九.  妖と龍と陰陽師 II

「…これは、ないやろ……」

うちは一体、何をやっとるんや…。
花開院ゆらは、自分が何度その自問を繰り返したのか数えてみた。
(…10回……)
無意味だ。
とんでもなく無意味だ。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん。浮かない顔してるねぇ?」
「あっ、いえ…」
猫の耳と尾を持った女性(つまりは化け猫だ)が、横合いからゆらの顔を覗き込む。
「まだお酒は無理なんでしょ? ほら、うちの特製またたびジュース、召し上がれ」
「あ、ありがとう…」
とても賑やかな店だ。
生まれ育った京都で言えば、やや庶民向けの呑み屋であろうか。
今居る部屋は上客用の奥座敷で、個室になっている。
テーブルを挟んだゆらの向かいの上座には、妖怪の姿をしたリクオ。
彼の傍に居る化け猫は、1人は行灯を持って彼に付き従っていた者だ(次郎猫と言ったか)。
そしてもう1人、リクオに酌をしている青い法被に頬かむりをした化け猫は、この店の主だという。
(…あ、意外といけるやん)
驚いたゆらは、手にしたグラスの中身を見下ろす。
黄色みがかった見た目のまたたびジュースは、ほんのりと甘く、後味にくる酸味が絶妙だ。

「そのジュース、未成年の妖怪たちの一番人気なんだってさ」
「っ?!」

声に対して、ビクリとあからさまに肩が震えた。
だが、相手はまったく気にした様子がない。
「陰陽師って、大人以外には居ないと思ってた」
ゆらをちらりとだけ見遣り、相手はまた卓に並ぶ料理へ視線を戻す。
視線が交わらないだけ、緊張感は和らいだ。
「確かに…。今の花開院は、若い人も多いかもしれません」
いち、に、と指折り数えてみる。
「うちはまだ修行中やけど、竜二兄ちゃんめっちゃ強いし。
他に分家から養子に入った魔魅流君とか、秋房兄ちゃんとか」
「ふぅん」
会話はそこで途切れ、ゆらは自分の隣に座る人物をぽかんと見つめた。

(なんで、龍神様が目の前に居(お)るんや…)

神位が無いのでまだ『龍神』ではないと言われたが、ゆらには違いがよく分からない。
陰陽道さえ修行中の身で、神道に通じる学びはほぼ手付かずだ。
(あかんあかん。もっと勉強せな…!)
ぶんぶんと頭(こうべ)を振ったゆらを、何だろうかとリクオは向かい側から見つめていた。
(…深く考え過ぎて、パンクしなきゃ良いが)
龍神と陰陽師、ここは妖怪の呑み屋。
まあこいつなら大丈夫か、とゆらに失礼なことを内心で思う。
別の応対から戻ってきた良太猫が、リクオの向かいを見遣り長い息を吐いた。
「はー…。若はほんと、美人のお知り合いが多いですよね」
「どういう意味でぇ?」
「いや、だって…雪女さんに毛倡妓の姐さんなんて、筆頭でしょう。
以前連れて来られた人間のお嬢さんも、大層可愛らしい方でしたねえ」
いやあ、若も隅に置けない! などと、良太猫は愉しげに笑う。
「けど、あちらは格が違いまさぁ…」
あっしが言うのもなんですが、という彼の呟きの先には、の姿が在る。
その言は、リクオにも否定する要素がない。
しかしとゆらを見ていて、ふと気になったことがあった。
「なあ良太猫。ちょいと良いかい?」
「はい?」
軽く耳打ちすれば、お易い御用です、と良太猫は座敷を出て行った。

時々、『風』が吹く。

それは誰かが動いた所為とも、どこかからの隙き間風とも思えた。
そうではないとリクオが気づいたのは、2つ目の銚子を空にした頃だ。
「龍神様は、あんまりご飯食べへんの? どれも初めてみたいな顔やなあ…」
卓の料理の説明を求めるに、ゆらは不思議そうな顔をした。
「こっちに来るまで、ほとんど食ったことがなかったんだってよ」
「へえ…。神様の食事なんて、考えたこともなかったわ」
ゆらはリクオの返答に、得心したとばかりに頷いた。
良太猫に代わりリクオの酌をしていた猫又が、向かいの2人の酌へ向かう。
彼女はゆらのまたたびジュースを注ぐと、反対側へ回り銚子を手にした。
「お兄さん、若頭と同じで相当いけるクチだねぇ」
また、風が吹いた。
風はすぐに止み、その猫又やゆらが風を気に留めた様子は無い。
これはすでに幾度か起きていたことで、リクオも最初の数回は確実に見逃していた。
良太猫が向こう側の(ゆらたちの後ろだ)襖を少し開け、猫又の女性を呼ぶ。
何事か彼女に耳打ちする店主の言葉は、先ほどリクオが頼んだことであろう。
彼はおそらく、他の何名かにも同じことを伝えたはずだ。

