脱出艇の中、フレイは両手を胸の前で固く握り締める。
それはまるで、居もしない神に祈るかのような。

(どうして…っ!)

なぜ、このようなことになったのだろう?
一体、何が間違っていたのだろう?
どうして自分はたった独り、このような場所に居るのだろう?

居ても立ってもいられず、フレイは通信機器の置いてある前部へ向かった。
置いてあるのは簡易通信機と簡易モニター。
モニターに映るのは、大型の熱源であるAAとドミニオンのみ。
通信士であるフレイへ座席が譲られ、彼女は迷いなくそこへ座り機器を取る。
…止めたい、という想いがあった。
少ない探知機をフル稼働させ、必死に慣れたコードを探す。

『GAT-X105』

ああ、なぜこんなにも、胸がざわつくのだろう…?










-月と太陽・54-










早く戻らなければ。
ドミニオンへ向かおうとするストライクの前に、アヌビスが割り込んだ。
スピネルは無事とも言い難いMSを見据える。
「何の真似だよ…?」
尋ねなくても分かっていた。
それでも声に出したのは、己を曲げないため。
戻りたい。
戻らせてくれない。
片方を切り捨てることを、割り切っているつもりだった。
この身は1つしかないのに。

『お前の居場所は、ドミニオンにしかないのか?』

今、このときに。
こんなときに、それを問うてくるなんて。
馬鹿ではないというなら、それは卑怯としか言い様がなかった。
「…聞いて、俺にどう答えさせたい?!」
『っ、おい!』
反論の隙を与えずコンバットナイフを引き抜くと、アヌビスへ斬り掛かる。
PS装甲が切れていないアヌビスへ、ノーダメージだということを承知の上で。
腕でナイフの切っ先を受け止め、フラガはなおも問う。
『お前は"連合の蝶"だと言った!だがそれにどんな価値がある?!』
ふいに笑いが込み上げた。

「価値だって?"蝶"の名前に、価値なんてあるわけがない」

二つ名に価値などない。
個人を表すものでもなく、ただ勝手に付けられたもの。
勝手に羨望、嫉妬、畏怖の対象にされるだけ。
"エンデュミオンの鷹"の名を聞いたときに感じたのも、やはりそんな感情の内。
それが、こんなにも。
「俺が失くしたくないのは…」
名前などではない。
分かっているのに目の前の機体を突破出来ないそれは、弱さだろうか。
「ホント…あんたお人好しで諦めが悪いな」
『今頃気付いても遅いぞ』
「…知ってる」
こんなにも惹かれてしまうことになるとは、思ってもみなかった。
さっさとAAに戻ってくれれば、ここまで焦燥に駆られはしないのに。

表情が和らいでも、スピネルはナイフを戻しはしなかった。
「バスター、デュエル、ジャスティス、ストライクの同型」
『え?』
呟かれた名前は、フラガにとってよく見知っているもの。
しかし、続いた言葉は残酷なもの。

「あいつらが目の前で俺の仲間を殺した。どんな理由があろうと、会ったら殺す。
考えるのはそれからだ」

連合軍に入った理由は、何だったのだろうか?
両親を失ってからの1年あまり、スピネルには記憶に残っているものがない。
それでも正気に戻って愕然としたのは、綺麗に1年の時が経ってしまったことだった。
自分の時間は止まっているのに、周りは止まってくれない。
持っていたものが名前以外に全て無くなり、周りは知らないものだらけになっていた。
自分が居た場所は、故郷ではなく遠い異国で。
"スピネル"という人間を知っている人間は、自分以外に居なかったのだ。
死ぬ前に両親と交わしたいくつもの約束や願い事も、叶わぬものへと掻き消えて。

『なぜ?』

銃を撃てるようになれば、何か分かると思ったのかもしれない。
ただ、"戦争が終わったら?"
…そんなことを、まるで次の作戦を相談するように話したのは、彼らが初めてだった。
同じように初めてだと言っていた彼らは、どこへ?

