八. 妖と龍と陰陽師
修行の為に浮世絵町へやって来た花開院ゆらにとって、繁華街は絶好の修行場である。
夜の繁華街、とりわけ街灯の光が届かない路地は。
少女が夜の繁華街を出歩くというのも、せいぜい21時頃までが限界だ。
そのためゆらは放課後、まっすぐに家へ帰ると鞄を置き、その足で町へと修行に出掛けるのが日課になっていた。
今日も今日とて、例に漏れず。
町外れの土手や空き地、閉鎖されているビル。
そんな類いの場所で何体もの妖怪を滅し(いわゆる雑魚ばかりだが)、ゆらはいつもの繁華街へ戻ってきた。
人の多い場所に現れる妖こそ、力と知能を持った者。
ゆらが妖怪に不覚を取った場所も、やはりこの繁華街が筆頭である。
(今日はもう仕舞いやな…)
そろそろ20時も回ろうかという刻限。
夕ご飯を買って帰ろうか、とゆらは時計を見直し、繁華街を出ようと歩き出す。
「え?」
そこで、何か"光るもの"が目の端に映った。
京都市内ほどではないが、この繁華街も裏道が多く走っている。
"光るもの"を見たのは、そのうちのひとつ。
踏み出しかけた足を一歩戻し、ゆらは通り過ぎた路地へと引き返した。
そっと覗いた路地は、長い。
しかも薄暗く、何が出てもおかしくはない。
(妖気が…)
複数の妖気が凝り固まって淀んだ空気は、あまり良いものではない。
慎重に足を進め、両手に破魔札を構える。
そうして繁華街の喧噪が遠くなった、と感じたその時。
【人間ダ!】
上から声がと思う間もなく、眼前に巨大な牙と舌。
「"爆"!」
反射で破魔札を飛ばし、韻を唱えた。
しかし相手の図体が大きすぎ、数枚の破魔札では捕らえ切れない。
霊力で爆発した破魔札は、相手の身体数カ所に傷を与えただけだ。
さらに上空から振り下ろされた爪を躱し、ゆらは相手の向こう側へと足元をすり抜ける。
「?!」
身体のすぐ脇を何かが掠め、次いで足元のコンクリートが砕かれる。
「っ、!」
飛んできた破片に、咄嗟に腕で顔を庇った。
がつん、と幾つかの破片が腕を叩き、じわりと痛みが広がる。
「わっ?!」
またも何かが振り回され、本能のままにしゃがみ込んだ。
数歩離れた箇所でがごん! と鈍い音が響き、がらがらと建物の外壁が穴を開ける。
(これは不味い!)
コンクリートを破砕したのは、長い尾だ。
まるで別の生き物のように、自在に振り回されている。
(路地から出んと、狭すぎて動かれへん!)
ゆらはじりじりと後退し、懐から式札を取り出した。
「式神、禄存(ろくそん)!」
掲げた式札から青い炎が上がり、ゆらが禄存と呼ぶ大きなエゾシカが現れる。
「禄存、この路地を出るで! 向こうや!」
その背に跨がり指示を出すや否や、あの長い尾がこちらへ振り下ろされた。
抜群の脚力で飛び上がり尾を避けたエゾシカは、ゆらの指示通り繁華街から遠ざかる方向へと駆ける。
路地はすぐに終わりを迎え、川の土手が遠目に見えた。
運の良いことに、人の姿は見えない。
路地の出口でエゾシカから飛び降り、ゆらは闇に蠢きこちらへ向かってくる妖怪を見据えた。
大きく開かれた口から牙が覗き、獣の咆哮が轟く。
ゆらは新たな式札を構えた。
「式神、廉貞(れんてい)!」
炎を上げた式札から、金魚のような鯉のような魚が現れる。
「式神改造・人式一体!」
続いて唱えた言霊に廉貞はゆらの左腕をくるりと回って、防具のように彼女の腕と一体化した。
ゆらは砲台のように変化した自身の左腕を、路地を駆けてくる妖怪へ定める。
「行くで! 黄泉送葬水包銃(よみおくり・ゆらMAX)ーーっ!!」
レーザーのように放たれた光が妖怪へ直撃し、破裂する。
だが破魔の光はすべてを呑み込めず、妖気が光の周りで影のように伸びた。
「なっ?!」
影のように伸びた妖怪の一部は、周囲を呑むようにゆら目掛けて襲いかかる。
(やば…っ!)
