望の乞う声、朔の言承け

(望の乞う声 1)




「よっ、鶴丸国永だ。…ふふっ、良いねえその驚きよう」

その刀剣を顕現させた審神者と近侍であった山姥切国広は、目の前の刀剣に一様に目を見開いていた。
「鶴丸、国永?」
山姥切はうわ言のように呟く。
この本丸にはすでに鶴丸国永が顕現しているので、この人物はいわゆる二振り目だ。
だが、あまりにも違いすぎる。

同じなのは、黄金色(こがねいろ)の眼だけ。
後はすべてが『黒』だった。

思うことはひとつ。
(鶴ではなく、これは鴉じゃないのか)
手にする刀は同じ青みのある銀と金の拵えで、顕現した姿だけが違った。
黒髪に黒い服…金鎖は同じだったが…の『鶴丸国永』は、ゆるりと目を細め薄い笑みを浮かべたまま宣う。

「『俺』が出てくるのは滅多にないことなのさ。それこそ、あの三日月宗近よりもな?」

ハッとした山姥切が審神者を見れば、審神者はにやりと嫌らしい笑みを作っていた。
「そうか…そうか! お前を顕現させられる審神者はほとんど居ないのか!」
「ああ。きみは凄いぞ、審神者殿」
そうかそうか、と上機嫌に笑う審神者が、黒い鶴丸国永へ手を伸ばす。
と、その顎下に刀の柄が突き付けられた。
「おっと、そいつは無粋ってもんだぜ? 審神者殿」
不敵に笑み、黒い鶴丸は審神者へ告げる。
「せっかく『俺』を手に入れたんだ。今日くらいはその達成感に浸ってくれよ」
「う…む、それもそうだな」
山姥切が息を呑む傍で、審神者が素直に首肯した。
黒い鶴丸はまだ笑っている。
「そうさ。それに、『俺』に知り合いが多いことは知っているだろう? 挨拶回りの時間くらい与えちゃくれないかい?」
考える素振りを見せた審神者は、鷹揚さを装って頷く。
「そうだなあ、そのとおりだ。山姥切、お前この鶴丸を案内してやれ」
「…分かった」
「あっはっは! 三日月よりも珍しい刀か!」
ああ目出度いなあ、とニヤニヤと笑いながら、審神者は鍛刀部屋を出て行った。

パタン、と扉が閉じれば、そこには沈黙しか残らない。
ほぅと息を詰めていた山姥切は、こちらをじっと見つめる黄金の眼にぎょっとした。
「何も言うな」
口を開こうとした先手を打ち、黒い鶴丸は言う。
その表情から笑みは消え、冷え冷えとした怒気が黒い彼を包んでいた。
「全部終わってから話してやろう。まずは旧知に話を通したい」
銘を問われ名乗ってから、山姥切は慎重に言葉を選ぶ。
「…誰を」
「三日月宗近、大倶利伽羅、あるいは小狐丸を」
「前の2人なら居る」
「それは重畳。一緒に話を通せるか?」
「……分かった。少し待っていてくれ」
山姥切が出て行けば、部屋には黒い鶴丸ただひとり。
左の手にした刀を持ち上げ、彼はその鞘に口づけを落とす。

「…鶴丸」

恭しく口づける様は、儀式の如き静謐さを纏っていた。
余っていた右手を柄に添え、黒い鶴丸は己自身たる太刀を捧げ持つ。
「待ってろ。丑の刻には終わらせてやる」
まるで祈りか誓いのように。

人の足音が近づき、黒い鶴丸から静謐さがサッと消えた。
訪いの声は先ほど出て行った山姥切だ。
カラリと扉が開く。
「2人を部屋に待たせてある。…他の奴には会わない方が良いのか?」
黒い鶴丸は山姥切へ笑い掛けた。
「出来れば、で良いさ。きみは気が利くな」
「……別に」
先の審神者に対するものとは違い、自然に思える笑みだ。
(こいつは、)
きっともう、気づいているのだろう。

この本丸の空気が穢れきっていることに。


*     *     *


その男に、2振りはかつて出会ったことがあった。
「おぬしは…」
三日月宗近は目を見張る。
あれはいつだったか、そう、京の神社でのことだ。
「よう、三日月宗近。相変わらずなようで何より」
薄っすらと敷かれた笑みは、あの頃と変わらず。
自身の斜め向かいに座る大倶利伽羅を見れば、彼も三日月と似たような顔をしていた。
「あんた…竜胆丸か?」
鶴丸国永と瓜二つでありながら、正反対の色を纏う男。
彼は、銘を『竜胆丸(りんどうまる)』と云う。
当の本人に引き止められ同じ部屋に居た山姥切は、まったく訳が分からない。
(鶴丸国永ではないのか…?)
黒い鶴丸…竜胆丸は大倶利伽羅へ、三日月へのものと少し違う笑みを向けた。
「きみも変わらず息災で何より」
どことなく、弟分に向けるような笑みだ。
大倶利伽羅は眉を顰めた。
「…どういうことだ? あんたは国永だろう?」
「ああ。『黄泉へ渡った鶴丸国永』だ」
そういうことか。
鶴丸がある主と共に埋葬されたという話は、山姥切も聞き知ってはいたが。
竜胆丸が山姥切を見る。
「主の副葬品として墓に入った俺は、黄泉路の供の途中で墓より暴かれた。
本体が動けば行かねばならない。だが主の供を放棄出来ない。ゆえに俺は、『俺』という存在を分けた」
日の元に戻った『鶴丸国永』と、黄泉路を下った『竜胆丸』に。
山姥切が説明に対する謝意を込めて頷けば、察した竜胆丸は山姥切から三日月と大倶利伽羅へ視線を戻した。
「本来なら、傍に居ながら何をしていたんだとお前たちを罵りたい処だが。…まあ、この"しすてむ"の中では仕方ないな」
大倶利伽羅は膝上の拳を強く握り、竜胆丸から目を逸らす。
三日月は狩衣の袖で口許を隠し、口篭った後にやはり眼差しを伏せた。
「…いや、すまぬ。おぬしの言う通りだ」
俺たちは何も出来ぬままだ、と口惜しげな様は、そのまま山姥切にも当て嵌まる。
(そうだ。俺たちは…)
何も出来ないままなのだ。