「あいつらも、俺の前からいなくなった。いなくなる気なんてなかったのに」

何かを考えることが出来るのは、"勝ってから"。
だからいつも、出撃して戻って来てから話していた。
『…あ、出撃命令じゃん』
『んじゃ後にしろよ。俺らが文句言われる』
彼らは、死ぬ気など微塵も持っていなかった。
戦うことに対する立派な理由も、持ってはいなかった。
それは、自分も同じ。

「俺は戦争を止めたいなんて立派なこと、考えることも実行することもない。
それで戦争が続けば良いとか思うほど、馬鹿でもないし狂ってもいない」

コーディネイターを憎んでいるわけでもない。
ナチュラルを、ブルーコスモスを憎んでいるわけでもない。
そんなことはどうでも良い。

楽しいと思った。
そこに居たいと思った。
自分が今ここにいる理由は、そんな単純なものでしかないのに。
「どっちか選べって言ってんなら、アンタは最低だ!俺は…っ!」
他を全て切り捨てられるほど、強くない。

「俺はただ、"ここ"に居たいだけだ!!」

選んだ先に待つものを、想像出来ない人間でもないというのに。
まるで血を吐くようなその叫びは、フラガに1つのことを気付かせた。
…もしや自分は、大きな思い違いをしているのではないか。
彼が明確な意志の元で、連合に属しているのだと。
考えてみれば自分の知る限り、スピネルは戦争に対して何かしらの意見を述べたことがない。
誰かのやり方を非難することはあっても、肯定せず否定もせず。
それに似たような人間を、自分は他に知っている。

たった1人に異常なほど執着するキラ。
自分以外を信用しないと断言したカナード。


『ス…ライク!聞こ…ますか…!スピネ…さ…!』


フラガの思考を遮ったのは、途切れ途切れに入る外部通信。
スピネルはその声に、暗い宇宙へ目を凝らした。
…モニターには、何も反応がない。
目を細めた先にあったのは、小さな脱出艇。
「脱出艇…?まさかフレイ…?」

切れ切れに返って来た声。
フレイは安堵に力が抜けてしまいそうだった。
『スピネルさん!良かった、聞こえた…!』
しかしスピネルの中では、疑問ばかりが膨らんでいく。
「何で脱出艇に乗ってるんだ?ドミニオンは…?」
戦艦の回線ではないので、その声はフラガにも聞こえる。
おそらく、脱出艇は見える1つだけではないのだろう。

『脱出しろって、艦長が…、バジルール少佐が!』

ドミニオンの名を出した途端、フレイの声が震えた。
それに同調するように、スピネルの背に冷たいものが流れる。
(バジルール艦長が脱出を命じた…?)
つまりそれは、放棄されたドミニオンにナタルが残っているということで。
「どういうことだよ?何でバジルール艦長だけが艦に残ってるんだ?!」
考えられる可能性は、"負けた責任を取る"。
実直な軍人である彼女ならば、やり兼ねない。
それを聞いたフレイは脱出艇の中で首を横に振った。
…拍子に、零れた涙がふわりと浮く。

『ちがっ…違うの!私に、私たちに逃げろって、生きろって言って!
アズラエル理事を止めて…っ、それでっ!!』

今度こそ、背筋が凍り付いた。
「なんだって…?」
話の内容は分からない。
確かなことは、アズラエルもドミニオンに残っているということだった。

『…っ、だめ!スピネルさんっ!戻らないでっ!!』

必死に叫ぶフレイの声は、もう聞こえていなかった。
考えるよりも先にスピネルはドミニオンへ向かう。
『スピネル?!』
フラガもまたその後を追い、MSの反応が遠ざかるのをフレイは絶望的な思いで見送った。
「スピネルさん!スピネルさんっ!!」
ついに反応はモニターの外へ消え、AAとドミニオンから離れた脱出艇に、捉えられる反応はない。
コンソールの上で固く両手を握り締め、フレイは悔しさに涙を流す。

「どうして…っ!!」

何故こうも、嫌なことばかりが続くのだろうか?
一体、何がいけないというのだろう?
…"生きたい"と願う祈りさえも、届かない。
勝手なことしか言わない自分を否定もせず肯定もせず、ただ受け入れてくれた人物。