慌てて守護札を取り出そうとした、ゆらの目の前。
忽然と、人影が出来た。
気づけば目の前に、どこか光っているように見える、人が。
惚けたのは一瞬で、ハッとする。
「阿呆…っ、一般人が太刀打ち出来るヤツやないっ!!」
怒鳴り目の前の人影を押し退けようとした刹那、ゆらは信じられないものを見た。
ひゅぅ、と妖怪へ吹いた『風』。
その風が妖気を撫ぜたかと思うと、蜷局を巻いていた妖気が霧散した。
「な…、どういうことや…?」
周囲はしんと静まり返り、虫の音が聴こえてくる。
先ほどまでゆらが相対していた妖怪は、欠片の気配も残さず消えている。
「あんな大きな妖怪は初めて見たな…」
目の前の人影が声を発して、ゆらは幾度目か我に返った。
(誰や…?)
妖の気配が周囲から消えていることを確認し、式神を札へ戻す。
シャンッ、と透き通った鈴の音が響いた。
「本物の陰陽師も、初めて見たよ」
こちらを振り向いて軽く笑みを浮かべた相手に、ゆらは息が止まる程の驚愕を覚えた。
美しい面(おもて)、式服によく似た装束、光がなくとも煌めく青水晶。
思わず相手を上から下まで見聞してみれば、足が地に着いていない。
(この、気配って…)
幾度か感じたことのある、この荘厳な気配。
"これ"に出遭うのは、霊穴(れいけつ)と呼ばれる、自然に霊力の貯まった場所。
もしくは神社へ足を踏み入れると、種類によってはこの気配に包まれる。
ゆらは声が震えた。
「あ、あんた…神霊(しんりょう)か? それとも…」
それとも。
「おい! お前こんなところで何やって…、何でゆらが居るんだ?」
聞き覚えのある声と共に、2つの人影が別の路地から出てきた。
「うわ、花開院の…!」
後ろの人物がぎょっと肩を竦めたので、行灯が揺れる。
「奴良君…?」
手前を歩いてきたのは、着流しに身を包んだクラスメイト、奴良リクオだった。
ただし、妖怪の姿の。
リクオは行灯を持ち従う存在に、苦笑を向ける。
「大丈夫だ。誰彼構わず滅するほど、ゆらは非情じゃない」
彼が話している相手は、猫又だった。
(いや、今はそれどころやない)
リクオはゆらの隣へ視線を向けていた。
「まったく、どこで道草食ってやがんだい」
「うん、どこに店があるのか分からなくてさ」
「お前な…」
だから道案内付けてやるって言ったのに。
呆れた後にホッと息を吐いて、リクオは来た道をくいと顎で指し示す。
「ほら、行くぞ。良太猫がテンパっちまう。…ゆらも行くか?」
「へ?」
彼らの遣り取りを唖然と見物していたゆらは、突然話を振られておかしな声を上げた。
「い、行くってどこに?」
それもこんな時間に。
時刻はもう、22時になろうとしている。
リクオはにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「化猫組の店さ。オレの前で誰も滅さねぇなら、オレもおめぇには手ぇ出させねえよ」
それに、と彼はゆらの隣りの人物を改めて示す。
「そいつは『神族』だ。妖怪は手が出せねぇから、安心しな」
今、彼は何と言った?
「しんぞく、やて…? しんぞくて、神様の…」
恐る恐る隣りを三たび見上げれば、吸い込まれそうな蒼と視線がかち合った。
しかし彼(彼女?)は何も言わず、ふわりとリクオの隣りへ移動する。
すでに行灯持ちの猫又は、こちらへ背を向け路地へ入ろうとしていた。
「ほら、行くぞ」
当たり前のように、リクオはゆらを呼ぶ。
逡巡したゆらは、よし、と気合いを入れると彼らの後を追いかけた。
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10.7.25
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