空には徐々に、人工的な雨雲が涌き始めていた。

ラクスたちが目指したのは、すでに廃墟と化した劇場だった。
しかし歩道脇の街灯には未だ、ラクスがコンサートを開いたことを示すタペストリーが掛かっている。
「ここは、私が最初にコンサートを開いた場所ですの」
車から降り、ラクスは懐かしそうにカナードへ言った。
…そう大きくはない劇場だ。
だが"ラクス・クライン"という名の歌姫の、出発点だったのだろう。
中へ足を踏み入れると、ラクスは迷わず2階へ足を向ける。
そして劇場の中へ続く扉を開け、感嘆の声を上げた。

「観客席からは、このような景色が見えていましたのね…」

カナードも同じように手摺から舞台を見下ろす。
「見たことなかったのか?」
それに頷いたラクスは苦笑した。
「実は1度も。いつも私は舞台に立ち、他の方へと歌を届けておりましたわ」
私の姿は、どのように見えていたのでしょう?
ラクスはそう微笑んでカナードへ尋ねた。
「カナードはいかがですの?このような場所へは?」
「…"普通"の場所は、言ってみりゃ全部初めてだな」
「え?」
首を傾げるラクスに、カナードは自嘲気味に笑う。

「"普通"の奴から見れば、あんたは政治家の娘で歌姫で、"普通"じゃないんだろうが。
俺から見ればあんたも…それにキラも、全部が"普通"なんだ」

研究所と戦場しか知らない自分から見れば。










-月と太陽・25-










自爆したアラスカ基地から数kmの海岸。
AAのクルーとキラはそこへ降り立った。
見たことのないMSから歩いてくるキラが纏うのは、ザフトの紅。
…マリューたちは、出すべき言葉が見つからない。
しかしキラは彼らの前に来ると、苦笑気味に微笑んだ。

「間に合って、何よりです」

キラのその言葉で、張り詰めていた空気が弾けた。
「キラ!」
まずミリイが駆け寄り、次いでサイやカズイ、そしてマリューたち。
「本当に…キラ君なのね…」
心底ホッとしたようにマリューが呟いた。
「その服は…ザフトか?」
尋ねたフラガに、キラは微笑する。
「そうですね。でも僕は、ザフトの軍人じゃないですよ」
そして後ろに立つフリーダムを見上げる。
「あれは"フリーダム"。ザフトのものですが、"僕たち"はザフトではありません」
「僕"たち"?」
キラは頷く。
「僕とカナード、それからこの機体を僕に託した人です」
「…そのカナードは?」
「プラントにいます」
「「プラント?」」
聞き返すが、キラはそれ以上答えなかった。
マリューはその"フリーダム"という名のMSを見上げる。
「あの機体の整備や補給は?どうするの?」
「どちらも今は必要ありません。お願い出来るなら、僕以外触れないで下さい」
「え?」
誰もが首を傾げる。

「僕がこうして皆さんの前に立っているのは、皆さんなら考えてくれると思ったからです。
"何と"戦わねばならぬのか、"何のための"戦いなのか」

キラ自身の意思ではない。
皆に考えて欲しいと言ったのは、ラクスだった。





アスランは最高評議会議長である父に会うため、議長室を訪れた。
部屋に入ると、2人の議員が指示を受けて出てきた。
パトリックはそれを見送り深く息をつく。
「父上…」
思わずそう口に出したアスランを、パトリックはギロリと睨んだ。
「何だ、それは」
アスランは慌てて敬礼を取った。
「失礼致しました、ザラ議長閣下」
「…話はすでに聞いたな?」
アスランは頷く。
「はい。しかし…」
父が言っているのは、作戦失敗の話ではない。
「しかし…何だ?」
そう問うてくる父へ、アスランは正直に言った。

