
話してくれたのは、誰だったろうか。
エレンを撫でる手を止め、アニはふっと小さく吹き出した。
「私のキスじゃ、あんたは起きてはくれないね」
どうせなら、騎士が良い。
守るための剣の方が、きっと性に合っている。
「ミカサが喧嘩吹っ掛けて来そうだけど」
何だかリアルに想像できてしまって、アニはまた笑った。
「アニー! ちょっとこっち手伝って貰っても良いかな?」
ハンジの呼び声に顔を上げる。
バサリと上がったテントの仕切り布から、ハンジが顔を出した。
「人出がいるんですか?」
問えば、興奮気味に彼女は語る。
「長距離探索班が戻って来たんだよ! 持ち帰ってきたものも多いんだけど、そんなことより!
世紀の大発見してきたから、早く直接話を聞いといで!」
私はもう聞いたから、と言われては、断る理由が無い。
分かりましたと頷いたアニに、ハンジはおや? と小首を傾げた。
「もしかして、膝枕って必須事項?」
エレンの頭(こうべ)を枕代わりの外套へ戻すアニへ尋ねると、彼女はさあ、と曖昧に返す。
「…必須ではないと思いますが」
暗にやりたいからやったのだと言われた気がして、可愛いなあとハンジは笑った。
アニが出ていき、ハンジはエレンのすぐ傍へ座り込む。
せっかくなのでエレンの頭を抱き上げ、膝枕にしてみた。
「誰かに膝枕した記憶、ないんだよねえ」
てことは、エレンが初めてだね。
それが可笑しくて、ハンジはひとり笑んだ。
呼吸の乱れもなく眠るエレンは、長く眠っているために筋肉が落ちている。
元から筋肉の付き難い体質であるようで、起きたらまた嘆きそうだなあなんて思った。
(けど巨人体のエレンは、良い筋肉してるよ〜)
言ったところで、慰めには程遠いか。
「…私はね、エレン。君に出会えて本当に良かったと思ってる」
そっと額を撫でて、未だあどけない寝顔に微笑む。
「人類の希望、なんて大仰なものじゃない。でも私たちにとって、君は間違いなく希望なんだ」
巨人を殲滅した後の未来。
そんなもの、エレンに出会わなければ考える隙さえなかったろう。
幾つになっても、何度出会っても、エレンは未来を見ていた。
…お前の望みは何だ? とリヴァイに問われ、彼は巨人を駆逐したいと言ったけれど。
憎悪を消化した先には、壁の外の世界を見たいと瞳を輝かせる少年だ。
「私たちの未来は、エレンなんだよ」
これまた重いかな? なんて苦笑する。
「ゆっくりで良い。私たちは、ちゃんと待ってるから」
でも起きたら、リヴァイに一発くらい蹴られるかもね?
真実味が高そうな想像をしてしまって、ハンジはまた笑い声を零した。
夜半も過ぎようとする頃、大粒の雨が降り始めた。
盛大な雨音に、目を覚ましてしまった者も居るかもしれない。
自身の夜目だけが頼りになる夜間、人間という生き物は弱者に入るのだろう。
リヴァイはエレンの隣で横になりながら、飽きることなく彼の寝顔を見つめていた。
時折片手を伸ばし、彼の頬を撫で血脈をなぞり、生きていることを確かめる。
「……」
ベルトルトが想定した7日は、もう過ぎた。
あらかた予想していたとはいえ、いざ日程が過ぎると途端に不安が鎌首をもたげる。
エレンが眠りに落ちる直前、寝過ぎているなら起こしてやるとは言ったが。
(んなこと、恐ろしくて出来るわけがねえ)
外部からの干渉により砕けた水晶。
本来あるべきでない状態で目覚めたために、再び眠りに落ちてしまったエレン。
…無理に起こして、その後に何かあったら。
もしそうなってしまったら、後悔なんて言葉が安いくらいだ。
弱くなった、と思う。
少なくとも"最初"は、こんなに酷くはなかったはずだ。
「…エレン」
『繰り返す』毎に守れなかった後悔は降り積もり、リヴァイの精神を切り刻んでいく。
エレンの幾つもの死に様を見続け、心の均衡などとうに忘れた。
いつしか、守ろうと力を振るう理由も愛を注ぐ相手も、エレン唯一人になっていた。
それでも彼を守れぬ世界など、糞食らえだ。
「少なくとも、生きている間は待っていてやろう。エレンよ」
だからいつか、必ず起きろ。
応えぬ唇へ口づけをひとつ落とし、リヴァイは静かに告げた。
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