十. 神仙花
しん、と静まり返った湖。
空の半月は、波紋の無い水面に揺らぐことなく映っている。
淵に1人立つリクオは、誰の姿も無い湖へと声を投げた。
「、居るか?」
問い掛けにややの間を置いて、何が落ちたでも無く水面に波紋が浮かんだ。
「なに?」
シャンッ、という音と共に、がふわりと姿を見せる。
リクオは笑み、時間はあるか? と尋ねた。
「おめぇに会わせてやりたい奴が居るんだ」
外へ応対に出た抱え弟子の1人が、慌てふためき戻って来た。
仔細を訊いた鴆は、しまったとやはり慌てて立ち上がる。
足早に玄関へ向かえば、月を思わせる『彼』はすでにそこに居た。
「リクオ!」
呼ばれたリクオは目を瞬き、鴆の姿を認めるとホッとしたように息を吐く。
「おう。あんまりにも顔見せに来ねぇから、くたばっちまったかと思ったぜ」
冗談半分、といったところだろうか。
鴆は返す言葉に迷い、頭を掻く。
「…すまねぇ。明日にでも訪ねようと思ってたんだ」
それは本当のことだ。
義兄弟は分かっているとばかりに肩を軽く竦め、苦笑した。
「そうかい。なら、良かった」
奴良組の若頭を、いつまでも玄関先へ留めるわけにはいかない。
奥へと即した鴆に頷いたリクオは、玄関を振り返って首を傾げる。
「あれ?」
その声に釣られ、鴆も足を止める。
「どうした?」
「ああ、いや…」
リクオはもう一度背後を見遣り、まあいいかと視線を戻した。
「おめぇに会わせたい奴がいてよ。さっきまで居たんだが…」
「俺にかい?」
先を歩く鴆の後ろから、リクオは続ける。
「ああ。本家に来てないおめぇだけ、まだ会ってないから」
鴆一派の本邸は平屋だが、やたらと一直線に長い。
長い廊下の両側に並ぶ和室は、ところどころ間仕切りが開け放たれている。
手前の襖が開け放たれたままの部屋は奥の障子も閉じられておらず、広い庭先が散見出来た。
あまり冷え込まないこの時期は、内で栽培している薬草を考慮して閉じないのだという。
「うわ!」
一本道であった廊下をひとつ曲がった、この屋敷の奥座敷の手前だった。
突然に鴆が立ち止まったため、リクオは危うくその背にぶつかりそうになる。
「おい、鴆?」
怪訝な問いかけに、鴆からの答えは無い。
リクオは彼が凝視する先を見ようと、その横から板張りの廊下向こうを覗き込む。
「!」
そうして先にある光景を見て、リクオは鴆と同じく言葉を失くした。
藤、だ。
特に手の掛かる薬草と観賞用の草木が生い茂った、奥座敷の先に広がる最奥の庭。
梅、桜、椿と並ぶ樹々に中央を譲り、古池の脇ではるか高見から屋敷を見下ろす、大層立派な櫟(くぬぎ)。
目を奪ったのは、その櫟の花であるかのように幹に枝にと桜の如く数咲き誇っている、藤だった。
月夜に満開の盛りの藤は、それだけでも幻惑されそうなほどの美しさ。
ましてやそれが、の姿と共に在るなど。
呼ぼうとした名は、発される前に霧散する。
その場から、1歩だって動けやしなかった。
(…『神様』ってのは、どうしたって触れられそうにねぇもんなのか)
リクオの内に漠然と、そんな思いが浮かんで消えた。
「…なんてこった」
まさかあの藤、神仙花(しんせんか)だってのかい。
ぽつりと零された鴆の呟きを、リクオはしっかりと拾った。
「神仙花?」
返した声で、鴆は我に返ったようだ。
リクオを振り返り、頷く。
「おう。八百万の神の住まう領域で、千年以上生きてる植物のこった。木なら神仙樹だな」
「あの藤が?」
「…そうでなきゃ、光ったりしねえよ。何モンだ? あの少年」
確かに、が話し掛けているように見える藤は、淡い光を纏っていた。
リクオは足を進め、そっと奥座敷へ足を踏み入れる。
鴆には彼の姿が周囲の闇に溶け込み、ぬらりひょんの『畏(おそれ)』の発された様が見て取れた。
(って、どこ行きやがった?)
つまりは自分も、リクオの姿が見えなくなるということで。
考えた鴆は、しばらくは様子見で馬鹿みたいに突っ立っておこうかと軽く決める。
リクオが言った『会わせたい奴』というのは、あの少年のことだろう。
しかし。
(あんな妖怪、居たか…?)
