鶴凍つる杜

(2.三条の縁)




ドン、と畳に拳が叩きつけられた。
「なぜだ。なぜ見つからんのじゃ…!」
ギリと噛み締められた歯の間から、鋭い犬歯が覗く。
男は無造作に立ち上がると、長い白練色(しろねりいろ)の髪を翻し部屋を出て行った。

普段足音を立てない男が苛立ちを乗せ足音を隠さぬ様子は、それだけ余裕がないと見て取れる。
「石切丸!」
目当ての部屋へ着くと、返事も待たずに襖をスパンと開けた。
石切丸(いしきりまる)と呼ばれた男は祈祷のための神棚を前に座し、榊を手に呼んだ男を振り仰いだ。
「ああ、小狐丸。そちらも芳しくないかい」
白練の髪の間から生えた獣の耳が、ピクリと動く。
「お前も見えぬか」
「祈祷が主だっていたせいか、呪(まじな)いが上手くいかなくてね。どうしても途切れてしまう」
小狐丸(こぎつねまる)と呼ばれた獣耳の男が、つと透渡殿(すきわたどの)の向こうを見遣る。
果たして、藍色の和装に身を包んだ男がやって来た。
「揃っておるな。首尾は……悪いか」
皆まで聞かず己で結論を出し、男は美しい顔(かんばせ)に険を宿す。
小狐丸は先ほど通ってきた透渡殿へ足を戻し、藍色の男を振り返った。
「三日月。暫く私の代わりを頼めますか」
三日月と呼ばれた男はゆるりと眼(まなこ)を瞬くと、察したか思案するように狩衣の袖で口元を隠した。
「…ふむ、昇るか」
「そうじゃ。宇迦之御魂神(うかのみたまのおおかみ)にはお会い出来ずとも、御先稲荷(おさきいなり)の知恵をお借りすることは出来るでしょう」
告げるなり踵を返した小狐丸は、先来た方へ去っていった。
三日月はその背に怒りを見、また拳がずっと握り締められていることに気づく。
「…痛ましいな」
「……君が言う台詞でもあるまいに」
眉を下げた石切丸が三日月を見る眼差しは、小狐丸を見つめるものと変わりない。
「私やあの子のような方法を取れず、君が一番歯痒い思いをしているだろうに」
袖の隙間で自嘲気味に口の端が上がったことに、気づかないとでも思ったか。
そう言外に含ませてやれば、三日月は肩の力を吐く息とともに抜いた。
「そうさなぁ…。待つだけの身は、歯痒いな」
けれど今は役目を与えられた故、まだマシだと。

同じく踵を返し戻っていった彼を見送り、石切丸はまた祈祷へ意識を戻す。
「私はせめて、無事を祈ろう」
鶴丸国永。
大事な大事な、三条(わたしたち)の弟分。


*     *     *


その日訪れた子どもは、大雨の日に雨宿りさせてやった他の子どもも連れてきた。
白い折り鶴をそれぞれに折って飛ばしてやれば、こちらが驚かされるくらいに驚いてくれる。
「ははっ、たまには賑やかなのも良いねえ」
折り紙の次はやれ紙ヒコーキだ、鬼ごっこだ、と子どもたちは勝手に遊びだす。
それを眺めていれば、鬱屈していた鶴丸の心も少しは晴れた。

鶴丸がこの神社に奉納されたのは、もう30年は前の話。
神の身の30年は短いが、人の身の30年は長い。
その頃はまだこの神社にも祭神がおり、確か蛇身を持った存在であったように思う。
思う、というのは、その頃の鶴丸は精神的に参っていて、ずっと本体である太刀の中で眠っていたからだ。
ただ祭神が、いたく鶴丸を気に入っていたらしいことは覚えている。
【 xxxxxxxxx 】
何かを言われた記憶がある、けれど何も覚えていない。
眠っていたのだからそれは道理で、けれど今、こうなっているのはそれが関係あるのだろう。