「私には信じられません。あのラクスが、スパイの手引きなど…」

パトリックは再び息を吐き、リモコンを取り出してモニターにある映像を映した。
「私とて信じたくはない。だが、証拠が残っている」
その映像は、フリーダムが開発されていた格納庫に設置された、監視カメラのもの。
ちょうどフリーダムの正面にあるらしい。
少し下に映る桟橋に、ラクスと誰か別の人物の姿が映っている。
…ラクスの隣りの人物は、自分と同じ紅服を纏っていた。
カメラの映像は2人をズームしていく。
ラクスが振り向いたところで、映像はプツリと切れた。
おそらく回線を切ったのだろう。
突きつけられた信じたくはない現実に、アスランは知らず拳を握った。
モニターを消すと、パトリックはアスランに向き直る。
「ラクス・クラインは国家反逆罪で指名手配中だ。よって、婚約はすでに破棄されている」
「え?」
予想出来たこととはいえ、アスランは驚きを隠せない。
しかしパトリックはそのまま続ける。

「お前に任務を言い渡す。
フリーダムと同時期に開発されたZGMF-X09Aジャスティスを受け取り、即刻地球へ向かえ。
そしてフリーダムの奪還と、それに関わった者たちを全て排除しろ」

「なっ…」
アスランは耳を疑った。
「フリーダムの奪還はともかく、関係者全員を排除…ですか?」
いくらなんでも行き過ぎではないのか。
だがパトリックは顔色1つ変えない。
「そう、全員だ。フリーダムも奪還が不可能なら破壊して構わん。
あれをナチュラルどもに渡すくらいならばな」
「……」
それ以上何も言えず、アスランは議長室を後にした。



その足で、アスランはジャスティスの仕上げ作業が進む格納庫を訪れた。
…Nジャマーキャンセラーを搭載したMS。
桟橋からそれを眺めるアスランは、横に立った人物に軽く会釈する。
「明日には仕上げ作業も終わるだろう。もう少し待ってくれ」
開発担当者であるその人物は亡きニコルの父、ユーリ・アマルフィ。
「すいません…ニコルのこと…」
アスランは無意識のうちにそう口に出していた。
思えば、彼の父にこうして会ったのはあのとき以来初めてだ。
しかしユーリは首を横に振った。
「いや、いいんだ。仇は君に討ってもらった」
「……」
確かにそう。
自分はニコルを殺したキラを、この手で。
「しかし…何故このようなことに…」
ユーリはジャスティスを見上げる。
「二度とこのようなことが起きないようにと願う傍で、何故それを裏切る者がいるのか…」
「……」
アスランは何も答えられなかった。
一体彼女は…ラクスは、何を考えているのか。





久々に足を踏み入れたAAの艦内。
通路を歩いていたキラはある部屋の前で、ふと足を止めた。
…フレイの部屋だ。
綺麗に整頓された中を見回す。
視線を落とせば、口紅か何かが落ちているのを見つけた。
「?」
人の気配がして振り向くと、入り口にサイが立っていた。
『トリイ!』
そして彼の手から飛び立ったトリイが、キラの肩に止まる。
驚くキラにサイは言った。

「それ…さ。フレイがずっと連れてたんだ」

"それ"とは、トリイのこと。
彼女がずっと持っていた?
「ずっと待ってたんだ。キラと、カナードさんが戻ってくるのを」
「え…?」
サイは悲しげな笑みを浮かべる。
「異動になったんだ。アラスカで。俺に渡してくれって言って、降りて」
「……」
「ずっと待ってたってことを伝えてくれって」
「…そう」
キラは肩に止まるトリイを見、そしてサイを見た。
「ありがとう。伝えてくれて」

サイがいなくなってからも、キラはしばらくその部屋にいた。
「そっか。フレイが…」
ここで、待っていてくれたのか。
「スピネルも一緒だといいけど…」
彼が異動するだろうことは、最初から予想していた。
ましてやあの腕を、上層部が手放すわけがない。
…しかしフレイまでもが転属とは。

『見たいと思ったの。だから私は、貴方たちの傍にいる』

そう言った彼女はもう、ここにはいない。
「ここにも…あったんだ…」
帰って来れる場所が。
「…カナードにも、ちゃんと伝えなきゃね」
待っていてくれた彼女のために。





すでに当局の捜索を受けたクライン邸は、見るも無惨だった。
「…ここまでしなくても……」
ほとんど全てのガラスが割れた屋敷を見上げ、アスランはため息をつく。
ラクスがお茶会を開くときにいつも使っていたサンルーム。
そこは影も形もないと言っていいほどで、骨組みだけが残っていた。