縁側に出れば、半月の光が庭を照らし出していた。
薄暗いことは当然であるが、藤へ視線を投じれば『夜』という事実を忘れそうになる。
(…これが)
藤をじっと見つめ微笑むを見上げ、リクオは自分が何を感じたのか、その名前を見つけた。
これは、『壁』だ。
自然の理という名の、決して侵すことの出来ない『壁』。
この、見えない『壁』に触れようものなら。
(消し飛ばされるくらいの)
ほぼ毎日のように、と言葉を交わしていた。
彼が奴良家の南にある湖へやって来てから、もうひと月が経とうとしている。
リクオとの間柄は、確かに『友』と呼べるものであろう。
だがリクオには、未だ彼に問うことが出来ずにいる問いがある。
(…たぶんオレは、答えを知ってる)
だから問えない。
明確な答えを知ることを、名前の付けられない思いが拒む。
「え?」
不意にが声を発したことに驚き、リクオは我に返った。
同時に畏が解け、鴆がリクオの姿を見つけて驚く。
「おま、どっか移動したかと思ってたぜ」
目の前に居たのかよ、と呆れを交えた鴆の小言に、それもそうだと腑に落ちた。
先ほどの声は、『藤』に対して発されたのだろうか?
再度を見上げると、ちょうどこちらへ視線を向けた彼と目が合う。
(え?)
水面のように透き通った蒼。
…その蒼の中に、哀色を見たような気がした。
ほんの刹那の煌めきでその色は消えてしまったが、変わらず蒼の目はこちらに向けられている。
「?」
呼び掛ければ、瞬きが返った。
「…あ、ごめん。何でも無い」
それはいったい、何に対する謝罪だったのだろうか。
「その人は?」
ここで初めて、は鴆の姿を捉えた。
俺は空気かよ、と呟いた鴆に苦笑し、リクオはいつもの調子を取り戻す。
「こいつは鴆。オレの義兄弟だ」
「義兄弟?」
リクオは鴆へを示してみせる。
「あいつは。ひと月くらい前から南の湖に住んでる、龍神だ」
「へえ。…って、龍神?」
ぽかんとリクオを見返して、鴆は同じ目の高さまで下りてきたを見つめ返す。
「龍神っていやぁ、水を司っていて人間が社(やしろ)造って崇めてる、あの?」
信じられずそんな問いかけを寄越した鴆に、リクオはへ尋ねた。
「他になんか、例あるか?」
「うーん…オレは知らないなあ」
大体合ってると思うけど。
「あと、オレはまだ『龍神』じゃないよ。神位を持っていないから」
どうでも良さそうに返され、鴆は改めてを見遣る。
「へえぇ…。まさか龍神様にお目にかかる日が来るとはなあ…」
やっぱり長生きはするもんだ。
しみじみと零された言葉に、リクオは眉尻を下げるしかない。
「オレから見りゃ、よっぽど長生きだよ」
その調子で生きてて貰わねえとな。
"鴆"という妖怪の持って生まれた宿命ゆえ、どんな妖怪よりも短い寿命だ。
リクオは時折、自分がまだ子供の年齢で良かったと思うことがある。
鴆はそこで、思い出したように屋敷内へと足を向けた。
「おっと、客ならちゃんともてなさねぇとな。ちょっと酒出してくるぜ」
「手伝おうか?」
「奴良組若頭にんなことやらせたってバレたら、鴉天狗に袋だたきにされちまう」
「? そうか」
あっさりと引き下がって鴆を見送り、リクオはを振り返る。
「さっき、何か話してたのか?」
「え?」
質問の意味を掴めなかったらしく、が首を傾げた。
リクオは櫟の藤を指差す。
「あの藤と、話してるように見えたから」
また、あの哀色が閃いて、消えた。
「…?」
名を呼んだリクオの視線から、は逃れる。
「…なんでも、ないよ」
なおも口を開こうとしたリクオは、座敷からの足音に追求を止めた。
「リクオ! それから…って言ったか。お前さんも早く入りな」
「おう」
鴆へ返してから、リクオはいつものようにを呼ぶ。
「ほら、おめぇも」
「うん」
縁側に足を付けて、はもう一度だけ櫟の藤を見上げた。
言葉は、聴こえないフリをして。
――― 貴方ハ 妖ニ近ヅキ過ギテイル
ーーー 早ク 離レタ方ガ良イ
End.
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11.2.12
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