いつの間にか消えた祭神。
明らかに制限された活動範囲。

祭神を失い朽ちているはずの、神社。

「おつる様は、この神社の神様なんだよね?」
違う子どもが問い掛けてくる。
鶴丸はううん、と曖昧に笑い返した。
「いちおう神様ではあるが、俺はここの祭神ではないな」
「さいじん?」
「本殿に祀られる神様のことさ。あの厨子の中に、本来なら依代(よりしろ)があるんだが…」
神殿に安置された厨子の中は、空っぽだ。
「じゃあ、おつる様はおるすばん?」
「そんなものだな」
そっか! と納得したらしい子どもは、他の子どもが遊び道具欲しさに潜った社務所へ駆けて行った。
井戸から汲んできた水で喉を潤し、鶴丸は神殿を振り返る。
(いったい、何の神だったのか)
大物主大神(おおものぬしおおかみ)ではないだろう。
たとえ分祀であったとしても、感じた力は国津神にしては質が違ったように思える。
(案外…祟り神かもなあ…)
祟る者を討伐した後に神として祀る、あるいは祟があったのでその怒りを鎮めるために祀るという例は珍しくない。
菅原道真公など良い例だ。
「はあ…」
鶴丸は、自身の推測がそう外れていないと思っている。
ゆえに厄介だった。
祭神が消えて歳月が経っており、境内にある由緒書きや札といったものは文字が消えてしまっている。
相手が『何か』すら解らぬままでは、どうにも出来ない。
何より、鶴丸自身が耐え切れなくなる方が早い。
なぜなら…。
「おつる様! 瓜冷えてたよ!」
いつの間に裏手へ移動していたか、後ろの方から声が飛んできて目を瞬く。
2人で協力して瓜を冷やしている木桶を持ってくる子どもと、もうひとり。
瓜は彼らが差し入れに持ってきてくれたものだ。
「お、実に美味そうだな!」
「へへー。うちの野菜、いちばでも人気なんだぜ!」
バケツから色艶の良い緑を取り出し、かぷりと齧りつく。
「んむ、美味い!」
市場は山のものが多いのかと問えば、頷きが返った。
「うん。海ないもん」
「それもそうだな」
1人1つずつ取ってもまだ余る瓜を、笑い合いながら食べる。
じわり、と鶴丸の身体に力が満ちていく。
(これなら、怪我も治せそうだ)
神は人の信仰心で成り立つ。
國創リの別天津神(ことあまつかみ)や天津神、国津神ならばともかく、人の造る器物に宿った付喪神。
付喪神は、道祖神と並び信仰で生きる最たるもの。
普通は見えぬ鶴丸の姿が子どもたちに"視え"るのは、彼らが『童子(わらし)』であるからだ。
(童子と翁は神に通ずる)
欠片も信仰心がなければ、決して見えないが。
だから、鶴丸は傷を癒せる。
童子に囲まれ、彼らが『おつる様』と慕い、無意識にでも存在を信じてくれているからこそ。
(おかげで、神域の維持が随分と楽になった)
祭神が消えた時点で、その祭神が座し守っていた領域は消失する。
人の寄り付かなくなった神社が荒れ放題に荒れるのは、座す神の守護で抑え込まれていたすべてが放たれるためだ。
そして、祭神の領域で守護されていた弱き神々は力を失い消滅する。

この神社の祭神が守護するのは、この山一帯であった。
ゆえに祭神が消えて、大部分の弱き神々…土地神とでも言おうか…はその命を失っている。
消滅の憂き目に遭う中、それなりに力を持っていた土地神たちは命からがら境内へ逃げてきた。
そして彼らは、あまりの騒がしさに目覚めた鶴丸に希望を見たのだ。
鶴丸とてただの太刀の付喪神であるが、千の齢を過ぎた彼の場合は意味合いが違った。

妖怪の総大将として名高い九尾ノ狐は、千の齢を経た狐である。
千の齢を経た付喪神もまた、神としては末席であっても妖怪と捉えるならば大将格。
この神社が荒れずに今も在るのは、鶴丸が己の霊力で神社それ自体の領域を維持している為だ。

「…ま、おつる様!」
ハッと呼び声で我に返れば、子どもたちがこちらを覗き込んでいた。
「おつる様、大丈夫? もしかしてケガしてる?」
「え?」
「だって、ここ着物切れてるよ」
指摘されたのは左肩。
どうやら、繕った跡を目敏く見つけてしまったらしい。
鶴丸は苦笑して、その子どもの頭を撫でてやる。
「確かに怪我をしたが、もう治ってるさ。君たちのおかげでな」
「オレたちのおかげ?」
「ああ。休憩ついでに、君たちに『神様』についての話をしてやろう」

一番鴉が鳴いた後、鶴丸は帰る子どもたちを見送るため鳥居まで本体を手に着いていった。
朱塗りの手前で立ち止まり、鳥居を越えた子どもらに手を振る。
「それじゃ、気をつけて帰りな」
「うん!」
「また来るね、おつる様!」
2人が先に歩き出し、いつもの1人が何かを口篭り鶴丸を見上げている。
「どうした?」
屈み込んで目線を合わせてみると、子どもは一度鳥居の内側へ戻ってきた。
「あの、ばば様が…おつる様にお礼言いたいって言ってて」
「うん?」
「でもばば様、畑とかは大丈夫なんだけど、ここまで登ってくるのはむつかしくて」
「…ああ」
この神社の参道は、途中で狭くなる。
「ここはだいぶ荒れてしまったからなあ」
こくんと頷いてから、子どもは口籠る。
「それで、あの…」
口篭った先を何となく察した鶴丸は、いつものようにしゃがんで子どもの頭をぽんと撫でた。
「すまんな。俺はここから出ようにも出られないんだ」
見てろ、と視線を上げさせて、鶴丸は立ち上がると鳥居の先へと指先を伸ばす。

