〜プロイセンの皇子 I
ブリタニア皇宮は、広い。
たとえば皇帝の居わす本宮と、皇位継承順の低い子息の離宮。
一番端は、駿馬で駆けて3時間。
ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは第11皇子にして皇位継承17位。
本来ならば離宮と言える場に住むべき地位だ。
本宮へ足を踏み入れることも、余計なしがらみを絶つならばすべきでないだろう。
しかし彼は唯一の例外であった。
本宮に程近い第2皇子の離宮、日当たりの良いサロンの片隅。
ルルーシュは目前で行われているチェスを、食い入るように見つめていた。
対局しているのは、2人の兄だ。
「お前とのチェスがもっとも楽しめるが、もっとも時間が掛かることが難点だな」
白のクイーンが、するりと盤上を滑る。
「終盤で言うのは嫌味か。人のスケジュールを無理矢理曲げておいて」
敵陣最奥へ達した黒のポーンが、黒の女王へと変化を遂げる。
「まったく、相変わらず口が悪い。まあ、それはお前の利点でもあるんだろうな。カナード」
黒のナイトが、白のナイトにカタリと蹴倒される。
「嫌味だな。それに今更だ、シュナイゼル兄上」
黒のルークがカツンと音を立て、白のキングの退路を絶った。
「チェックメイト」
場の空気が、呆気なく崩れた。
完全なる実力主義であり、位が物を言うブリタニア帝国。
中でも皇族はその最たるものと言える。
白の駒は、第2皇子シュナイゼル・エル・ブリタニア。
彼は数多い皇位継承者の中でもっとも皇帝の座に近いと言われ、内外でもその名を知らぬ人間は居まい。
手に持つ権威は皇帝のそれに近く、彼の機嫌を損ねればまず明日はないだろう。
そんなシュナイゼルを堂々と負かせる人間は、たった1人しかいなかった。
黒の駒を操っていたのは、第9皇子カナード・イーグ・ブリタニア。
ルルーシュの隣で同じく固唾を飲んで対局を見守っていた、第10皇子キラ・イーグ・ブリタニアの実兄だ。
ホッと息をついたルルーシュは、隣の異母兄を見上げる。
「キラ兄様、何時間経ったのかな…?」
言われたキラは部屋の柱時計を見やった。
「ん〜4時間?カナードも兄上も、持ち時間が無くなろうが同じ調子でやるからね。とても真似出来ない」
そばに控えていた使用人がチェスセットをそっと片付け、代わりにティーセットを置く。
軽く伸びをしたカナードは、日の眩しさにアメジストの目を伏せた。
「…疲れた」
ゲーム終了の第一声がこれだ。
シュナイゼルは思わず笑ってしまう。
すると再び彼を見たアメジストが、不機嫌な光を帯びた。
「笑い事じゃないだろうが…」
チェスは頭脳戦だ。
対戦相手が強ければ強いほど、面白いが故に精神力を嫌というほど使わなければならない。
カナードは視線をシュナイゼルから窓の外へ移し、嘆息を漏らした。
「兄上以外じゃ、まともな勝負にならないけど」
ルルーシュとキラはメイドが片付けようとしたチェス盤を受け取り、先の対局の再現を試みる。
「ナイトとビショップがこうだったよね」
「あ、キラ兄様。それはこっちです」
ふわりと香る紅茶に口をつけ、カナードは論議に夢中になった弟たちから視線を外した。
「で?」
必要最低限の言葉で、シュナイゼルの意識を弟たちから外させる。
「人のスケジュールを曲げてまで、何の話だ?」
「さすがだな。もう気付いたか」
シュナイゼルは満足げに笑うと、前置きもなくさらりと告げた。
「ヴィア皇妃に目を付けられてね」
「…なんだ、意外と遅かったな」
負けず劣らず、カナードの返答もあっさり過ぎる。
が、シュナイゼルがそれを気にする様子はない。
互いに言っていることと、言いたいことの予測がつくからだ。
「俺とキラが兄上の離宮に出入りしている以前に、母上の目にはとっくに"排除すべき人間"に入っていたはずだ」
「…相変わらず、あの方の力は恐ろしいな」
「隠そうとしないからな。それで?」
「先日、白昼堂々と宣戦布告されたのさ。『西エリアへ来ない限りは安全ですから』と」
「西?」
「ECの辺りだろう。プロイセンから見れば、西だ」
「…ああ、次に抑えようとしてる辺りか」
「そろそろ私やコーネリアもエリアへ派遣される。それを見越してのことだろう」
"エリア"と"派遣"という言葉に、ルルーシュは勢いよく顔を上げた。
「兄上、本国を出てしまわれるのですか?!」