元から、そのような兆候がないではなかった。
ここの審神者はやたらと資材を節約したがり、しかし所謂『レア』を欲しがった。
軽症が手入れされないことは良いのだが、問題は『すぐに手に入る刀』は重症であっても手入れされないことだった。
三日月宗近はひと振り目だが、大倶利伽羅はふた振り目。
山姥切は何とかここまでひと振り目のままだが、今剣や鳴狐を始めとした短刀や打刀は3振り目以降の者も多い。

そして『鶴丸国永』が顕現し、膿は一気に吹き出した。

一目惚れ等という、可愛らしい言葉では言い表せぬ。
あれは『欲』だ。
執着欲、支配欲、物欲、顕示欲、度が過ぎては害悪でしかないすべてが、凝縮されて鶴丸へ向かった。
顕現したばかりで肉の身体に慣れない鶴丸を連れ、審神者は自室に引き篭った。
丸2日閉ざされた扉の向こうで何があったか、誰もが見はせずとも悟り、何も出来ない己に歯噛みした。

審神者に世話役として呼ばれたのは、平野藤四郎と物吉貞宗。
どちらもレア度の高い短刀と脇差だ。
彼らは多くのことを知っているだろう。
鶴丸が顕現してから皆の手入れの頻度が目に見えて上がったのは、そういうことだ。
物吉に問い質してみたが、彼は泣きそうに笑うだけであった。
『鶴丸さん、何の我が儘も言わないんですよ。その鶴丸さんが、「内緒だ」って言ったんです。だから僕は言いません』
力づくで審神者を何とかしようにも、政府の造った"審神者システム"のせいで力を抑制されてしまう。
人が、下位の神々を使役するためのシステムだ。
付喪神たちの"反抗"という行為に、プラスに働くわけがない。
竜胆丸は小さな溜息を吐く。
「それでも、『竜胆丸』は分霊としては出ないはずなんだがなあ」
哀しげな色を宿した黄金(こがね)の目を、山姥切は見たことがあった。

いつか、中庭に出ていたときに。
僅かに開いていた障子の先に垣間見えた、鶴丸の。

次の瞬間、そこには凍てついた眼差しだけが有った。
「次の夜明けまでにカタを付ける。きみたちにも協力してもらうぞ」
否やの理由など、無かった。


*     *     *


竜胆丸の存在は、夕刻になっても極僅かな者たちの間だけに留まっていた。
審神者は食事を自室へ運ばせるだけなので、元々刀剣たちとは膳を共にはしていない。
物吉を鶴丸の元へ残しやって来ていた平野は、思わず漏れそうになった謝罪の言葉を飲み込んだ。
「竜胆丸、様」
「…そなたも知っておったのか」
瞠目した三日月に、平野は頷く。
「はい。御所で、兄と共に一度だけお会いいたしました」
平野が物言いたげなことなど分かった上で、竜胆丸はそれを無視する。
「そういやあ、一期一振は居ないのか?」
「あやつは長期遠征中だ。顕現、という意味で来ていないのは、小狐丸と日本号、博多藤四郎のみよ」
「ははっ! 気紛れな狐らしいなあ」
からからと笑った竜胆丸の目が、平野へ戻った。
「さて、平野。鶴丸を審神者の部屋から連れ出したいんだが、出来るかい?」
平野は居住まいを正す。
「時間という意味でしたら、審神者は夕餉の後と朝方に湯殿へ行きますが」
「何かあるのか」
「…はい。強くはありませんが、結界が」
「ふん…小賢しいことだ。まあそこは俺がやるか」
後は、と竜胆丸は相手を定めず問い掛ける。
「夜目が利いて、そこそこ力のあるやつはいないかい?」
隠密行動が得意ならなお良し、と言うので、皆は一度顔を見合わせた。
「太刀と打刀は駄目だな」
「短刀なら、小夜左文字と厚藤四郎が良かろう」
「鯰尾はどうだ?」



夕餉も近い刻限、兄刀である宗三左文字と共にいた小夜左文字は、大倶利伽羅に声を掛けられ驚いた。
「…どうしたの? 僕に声を掛けるなんて」
小夜に限らず、大倶利伽羅は基本的に1人を好む。
自ら構いに行くのは燭台切くらいだろう。
「鶴丸のことで話がある」
小夜が再び驚く前に、宗三が先に反応した。
「…その話、僕も聞いて構いませんか?」
彼が鶴丸に対し恩義と罪悪を強く感じていることを、大倶利伽羅は知っている。
ゆえに否とは答えない。
「ならば来い。ただし、詳しい説明をする暇はない」

