鶴凍つる杜
(1.それは、真っ白な神様)
虫の声が押し寄せる田の畦道。
昨日の夕立でぬかるんだ土を避け、跳ねるように坂道を登る。
「はあ、はあ」
馬車がかろうじて通れそうな道幅は変わらず、けれど山道に入れば舗装された地面が下になる。
大人には大した傾斜でなくとも、小さな身体には軽い山登りだ。
時折石畳に残る土や落ち葉に足を滑らせながら、息切らせ登った。
道に不意に灯籠が現れたら、もう少しだ。
「はあ、はあ、着いた…!」
拓けた視界にあるのは、時が止まったような人気のない神社。
手水舎(ちょうずや)の竜口から流れる水の音だけが、時が動いていることを告げていた。
自分よりも背が高い手水舎の柄杓に手を伸ばし、竜口の水を集める。
パシャパシャと片手ずつ洗えば、冷たさにすっと暑さが引いた。
手首に縛っていたタオルでおざなりに水気を拭き取り、そう広くもない境内を走って本殿の前へ立つ。
「白い神様! おつる様! 来たよ!」
子ども特有の高い声は、開け放された本殿の中まで響き渡る。
あっ、と思い出した子どもはポケットを探り、銅貨を取り出した。
銅貨はカララン、と木で出来た賽銭箱に吸い込まれる。
ガランガランと少し鈍い音の鈴を鳴らし、2度頭を下げて柏手を2度打つ。
「はやく遊ぼう!」
もはや、それは祈りではない。
最後にもう一度お辞儀をすれば、こら、と呆れを交えた声が降ってきた。
「毎度参拝を欠かさないのは良いことだが、それではどの神様も訊いてはくれんぞ?」
子どもはパッと顔を上げると、本殿の階段上からこちらを見下ろす青年に満面の笑みを向ける。
「おつる様出てきた! もう願いかなったから、他はいらない!」
「…まったく、良い根性だ」
本殿から下りた青年は苦笑した。
真っ白な和装に雪原のような髪、満月の黄金色(こがねいろ)を嵌め込んだ眼をした、それは神様。
「それで? 今日はどんな驚きを持ってきてくれたんだ?」
出会ったのは1か月前。
他の友人たちとこの山で遊んでいて、酷い通り雨に遭ったときのことだ。
あまりの雨脚にとてもじゃないがその場から動けず、身を寄せ合って不安を重ねていた。
『おっと、騒がしいと思ったら。君たちも災難だなあ』
ひょいと樹木の向こうから覗いたのは、赤い唐傘と真っ白な和装。
それから、大雨の薄闇に溶けずによく見えた、黄金色の眼に白皙の美貌。
これは"人"ではない、と誰もが思った。
『雨が止むまでなら構わんだろう。こっちだ』
取って喰いやせんよ、とからから笑ったその白い"人"を、皆で顔を見合わせてから追い掛けた。
樹々の生い茂る外に出る境界線でふと雨が止み、顔を上げる。
と、白い"人"がこちらへ赤い唐傘を差し出していた。
『この傘ならお前さんたち、みんな入れるだろう?』
その"人"が濡れる、と言おうと思ったときにはその"人"はすでに雨の中を歩き出していて、自分たちは追い掛けるしかなく。
水で烟る視界の先を歩く白を必死に追えば、唐突に朱塗りが目の前に現れた。
鳥居だ。
「え、」
この山に、神社などあっただろうか。
疑問を覚えながらも雨と疲れには勝てず、白の後を付いていく。
ふっと雨ではない暗がりに入り、雨で揺れる重みが消えた。
傘を後ろに下げれば、そこは神社の本殿の庇(ひさし)の下。
ぽたぽたと傘から零れ落ちる雫が、本殿へ上がる階段を濡らしていく。
そもそも自分たちが濡れ鼠なのだから、ここに居ては本殿を汚してしまう。
慌てて白い"人"を捜せば、彼は賽銭箱の向こうで本殿に上がろうとしていた。
『難儀している童子(わらし)を放っておくほど、落ちぶれてはいないさ』
なんら戸惑いなく本殿へ上がりご神体…何かは判らないが…の前へ座した青年が、『神』であると。
どうして察せられずにいられようか。
夕刻には止むだろう、と言った白い"神様"の言葉に甘え、本殿の廊下に恐る恐る腰を下ろす。
御神体を依り代とする"神様"が目の前に居ながら本殿に上がるなど、いかな無知な子どもでも"悪いこと"だと考えられた。
白い"神様"は仕方なさそうにまた苦笑する。
『律儀だなあ。まあ、美徳ではあるか』
雨が止むまで、白い"神様"と話をした。
それが最初。
「見て、おつる様! 上手になったでしょ!」
子どもは背に負っていた風呂敷の中から取り出したものを、白い青年へ見せるように突き出した。
