2、Nomos(=人為的に定められる約束事)
皇宮の広大かつ華やかな庭園。
その一角に、紅白の蔓薔薇に覆われた垣根がある。
石造りの垣根は庭園の端を守る通り頑丈で、薔薇は天然の鉄条網。
植物であることが、逆に賊の侵入を阻止する。
その鉄壁の守りには、たった1箇所だけ綻びがあった。
ルルーシュは薔薇の棘に触れないよう、垣根に空いた裂目を抜ける。
その穴はいつだったか、キラと遊んだときに見つけたもの。
知っているのはルルーシュとキラ、そしてカナードだけ。
ナナリーにはまだ教えていなかった。
垣根の向こうは、見渡す限りの平原。
丈の低い草と点在する木々、それ以外は何も無い。
仰いだ蒼天は絵画のようにゆったりと流れ、ルルーシュはそれがふいに悲しくなった。
時間は、止まらない。
母を亡くしても、妹が光を失っても、空は何も変わらない。
"日本"という国の空も、きっと同じように何事もなく過ぎていくのだろう。
ふわり、と優しい手が頭を撫でる。
驚いて振り向くと、数多い兄弟たちの中で唯2人、ルルーシュが心から慕う兄が居た。
「独りで泣いちゃ、駄目だよ。もっと悲しくなるから」
優しく微笑む3つ年上の兄…キラは、軽く首を傾げてルルーシュの顔を覗き込む。
ナナリーが好きだと言った彼の笑顔が、亡き母の姿に重なった。
それでもルルーシュは、涙を流そうとしない。
キラは困ったような顔で後ろを見やる。
「人に頼ろうとしないところも、似ちゃったのかな?」
誰に、とは言わない。
話を振られた4つ年上の兄…カナードは怪訝そうに、立ち上がったキラを見返した。
「お前が知らないだけだろう」
頼るときは頼る。
人間1人の力で出来ることなど、とんでもなく限られているのだから。
カナードはルルーシュの正面に屈むと、戸惑いに揺れる目をそっと自分の手で覆い隠した。
「我慢するな。誰も居ないから」
夢を見た。
母が亡くなってからの宮殿で、唯一の温かな思い出を。
(ああ、また寝てたのか…)
窓際というのは便利な席で、飽きることもなければ居眠りにも最適。
ゆっくりと顔を正面に向ければ、まだ教師が何事かを羅列する授業中である。
ルルーシュ・ランペルージは窓の向こうの空を見上げて、変わらないな、と心の中で呟いた。
妹のナナリーと共に日本へ来て、もう7年が経つ。
数少ない日本人の友人、枢木スザクに出会ったのも、7年前。
教室の中をそれとなく見回せば、真面目な彼が真面目に授業を受けているのが見える。
他にも同じ生徒会メンバーの、シャーリー・フェネットやリヴァル・カルデモンド。
そして、自ら創り上げた反ブリタニア勢力『黒の騎士団』の要である、カレン・シュタットフェルトの後ろ姿。
このアッシュフォード学園はとても平和で、ともすれば、二重生活をしている自分が信じられなくなる。
胸の奥で沸々と際限なく沸き上がる、己が祖国への憎悪だけが真実。
(それでも…)
仰いだ蒼天は、相も変わらずゆったりと流れるのだ。
「…シュ、ルルーシュ!」
名前を呼ぶ声にぱちりと目を開けると、心配そうなスザクの顔があった。
ここは放課後の生徒会室。
瞬きして少し視線を巡らせば、他のメンバーもこちらを見ている。
「最近、居眠り多いみたいだけど…ちゃんと寝てるの?」
しまったな、と内心でルルーシュは舌打ちした。
元々、ルルーシュはあまり体力がない。
『黒の騎士団』のリーダーである"ゼロ"と、アッシュフォード学園の生徒である"ランペルージ"。
二重生活のツケが回ってきたというところか。
「寝てるさ。夢見が悪いだけで」
「…そう」
スザクはそれ以上何も言わなかった。
いや、言えなかったという方が正しいのかもしれない。
彼やその家族と同じ屋敷で暮らしていた頃。
ルルーシュもナナリーも母を失う悪夢に捕らわれ、何度も何度も悲鳴を上げた。
他人に頼ろうにも頼れない夢見の悪さ。