三日月の部屋には部屋の主と平野、山姥切、厚、鯰尾藤四郎と、もうひとり。
「鶴丸…?」
彼にしか見えないが、彼ではないとしか思えない。
無意識に名を呟いた宗三に微笑み、彼は首を僅かに動かすことで部屋を閉ざすことを指示する。
ぱたんと閉ざされた部屋で座せば、視線は一点に集まった。

「俺は今日、鍛刀で喚ばれた鶴丸国永だ。訳あってこのナリでな、『竜胆丸』と名乗っている。
早速だが、今晩中に鶴丸を助け出すので手を貸してくれ」

単刀直入過ぎて、逆に口を挟む余地を与えない。
「鶴丸さんを助けられるなら、幾らでも使ってくれ!」
「僕も、出来ることがあるなら」
厚と小夜が間髪置かず返し、鯰尾もまた竜胆丸を正面から見つめた。
「俺たちは…この本丸に顕現した刀剣はみんな、鶴丸さんに救われてきました。なのに俺も厚も、鶴丸さんに会ったことすらない」
礼の一言すら、言えない。
「…彼が、」
宗三が袖口で口元を隠しながら、言葉を吐いた。
「鶴丸が矜持高く、名刀であると自負していることを僕は知っています。…いえ、あなたも『鶴丸国永』ですから、言うまでもないですね。
…それを。それを、あのような言葉を使わせるに至らせた審神者を、僕自身を、僕は赦せないのです」
「他へ目を向けさせないために、あからさまな誘い文句でも囀ったか」
竜胆丸の目は冷ややかだ。
俺も『鶴丸国永』だからなあ、と彼は自嘲を刻む。
「ま、懺悔でも何でも、きみの気が済むようにすれば良いさ。俺じゃあなくて、鶴丸にな」
それこそ諭すように告げられて、宗三は項垂れる。
彼に限らず、参りかけている刀は多いらしい。
竜胆丸にとっては、中々の大舞台というところか。
「…さて、それじゃあ作戦会議といこうか」


*     *     *


空の食器が廊下へ出される頃を見計らい、竜胆丸は審神者の部屋へやって来た。
と、部屋の扉が開かれ2つの膳が出る。
片方は空で、片方は猫の額程だけ減っていた。
「なんだい。まだそこにはもう1人居るのかい?」
呆れたような声を投げてやれば、今度は手と腕の元も出てきた。
竜胆丸を目にした審神者は途端に破顔する。
「もう来たのかぁ! 俺はこれから風呂に行こうと思っていたんだが」
「そうかい、なら遠慮なく男前に磨いてきてくれよ。その間に、きみの部屋を綺麗にしておこう」
窓を開けて換気もしておきたいし、何より先客が居るのは頂けない。
独り言のように続けてから、竜胆丸はとっておきを告げる。

「今日ここに来た、三日月よりも"れあ度"の高い俺1人じゃあ不満だと言うのかい?」

審神者は態とらしく身体の前で両手を振った。
「とんでもない! が、白も黒もどちらも楽しみたいなぁ」
「ははっ、そうも言ってられなくしてやるさ。そら、さっさと湯殿へ行った行った」
にやにやと笑い、審神者は一度部屋へ引っ込む。
「2振り目の鶴丸は積極的でそそるなぁ」
そんな猫なで声を聞き流し、竜胆丸は廊下の向こうを見遣った。
「お? 山姥切じゃないか。三日月も居るな、ちょうど良い」
白いぼろ切れを被った山姥切が、こちらに気づいて足を止める。
竜胆丸は部屋の中へ声を投げた。
「俺と同じ体格のヤツを運ぶのは骨が折れるんでな。他の刀剣にも手伝わせるぞ」
「…うぅん、仕方ないなぁ。その代わり、サービスは弾んで貰うからなあ?」
「さーびすとやらが何かは分からんが、まあ楽しみに湯殿へ行けば良いだろう?」
着替えやらを持って出てきた審神者からは、薄くも『呪(しゅ)』の気配がした。
大方、万が一にも逃げられないよう鶴丸に呪縛でも掛けたのだろう。
(随分な念の入れようだ)
「おい、そこの2人。黒い鶴丸を手伝ってやれ」
審神者は廊下の向こうで立ち止まっている山姥切と三日月へ命じ、ようやく反対側にある風呂場へ歩いていった。

2人が部屋に辿り着くことを待たず、竜胆丸は部屋を突っ切った。
文机のある執務用らしい部屋の先に、半分だけ襖の閉じた暗い部屋。
白い敷布に投げ出された白い足は、ここが明らかに寝所であることを語っている。
竜胆丸は敢えて敷布に目を遣らず、庭に面する書院の障子と窓を開けた。
「えっ?!」
唐突に窓が開いたことで、外の存外近い位置からぎょっとしたような声が上がる。
それにしぃ、と口許へ指を持っていき、竜胆丸は窓の下にしゃがみこんでいた物吉貞宗へ小声で告げた。
「きみは夜目が利くな? これから、鶴丸を救うための舞台を始めるんだ。
事が終わるまで、この部屋に誰も近づけないでくれ」
これは、鶴丸だろうか?
逆光で黄金の眼だけが光っていて、他はすべて真っ黒に見える。
けれど声は、いつだって物吉と平野を労ってくれる鶴丸のものだった。
「分かりました。猫の子1匹通しません」
「ふふっ、頼もしいな」
きみの銘は? と問えば、物吉貞宗と名が返った。
鶴丸と似て、白い装束が夜闇に浮かぶ。

