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ふわり。

人工の風が、開け放たれた窓からカーテンを揺らす。
温度調節が行き届いた風は、どこまでも爽やかだ。
カーテンの隙間から部屋の中に伸びる光は、ちょうどベッドの足下まで伸びた。


さらさらさら…。

何かを書く音がぴたりと止まる。
ベッドの上で分厚い資料らしいものを見ていた少年は、ふと吹いた風に窓の方を振り向いた。
いや、青年と言っても過言ではないかもしれない。
室内に居る生活が長引いたせいで、筋力もすっかり落ちてしまった。


コンコン。

ノックの音、次いで扉が開く。
入って来たのは、スプライトグリーンの髪をした青年だ。

「お加減はいかがですか？」

返事はない。
しかしその青年は安心したように微笑んだ。
…白衣こそ着ていないが、彼はこの病院の看護士。
彼が声を掛けた青年は、今から４ヶ月ほど前にこの病院へ運び込まれた重傷人。
ようやく怪我が完治し、退院のための手続きも済んだ。
残る問題は２つほど。

「面会したいという方がいらっしゃったので」

「いつもの方です。金髪の…」

「…分かりました。ただし、まだ無茶は禁物ですよ」

会話が為されているはずなのに、声は１つしかない。
けれど看護士の青年は、苦笑を漏らすと部屋を出て行った。

ふわり。

またカーテンが風に揺れた。
ベッドに座っていた青年は立ち上がり、窓際へ寄る。
少しカーテンを開けて外を眺め、しばらくすると今度は傍のサイドテーブルへ手を伸ばす。


コンコン。

またノックの音が響き、扉が開く。
入って来たのはがっしりとした体躯の、黒い仮面を付けた男だった。
本来ならばぎょっとするところだが、そちらを見た青年は驚く様子がない。

「思ったより加減は良さそうだな」

男の言葉に青年はサイドテーブルにあったメモ用紙とペンを取り、何かを書き始めた。
ほんの数秒で何かを書くと、青年は書いた用紙を男へ見せる。


【おかげさまで体力が落ちた】


これが書いてあった文字。
先の看護士との会話が一方的だったのは、このせいだ。
この青年は、声を出すことが出来ない。
先天性のものではなく、精神的ショックという後天的な理由で。
男は前もって知っていたらしく、そのまま会話を続ける。

「それは仕方ないな。４ヶ月もベッドの上に居れば」
【用件は？】
「先日の返事を聞きに。そろそろ上が五月蝿い」

どうやら男は、以前からこの青年を尋ねて来ていたようだ。
青年は考える素振りを見せ、またメモに文字を書き始める。

【こっちの条件については？】

今度は男が考える素振りを見せた。
「大方受け入れるとか言ってたが。どこまでホントかねえ…？」
【相変わらずか？】
「そうだな。君も良く知ってるだろう？上の怠慢さは」
【今さら】
そう書き捨て、青年は不快そうに眉をひそめる。
同じように男もため息をついた。

「俺としては…君にはあまり戻ってほしくないのが本音だな」

青年が不思議そうに首を傾げる。
【なんで？】
ただ一言書かれたメモを見て、男は言うものか否か逡巡した。
その間にも青年はさらさらとペンを進める。

【復帰しろって言ったのはそっちだ】
「そんなに強制的だったか？」
【軍の任務で来た時点で】
「…それもそうか」

苦笑を落とすと男は歩を進め、青年が寄りかかっていた窓のカーテンを開ける。
…男は軍の人間であった。
外を眺めて、照りつける太陽に目を細める。
「ヘリオポリスもこんな感じだったが…ここは静かだな」
どこか懐かしむように男が呟いた。
彼が口に出した都市は、とうに崩壊して存在が消えている。

ここは月面都市コペルニクス。
中立国として名高いスイス共和国の管轄で、ナチュラルもコーディネイターもここでは無意味だ。

袖を引っ張られる感覚がしてそちらを見ると、青年がまたメモ用紙を見せた。
【居たことあったのか？】
青年の言葉が断片的なのは仕方がない。
こちらが読唇術でも持っていない限り、スムーズな会話は難しいだろう。
それが分かっている男は続ける。
「かなり前だな。大戦が始まった当初か」
そこで気付く。
「君も居たのか？崩壊する前に」
前大戦時、ヘリオポリスというコロニー都市は崩壊した。
宇宙にあるため、行ったことがない者も多い。
青年はその問いにただ一単語だけ、こう書いた。



【ストライク】



男もまた、それで納得した。
「ああ…そりゃ、居ても不思議はないな」
またも苦笑を漏らした男に、青年も釣られるように笑った。
ただ伸びるままの髪は肩よりも下になり、吹く風に遊ばれる。
同じように外を眺める眼は、以前と変わらず翡翠色に空の青を映す。

男は彼を、噂だけでよく知っていた。

コーディネイターに間違えるのも無理はない容姿。
まだ10代ながらも、指揮官の方が脱帽してしまう指揮能力。
常に戦火の最前線に居た、MSのパイロット。

終に付けられた二つ名を"連合の蝶"、スピネル・フォーカス。

地球連合軍は今、彼の動向によって左右され得る事態に陥っている。
それは彼が、故ムルタ・アズラエルの子息であるためだ。


戦争を産業とするアズラエル財団の行く末は、彼が握っていた。