〜プロローグ IV
足を踏み入れて感じたのは、懐かしさだ。
(10年、か…)
母マリアンヌが健在だった頃、幾度となく訪れた第2皇子の離宮。
内部はルルーシュの記憶とほぼ変わりない。
違うのは執事や使用人、親衛隊、そして自分の年齢だ。
「お帰りなさいませ。ルルーシュ殿下」
見覚えのある使用人たちが、シュナイゼルを出迎えた後ルルーシュへ当然のように頭を垂れ、出迎えた。
(格が違うわ…)
礼を持って頭を下げながら、カレンは何度目かの拳を握る。
ブリタニア皇宮という地を知らない自分たちは、準備もなく熱帯雨林へ踏み込んだようなものだろう。
どんな危険が在るのか、何が信じられるのか。
それらを判断出来る唯一は、ルルーシュの存在しか無いというのに。
「騎士のお2人には、別室をご用意してございます」
こちらへどうぞ、と奥の廊下を示されては、従うしかないのだ。
皇位がものを言うこの場所で、断れる人間が居るのならお目にかかりたい。
スザクはちらりと主を見遣った。
2人の視線を悟ったルルーシュは、声に出さず唇だけで伝える。
『気をつけろ』
こんな序の地に膝を折ることはない、と信じているけれど。
ルルーシュは階上の、見慣れた部屋へ通された。
(懐かしい…)
見慣れた調度品、窓から見える見慣れた景色。
あれはもう、10年も前の話なのだ。
窓辺の丸テーブルの上には、記憶と同じく大理石のチェスセットが主の如く置かれている。
「最近は相手が居なくてね。埃を被ってしまいそうだ」
ルルーシュの視線の先を見たシュナイゼルは、苦笑まじりにそう言った。
「相手が、居ない?」
10年という月日に皇族がどのように動いていたのか、日本以外のことをルルーシュは知らない。
この兄には、少なくとも10年前には好敵手が居たはずだった。
脳裏に誰を思い浮かべたのか、それすらも分かったのだろう。
シュナイゼルは要らぬ心配だと笑った。
うっかり気を抜こうものなら、後継争いで遅れを取ってしまうのだと。
「互いが本国に居ないのさ。"アレ"は、欧州平定を任されている皇帝候補だ」
コンコン、と扉をノックする音が響いた。
開けるでもなく、扉越しの会話が交わされる。
「シュナイゼル様、ルルーシュ様の騎士を別室へお通し致しました」
「ご苦労。後はお前たちに任せよう」
「仰せのままに」
連れて来た2人の騎士が、これからどう扱われるのか。
大丈夫だと分かってはいても、心配であることに変わりはない。
ルルーシュはシュナイゼルを振り返る。
「…まさか、殺しはしませんよね?」
この兄が選び傍に置く人間たちだ。
よもやそのようなことは、ないだろうが。
「確約は出来ないがな。それに、お前が自ら選んだ者だ」
この程度で命を落とすなら、騎士である意味もない。
シュナイゼルは要らぬ心配だと肩を竦め、ソファへ腰を下ろす。
「そんなことよりも、私に聞きたいことがあるのだろう?」
青に近い紫電の眼が、ルルーシュを捕らえる。
『皇帝と成る可く生まれた人』
この人が命じれば世界が動くのだと、ただ感じていた。
彼と対等に肩を並べるもう1人の兄に、羨望を抱きながら。
そうでなければ良いのに、と何度思っただろう。
そうでしかない、とすべての可能性が語っている中で。
いずれにせよ、過去には戻れない。
ルルーシュはシュナイゼルへ向き直り、しかしその場から動こうとはしなかった。
幾秒もの沈黙を挟み、恐る恐る言の葉を紡ぐ。
「母上を…。あの日、第3皇妃を殺したのは、そう命じたのは、兄上ですか…?」
絶対尊守の力は未だ、ルルーシュの左目に宿っている。
使えば他の真実も手に入ったろう。
だがそれでは何の意味もない。