窓の外から顔を戻して、竜胆丸の目は薄暗い寝所の敷布へ移った。
「……鶴丸」
声は、きっと聞こえていない。
申し訳程度に掛かった薄い掛布の下に、身体の線がくっきりと浮かび上がっている。
まるで死人の如き呼吸の薄さで、『鶴丸国永』は眠っていた。
彼の枕元に跪き、疲労の色ばかりが濃い頬に触れる。

「今、助ける」

竜胆丸の目線が寝所の襖へ向くと同時に、廊下で山姥切と三日月の影に潜んでいた厚と小夜が気配を殺して忍んできた。
2人は鶴丸を見下ろし一瞬だけ顔を強張らせてから、広くはない室内を素早く検分する。
押し入れを開け上段に登った厚が天井の嵌め板を調べると、造りは過去の城と変わらない。
「小夜、ここから天井裏に行ける」
「分かった」
押し入れと天井裏へ潜もうとする短刀たちに、竜胆丸が念を押した。
「きみたち、自分の本体は三日月に預けたかい?」
2人は懐から、何の変鉄もない小刀をちらと見せた。
「大丈夫だ」
「竜胆丸さんも、気をつけて」
来たときと同じように密やかに潜んだ彼らに、竜胆丸は頷きを返した。
「ああ」
短刀2人が姿を隠してから、寝所にまで入ろうとしなかった三日月を呼ぶ。
山姥切は審神者の部屋にすら入る気はないようで、見張りの役割に徹していた。
「三日月、頼む」
「…ああ」
死んだように眠る鶴丸を見て息を詰めた三日月は、すべてをぐっと飲み込みその身体をそぅっと抱え込む。
持ち上げた際には軽すぎる、と苦々しく呟いて。
三日月が大事に腕に抱え込んだ鶴丸は、薄い掛布の下に何も纏っていないことが即座に分かる。
山姥切は別の意味で苦く眉を寄せた。
「そのまま連れていくのは、やめろ」
そこには相当な葛藤があったろう。
それでも彼は自らの拠り所たる身を隠す白い布を外し、鶴丸に掛けてやった。
さすがの三日月も目を見張る。
「そなた…」
「早く行け。あいつが戻ってくる」
そうだ。
これ以上、鶴丸をあの下卑た視線に晒すわけにはいかない。

足早に部屋を去る三日月と山姥切を見送り、竜胆丸は部屋の扉を閉めた。
鶴丸が眠っていた敷布の端に腰を下ろし、懐から小刀を取り出す。
大倶利伽羅に探しておいてもらった小刀は、廚と納屋から拝借したと言っていた。
小夜と厚が持つのも同じ小刀だ。
(なに、斬れれば良い)
刃物の役割など、それだけだ。
(俺たちだって、同類以外にそれ以上を求めない)
ゆえに人の、神の領分を越えた者には。

(死してもなお遺る、罰を)


*     *     *


湯殿に繋がる廊下を越えてから、三日月と山姥切は無意識の内に潜めていた息を吐き出した。
もう、審神者に鉢合わせることはないだろう。
次の廊下を曲がったところで、ざわざわとした気配が近づいてきた。
「第2部隊だな」
たった今から出陣する、夜戦の部隊だ。

「さて、仕事仕事ーっと。あれ? 三日月さん?」
真っ先に鉢合わせたのは加州清光。
彼は三日月に目を丸くし、隣の山姥切を見てさらに目を見開いた。
「えっ? 山姥切…?」
嘘でしょ、布外してる! という声に反応して顔を出したのは、堀川国広。
「嘘?! 兄弟、いったいどうし…」
彼の言葉は、三日月の腕の中を見て取り不自然に途切れた。
唐突に黙ってしまった堀川に、加州が訝しくその視線を辿って。
「…え」
「鶴丸の旦那…!」
彼の後ろから顔を出した薬研藤四郎が、その名を呆然と口にした。
加州が彼を見下ろし、そして三日月の腕の中をもう一度見遣る。
「嘘…この人が、鶴丸国永?」
静かになった場に、さらに足音が近づいてきた。
「おい加州、今なんつった?!」
「兼さん、静かに!」
堀川に咎められつつ、和泉守兼定が三日月へ詰め寄る。
その肩を、長曾根虎鉄が掴んだ。
「止せ、和泉守。彼が起きてしまう」
ぐっと言葉に詰まった和泉守は、拳を握ることで剣幕を抑えた。
彼の浮かべた表情は険しく、それでいて悔しさに満ちている。

鶴丸のまるで色のない寝顔は、いっそ死人のようで。

「…っ、俺たちは、ずっとこの刀(ひと)に守られてたってのか?」
四十何人もの刀剣たちの、手入れの頻度が上がり出陣の間隔が広くなったのは、鶴丸が顕現した後からだった。
和泉守たちは『鶴丸国永が顕現したらしい』という話を聞いただけで、それがどのような刀剣で、どのような人の姿を取っているのかすら知らなかった。
いや、知らされなかった。
彼と旧知であるらしい者たち…三日月も含め…は、一様に口を噤んでいたのだから。
その意を込めて三日月を睨み上げれば、彼は初めて口を割った。