父を亡くしてから初めて、"死んでほしくない"と心から願った。





大きく被弾したAAとドミニオン。
どちらの艦も、何か1発でも食らえば沈む状況だ。
ドミニオンのすぐ傍で、スピネルは必死に呼びかける。
「艦長!バジルール艦長!!」
回線を繋ごうとしても、繋がらない。
「くそっ!全部遮断してるのか?!」
外からが駄目なら、中に入るしかない。
ドミニオンは左のローエングリンが大きく破損し、格納庫への入り口も使えない。
…反対側を、外部接触で開けるしかない。
ブリッジの部分を拡大映像にすると、ナタルとアズラエルの姿が小さく映った。
「なんでっ!」
フレイの言葉で感じた、嫌なもの。
それは間違いなくスピネルの前に存在していた。
…何故あの2人は、脱出もせずに。
ブリッジの機械は正常らしく、外部操作を受け付けた。
管制官の指示で動くものを自分で動かすことが、もどかしい。

「アヌビス、戻ります!損傷している模様!」
「何ですって?!」
ドミニオンとの睨み合いが続いていたAAに、変化が起きる。
ミリイの報告を受けたマリューは、すぐさま内部への通信機器を取った。
「整備班!緊急着艦用のネットを!」
指示を出した直後、そのアヌビスとの回線が繋がる。
『艦長!一体何があったんだ?!』
マリューはその問いかけを、AAの損傷の酷さに対するものと受け取る。
「報告もこちらの説明も後です!まずは着艦を…」
『後じゃ遅いんだ!!』
強く言葉を遮られ、マリューはフラガの必死さを悟った。
着艦しようとしないアヌビスに焦りながらも、彼女は後に来る問いを待つ。
『ドミニオンの脱出艇がいた!まさか、艦を放棄しようとしているのか?!』
事実は分からない。
ただ、予想出来ることはその通りのもの。
「…ええ。いくつかの脱出艇がドミニオンを離れたわ」
どこかに引っ掛かるのは、ナタルがクルーたちと共に艦を離れるかどうか。
彼女は…いや、自分もおそらく、責任を取ると言って離れない。
「でも私には…ナタルが残っているとしか…!」
自分の知るナタルは軍人であり、軍人であることに誇りを持っていた。
艦長となった彼女が、変わったとは思わない。

一瞬静まり返ったブリッジ。
突然、レーダーに新たな反応が入った。
「これは…ストライクです!」
サイの言葉で、波のようにざわめきが走る。
そこへ僅かに遅れて、新たな反応が映る。
「ドミニオンより大型の熱量を感知!…え?」
サイはモニターに表示されるそれぞれのコードを、見間違えたかと思った。

「ドミニオンのローエングリン…射線上に、ストライクが…」

真っ先に指示を出すべきマリューもその瞬間、頭の中が真っ白になる。
自分の、AAのクルーたちの命に関わるというのに。
「っ、回避!!」
言葉が口を突いたそのときにはもう、遅かった。
「間に合いませんっ…!」
艦の舵を切るノイマンが歯を食いしばる。
命令があろうがなかろうが、AAはもう回避運動を満足に行うことが出来ない。

そのとき、ブリッジへ向けられていた光が遮られた。



『そこをどけ!スピネルっ!!』



1つのことに捕われてしまうと他が全く見えなくなる、というのは本当らしい。
光と声、そして空白。
ほんの一瞬の間にスピネルの目に焼き付いた光景は、それだけだった。

突然に怒鳴り込んで来た声。
ストライクを巻き込む寸前の位置を走り抜けた光。
光を遮った"黒"。
何も残らなかった、その場所。

冥界の守護者は、同じ黒の中へ消えた。

「な…んで…」

また1人、自分に近しい者が消えてしまった。
いったい何度、その言葉を吐き出したのだろう?
よりにもよって、そんな会話を交わしてしまった後なのに。



AAのブリッジの前に割って入ったのは、母艦を落とされては生き残れないという本能か。
とにかくフラガが見たのは、発射されようとするドミニオンのローエングリン。
そしてローエングリンに巻き込まれる位置にいた、灰色のストライク。
自分の声で反射的にその場を動いたストライクに安堵したのも束の間、次の瞬間には自分の行動に呆れた。
(欲張ったら元も子も失くす、か…)
アヌビス目掛けて放たれた陽電子砲の威力は、凄まじいの一言に尽きる。
余波でAAのブリッジが破壊されそうだ。