サンルームへ繋がる、花壇に囲まれた道。
煉瓦が所々で崩れ落ち、掛けられていたビニールシートも支柱のみが残る。
さすがに咲き乱れる花々を散らすのは躊躇われたのだろう。
花壇に咲く花だけは綺麗に残っていた。
…その一角で。
薔薇の咲く花壇から、何か丸いものがころころと転がり出てきた。
「…?」
不思議に思い近づいてみると、それは濃いピンク色。
それは道の真ん中まで転がってくると、パタパタと飛び跳ね出した。

『ハロハロ!オマエ元気カー?!』

アスランは目を丸くした。
「ハロ?!」
自分がラクスへ、最初に贈ったハロだ。
『ハーロー!アスラーン!』
「うわっ?!」
ぴょんぴょんとその辺りを飛び回った後、ハロはアスランへ体当たりを仕掛けた。
咄嗟に受け止めたが、それっきりハロは大人しくなってしまう。
それに首を傾げたアスランは、ふとハロが転がってきた花壇を見た。
…白い薔薇の花壇。

『この花は、私の思い出ですわ』

ずっと以前にそう言った彼女は、何と言っていた?
「確か…」
この白い薔薇は、そのときに贈られたものだと。
「もしかして…!」
アスランはハロを手に持っていることを確認すると、車へと引き返した。





ポツリポツリと雨が降り出した。
アスランは車を降り、目の前にある建物を見つめる。
『ホワイトシンフォニー』
それが、すでに廃墟と化したこの劇場の名前。
…彼女が最初にコンサートを開いた場所。
包帯で固定されている左手にハロを、右手にサブマシンガンを構え、アスランは劇場へ向かった。
あってないような劇場の入り口を抜け、そこでふと足を止める。

歌が。

用心深く銃を向け進むアスランの行く手から、歌が聞こえてくる。
廃墟と化し、壁の大部分が崩れ去った劇場。
奥からの歌声は遮られることなく響く。

崩れ落ちていない、両開きの扉を静かに開ける。
観客席の中心を通る通路の扉だった。
…その通路の先にある、舞台。
大きな瓦礫の1つに腰掛け、ラクスが歌っていた。
この美しい歌声を聴くのも、随分と久しぶりのような気がする。
アスランは構えていた銃を下ろし、通路を静かに進んだ。

『ハロ!ラークースー!』

中程まで進んだところでハロがアスランの手から飛び出し、舞台へ飛び上がった。
ピタリと歌声が止まる。
「まあ、ピンクちゃん!」
手の上に飛び乗ったハロにラクスは嬉しそうに微笑み、そしてアスランを見た。

「やはり貴方が連れてきて下さいましたわね。アスラン」

それに答えず、アスランもまた舞台へ飛び乗った。
ラクスから少し離れた場所に立ち、彼女を正面から見据える。

「一体…どういうおつもりですか」

尋ねるアスランに、ラクスは小さく首を傾げた。
「どう、とは?」
「…貴女がスパイの手引きをしたと、議会は大騒ぎです」
「それでは、私を探せと命じられて?」
「いいえ。貴方の口から真実を聞きたいと思っただけです」
「……」
ラクスは押し黙り、そしてアスランの目をまっすぐに見つめた。

「スパイの手引きなどしてはおりません」

アスランは目を見開いた。
「何を…」
そのままラクスは続ける。
アスランにとって、信じ難いことを。

「あの機体は、キラに託しました」
「今のキラに必要で」
「ご友人を守りたいと願い、力を求めたキラに」
「ナチュラルもコーディネイターもない、それに最もふさわしい方に」
「キラ・ヤマトに、私が託しました」

アスランは言葉を失った。
「何を、言ってるんです?キラは…あいつは…」
「貴方が殺しましたか?」
「!!」
改めて言われ、言葉に詰まる。
そんなアスランにラクスは優しく微笑んだ。
「キラは、生きています」
「嘘だ…」
「嘘ではありません」
「…っ!」
アスランは混乱のあまり、ラクスへ銃を向けた。
しかしラクスは怯まず、微笑みを消してアスランを見据える。
「アスランが信じて戦うものは何ですか?頂いた勲章ですか?お父様の命令ですか?」
立ち上がり、アスランへと歩む。


