キャスリング
(それは大切な宝物)
"それ"は、大切に大切に隠されていた。
腐敗し堕落して久しい王国の、何も持たぬ者が最後に辿り着く場所で。
幼子は差し出されたものに、きょとんと目を瞬いた。
「これなぁに? りばいさん」
「眼鏡だ」
「オレ、目わるくないよ?」
知っている、と少年は返した。
「これはお前の眼を隠すものだ」
「?」
意味の分かっていない幼子に、手にした眼鏡を掛けてやる。
「くらくらしないね」
「度は入ってねぇからな」
幼子の美しい金色の眼がレンズを通して翠色へ変じ、少年は満足げに笑む。
「お前の眼は綺麗だ。だから、それが悪目立ちしねぇようにな」
「ふぅん?」
まだ分かっていないが、この眼鏡が重要なものであるという認識は為されたようだ。
「良いかエレン、この眼鏡は外すな。割れたりフレームがキツくなったりしたら、時計屋の親父に頼めば作り直してくれる」
「川のとこのじーちゃん?」
「そうだ」
失くしちまった場合も頼みに行け。
こくりと頷き、幼子は少年の手をきゅっと握った。
「りばいさん……かえってくる?」
不安げに紡いだ柔らかな唇を、少年は己のそれで優しく塞いだ。
「そうじゃねぇよ、エレン」
お前を迎えに来るんだ。
リヴァイには監視が張り付いている。
どうしても会わないといけないヤツが居ると言って戻って来たのだから、弱味にされることは明白だ。
だから小さなエレンの姿は、リヴァイが自分の身体で隠して見せないように。
(後は、この家を捨てさせるだけ)
大切な物は、どんなときでも身に付けろと言っている。
今までだって、何度もアジトを替えてきた。
「大丈夫だ」
イザベルが待ってる。
幼子にしか聞き取れない声量で囁けば、翠の目が見開かれる。
「ファーランは俺と行かなきゃなんねぇが、イザベルはお前と一緒だ」
寂しくない、大丈夫。
「エレン。本の虫干しをよろしくな」
「!」
ハッと少年を見返した幼子は一瞬だけ泣きそうな顔をして、けれど自らの唇を少年のそれへと押し付けた。
パタン、と扉が閉まる。
「リヴァイ…」
ファーランの声に、リヴァイはようやく我が家の扉から視線を引き剥がした。
こちらへ戻った眼差しはあまりに苛烈で、長い付き合いのファーランですら息を呑む。
「俺たちを『犬』にするんだ。後悔させてやらねぇとなあ」
リヴァイがどれだけエレンを慈しんできたか、ファーランは知っている。
(エレンにリヴァイの手が届かないこと自体が、由々しき事態だ…)
理不尽を厭うのはファーランも同じだが、リヴァイのそれは次元が違った。
地下街という閉鎖空間でも、満足に食べ物がなくても、清潔さ…はそれなりに必要だが、リヴァイは不満を覚えない。
彼が怒りと喜びを発露させるのは、すべてエレンのことだけだ。
そのエレンが、リヴァイの望まぬ形でリヴァイの庇護を外れてしまった。
(何年掛かる?)
3年でいけるか?
(いや、5年は必要になる)
その間、地下街には近づくことすら出来ないだろう。
ファーランは頭を抱えたくて堪らない。
(5年後こえぇ!!)
「おい、ファーラン。何してる」
さっさと行くぞ、と顎をしゃくったリヴァイはもう、憂さ晴らしの算段を脳内予約しているのだろう。
もちろん、それに便乗させてもらうのはファーランの中でも決定事項だ。
『本の虫干しをよろしくな』
最後に掛けられた言葉を思い返し、エレンはぐすっと嗚咽を漏らした。
それでも駆ける足は止めない。
小さな身体は速さを出すことは出来ないけれど、身を隠しながら移動することは得意だ。
…日の射さない地下街で、本の虫干しなんて出来っこない。
それはエレンたちの間において、『アジトを棄てる』という符号だった。
「うっ…ひっく、」
悲しい。
寂しい。
(もう、りばいさんに会えない)
悲しい…。
悲しい!
「エレン! こっちだ!」
ハッと首を巡らせれば、フードで顔を隠した少女が居る。
他の人が分からなくても、エレンにはそれが誰か判る。
そちらへ駆けて、その身体へ体当たりするように抱き着いた。
危なげなく小さな身体を抱き留めて、少女…イザベルもエレンを強く抱き締める。
彼らの姿は路地に隠れて、他には見えない。
「いざべる…いざべる、りばいさんが…!」
「あぁ、分かってる…!」
イザベルもまた、泣き出しそうな声だった。
一度エレンの身体を離し、その肩を掴んで彼女はぐっと眉根に力を入れる。
「兄貴とファーランは居ないけど、オレがエレンを守るからな!」
ぽろぽろと涙を溢す瞳は、眼鏡のせいで翠色に変わってしまっているけれど。
しばらく2人でぼろぼろと泣いて、もう当分泣けないと思うくらいに泣いて。
目を擦ろうとしたエレンをやんわりと遮り、イザベルは自身の袖口で涙の跡を拭ってやった。
「へへっ、目が真っ赤だな!」
「い、いざべるだって」
むっとぶすくれたエレンの頭を撫で、立ち上がる。
「…よし、新しいアジト探しに行くぞ!」
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2015.11.22
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