バステトの瞳

(激情を抑え込む、その瞳は)




遥か向こう、ウォール・マリアの一角から煙が上がっている。
続いて信号弾が2発、空へ尾を引く。
ウォール・シーナの壁上にて、そんな光景を見つめていた。
「…やっと来た」
笑い出しそうな程に気分が高揚し、眼差しの奥に燻っていた焔が熱を取り戻す。

一角獣を共に凛と立つ姿を、人々は『正しき人』と呼んだ。
容赦なく振るわれる剣に、貴族たちは『牙持つ者』と恐れた。

巨人への憎悪と、巨人を知らぬ者を嘲る色は等しい温度を保つ。
今、人々を射抜き惹き付ける黄金(きん)は、またとない機会を捉えて輝きを増していた。
己の翼たる相棒をそろりと撫でてから、彼は背後に揃う部下たちを視線のみで振り返る。
「状況は?」
「はっ。トロスト区に超大型巨人が出現、壁の一部が破られました。
ローゼ各駐屯兵団、および先日卒団した訓練兵に、迎撃命令が発令されています」
「…貴重な新兵をいきなり実戦投入か。何割が喰われると思ってんだよ」
相変わらず使えない上層部だ。
呟くように吐き捨てて、見遣る先は信号弾の元。
「1班3班は俺の下に、2班5班はジャーファルの下に、4班は分隊へ伝令に走れ。
目的はシーナに近づく巨人の殲滅。それから…」
怖気づいて持ち場を離れようとする腰抜けを、蹴り戻すこと。
爛と光る眼は、憲兵団を率いる男とは到底思えぬ獰猛さに満ちていた。

…ああ、悪い顔してるなぁ。
ジャーファルと呼ばれた青年は、己の上司にそんな感想を抱く。
もちろん、それは今に始まったことではない。
元々『調査兵団に入りたかった』と公言している人だ、性格的にも先陣を切り戦闘に赴く方が理に適う。
(いろいろありましたからね…いろいろと…)
思い出しかけた事柄を瞬きで封じ込め、ジャーファルは前方のみを見据える彼の人へ声を投げた。
「シーナの守護はお任せを」
敬礼は気配で分かったであろう。
笑みを含んだ声が返った。
「当然だろ」
一瞬後には、彼と指示を受けた団員は街の上空へと飛び去った。
こちらとしても、まずは職務の全うが急務だ。
「第4班、ローゼ第11班から20班へ指示を伝達。完了した者から私へ報告を。
第5班、第6班から第9班の警戒レベルを4へ上げることを伝達。第10班には壁上へ来るよう伝達を。
ああ、4班の何名かは団長たちの補給へ行きなさい。自分の予備を忘れずに」
「はっ!」
己の属する第2班以外の者が、それぞれの職責を果たすため壁上から姿を消す。
「怪我でもして帰ってきたら、笑ってやりましょうかねえ…」
釣り上がる口元を左手の甲で覆い隠し、ジャーファルは右手に引き抜いた刃を正面に掲げた。
彼に倣うように、班員たちも刃を掲げる。
「偶には貴方の思うようにしてください。『エレン団長』」
貴方の牙は、貴方だけのモノです。



*     *     *



ウォール・ローゼ、トロスト区に隣接する壁上へ次々と降り立った影に、居合わせた者たちは度肝を抜かれた。
中でもただ一人、黒のジャケットを纏う人物には。
「け、憲兵団のエレン団長っ?!」
周りの驚きなど歯牙にも掛けず、エレンは眉を顰めた。
「…おい、どういうことだよ? これは」
ここへ辿り着く2分ほど前、3度目の信号弾が上がった。
その意味は"全軍の一時撤退"だ。
だというのに、撤退した場合の最前線であるこの位置にいる兵士が、あまりにも少ない。
「団長」
憲兵の1人、赤い髪の少女がエレンのすぐ隣へ立つ。
「ざっと見る限りでは…前衛と中衛に相当する数が抜けています」
報告を受けたエレンは、舌打ちの代わりに別の言葉を発した。
「トロスト区の補給部隊は居るか?」
居合わせる駐屯兵が仲間内で連絡を始め、何人かが壁を伝い登ってくる。
今度こそエレンは舌打ちした。
それなりに経験はあるのだろう中年の兵士と、若い兵士が数名。
彼らが敬礼で名乗る前に、口を開く。

「なぜお前らはここに居る?」

問う当人の目は、ウォール・ローゼの街並みへ注がれたままだ。
「トロスト区の補給部隊がここに居て、撤退命令が出ているのに前衛と中衛の者は戻って来ない。
それはなぜか?」
明白なことだ、彼らは"戻れない"。
トロスト区からローゼ内へ続く門はすでに閉じており、撤退するには壁を登るしかない。
しかし巨人の足止めを命じられていたなら、相当に飛び回ったはずだ。
立体機動装置のガスは切れているだろう。
(胸クソ悪い)
人間と巨人の違いなんて、大差ないんじゃないか。
そう思うのは、こんな時だ。

「お前たちは、自分よりも未来(さき)のある子どもを見捨ててきたわけだ」

人間のクズが。
白色の火を宿す金がようやく問うた先の人間を捉えたと思えば、1人が認識の刹那にガクリと膝を折った。
「ヒッ?!」
己の上司が目の前で絶命する様を見、その後ろに控えていた兵士が悲鳴を上げる。
膝から崩れ落ちた隊長格であったろう兵士は、心の臓に銀の短剣を刺し込まれていた。
「"公"ってのは、王と民だけじゃない。兵士だって立派な"公"だ」
時が凍ったかのように、駐屯兵たちは誰一人として動けない。
そこへまた、下から壁を登ってきた者があった。
「エレン団長!」
憲兵団第4班の兵士だ。
彼は壁上の状況に目を見開いたが、それで行動を止めるほど愚かでもなかった。
「全班への伝令、完了しました。とりあえず、ガスは全員交換してください。
補給塔に巨人が群がっているという情報があります」
彼が背に負っていたのはガスの予備であり、ウォール・シーナを拠点とする憲兵団の移動距離が長いことを示す。
「そうか。お前、ジャーファルの処には戻らずここで待機しろ。防衛が必要なら参加」
「承知しました。…理由を伺っても?」
エレンは先刻刺殺した人間を一瞥し、淡々とガスを交換した。
「アレを俺がやったことを証明する要員。俺が何言ったかはその辺に聞け」

周囲が唖然としている間にも、刻々と時は進む。
滅多に抜かない対巨人用の刃を両手に、エレンは久々の感触を確かめた。
「俺たち憲兵団の目的は、ウォール・シーナへ向かってくる巨人の殲滅だ。
だが、その途中で救えるものがあるなら救っていけ」
たった今人を殺害した人間が言う台詞なのかと、駐屯兵の幾人かが瞠目した。
…然れども、これが現憲兵団の頂点なのだ。
民衆が挙って支持する、この男が。
「第1班、第3班、二人一組で立体機動に移れ。モルジアナ、お前は俺のサポートだ」
「はい」
エレンの指示に従い、モルジアナと呼ばれた赤い髪の少女が刃を抜いた。
続いて他の憲兵たちもブレードを引き抜く。
「行くぞ!」
一角獣のシンボルをはためかせ、彼らは一斉に翔び立った。



*     *     *



一角獣を共に凛と立つ姿を、人々は『正しき人』と呼んだ。
容赦なく振るわれる剣に、貴族たちは『牙持つ者』と恐れた。



彼をよく知る者たちは、彼を『獣屠る獣』と称した。
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2013.6.2(バステトの瞳)

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