それ以降、『風』は吹かなくなった。



もう時刻は0時近い。
「おめぇは強いけどよ、夜は妖怪の本分だ。お巡りに捕まるのも面倒だろ?」
ゆらは家の傍まで送るというリクオの申し出を、結局断れなかった。
(式神に乗って帰れば早いのに…)
だがリクオの"お巡り"という言葉は、確かにその通りだと納得するしか無かった。
家出少女と言われても、この時間では仕方がないのだから。

湿っぽい風に吹かれ、顔を上げる。
彼らと出会った土手が見えてきた。
(そういえば、この辺りの路地やったな…)
あの、異形の妖に遭遇したのは。
自分が駆け出してきてに助けられた、路地。
そしてリクオたちに出会った場所だ。

真っ暗な上に空気の淀んだ路地を覗き込んで、ゆらは地面に妙なものを見つける。
「これは…」
式札、だった。
和紙が人型に切られた、式神を乗せるための典型的な呪符。
違和感を覚えるのは、和紙の色が真っ黒であることと、もう1つ。
(なんや? この紋は…)
黒い和紙に白ひと筆で描かれた、目の紋様。
その目玉の真ん中を、右上から矢が貫いている。
(気味が悪いな…)
呪符は中央の目玉紋様まで縦に切り裂かれ、もう使い物にはならない。
だがゆらは、その黒い呪符をポケットに仕舞った。
(竜二兄ちゃんに聞いてみよう)
もしかしたら、あの黒い獣は。

「あっ、ごめん」
足を止めこちらを待っていたリクオたちに、ゆらは駆け足で合流する。
「何かあったのか?」
尋ねたリクオに、彼女は頷いた。
「うん、誰かの式札があって。他に花開院の術者は居(お)らんはずなんやけどな…」
「そうなのか?」
「半人前のうちに、わざわざ隠す必要もないし」
リクオの隣を飛んでいたが、ゆらを見る。
「陰陽師って、全部『花開院』?」
ゆらは首を横へ振った。
「ううん。他にも流派はあるし、花開院から出て別の家になった流派もあります」
「へえ…」
数分も歩けば、ゆらの借りているアパートが見えてきた。
彼女は1歩駆け出し、リクオたちを振り返る。
「もうここでええよ。ありがとう」
リクオは軽く手を上げることで答えた。
「ああ。またな」
も笑みを返す。
「おやすみ。またね」
彼女が階段を上っていくのを見届けて、リクオたちは来た道を引き返す。
奴良家は川を渡った向こう側だ。



「なあ、
リクオは化け猫亭で気づいてから、ずっとに問おうとしていたことがあった。
ただ、問うための言葉が難しい。
「なに?」
こちらを見る彼に、逡巡を挟んでついに尋ねる。

「なんでおめぇは、"近づかれないように"してるんだ?」

リクオが確信を持ったのは、先刻。
けれど疑問を覚えたのは、もっと前だった。
彼が、奴良家へ遊びに来るようになってから。
…常に保たれている一定の距離が、決して崩れない。
それが、店で吹いた『風』だ。
『風』という壁を立てて、は彼と他者との間に絶対的な距離を創っている。

酌をする者や、すれ違う他の客たち。
は、彼らに決して触れないように動いていた。
今も。
「オレや次郎猫がおめぇに触れちまわないように、神経張り詰めてる」
の目が、軽く見開かれた。
「…気づいてたのか」
「まあな」
人の役に立とうと走り回っている、昼の自分。
奴良組三代目を襲名出来るよう走り回っている、夜の自分。
他者との距離には、敏感になってしまう。
…ふい、と蒼の眼がリクオから逸らされた。
月が陰ったのか、闇に慣れた視界が暗くなる。

「きっとリクオも、怪我をするから」

こちらを見る蒼でさえも、陰ったかのように。
「え?」
おやすみ、という言の葉だけを残し、は身を翻して飛んでいってしまった。
「怪我をする…?」
掴み損ねた言葉の意味は、月明かりが戻っても見つからなかった。

End.


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11.1.15

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>>  あとがき
間を空け過ぎて、本当に申し訳ない。
詰め込み過ぎて迷走した感がたっぷりです…(遠い目)
大阪弁も京言葉も、標準語との違いはイントネーション。文字じゃないよ。