「鶴が、『言うな』と言うたのでな」

ーー言えば気にするだろう?
ーー俺を気にすればする程、その刀剣を折るための出陣が増えるんだろう?
審神者の目を盗み、密かに見(まみ)えたときのこと。
鶴丸は、察しが良すぎた。
ゆえに彼と旧知の者たちは、口を閉ざすしかなかった。
「最初からずっと、守られっぱなしかよ…!」
和泉守と堀川は、鶴丸の少し前に拾得された2振り目である。
彼らは鶴丸が顕現された『後』しか知らないのだ。
「…しかし三日月さん。なぜ、その鶴丸さんがここに?」
長曾根が問う。
今の今まで、皆は鶴丸をちらと見たことすらなかった。
それだけここの審神者は鶴丸を独占し、囲っていたのだ。
三日月に代わり山姥切が答える。
「2振り目が来た」
「?!」
あってはならないことだ、と誰もが瞬時に判じた。
「ちょっと待ってよ、それじゃあ…!」
乱藤四郎が薬研の後ろから割り込む。
言い募ろうとする言葉を、再び三日月が遮った。

「否。その2振り目は鶴丸を救うために顕現したのだ。明日には片が付こう」

その、意味は。
幾ら三日月より何百年も年若い刀であろうと、彼らとて百年を意思ある存在として生きていたのだ。
答えなど、無くとも良かった。
「明日、か」
「うむ。明日の朝には終わっておる」
「…なら、俺っちたちに出来ることは1つだ」
一度眼差しを伏せた薬研が、強い視線で三日月を見返す。
加州たちもまた、強く頷いた。

「何があろうと、必ず折れず帰る」

その言葉だけで、充分だった。
三日月と山姥切は第2部隊の出陣を見届ける。
ようやく三日月の部屋へ辿り着けば、湯と手拭いを小脇に平野が待ち詫びていた。
「鶴丸様…!」
「我らは隣の鶴丸の部屋に居るでな。終わったら呼んでくれ」
「はい」
ぱたりと障子を閉め、廊下に出た三日月と山姥切はほっと息を吐く。
鶴丸の部屋、と言っても、彼がこの部屋へ足を踏み入れたことはない。
その部屋では茶の準備をして鯰尾と鶯丸が待っていた。
おや、と2人は目を瞬く。
「鶯丸…?」
彼は竜胆丸の顕現を知らぬはずだが。
湯呑みを手にした彼は、いつものように笑みを浮かべた。
「なに、空気がざわついて眠れなくてな。どうも旧知の気配がするし、起き出してみれば鯰尾にばったりだ」
「他の寝てない人たちに部屋から出ないでくれ、ってお願いに行ってた帰りなんですけど。
鶯丸さん居なくて焦ってたら、そこの角でばったり会ってしまって…」
あはは、と苦笑する鯰尾を責める理由もなく、三日月と山姥切も肩の力を抜く。
「あんたも竜胆丸に会ったことがあるのか」
「御所で一度だけな。平野たちと時期は違うが」
「…意外と、知ってるやつは居るのか」
鯰尾の向かいに腰を下ろした山姥切が疑問を口にすれば、鶯丸が肩を竦めた。
「その様子だと、大倶利伽羅も知っていたか。三条はどうか知らんが、俺たちは総じて鶴丸との付き合いが長いからな」
そんなものかと自分を納得させつつ、向かいの鯰尾が立ち上がる。
「じゃあ、俺行ってきます。物吉の反対側も誰か居た方が良いでしょうし」
「おぬしは気が利くな。ならば頼もう」
「はい」


*     *     *


書院の窓枠に腰掛け、竜胆丸は闇夜の庭を見つめている。
夜風はちょうど良く身体を冷やし、彼に黄泉の温度を思い出させた。
すっと襖が開き、審神者の気配が近づいてくる。
「やあ、待っていたかぁ」
文机の明かりは半端に閉じた襖に遮られ、寝所は暗い。
髪も服も黒い竜胆丸を際立たせるのは、その黄金(こがね)の眼と装束の金鎖に限られる。
「そうだな。待ったと言えばそうなるか」
1歩、2歩、審神者がねっとりとした視線を竜胆丸へ這わせながら近づいてくる。
そして、3歩。

ヒュッ、と何かが空を斬った。

竜胆丸の手で『それ』が閃く。
「断罪の刻限へ、ようこそ。審神者殿?」
応えはない。
空気が半端に抜ける音と、蛙を潰したような音が発せられるのみ。
にぃ、と竜胆丸の唇が弧を描けば、ダンッ! と天井と押し入れが同時に蹴破られ一瞬の閃光が走る。
閃光は素早く翻り、審神者の右手と左手、右足と左足を深々と突き刺し、楔のように打ち込まれた。
自身の刀を置いてきたのは、このためだ。
穢れを自ら浴びる必要性など無いのだから。
ごぼごぼと濁った音は敷布に転がる審神者の口から発されたようだが、生憎と聞き取ってやる義理もない。
「物吉、誰もいないな?」
「はい!」
開け放された窓から問えば、即座に応(いら)えがある。
竜胆丸は審神者の襟刳りを乱暴に掴み上げ、窓の外へとその身体を放り投げた。
…喉を裂かれ、四肢を串刺しにされた人間の身体を。
自らが放り出したものを追いひらりと窓枠を超えた竜胆丸に、厚と小夜も続く。
「松明を」
「分かった!」
2人は即座に表門へと駆け、常に焚いている篝火を予備の薪に移し駆け戻った。

