三.  最初の挨拶

かんらかんらと笑う声が響く。

「いつまで笑ってる気だ、このクソジジイ」
「これが笑わずにいられるかい。まったく、口の減らぬ孫だのう」
「うるせぇよ」
「しかし…驚きましたなあ総大将」
「うむ」
「鴉天狗。てめぇも思い出に浸ってないで、さっさと話しやがれ」

湖の淵は、賑やかだった。
百鬼夜行ではないものの、奴良組として知られる者たちがすべて集まっている。
シャンッ、という音に振り向けば、問題の人物がこちらを見つめて苦笑した。

「凄い、妖気の渦」

まあそうだろう、とリクオは納得する。
祖父も含めこれだけの面子が集まれば、妖気も渦を巻くに決まっている。
ぬらりひょんは一通り笑ったのか、ようやく真面目な声を出した。
「お前さん、西方黒龍の息子じゃろう?」
と名乗った龍の子は、目を丸くした。
「知ってるの?」
「おお。彼奴(あやつ)は儂が現役の頃、お前さんと同じように"ここに棲んでも良いか"と訊いてきたわい」
鴉天狗も同じく頷いた。
「懐かしいですなあ。彼奴(あやつ)、総大将の百鬼夜行に怯むどころか、愉しそうだと言って」
「そうじゃそうじゃ。なかなかに面白い奴でのう。彼奴…お前さんの父は息災かい?」
「え? ああ、うん。元気だけど」
氷麗(つらら)がこっそりとリクオの袖を引く。
「若、つまりどういうことなんですか?」
リクオは少しだけ考えた。
「…昔、同じように龍神がここに棲んでたってことじゃねーか?」
まだ話の内容を掴み切れていない。
「リクオ。お前は奴良組の若頭じゃろう?」
そうこうしていると、話題がこちらへ飛んで来た。
改めて訊かれるでも無い事実に、リクオは祖父を見返す。
ぬらりひょんは湖の客人を視線で示して、孫へ告げた。

「彼奴の頼みを聞くかどうかは、お前が判断しろ」

リクオは目を瞬く。
「オレが決めて良いのか」
それは疑問ではなく、確認だ。
特に異論は返らなかったので、リクオはあっさりと客人へ告げた。

「別に良いぜ。他に迷惑かけねぇなら」

えっ?! と周囲の驚愕が重なるが、主より返る言葉はない。
リクオはただ、龍の子を見返す。
相手もまたリクオへ視線を合わせていたが、ややあってふわりと微笑んだ。


「ありがとう」


誰もが凪のように静まり返るほど、美しく。
…息を呑む美しさとは、このことだ。
虫の音のみが鳴る湖の淵で、ぬらりひょんの呟きがぽつりと響いた。

「…彼奴め、余程の麗人を嫁にしたと見える」

お前が言うか、とリクオの祖母を知る者たちは心の内で呟いた。
口に出さぬ理由はただ1つ。
ここで口に出せば、盛大な惚気を聞かされるに決まっているからだ。
大した問題も無く当面の塒を手に入れた龍の子は、シャンッ、という音を共にリクオを間近から覗き込む。
「?!」
1歩で近づける距離では、なかったはずだ。
面食らったリクオを気にすること無く、彼は隣の氷麗へ視線を向けた。
「さっきもこの子だったけど…」
そうしてまた、リクオへ視線を戻した。

「一緒に居たのは、君なの?」

夕刻、氷麗と共に湖へ来たときのことだろう。
「ああ。昼間は人間なんでな」
は目を丸くする。
「…へえ。変わった人も居るんだね」
お前もな、とは口にしなかった。

(妖怪の住処に塒(ねぐら)を創る龍神なんざ、訊いたことも無い)

ぬらりひょんが彼に呼びかける。
、と言ったか。お前さん、今度儂の屋敷へ遊びに来んか?
西方黒龍の武勇伝を聞かせてやるぞ」
「父上の? 母上に出会う前の父上のことは知らないから、それは是非」
妖怪の屋敷に神を招くことは、問題が無いらしい。
我が家ながら、奴良という家は不可思議だ。

ぬらりひょんの誘いに笑って返し、は再び湖の淵から距離を取る。
知らず息を詰めていたリクオは、気づかれぬ程度にそっと息を吐いた。
(あれは、心臓に悪い)
秀麗な面(おもて)を間近にして、動揺しない訳が無い。
それを悟られていないだけ、マシだろうか。
ふと顔を上げれば、湖上のと目が合う。
彼の眼は、月を映す水面のように透き通った蒼。
目が合ったことを喜ぶように、彼は微笑った。

「またね」

フッと高く飛び上がった彼の姿は、その姿に見合わない巨大な水飛沫と共に湖へ落ちた。
周囲の樹々を揺らす程の、轟々たる水音。
その場に居た全員へと降る、滝のような水飛沫。

(あれは…?)

庇うように翳した手と、流れる水の間。
リクオは月に煌めく青磁を見た。

「げほっ、げほっ!」
「若と総大将になんて失礼を…っ!」
「いやーん! 着物が! 髪が!」
言うまでもなく、誰もが酷い有様だった。
ただ1人笑っていたのは、やはりぬらりひょんである。
しかし未だ波の収まらぬ湖を見据える眼差しには、真剣な、それでいて愉しげな光が宿っていた。
「見たか? リクオ」
何を、とは返さなかった。
「青い光…いや、あれは鱗か?」
龍神ならば本来の姿は龍であり、その身を包むのは龍鱗(りゅうりん)だ。
とするとあの光は、月明かりを反射した青い龍鱗だろう。
「どうやら気に入られたようじゃな。龍神が本来の姿を見せるなど、そうそう無いことじゃて」
ありゃあ、大物になるぞ。



(龍…か)

見ることも会うことも、当然、言葉を交わすことさえ初めてである『龍神』という存在。
屋敷へと取って返すぬらりひょんや他の妖怪たちの後ろで、リクオは湖を振り返る。

「またな」

そう一言告げて、背を向けた。

End.


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09.11.8

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