「敵だというのなら私を撃ちますか?ザフトのアスラン・ザラ!」


銃を突きつけられた目の前で、自分を見据える少女。
アスランは彼女に気圧された。
あまりにも強く、迷いなきその言葉に。
…撃てるわけがない。
「俺、は…」
視線を落とすアスランに、ラクスは表情を和らげる。
彼もまた、迷いの最中にいるのだと。



突然、バタバタという足音が劇場に響いた。
アスランは咄嗟にラクスを後ろに庇い、観客席へ銃を向ける。
「さすがは元婚約者。ラクス・クラインの居場所を見事に突き止めて下さった」
銃を向けてくるのは、何者か分からぬ黒服の男たちだ。
アスランはここでようやく、自分が跡を付けられていたことを悟った。
「さあ、どいて下さい。貴方の後ろにいるのは、国家反逆者です。
捕らえることが不可能な場合は殺害せよという命令だ」
「なっ?!」
驚くアスランの前で、黒服の1人が不意の銃声と共に倒れる。
…それが合図となった。
劇場の中はあっという間に銃声の鳴り響く空間に変わる。
アスランは相手が別の銃声に気を取られた隙にラクスを抱き上げ、瓦礫の向こう側へ回り込んだ。
隠れた瓦礫の反対側に、銃弾が当たって跳ね返る音が響く。
しかしこちらへ向かってきたいくつかの足音と共に、銃声がぱたりと止んだ。
…時間にすれば、おそらく1分もかかってはいないだろう。
劇場はまた元のように静かになった。

「婚約者同士、そろって博打打ちだな」

そんな声に身を隠していた場所から出ると、死んだ黒服の男たちの銃を拾う人物がいた。
彼は中に弾が入っているのを確かめて、それを別の誰かへ投げ渡す。
観客席の方を見ると、ザフトの緑軍服を纏うSPらしき人物が数人立っていた。
ラクスはそちらへ微笑みかけ、そして舞台に立つ人物へ歩み寄る。
「お怪我はありませんか?」
尋ねたラクスに、その人物は呆れたように返した。
「…逆だろ。明らかに」
ラクスは笑みを零し、アスランを振り返った。
「私は大丈夫ですわ。アスランが守って下さいましたから」
「あ…いえ…」
アスランは戸惑い気味にラクスを見る。
彼女の後ろにいる人物は、長い黒髪に紫紺の眼。
「貴方は…」
確か、オーブのモルゲンレーテで見た少年だ。
しかし彼はアスランの呟きに不敵な笑みを浮かべただけで、ラクスへ視線を戻した。
「いい加減さっさと行くぞ。他の奴らが五月蝿い」
ラクスはそれに苦笑して頷き、アスランを見返る。
「ではアスラン、ピンクちゃんを有り難うございました」
言葉を返せないアスランに、ラクスはふわりと笑った。
「キラは地球です」
「え…?」
それは、アスランがよく知るラクスの表情。
「お会いしてはいかがですか?お友達として」

残された言葉に、アスランはただ立ち尽くすばかりだった。





劇場の出口へ向かいながら、ラクスはピンクのハロを撫でた。
「本当に助かりましたわ、ピンクちゃん」
それを横で見ていたカナードには、そのハロとやらが理解出来ない。
…人を探知する、喋る、鍵を開ける。
探せばまだ他にも妙な機能がありそうだ。
ふと、ラクスはカナードを見て尋ねた。
「いかがでしたか?私の歌は」
カナードはそんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。
答えが返ってくるまでに数秒を要した。

「…いいんじゃないか?ラクス嬢らしくて」

歌についてはよく分からない、と付け足されて返って来た言葉。
ラクスはそれに、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
それは、アスランに向けた笑みとはまた違うもの。
つい先ほど命を狙われたとは思えない様子の彼女に、後ろを歩くSPたちは苦笑に近い笑みを漏らした。