2つの篝火に照らされた庭には、黒の麗人がひとり。
その冷徹な視線の先には、血だるまになった人間が1つ転がっている。

「物吉、きみはここで人払いを続けてくれないか。"これ"の血に触れて穢れが移ると面倒だ」
「分かりました」
「厚と小夜はそのまま着いてきてくれ」
竜胆丸は血に塗れた審神者の衣服を適当に掴み、庭を引き摺って行く。
その両脇を厚と小夜が付き従い、辿り着いたのは敷地の北端。
この建物の主が神に理不尽を働いたがゆえに、元々鬼門であるその場所はもはや不浄処となって久しく。
不毛になってしまった地面に審神者の身体を投げ出せば、ざわり、ざわり、と『何か』がざわめいた。

「結界を張った方が良いかな?」

どこか三日月に似た鷹揚な声に振り向けば、平安の頃を思い起こさせる装束の男が立っている。
その後ろには絢爛な着物を纏う女人のような者と、さらに見上げる程の背の黒髪の男。
「あっ、竜胆丸さんこっちに居た!」
鯰尾が物吉の居る方向から走ってきた。
「すみません、いきなり。えっと、石切丸さんと次郎太刀さん、太郎太刀さんです。3人とも大太刀で、神社の御神刀で」
なるほど、それで『結界』か。
太郎太刀が進み出る。
「貴殿のことは存じ上げませんが、鶴丸さんを救うためと伺い…居ても立ってもいられず」
「見たところ、そいつを『穢れ』に喰わせるんだろう? それならアタシらも役に立つはずさ」
ふむ、と逡巡した竜胆丸は、それじゃあ、と身体ごと彼らへ向き直った。
「…3人か」
1人足りないなとごちた彼の耳に、ぱたぱたと別の足音が聞こえた。
「ごめんね、遅くなって。…えっと、鶴丸…さん?」
幼い体躯に似合わぬ大太刀を背負う少年が走ってきて、次郎太刀の隣へ並ぶ。
「俺は蛍丸。あんまり詳しくはないんだけど、いちおう阿蘇神社に奉られてた御神刀だよ」
これで4人、ならば四方を囲える。
「そうか。じゃあ俺以外を結界で守ってくれ。厚と小夜、鯰尾も彼らの後ろまで下がるんだ」
「え、待ってよ! 竜胆丸さんは?」
ひらりと手を振り、笑みを返す。

「要らないさ。これから『来る』やつらと、俺は同類だからな」

竜胆丸の言っている意味は解らないが、彼が良いと言うのなら良いのだろう。
「北は私が引き受けよう。太郎は西、次郎は東、蛍丸は南をお願いするよ」
石切丸の合図で、大太刀たちが建物を囲うように四方へ散る。
彼らの霊力は、穢れを持っているようには感じられない。
器は人間が用意したものであっても、本質は神として在るということだろう。

不浄場の地面が、黒々と揺らぐ。
(来た…)

ザワザワ、ざわざわ。

【オヤマァ、懐カシイ顔ジャアナイカネ】
【オ主、イツノ間ニ現世ヘ還ッタンダイ?】

ノゥ竜胆丸ヤ、と地面の黒から赤々とした眼が光る。
暗すぎてはっきりとは見えないが、腕のようなものが空をさ迷っているようにも見えた。
石切丸は己が太刀を持つ手に力を込める。
(まさか、直接黄泉と繋がっているのかい…?)
竜胆丸が肩を揺らし、笑う。
「懐かしいと言われるほど会ってなかったかい? それなら次は、きみたちの居る処へ足を伸ばしてみるか」
【ソナタノヨウニ動キ回レタラ良イガナァ。羨マシイ奴ヨ】
「ははっ、そうかい。ところでそこに不味そうな輩を置いておいたんだが、どうだい?」
酷い血の臭いに混じり、腐臭が漂ってくる。
【オウオウ、コリャア不味ソウダネェ】
【柘榴ニデモ喰ワセテヤロウカノ】
白い骨の腕が地面から生えたかと思うと、それを伝って蔦のようなものが伸びてきた。
蔦は審神者の身体に先端を触れさせるや否や、ぐちゅりと傷跡から体内へ入り込む。
ぐじゅぐじゅとその内臓を掻き回し体内の血管に沿って根を張り巡らせ、苗床に相応しく足元を堅め。
喉を裂かれているがために、審神者は悲鳴も呻きも上げられない。

そうこうしている内に、にょきり、と心の臓の辺りから唐突に木の幹が生えた。

幹はぐんと伸び次々と枝分かれ、審神者の身体は根に覆われ見えなくなった。
瞬く間に成熟した樹は、枝の先に幾つもの実をつける。
【不味サ故ニ、美味ソウナ実ガ生(ナ)ッタノ】
【明日ニデモモギニ来ルデナ】
「ああ。好きに持っていってくれ」
投げ槍に言う竜胆丸を、地面から覗く何者かが嗤った。
【ソナタモ喰エヨウ? コレハ美味イゾ?】
黄泉戸契(ヨモツヘグイ)二変ワリナシ。
告げた相手を、竜胆丸は睨み据えた。