何の為に、戻りたくもないこの地へ戻ったのか。
シュナイゼルはルルーシュの言う"あの日"を思い出し、穏やかに笑んだ。
そう、穏やかに。
「そうだな。直接に手を下してはいないが…そうなるよう仕組んだのは、確かに私だよ」
分かっていたのに、愕然と足元が崩れるようだった。
瞬間にモノクロへ変わった色彩の中、兄の姿だけは鮮やかで。
「なぜ、ですか…。なぜ、母上を…?」
幼い時分のルルーシュの世界は、ほんの数人だけで完結していた。
最初は、母と妹のナナリー。
離宮の外で対人用の笑みを作ることを覚えた子供は、皇族に限らずさぞ鬱陶しかったに違いない。
母と妹と居る間だけ、ルルーシュは子供で居られたのだ。
外に出れば、皇宮の昏い部分ばかりが目についた。
それがある日、何かの会議に同席させられて。
ルルーシュとマリアンヌにシュナイゼルが話題を向けたそのときに、すべてが変わった。
「ルルーシュ。お前はマリアンヌ皇妃がどのような公務に就いていたか、知っているか?」
話を逸らされたとは感じなかった。
シュナイゼルが回顧する話題はやはり、己の母だ。
沈黙したルルーシュの答えは、シュナイゼルにも簡単に察せられた。
「そういえば彼女は子供を、特にお前が表舞台へ出てしまわぬように、堅固に護っていたな。
知らないというのも当然だ。…いや、」
知らなかったのは、彼女の子供だけだった。
言われた意味を理解出来ず、けれどルルーシュは動揺を押し隠した。
確かに、母がどのような公務を行っていたのか何も知らない。
尋ねた記憶はあるのだが、おそらく当たり障りのない返答だったと思う。
よく覚えていない、というのが正直なところだ。
窓の外へ視線を向けていたシュナイゼルは、少し離れた位置に立つルルーシュを見上げた。
等しく、『支配者』の笑みで。
「彼女は当時の最新鋭である、第3世代KMFのパイロットだった」
「…え?」
「KMFの兵士が騎士候として取り上げられるようになったのは、彼女が前例にあったからだ。
その戦績は目覚ましいもので、騎士候からさらに皇妃へと召し上げられた」
KMFを操れる者はそれこそ貴重で、異例の爵位贈与にまで至る。
だが彼女が皇妃となり子を産んでから、少しずつ歪みが生じ始めた。
女性騎士は当時もそれなりに居た、と史実にある。
マリアンヌの存在は、軍属の女性たちに希望を与えていたのだ。
彼女が下々の人間に等しく慕われていたのも、事実。
しかし皇族や高爵位の貴族からすれば、邪魔なことこの上ない存在だった。
シュナイゼルは言葉を切り、ルルーシュへ問う。
「ルルーシュ。たとえば金剛石の原石を見つけたら、どうする?」
唐突であったが、考えるまでもない。
「…宝石にしようとするでしょうね」
「そうだ。千人でも万人でも同じ行動を取るだろう。私の場合は、お前がそうだった」
「っ?!」
何でもないように返されたのは、自らが"歪んでいる"と評した真実。
動揺など通り越してしまい、ルルーシュはその場に立ち尽くすしかなかった。
シュナイゼルは弁護なのか続きなのか、もう1人の名を口にする。
「コーネリアは少し違うな。彼女は武人として、マリアンヌ皇妃を尊敬していた。
だが愚かな弟妹たちの計画を知り、考えを変えた」
マリアンヌが名を挙げれば挙げるほど、その子供は影に隠されていく。
さながら、日食で太陽が喰われてゆくように。
人間は基本的に、賢く美しいものを好む生き物だ。
金剛石の原石を手に入れて、誰もがそれの輝く姿を脳裏に思い描くのと同様。
ただの石が、どれだけ美しく化けるのかと待ち望む。
それは物であろうが人であろうが、同じこと。
(そんな、ことの…ために……?)