真っ赤な色をした折り鶴だ。
それを白い指先で摘まみ上げた白い青年は、ほほぅと声を漏らした。
「確かに巧くなったなぁ。こりゃ驚きだ」
初めは飛ぶ羽もよく分からんものになっていたからな、と笑う。
「へへっ」
折り鶴が上手になったと褒められて、嬉しくない訳がない。
だってこの折り鶴は、この白い青年に教えてもらった。
出来たそれに白い青年がふぅっと息を吹き掛けると、ふわふわと羽ばたいたこともよく覚えている。
「あのね、ばば様に他の折り紙教えてもらったんだ! 舟とやっこさん!」
「そりゃ楽しみだな」
「それで、折り紙作ったら水遊びしたい!」
白い青年はクスクスと肩を震わせた。
「また魚を追いかけて滑るなよ」
この神社の裏には、透き通った水面の池がある。
どこかの川と繋がっていて、水の流れる音がして、この暑い夏でもとても冷たくて気持ちいい。
持ってきた折り紙の束を見せると、物珍しげに黄金色の眼が瞬かれる。
「これまた色とりどりだなあ」
靴を脱いで本殿の階段を登り、今までどおり廊下に腰を下ろした。
折り紙を色がよく見えるように並べれば、自分よりも大きいが細い指先が白い折り紙を選び出す。
「おつる様、前も白だったね」
「そりゃあそうだ。だって白は、鶴の色だろう?」
白い青年は、自らを『鶴』と名乗った。
だから子どもも、白い青年を『おつる様』と呼んだ。
「じゃあ、これとこれもおつる様の色だね」
赤い折り紙と黒い折り紙をそちらへ押し出すと、白い青年は感心したように子どもを見る。
「よく知っているな。本物を見たことがあるのか?」
「ううん、絵を見せてもらった。えっと、たんちょうづる!」
どんなに他愛無い話でも、白い青年は楽しそうに聴いてくれる。
この神社から出たことがないと前に言っていて、だからいろんなことを尋ねてくる。
その度説明しなくてはならなくて、説明するのが難しいことに気づいて驚いた。
ぱたぱた、と白い折り鶴が飛ぶ。
1羽、2羽、3羽。
「そういえば、前の折り鶴は役に立ったか?」
そうだ、そのお礼を言っていなかった。
「うん! じじ様もかか様も元気になった!」
またごそごそと鞄を漁り、取り出したものが甘い芳香を齎す。
差し出されたそれを受け取り、白い青年は僅かながら毛羽立った表面をするりと撫でた。
「こりゃまた…立派な桃だ」
「ばば様の妹…うーん、親戚? が、桃作ってて。じじ様とかか様が治ったお礼にって、ばば様が」
前にこの神社へ遊びに来たとき、子どもの祖父と母が揃って体調を崩していた。
夏風邪にしては症状が少し変だった、ような気がする。
その話を聞いた白い青年は、その手で折った白い鶴を4つくれた。
『水のある場所に置くといい』
そう言われたので祖母に相談して、台所とトイレ、風呂場と洗面所に1つずつ置いた。
…『神様に貰った』なんて言っても信じて貰えないかと思ったが、祖母は真面目に話を聞いてくれたのだ。
白い折り鶴を置いて2日目、4つの折り鶴の翼の端が黒ずんでいた。
3日目、翼が一面、火を付けたように黒く燃え落ちていた。
4日目、台所に立っていた母と洗面所で歯を磨いていた祖父の目の前で、折り鶴の残っていた部分が真っ黒に燃えて消えた。
それ以降、母と祖父は床を上げた。
なら良かった、と白い青年は微笑む。
「年寄りの老婆心だったが、良くなったのなら重畳」
ぱたぱた、と赤と黒の折り鶴も1羽ずつ飛んだ。
「さて、桃は早く冷やさないとなあ」
井戸の方が良さそうだ、という呟きに食いついた。
「井戸?!」
「お、おう。どうした? 勢い込んで」
「だってつるべの井戸って見たことない!」
「ははっ、組み上げ式は便利だからな。なら見てみるか?」
「うん!」
古井戸は本殿の裏、池のさらに奥にあった。
大きな杉の影に隠れるようにして存在するそれは、日陰であることも相俟ってひやりと涼しい気がする。
「さて、釣瓶の井戸を初めて見た君には、井戸の怖さを知ってもらわにゃならんな」
「え?」
白い青年は井戸端に置いてあった桶…これが釣瓶と言うらしい…を左手に、それに繋がる滑車を渡った綱を右手に掴んだ。
「井戸には水がある。ということは、この釣瓶を落とせば水音がする。そうだな?」
「うん」
「では釣瓶がいつ水音を上げるか、とくと御覧じろ!」
すとん、と釣瓶が真っ暗な穴へ落とされる。