「はは…悪い、スピネル」

本当に、彼の言った通りだった。
ならばせめて、先の場所で待っていよう。
まだ、声は届くだろうか?

『  』

微かに聞こえた声に、フラガは満足の笑みを浮かべた。
電子の対消滅でアヌビスの形は徐々に消え去り、跡に何も残しはしなかった。
次にスピネルが見たのは、起動されるAAのローエングリン。



自分たちを吹き飛ばすはずだった、陽電子砲。
何が起こったのか理解したときにはもう、それは終わっていた。
「フラガ…少佐……」
遠く、ヘリオポリスからヤキン・ドゥーエまで。
苦楽を共にして来た、あの頼れる戦友が。
「不可能を可能にする…ですって?貴方がいなくなれば、それを起こす人もいなくなるのよ!」
止められない涙は宙へ浮き、マリューは顔を覆うとした手を力の限り握り締める。

「ローエングリン照準!!」

それは何も、怒りに任せた言葉ではなかった。
今さら、撃って後悔出来ることなど残らないのだ。





撃ち抜いたはずの戦艦は、そのまま同じ場所に残った。
ナタルは驚愕の表情で固まるアズラエルを見て、そう判断した。
自分はもう、出血が多すぎて動けない。
それでも彼女にはまだ、表情を変えるだけの力が残っている。

「…貴方の負けだ。アズラエル」

ナタルが笑みを浮かべたそのとき、ブリッジが影に包まれた。
アズラエルの表情が変わり、ナタルも何事かと動かぬ首を出来る限り後ろへ向ける。
なんとか目の端に映った、ブリッジを囲むガラスの向こう。
そこには今まで、数えきれぬほどに見て来たMSがいた。
…まるで、ドミニオンを守るように。

「やれやれ…。危険が寄って来てしまうのは、"生まれつき"ですかねえ?」

どことなく笑みを含んだ声に、ナタルは艦長席の方へ視線を戻す。
だがアズラエルの見る場所は変わっておらず、それを理解したナタルもまた、返した。
「そう言って諦めるなら、もっと以前に命を落としているのでは?」
これは"彼"の話だと。
「ああ、それはあり得ますねえ…」
昔を思い出すかのように呟いたアズラエルは、そこでふとナタルを見る。
「ちょっとは話が分かるじゃないですか。"バジルール艦長"」
「…お互い様だ。"アズラエル理事"」
この男に撃たれたことなど、もうどうでも良くなった。
ナタルは笑みを浮かべ、目を閉じる。
(貴方も…)

笑えるではないか。
その、子を慈しむ親の顔で。

ナタルは何とか手を伸ばし、外部回線を遮断していた装置を解除した。
「すまないな、フォーカス中尉…」
こんなことしか言えない自分が、ひどく情けない。

…お前の父は、私が地獄へ連れて逝く。



「そこをどきなさい。スピネル」







(あのとき聞こえた声は、きっと気のせいじゃなかった)










AAのローエングリンが、強烈な光を放つ。
それは瞬く間にドミニオンのブリッジを呑み込み、暗い宇宙を駆け抜けた。
…ストライクの反応もまた、ドミニオンの閃光に包まれて消える。

ドミニオンからは炎が吹き上げ、眩い破壊の輝きがAAのブリッジへ届いた。
一瞬たりとも見逃すまいと、マリューたちはモニターを見つめ続ける。
かつての戦友を憶い、来るべく平和を願いながら。

何故こうなってしまったのかと、自問自答しながら。