「誰が喰うかい。俺の半身を穢した人間だぜ?」

槍の一突きの如き視線に、黄泉の相手は怯んだようだった。
【オウ、ソウ怒ッテヤルナ。悪イコトヲ訊イチマッタナ】
【綺麗ニ皆デ喰ロウテヤルデ、チィト待チンシャイ】
竜胆丸の纏う気配は黄泉の『何か』が去っても鋭く尖り、周囲は針の筵だ。
冷や汗を掻いていた石切丸に、低い声が届いた。
「…竜胆丸。それ以上は止せ」
大倶利伽羅だ。
彼も気圧されているのが見て分かるが、気丈にも己を保っている。
「ここはお前に耐性のあるヤツばかりじゃない」
黄金の瞳が細まり、嘲るように弓形を描いた。
「ふん。きみに免じて、そういうことにしておこうか」
シャランと金鎖を鳴らし、竜胆丸と呼ばれた男がこちらへ身を返す。
「鶴丸は?」
「平野が見ている」
案内するのだろう、大倶利伽羅が背を向けた。
それを追おうとした竜胆丸は、石切丸を振り返り口を開く。
「結界、黎明まで保つかい?」
「…もう少し緩めても良ければ」
すると彼は満足気に頷いた。
「十分だ」


*     *     *


大倶利伽羅に着いて建物内を歩いていると、三日月の部屋の前に見覚えのない刀剣が立っていた。
「青江、何をしてる?」
大倶利伽羅に問われ、相手は薄く笑む。
「妖よりも良くない気配を感じてね。部屋でじっとしていられなくなったんだ」
表門を出たところで物吉に会ったというこの人物も、見たところ脇差だ。
宗三のような色違いの眼が竜胆丸を映す。
「僕はにっかり青江。あなたのことは後で皆と聞くよ。…自己満足だろうけど、ここで見張りをしていても良いかな?」
幽霊や妖なら斬れると言うので、断る理由も特にない。
「そうか。なら頼もうか」
三日月の部屋へ入ったのは言った当人のみで、大倶利伽羅は廊下に残った。

「彼は鶴丸さん、だよねえ?」
演練で偶に見掛けた鶴丸国永と、色はまったくの逆だが。
大倶利伽羅は首肯した。
「ああ。事情があってあの姿だが、あいつも『鶴丸国永』だ」
するりと障子が開き、三日月と鶯丸、それに平野が揃って部屋から出てくる。
大倶利伽羅と青江に気づいた三日月が、ちらりと目線を寄越した。
「もう我らに出来ることはないようだ。俺と鶯丸は結界維持の加勢に行くが、おぬしらはどうする?」
厚と小夜は表門で遠征部隊と夜戦部隊の帰りを待つと言って、建物には入らずそのまま表門へ向かった。
鯰尾と物吉は不浄の場へ誰も近づかぬよう見張りを続けている。
「僕は部屋に戻ります。鶴丸様が起きられたら、すぐ向かえるように」
言った平野に続き、大倶利伽羅は背を廊下の壁に預けて眼差しを伏せた。
「…俺はここに居る」
「僕もここに居るよ。気配を殺せば邪魔にはならないと思うし」
青江と大倶利伽羅を咎めることなくそうかと一言、三日月と鶯丸はその場を去って行った。



ーー静かだ。

これほど静かだというのに、鶴丸の寝息はほとんど聴こえない。
枕元に座した竜胆丸は、触れた頬の温度が自分と変わらぬことに戦慄を覚えた。
(黄泉の住人と同じ体温でどうする…)
冷え切った魂は多くの傷を持ち、それでも永らえてきたのだろう。

鶴丸と竜胆丸は同じ『鶴丸国永』であり、それでいて在る世界を異にした付喪神だ。
黄泉路で分かたれてから幾星霜、こうして会うことは本霊ですら滅多にない。
「鶴丸…」
人の言う愛も血筋の関係性も、鶴丸と竜胆丸の間を表すには弱すぎる。
喪われた自分自身が手の届く場所にいること、その奇跡をどう表現しろというのか。

竜胆丸は眠る鶴丸の頬に手を添え、そっと口づけた。
冷たい唇に熱を移すように、何度も何度も。
猫の毛繕いに似た丹念さで触れ合わせ、開かせるように舌先で唇を舐め、つつく。

ふ、と熱の乗った吐息が返った。

直に触れ合うことで竜胆丸の神気を取り込み、肉の器に入った分霊が反応したのだろう。
間近に白い顔を覗き込み、竜胆丸はそぅっと囁く。
「まだ起きるには早いさ。大人しく俺の魂を取り込みな」
竜胆丸は鶴丸で、鶴丸は竜胆丸。
まったく同じ魂を持つ身なれば、傷付き疲れた魂の修復も可能となる。
竜胆丸は先よりも開いた鶴丸の唇の間から、自らの舌を捩じ込んだ。
まるで喰らうように深く口づけ、口内の唾液ごと神気を流し与える。
「…っふ」
付喪神の身であったなら、このような面倒は無かったろう。
しかしぬるりと舌を絡め探る行為は、何とも言い難い心地好さがあった。
おそらくはそこに『まぐわい』の意味がある、本来ならば。
「ん…」
ピクリ、と鶴丸の肩が震えた。
布団の下にある手を取れば、先ほどよりも体温が高くなっている。
ほぅと息を吐いて、竜胆丸は唇を離した。
(人の子のようにまぐわってしまえば早いんだが…)
それは少し違う気がする。
少なくとも鶴丸の意識が戻るまでは止そう、と身を起こす。
部屋を見回すと毛布が2組積まれており、平野の心遣いに感謝した。
有り難く1枚を拝借し、羽織を脱いで被ってしまう。
鶴丸の寝ている敷布の端で横になり、掛け布団の下で指を絡めた。
「日が昇ったら、起こしてやるさ」
もっとも神性を帯びる朝陽こそ、穢れを打ち祓うに相応しい。
傍らの半身を抱き締めて、竜胆丸はしばしの眠りについた。