「……」
水音はしない。
幾重にも蜷局を巻いていた綱の余りが、びゅんびゅんと音を立てて伸びていく。
ーーーーーパッ シャーン…
何秒経ったのか。
ようやく水音が反響し、ひやりと背筋が冷えた。
「判っただろう? この井戸に君が落ちてしまったら、如何な俺でも助けられん」
だから気をつけろよ、という言葉に、こくこくと震えて頷くしかなかった。
桃は適当に探し当てた桶に入れられ、ぷかぷか浮いている。
午後三時を過ぎて…白い青年は八ツ刻(やつどき)と言っていたか…、社務所から小刀を出してきた白い青年が桃をひとつ剥いた。
程よく柔らかくよく冷えた桃は、口に放り込めば芳醇で身の内に染みる。
「これは驚くほど美味だな!」
白い青年が器用に剥き終わった桃の芯には、大きな種。
「ふむ。これまた立派だ」
桶に残った水で種を洗った白い青年は何かに使うのか、種を捨てようとはしなかった。
特にそれを気にせず、同じ桶に手を浸して桃の果汁を洗い落とす。
「おつる様、今日はそうじする?」
「そうさなあ…手伝ってくれるというなら、社務所の中をやろうか」
白い青年は塒へ帰る一番鴉が鳴くと、すぐに家(うち)へ帰るように言う。
初めて言われたときにはまだ明るいのにと渋って、白い青年は悪戯っぽく笑った。
「本当に、道が判るのか?」
そのときは確かに、大雨の後に帰った覚えしかなかったので云うことを訊いた。
けれど毎日のように通っていれば、もう余所見したって迷わない。
それでも白い青年は、吽(うん)とは言わなかった。
あるときそれで意地になってしまって、梃子でも動かない! と本殿の階段に座り込んだ。
白い青年は子どもが動こうとしないことを悟ると、仕方ないなと小さく溜め息をつく。
「子どもってのは、大人の心配を無下にするのが仕事だからなぁ」
本殿へ上がった白い青年はさらに奥、神殿にある厨子…中身は空のように見える…の前にある刀掛けから、一振りの刀を手にした。
どこか青味がかって見える銀と金で彩られた白の鞘に、金の飾り房と鎖。
慣れた仕草で刀を帯刀した白い青年は、一点を見据え地を踏んだ。
「古来より、魔が横行するのは朝と昼を除いた刻限。特に質(タチ)の悪いものが現れるのは、」
白い青年は一瞬の踏み込みで境内の端、そこに在った『何か』を切り伏せた。
何か…黒く、赤黒く、骨だけの百足のような、『何か』を。
それを発端に先の地面にじわじわと黒い水溜りが現れ、キチキチと気味の悪い音が響く。
黒い影から突如として抜け出してきたそれは、骨を繋げた化け物。
子どもを見返った白い青年は、酷薄な笑みを浮かべていた。
「丑の刻と黄昏刻だ」
一斉に白い青年へ襲い掛かる骨の化け物を、白い青年は時折笑い声を上げながら倒していく。
「ははっ、遅い遅い!」
袈裟懸けに、水平に、時には突き。
どしゃりと崩れ落ちた骨の化け物たちは地面に染みこむように姿を溶けさせ、消えていった。
子どもは声もなく、ただ震えるしかない。
「俺の力が及ぶのは、せいぜいこの神社の鳥居までの敷地だ」
それも完全じゃない、と切なげな表情が刹那だけ過った。
ここまで来れば、帰りたくないと駄々を捏ねた自分が間違いであると解る。
早く、言うとおりに帰れば良かった。
「ごめ、なさい…!」
泣きそうだ。
それでも何とか謝罪を口にすれば、白い青年は困ったように笑んだ。
「まあ、この程度であれば構わんさ。それより、君をちゃんと麓まで送らんとなあ」
いつの間にか子どもの足元に落ちていた白い折り鶴を拾い、白い青年はそれを広げる。
「何か書くものはあるかい?」
鉛筆が風呂敷に入っている。
それを手渡すと、白い青年は折り目のついた折り紙に何かを書き始めた。
「君の祖母様(ばばさま)の名前は? 下の名前だけで良い」
「えっと、○○○…」
○○○様
只今より其方の令孫を麓へ送り届ける故、
山の麓へ迎えに来られたし候
xxxx神社 鶴
この文面ならば、さすがに判ってもらえるだろう。
元のとおり鶴に折って、白い青年は字面のある折り鶴へ息を吹きかける。
すると白い折り鶴がぱたぱたと飛び上がり、今までとは違って神社の屋根を越えて飛んでいった。
「俺が折った鶴は持っているかい?」
「う、うん」
「幾つある?」
呆気に取られて折り鶴を見送っていた子どもは、風呂敷の中に仕舞っていた折り鶴を数える。