シュナイゼルへ駆け寄り、不安に揺れる目を向ける。
後からキラも話に加わった。
「兄上にはもう、そんな話が?」
第2皇子である彼に派遣の話が来るのなら、自分たちもそう遠くはない話だ。
「正式な命はまだ下っていないが、近々そうなるだろう」
「それは良かった」
反して、キラはにこりと笑った。
「ここのところ、母がシュナイゼル兄上の話を聞く度にピリピリしてて。
兄上がエリアへ派遣されれば、あの人も少しは大人しくなりますね」
天使の如く微笑みつつ、恐ろしいことを言っている。
しかし慣れたもので、言われた当人は軽く肩を竦めただけだ。
「ヴィア皇妃は本当に、堂々と父上を敵視するな…」
視線と共に話題をこちらへ流されて、カナードは本心を表に出した。
「是非とも止めてくれ。俺は止めない」
どちらも面倒だから。
今度こそ、シュナイゼルは笑い声を上げた。
3人の兄の会話が上手く掴めず、ルルーシュはことりと首を傾げる。
ーーあの頃は、平和だった。
ほんの少しの警戒心を持っているだけで、年相応に生きてゆけた。
ふ、と目を醒ましたルルーシュは、ベッドの脇にある時計を見る。
時間は午前8時、いつもと変わらない。
(今日の予定は…)
シュナイゼルの離宮を仮住まいとしてから、もうすぐ2週間が経つ。
ルルーシュの行動パターンは、ようやく皇族であった頃と同等にまで戻った。
カレンとスザクはまだ、慣れるのに時間が掛かるだろう。
片や日本で5本の指に入るブリタニア名家、シュタットフェルト家の令嬢。
片や日本最後の首相を輩出した日本国旧家、枢木家の嫡男。
家の出だけで言えば、皇族に近い。
だが両人とも『日本国内で』テロリストと軍人をやっていた。
『ブリタニア国内の』それとは、まったく違うのだ。
(ああ…でも、気の配り方は変わって来たか)
最初の数日はシュナイゼルも含め、離宮の関係者は24時間、2人を様々に試した。
信用に足るのか、腕は確かか、頭は良いのか、その他諸々を見極める為に。
ルルーシュという存在が2人の上になければ、ともすれば死ぬようなことも試しただろう。
「「おはよう、ルルーシュ」」
着替えて部屋を出ると、いつものように己の騎士が控えていた。
…少なくともこの屋敷の中、それも他の人間が居ない場合。
ルルーシュとスザク、そしてカレンは、"友人"として過ごしていた頃に戻れるようになった。
挨拶を返すと、何やら見覚えのある書類の束を渡される。
「いつもの部屋にあったよ。重要書類だったらどうするの」
苦笑混じりのスザクに礼を言う。
「悪い、ありがとう。…今日の予定は?」
心得ているとばかりに、カレンが1日分のスケジュールを告げた。
「いつもと同じよ。でも、そう。シュナイゼル殿下が、『今日は客が来る』と」
「…客?」
「ええ。誰なのかは聞いていないけれど、」
皇族のような気がする。
途中で切った言葉の先を、ルルーシュはすぐに察した。
「…分かった。また後で」
「「はい」」
そして騎士と主の関係に戻る。
憎むべき皇宮の一角はすでに、ルルーシュにとって安息を得られる場に変わっていた。
出会う使用人たちそれぞれと挨拶を交わしながら、居室へ向かう。
「おはようございます。シュナイゼル兄上」
「ああ、おはよう。ルルーシュ」
すでにシュナイゼルは出立の準備を整えていた。
用意されている席へ着きながら、ルルーシュは彼の予定を尋ねる。
「本日はどちらへ?」
「…北方が煩くてな。日帰りというのもなかなかキツいが」
彼の言う"北方"は、ブリタニア本国の最北…エリア1〜3を示す。
本国の大きさが巨大なだけに、距離は相当なものだ。
「ならば日帰りせずとも…」
ルルーシュのその発言に、シュナイゼルは苦笑したようだった。
「愚か者の執念を甘く見るな。騎士が優秀なだけではまだ、不十分だ」
万に一つの可能性も、無きにしも非ず。
シュナイゼルの中枢不在を良いことに、第11皇子を狙おうとする輩は多いだろう。
しかしルルーシュはそんなことより、兄が自分の騎士たちの実力を認めてくれたことに喜んだ。
「大丈夫ですよ。カレンとスザクの実力は、兄上のおかげで帝国中に広まりましたから。…ところで、」
今日、客人が来ると伺いましたが。
素早く話題を転換すると、シュナイゼルは楽しげに笑った。
「ああ、クロヴィスがな。『絵を描かせろ』と乗り込んでくるよ」