ああ、なんて歪んだ世界だろう。
ルルーシュはそのとき初めて、知らなければ良かったと思った。
茫然自失となった彼に、シュナイゼルはいっそ恐ろしいと感じるほどに優しく尋ねる。
「撃たないのか?ルルーシュ」
ヒュッ、と空気が喉で掠れた。
忘れていた武器の重さを思い出し、臓腑が冷える。
しかしルルーシュは、スザクとカレンに事情を話したそのときに、もう決めていた。
服の下に隠し持っていた拳銃を取り出すと、予備動作も無しにそれを放る。
投げた相手であるシュナイゼルは、危なげもなくそれを受け止めた。
…セーフティは外れていない。
ルルーシュは緩慢に、1歩彼へ近づく。
「それは、貴方に預けます。シュナイゼル兄上」
シュナイゼルは興味深げに、銃とルルーシュを見比べる。
「なぜ、と訊いても?」
予想と寸分違わぬ状況。
ルルーシュは、今度こそ微笑した。
「分かっていて訊くんですか。…変わらないですね」
足元を確認するかのように、ゆっくりと足を進める。
「…こんな場所に、戻って来る気はなかった。でも俺にはもう、生きる理由が他に見つけられなかった」
妹に優しい世界を望んだ。
そして、『黒の騎士団』と共に『日本』を取り戻した。
ルルーシュはその時点で、ほぼすべての目的を達してしまったのだ。
残ったのはC.C.との契約と、ブリタニアを壊すという標。
C.C.は『日本』を取り戻した日に、自分にはまだ必要ないと言って契約続行を告げて来た。
「覚えていますか?貴方が最後に、俺とチェスをしてくれた日のことを」
ルルーシュにとってシュナイゼルは、憧れであり目標であった。
幼いながらに決意したのは、この兄を助けられるだけの力を持つこと。
姿を見たのが10年ぶりでも、歪んだ真実を知った今でも、それは一片の揺るぎもない。
揺るがないことに、自身が驚いたほどだ。
「兄上。あのときの『約束』は、まだ有効ですか?」
カレンに怒鳴られた。
ずっと過去の話で自ら傷を背負うな、と。
ルルーシュが考えを変えないと確信していても、彼女は言わずには居れなかった。
(…それでも、逢いたいと思ったんだ)
ブリタニアからの使者が、帰国の話を携えて来たときに。
ソファの背もたれに手を置き、ルルーシュは些か屈む形でシュナイゼルを窺い見る。
ふっと笑う気配と共に、大きな手が頬に触れた。
「皇族に復帰したお前が、望むものは?」
「…帝国の、内部からの崩壊を」
外から壊すには、日本の力だけでは足りな過ぎた。
そちらは神楽耶や『黒の騎士団』が、ブリタニアへ反感を持つ諸外国と関係を作ってくれる。
しかし、スザクの言うことも正しかった。
ブリタニアという国は強大で、外から破壊するには"現政権"を否定する国民の力が不可欠。
絶対数が多くとも割合にすれば少数でしかない主義者を、取り込みつつ増やさなければならない。
それには己の身分が皇族であることを、有効に利用しなければ。
シュナイゼルは本心を隠そうともしない異母弟に、呆れるどころか感心してみせた。
「まったく、国家反逆罪級の言葉をそこまで並べるのは、お前くらいだよ」
すでにその罪を犯しているのも、この弟だけだ。
ルルーシュは婉然と笑む。
「今更ですよ」
皇族の持つ高慢さと、一部の人間のみが併せ持つ支配性。
そこに『ゼロ』の姿を垣間見て、シュナイゼルはより一層笑みを深める。
ルルーシュの頬を撫でていた手を洗練された動作で彼へと差し出し、そして応えた。
「お前の望みに沿うとは限らないが…その力、私の為に使え。ルルーシュ」
この人はいずれ、皇帝になる。
(…現皇帝である父を、崩御させてでも)
そう遠くない未来を想像して、ルルーシュはうっそりと笑った。
差し出された手を取り、そっと唇を寄せる。
「 Yes, my Majesty. 兄上の望むままに」
代わりに与えられた口づけは、とても甘かった。