「おつる様の折り鶴、全部で9つ」
「…日が沈むまであと半刻ってとこだなぁ。間に合いそうだ」
行くぞと言われ、子どもは慌てて立ち上がり白い青年を追い掛けた。
「俺が何とか出来るのは鳥居の内側までだ。そこから先は、君に自分で逃げ切ってもらわにゃならん」
行く先の地面に、またあの黒い影が生まれ始める。
「合図を出したら、全力で走れ。麓に着くまで、何が聞こえても振り返るな。足を止めるな」
判ったな? と夕暮れを差し込んだ黄金色が、ギラリと温度のない光を反射した。
その、ゾッとするような美しさが。
("人"じゃ、ない)
人とは違う『何か』であることを、強く思わせた。
キイキイ、と赤い光を宿す骨が地面からこちらを覗く。
「ーー走れっ!」
白い青年の声に弾かれるように、鳥居へ向かって走りだした。
自分の上に骨の影が出来る。
「前だけ見ろ! 止まるな!!」
ザンッ! と何かを斬る音が頭上で鳴って、布のはためく音がする。
鳥居を潜ったすぐ先に、伸びる骨。
「…っ!!」
それでも立ち止まろうとは思わなかった。
視界の上、端に映った雪のように白い光が骨を薙ぎ払う。
「走れ!」
駆け抜けた。
走って走って、転びそうになってもまだ走って。
地面にぽつぽつと広がる黒い影は見ないフリをして、ただただ山道を下る。
道路の灯った街灯が見えてきて、そういえばこの山道には1つの街灯すらないのだと気づいた。
カチカチ、と骨のぶつかる音が後ろから聴こえる。
街灯の下に別の明かりを持つ人影を見つけ、大きな声で叫んだ。
「ばば様っ!!」
明かりがこちらへ向き、それが提灯であると知る。
ギギッ、と背後の骨が怯んだような気がした。
自分の名前を呼ぶ祖母の元へ、全速力で駆ける。
山道が平坦な道に切り替わるそこを、大股で飛び越えた。
「ばばさま…っ!」
待っていた人影へ飛び込めば、足がガクガクと震えてまともに動けない。
祖母は子どもをゆっくりと抱き締め、良かったねえ、とただ繰り返した。
「お前を守ってくれた神様に、感謝しなくちゃあいけないよ」
皺だらけの祖母の右手には、小田原と描かれた提灯。
左手にはあの、白い青年が内側に文字を書いた白い折り鶴。
「明日は駄目だねえ、朔の日だ。明後日に、また桃を持っておいき」
「っ、うん…!」
風呂敷の中の折り鶴は、1羽を残してすべて燃え尽きていた。
ドチャリ、と最後の骨が崩れて地面へ消えた。
油断なく周囲を睥睨し、白い青年はようやく肩の力を抜く。
血振りをくれた白銀の太刀を鞘へ納めると、戦いの高揚で忘れていた痛みがぶり返した。
左の肩は衣服が裂け、その下の皮膚には真新しい刀傷が鮮血を流している。
(くそっ…太刀の切っ先だけで、これか)
逃した子どもの前に現れた『敵』を始末するため、鳥居の"向こう側"へ刀を振るった。
青年自身の身体は、1mm足りとも鳥居の先には出ていない。
だというのに、鳥居を越えた罰とでも云うのか、青年の身体は『敵ではない何か』に切り裂かれた。
周囲が完全に静まっていることを判じ、本殿の脇を通って裏手の池へ向かう。
社務所から手拭いを取り、神社の外へ流れていくせせらぎに近いところへ陣取ると和装を解いた。
手拭いを水に浸し傷口を拭えば、じりじりと痛む。
それに唇を噛み締めながら、血を落とし続けた。
(俺の"本体"は太刀だ。だが太刀にはなんら影響なく、太刀を振るう"器"に影響が出るとは…)
だいぶ血の薄まった手拭いを、知らずぐっと握る。
(太刀が折れれば、俺は消える。だが肉の器がなけりゃあ、太刀を実際には振るえん)
余計なことを口走りそうになった口を、手の甲で塞いだ。
けれど言の葉は喉を滑り、溢れる。
「早く来いよ、馬鹿狐……」
『鶴丸がどこに居たとしても、稲荷の分祀を飛んで捜し当てますから』
そう、言ったくせに。
白い青年の名は、鶴丸国永(つるまる・くになが)。
手にする真白き太刀の付喪神であり、この神社の祭神に祀られた御神刀であった。
だが此処に、もはや祭神は存在していない。
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2015.10.25
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