頼ることが出来るとすれば…薬か。
(頼る…か)
何かが思い出せない。
止まっていた雑務処理を再開し、ペンを走らせながら考える。
夢に見たのは、皇族の中で一線を画していた兄親子。
庶民の出であるルルーシュの母、第3皇妃マリアンヌ。
彼女の存在を疎む皇族だらけの中で、第2皇妃ヴィアとその息子、カナードとキラは違った。
何かと互いの離宮を訪ね合い、共に遊びに出掛けたり、他愛もないことで喜んで。
『誰かに頼る』ということを教えてくれたのは、彼らだったのだ。
どれだけの涙を、流したのだろうか。
ふと兄たちの後ろに見えた空が、すでに朱く色づいていた。
泣いて泣いて、怒りも哀しみも憎しみも一度全て外へ出してしまって、ようやくルルーシュは"今"の状況を把握出来た。
母と妹の不幸に嘆く子供の影は、すでにない。
「日本って、どんな国だろう…?」
ルルーシュだけでなく、キラもカナードも、まだ十分に『子供』で括れる年齢だ。
だが皇位継承権を持つ限り…たとえ捨てたとしても、劣悪な人間環境からは逃れられない。
「稀少金属サクラダイトの産地としか知らないな。…経済面は良さそうだが」
「ここより平和な場所…だと思うよ?僕は。世界的な宗教戦争に陥らなかった、数少ない国だし」
少なくとも、小さな子供を切り捨てるほど情けのない国ではない。
たとえ寄せられるのが同情でも、無いよりはずっとマシだ。
『日本』と口に出して、また翳りを帯びたルルーシュの目。
この翳りはきっと、この先に何があっても消えずに燻り続ける。
それは良いことではないけれど、負の感情は時として、正の感情よりも生きる力に変わるだろう。
キラはルルーシュの目線に合わせるように屈み、自分より小さな手をそっと握る。
「ルルーシュ、よく聞いて。君とナナリーがこの国を出る日、僕とカナードもこの国を出る」
耳を疑った。
彼らの母は第2皇妃、それも小さくはない国の王族。
後ろ盾は確実かつ堅固なもので、当の兄2人も相当な実力者だと、身近で見ているルルーシュは知っている。
もっとも優秀である言われる第2皇子、武人として名を馳せている第2皇女。
皇位継承権を持つ者の中でも皇帝の座に近い2人が、その親族が、名指しで畏れる第9皇子と第10皇子。
この国を出る理由など、彼らにはないのに。
「なん、で…?」
問われることは予想済みだったろう。
キラはふわりと笑んで、裏腹に重大かつ危険な言葉を吐き出した。
「ルルが泣いた理由と、同じだよ。この国が嫌いで仕方がない。でも母様の手前、継承権は捨てられない。
あの人は、なんだかんだ言って"上"にしか居たことがないから」
「"皇帝になれ"とは言わないが、高みの見物を決め込んでるな。俺たちの動きを考慮した上で」
「だから、ね。ルルから見ればすごく身勝手な理由だけど、逃げるんだ。少しの間だけでも」
本当に、想像もしない言葉だった。
憧れて、少なからず目標にしていた兄たちの、本音。
「逃げ…る…?」
「そう。一度限りの禁じ手だよ。見つかってしまえば相応の不自由が待ってる」
言っていることは深刻なはずだが、彼らの表情には曇りが見られない。
不可解な表情を隠しきれないルルーシュに、カナードは楽しげに笑った。
その笑みは、彼が形式上で格上の相手に対し向ける挑戦的なものと、似て非なるもの。
告げられた言葉は、彼らの"とっておき"だった。
「他の奴らにも宣言してきたんだ。『俺たちを最初に見つけた皇族に従う』と。
だからお前も、余裕があったら捜してみろ。お前は他のより、3歩ほど有利だから」
意味を噛み砕くには、まだ幼すぎた。
結局それが、彼らとブリタニアで交わした最後の会話。
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世界は、勝手に動く。
2006.1.7