ぱっ、と鮮血が散った。

「おつるさまっ?!!」
悲鳴を上げた子どもの声に、先を行っていた子どもたちも駆け戻って来て悲鳴を上げる。
鶴丸が鳥居の向こうへ出した左手は幾つもの鋭い切り傷を持ち、ぽたぽたと真っ赤な血が滴り落ちた。
泣きそうになっている子どもたちに何度目か判らぬ苦笑を向けて、これも何度目か判らぬ大丈夫という言葉を告げる。
「俺も出たいんだがな…」
もう、黄昏刻が近い。
「さあ帰った帰った。今の俺では、3人纏めて麓に送ることは出来んぞ」
黄昏刻の化け物に襲われた子どもが、別の意味で泣きそうになりながら頷いた。
「わか、わかった。明日も絶対に来るから!」
「オレも! 明日は無理だけどまた来る!」
急かすように彼らを神社から帰して、鶴丸は血に塗れてしまった左手に溜息を吐く。
「紅白揃ったといえど、これでは格好がつかんな」
足早に本殿へ戻り、まだ瓜の残る木桶の井戸水へ左手を突っ込む。
「…っ」
ビリビリと染みる痛みを堪え、数秒。
すぅ、と傷口が塞がり、赤い血の筋を残して左手は痛みを消した。
手拭いで両手を拭い、本殿に掛けた己の太刀を手に取る。

己自身である、太刀。
その太刀を振るう、器たる身体。

あべこべに傷つく双方が、鶴丸には未だ解せない。
けれどもし。
(この器が鼓動を止めたら)
本体である太刀も折れるのだろうか。
(付喪神の本体が器物であることは、真理だ。如何な神であれ、それを覆すことは出来ない)
もしも、と鶴丸はさらに思案する。
(太刀が外へ出ると器が傷つく。器が外へ出ると、器だけが傷つく…)
太刀が傷ついたことはなく、この器だけが赤く染まる。
器が傷つけば、太刀は振るえない。
されど太刀は傷つかない。

鶴丸は自身を鞘から抜き、夕日に翳した。
美しい曲線を描く細身の刀身は、茜を弾き光さえも断ち切れる。
(もし、)
浮かんだ推測を、鶴丸は密やかに胸に仕舞った。


*     *     *


ピクリ、と獣の耳が動く。
「っ!」
がばりと顔を上げた小狐丸に、彼の正面に座していた白狐がゆらりと尾を揺らした。
【視えたか】
「はい。一瞬ですが、確かに」
【アレの神域を、僅かでも出たのかもしれぬ。だが、アレが黙っていることも無かろう】
「はい」
【難儀なものよ。人は元より、神までもを狂わせるとは】
クックと嗤う白狐は、決して愚弄しているわけではない。
小狐丸のように存在自体が伝説である刀はともかく、人に鍛えられた刀は自らの行き先を選べない。
太刀『鶴丸国永』が所有欲を煽り狂わせるのは、偏に人々がそう望み手にし続けてきたがゆえ。
白狐はまだ嗤っている。
【其方も難儀な者よの、小狐丸。稲荷大明神の眷属でありながら、人を狂わせる刀に懸想するなど】
其方であれば他の神でも人でも、不自由はせなんだろうになあ。
「……」
小狐丸は黙す。
白狐は漸(ようよ)う笑みを収めた。
【可愛い末弟子の、滅多に無い頼みじゃ。事が収まるまで、其方と稲荷の神域を繋いでおく事を許す】
「は。有難うございます」
【事を終えた暁には、其方とその太刀には祓ゑを行って貰うがな。人の繋がりも必要故、見繕っておくが良い】
「はい」
ぶわりと狐火が上がり、白狐が去る。

小狐丸は身内の集まる屋敷へ戻った。
「三日月」
彼の自室の襖を開けると、瞑想していた三日月が小狐丸を振り仰ぐ。
「小狐丸か。進展はあったか?」
「…一瞬だけ、鶴の気配を感じました」
「まことか!」
思わず声を荒らげた三日月に、小狐丸は続ける。
「暫く、ここを離れるゆえ。稲荷の霊道は私に繋がっていますから、三日月と石切丸はここの維持を頼みます」
「…うむ。案ずるな」
三日月は身体ごと小狐丸へ向き直り、普段は静謐と呼ぶに相応しい藍色の眼をひたりと小狐丸へ据えた。
「頼むぞ、小狐」
こちらは紅の眼を細め、小狐丸は応えてみせた。
<<  >>


2015.10.25
ー 閉じる ー