*     *     *


なぜだろう、瞼の向こうが眩しい。
(日が入るほど、障子を開けられたことなど無いのに)
恐る恐る開いた目には、まったく見覚えのない天井がある。

「よっ、起きたかい?」

耳に馴染んだ声は、あまりにも聞き覚えがあった。
だってそれは。
(俺の、声?)
そろりと頬を撫でた手は不快ではなく、触れた箇所からじわりと温もりが染み入る。
「ああ、だいぶ祓われたな」
声も指先も心地好く、閉じそうになる瞼に逆らい声の方へ視線を動かした。
鶴丸の目が自分を捉えたと見るや、『彼』は柔らかな笑みで鶴丸を見下ろす。

「おはよう、鶴丸」

信じられない。
けれど夢だと思うのは、もっと嫌だった。

「り、んどう」

遥か昔、黄泉路で分かたれた自分自身。
日の元に引き摺り戻された自分と、主の黄泉路に従い黄泉の住人となった彼。
それが目の前に在り、いつでも欠けた心地の身が満たされる。
ーー紛うことなく、現世には無い『鶴丸国永』。
両手を伸ばそうとしてくる鶴丸に自ら身体を寄せ、竜胆丸はその身体を抱えるように抱き起こした。
「ああ、竜胆丸さ。御所で鶯に見つかったとき以来だな」
あれだって、もう百年は前の話だ。
「竜胆、竜胆丸」
「ああ」
「ほんとに」
「ああ。もう大丈夫だ、きみを脅かすものは何も無い」
息が、詰まる。
「…っ」
消えないことを、夢ではないことを確かめるように、鶴丸はその身体を強く掻き抱いた。
それにしたって竜胆丸には弱々しいものと感じられたが、何も言わず身を委ねる。
「独りで頑張ったな、鶴丸」
耳元で告げれば、微かに背を掴む指先が震えた。
それには気づかぬ振りをする。
「俺はきみだからな。何を思ってどう行動するかなんて、想像するに容易い」
例え千年近くもの間、違う理(ことわり)の中で在り続けたとしても。
「もういい。もう楽になって良いんだ。きみの…いいや、『俺たち』の憂いは祓われた」
そろりと顔を上げた鶴丸の表情は、まるで頑是ない幼子のようで。
「おわった…?」
「ああ」
「ほんとに?」
「本当さ」
竜胆丸の黄金の眼を見つめる同じ色が、つと伏せられる。
「…そう、か」
はたり、と零れ落ちる滴も見えていない振りをして、竜胆丸はただ弱り切った半身を抱き締めていた。



すらと開いた障子に、大倶利伽羅はハッと顔を上げる。
相手が口許に人差し指を当てたので、飛び出しかけた言葉を一度飲み込んだ。
「…鶴丸は」
「昼には自分で目が覚めるさ」
大倶利伽羅は心から安堵の息を吐き、ただただ良かったと思う。
竜胆丸はそんな彼の様子に苦笑した。
「きみも一度寝た方が良い」
「そうそう。さすがの君でも倒れてしまうよ」
どこかへ外していたらしい青江が、反対側でやはり苦笑する。
「いや、俺は…」
「…と、言うと思ってたよ」
にこりと笑った青江の後ろから、宗三が顔を出した。
「あなたの代わりに、僕がここで見張りをしますから」
畳み掛けるような連携に、竜胆丸は心の内でおお、と感嘆する。
「……そうか」
さすがに反論出来ない大倶利伽羅に小さく吹き出して、竜胆丸はその背をぽんと叩いた。
「部屋へ戻るついでに、平野を呼んできてくれ」
「…寝かせておいても良いのでは?」
まだ黎明ですよ、と困ったように告げた宗三に、大倶利伽羅が否を告げた。
「いや、起こそう。"呼ばれたときに行けないことが一番苦しい"と、以前言っていた」
ならばもう、何も言うまい。
大倶利伽羅を見送ってから、宗三が竜胆丸へ尋ねた。
「あなたは寝なくても大丈夫なのですか?」
「そうだな…。少なくとも、明日の朝には寝るさ」
「は?」
「おやおや、それではあなたも倒れてしまうよ」
解せないという色を乗せつつ疑問を呈す2人に、竜胆丸は答えずひらひらと手を振った。
「ま、俺はいろいろと特異なんだ」
平野が来たら外の連中の処へ行くよ、と残して、彼はまた部屋へ引っ込んでしまう。
「…ううん、不思議な人だねえ」
昼には皆が揃うはずだ。
聞きたいことはそこで聞こう、と青江は一旦すべてを保留にした。
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2016.1.3
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